第3話 砕け散った偽りの安寧
朝食の席で未亜が倒れかけた後、侍女長のステラの機転によって地獄のような時間は打ち切られた。未亜を気遣う振りをし「体調を崩した」ということにして、ステラがうまく給仕を下げさせたのだ。おかげで未亜は、あのおぞましい食事から逃れることができた。
けれど、与えられた時間が未亜の心を安らげてくれることはなかった。
(……いま、何時なんだろう……)
『王妃の間』の広々とした豪華なリビングフロア。純白の大理石に直接座り込んだ未亜は、膝を抱えたまま、吹き抜けの天井に嵌め込まれた巨大な魔法の石、魔導大結晶が作る『疑似天窓』をぼんやりと見上げていた。
壁を見渡しても、カチカチと時を刻む時計の針はない。
かつて自分の生活に当たり前のように存在していた、家族や友人と繋いでくれるスマホも、世の中の出来事を映し出すテレビも、手持ち無沙汰を紛らわせてくれる本の一冊すら、この部屋には置かれていなかった。
頭上の擬似天窓からは、ただ人間界の「うららかな春の昼下がり」を模した、ぬるくあたたかな黄金色の光を静かに降り注いでいるだけだ。
太陽が動くこともなく、影が伸びることもない。時間の経過を測る術を一切奪われた空間で、未亜は自分がどれだけの時間をここで過ごしているのかすら分からなくなっていた。
数分なのか、数時間なのか。
ただ呼吸をして、瞬きを繰り返すためだけに過ぎていく、終わりの見えない虚無。
外界の音すら届かない静寂の中で、一人で膝を抱えていると、頭がじわじわと狂ってしまいそうな恐怖に襲われる。
部屋の一角には、ヴェルラウトが連日持ち込んできた煌びやかな贈り物が小山のように積み上がっていた。
溢れんばかりの宝飾品や絹のショール。どれほど美しく、価値のある品であろうと、時間を奪われ、逃げ場もない鳥籠の寂しさを際立たせる無意味な装飾品でしかない。
やがて、擬似天窓の光は強まり、真昼の日差しのような眩しい光が、部屋の隅々に濃い光と影を落とし始める。
それからまた少しすると、ステラたちが、甘ったるく乾いた魔界のドライフルーツを運んできた。今日も、かろうじて数粒だけ、胃に流し込めた。
今やそれが、未亜の生命を繋ぐ唯一の栄養源だった。
——そして、いつの間にか天窓から降り注ぐ光が茜色に移り変わり始めた頃、いつもの刻限がやってくる。
「……ミア。これを受け取ってほしい」
低い声音とともに、目の前に一筋の影が落ちた。
毎日毎日、多忙な執務の合間を縫っては訪れる魔王が、今日もまたやってきたのだ。
ヴェルラウトは、未亜の前で静かにその巨体を折り曲げ、片膝をついていた。まるで、物語の中の王子がお姫様に求婚するような所作なのに、彼から放たれるのは、そんな甘いものではない。
少なくとも未亜にとっては、異形としての圧倒的な威圧感だけだった。
ヴェルラウトが大きな両手で恭しく差し出したのは、精巧な銀細工のオルゴールだった。蓋を開けると、繊細な水晶の飾りが優雅に回り出し、精霊の歌声から紡がれたという旋律が、静かな部屋に澄んだ音色を響かせる。
「今朝、体調があまりよくなかっただろう?だが、これを聞けばきっと、お前の気分も良くなるはずだ」
彼は、朝食で怯えさせてしまったことを、少しでも埋め合わせたいのだろう。
琥珀ゴールドの瞳を、かつてないほど繊細に揺らし、ヴェルラウトは未亜の顔色を伺うようにじっと見つめていた。
今日こそは、この品ならば彼女の心を和らげられるのではないか——。
その瞳は、今度こそ彼女の心に届いてほしいという痛々しいほどの切望で潤んでいる。
だが、未亜の反応は完璧な無言だった。
膝に顔をうずめたまま、視線すら合わせない。
未亜の心を救うのは、精霊の歌声でも、魔王が囁く愛の言葉でもない。人間界へ帰すという、そのたった一言なのだ。
それ以外は全て、毒の塗られた鎖と同義だった。
「……要らないか」
言葉を失ったヴェルラウトの喉から、掠れた吐息が漏れる。オルゴールを差し出す無骨な手が宙で虚しく固まり、切なげに目元を曇らせた。
その時だった。
—キリキリキリッ!!
静寂を破り、外の空気を激しく引き裂く不気味な風切り音が鳴り響いた。
次の瞬間、ヴェルラウトの瞳孔が激しく細まる。
東の塔を守る『絶対結界』が何者かに突破されたことを瞬時に察知した彼は、一切の躊躇なく動いた。
至近距離で高威力の迎撃魔法を放てば、その衝撃波だけで未亜の脆弱な肉体が弾け飛んでしまう——それを判断したヴェルラウトは、攻撃を捨て、未亜の前に割って入ると、自らの巨大な体躯を「盾」とし、未亜をすっぽりと覆い隠すように庇い立った。あれほど大切そうにヴェルラウトが両手に包んでいたオルゴールが、投げ捨てられ、彼の足元にガシャンと転がる。
ついさっきの不気味な音は消え、いつもの静寂が訪れていた。
突然、背を向けて立ち上がったヴェルラウトに困惑し、未亜が思わず顔を上げる。
その直後だった。
——ゴシャアアアンッ!!
天地を揺るがすほどの激しい破砕音が轟いた。
バルコニーに面したアーチ状の強化ガラスと、幾重にも施されていた白銀の格子が一撃で粉々に打ち砕かれ、室内に猛烈な風と衝撃波が吹き荒れる。
あまりの衝撃と爆音に、未亜は「キャッ……!」と小さく悲鳴を上げ、思わず固く目を閉じた。
遅れて訪れた静寂の中、恐る恐る未亜が目を開けると、視界を埋め尽くしたのは砂嵐のような光景だった。
砕け散ったクリスタルガラスの無数の粒子がキラキラと微光を放ち、白銀の破片や、淡い光を纏う純白の羽毛が風に舞っていた。
そしてその中心に、未亜の視界を遮るように仁王立ちしているヴェルラウトの圧倒的な背中だけがあった。
(な、なに……!? 何が起きたの……!?)
恐怖で心臓が潰れそうなのに、目の前で起きた異常事態から目を逸らすことができない。
怯えと本能的な好奇心が交錯し、未亜は震える身体を小さく丸めたまま、ヴェルラウトの広い腰元から恐る恐る顔を覗かせてしまった。
そして、見てしまったのだ。吹き荒れる冷気とガラス片の向こうにある悪夢を。
最初に見えたのは、巨大な純白の塊だった。それが生き物だと理解した瞬間、未亜の背筋が凍った。
翼を広げれば三メートルは優に超えるであろう異形の魔鳥。白磁のように滑らかな骨質の嘴と爪を持ち、細く伸びた長い尾羽が床に乱れている。
その巨体が、砕け散ったバルコニーを越えて部屋の中へ転がり込み、巨大な羽を折り畳んだまま、ピクッ、ピクッと痛々しく痙攣していた。さらによく見れば、ガラスにぶつかった衝撃か、あるいは結界を強引に破った反動なのか、首が奇妙な方向に折れ曲がっている。
雪のように白い羽毛には、おぞましい血反吐がへばりつき、大理石の床へとなだれ込んでいた。
東塔を守る強力な結界を死に物狂いで突破したせいなのだろう。魔鳥は完全に正気を失っていた。
その顔面に縦に並んだ『四つの深紅の目』が、ヴェルラウトの背後から覗く未亜の姿を捉えた。
その瞬間、凶暴に濁っていた赤目が、夕光を透過して一瞬だけ紅水晶のように切なく輝き、悲痛な色に揺らぐ。まるで、未亜へ何かを必死に訴えかけるような、救いを求めるような怪しい光を帯びて見えた。
(え、何……? ……助けてって、言ってるの……?)
ほんの一瞬、目の前で苦しむ命に同情心が芽生えた。けれど直後、魔鳥は人間の悲鳴のような甲高い叫び声を上げた。
「ギィィィヤアアアアア………ッ!!ガッ……!!!」
魔鳥は折れた首を狂暴に揺らし、白磁の爪で純白の大理石を凄まじい音で削りながら、未亜へと這い寄ってくる。
未亜は戦慄した。
(嫌……っ! こっちに来ないで……っ!!)
さっきまで胸によぎった小さな同情は、恐怖に飲み込まれて跡形もなく消え去った。
今の未亜には、目の前で死にかけているその異形が、ただ自分を喰い殺そうと襲いかかってくる化け物の姿にしか映らない。
「キャアアアアアアアア!!」
未亜は半狂乱の悲鳴を上げ、目の前に立つヴェルラウトの背中を置き去りにして、パニックのまま部屋の最も遠い隅へと逃げ惑った。
足をもつれさせ、壁に強く背中を打ち付けながら床へ崩れ落ちる。お尻を床につけたまま、少しでも距離を取ろうと、ドレスの裾を乱して必死に足をバタバタと滑らせて後ずさった。
これまで、この『王妃の間』は恐ろしい世界から自分を閉じ込める鳥籠であると同時に、安全な「室内」でもあったはずだ。その境界線が無残に破られ、風と血飛沫と怪物が部屋の中へ侵入してきたという事実は、未亜の最後の安寧を完全に踏みにじってしまった。
目の前で無残に身をよじる巨大な白燐鳥に対し、未亜を守る位置を崩さないまま、絶叫と狂乱の渦中で、ヴェルラウトは冷徹に片手をそっとかざした。
「……静かにしろ」
地底から響くような、短く冷酷な一言。
その瞬間、壁際で必死に足を掻いていた未亜の動きが、凍りついた。
それは、断末魔を上げ続ける白い怪物に向かって放たれた言葉だった。だが、壁際で錯乱していた未亜には、そうは聞こえなかった。
つい数秒前に自分が上げた、つんざくような悲鳴が脳裏に蘇る。
——声を出せば、殺される。
死の恐怖に全身の血が引き、未亜は必死になって両手で自分の口を塞いだ。
溢れ出す涙を流しながら、喉の奥で「ひっ、ひくっ」と痛々しく悲鳴を押し殺す。
次の瞬間、ヴェルラウトの手から漆黒の魔力が弾けた。
何が起きたのかすら分からなかった。
さっきまで床の上をのたうちまわり狂乱していた三メートルの純白の巨体が、一瞬の音もなく、ただサラサラとした漆黒の灰へと姿を変えたのだ。舞い上がった灰は、吹き込む風に乗って虚しく部屋に散っていく。
ヴェルラウトにとって、それは殺戮ですらなかった。
愛しい存在へ牙を向けたものを排除した。ただ、それだけのことだった。
静寂が戻った部屋で、ヴェルラウトがゆっくりと振り返る。
怯えて壁際に膝を折る未亜を見つめ、琥珀ゴールドの瞳に強い心配の色を宿す。
怪物の急襲に、彼女の繊細な心がどれほど傷ついたか。
ヴェルラウトが大股で、未亜のもとへと歩み寄る。
「ミア、怪我はないか……?」
ヴェルラウトが、未亜の前にしゃがみ込むと、もう大丈夫だ——と安心させるように、そっと大きな手を伸ばした。
だが、未亜の瞳に映ったのは、優しく差し出された手などではなかった。
それは、たった今、巨大な命を一瞬で黒い灰に変えて見せた、死をもたらす悪魔の手だった。
(あ……あ……っ、嫌……やめて……っ)
次に灰にされるのは、私だ——。
恐怖が限界を突き破り、視界が急速に真っ白に染まっていく。
差し出されたヴェルラウトの手が未亜の頬に触れるより早く、未亜の身体から完全に力が抜け、糸が切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
「ミア……!?」
未亜の身体が冷たい大理石に叩きつけられる前に、ヴェルラウトの太い腕がすんでのところで彼女を抱き止めた。
呆然としたように琥珀ゴールドの瞳を大きく見開き、ヴェルラウトは腕の中の儚い重みを見つめる。
どうして怪我一つないはずの彼女が、こうも怯え、気を失ってしまうのか。その理由に思い至ることすらできないまま、彼の瞳に焦燥とショックの色が広がっていく。
(あぁ、私……、殺されるんだ……)
倒れ込む愛しい存在を抱きかかえ、どうしてこんなことになったのかと動揺に瞳を揺らす魔王の腕の中で、未亜の意識は、完全な絶望の闇へと沈んでいった。




