第2話 地獄の食卓
重厚で息の詰まるようなドレスに身を包まれた未亜は、ステラとネルの手によって、そのまま『王妃の間』フロアの奥にある、サロンも併設されたダイニングエリアへと促された。
ワンフロアすべてが『王妃の間』として作られた六階スイート。その東側には、王妃が近しい者を数人招いて優雅に茶会や食事を楽しむための、洗練されたダイニングエリアが設けられている。
純白の大理石の床には繊細な金の意匠が躍り、頭上には透き通るクリスタルガラスで組み上げられた優美なシャンデリアが揺れている。そこに置かれているのは、王宮の広大な大食堂のような無機質な広さではなく、王妃が身内や親しい客を招くためにあつらえられた、白磁の美しいダイニングテーブルだった。
「お座りください、ミア様」
ステラに促されるまま、重たいドレスを引きずる未亜は足をもつれさせながら椅子に腰を下ろした。冷たいシルクの座面がドレス越しに肌へ伝わる。
背後にはステラとネルが直立して控えた。
まだ、テーブルの上に料理は並んでいない。
未亜が身動きもできず息を潜めていると、重厚な白銀の扉が静かに開き、あの存在が姿を現した。
地響きのような威圧感を伴って現れたのは、この城の主であり、未亜を人間界から攫った張本人——魔王ヴェルラウトだった。
見上げるほど長身の圧倒的な体躯、アッシュグレーの肌に映える宵闇のような黒髪、額から伸びる黒く硬質な角。灰色に染まった白目に浮かぶ、鮮烈な琥珀ゴールドの瞳。異形でありながら、恐ろしいほどに整った絶世の美貌を持つ男。
ヴェルラウトは、椅子に座る未亜の姿を捉えると、その黄金の瞳を揺らした。
深紫のベルベットとエメラルドを纏った未亜の姿に、息をのむような恍惚の表情を浮かべる。
「……美しいな、ミア。お前ほど、その衣装を完璧に着こなせる者はいない」
低く掠れた、甘く重い声。
ヴェルラウトは買い与えた深紫色の重厚なドレスを纏う未亜を見つめ、心底愛おしそうにその美しさを称える。
だが、彼女の心に湧き上がったのは、喜びなどでは断じてなかった。
(美しい……?これが……?)
息も満足にできないほど肋骨を圧迫し、全身の血の気を奪うこのドレスは、未亜にとって生きたまま死人に仕立て上げられる拷問具に他ならない。それを心から嬉しそうに褒め称えてくる男に、未亜は抑えきれない嫌悪感を覚える。
その怒りと不快感が、ほんの僅か、眉間の皺となって未亜の表情に漏れ出た。未亜はそれを悟られまいと、咄嗟に視線を落とし、冷ややかに顔を背けた。
ヴェルラウトの言葉がぴたりと止まる。
差し出しかけた手が宙で虚しく泳ぎ、琥珀色の瞳に切なげな揺らぎが走った。
どうして自分の愛が届かないのかと途方に暮れたような表情を浮かべたものの、ヴェルラウトは、未亜の魔王への無礼を咎めるでもなく、彼女の真向かいにある上座の椅子へ静かに腰を下ろした。
向かいの席に座るだけで、圧倒的な圧を放つ魔王。けれど、さらに未亜を押し潰すのは、ヴェルラウトの背後に直立不動で控える老執事長、ガルムの視線だった。
黒檀の杖を突き、白い羊角を丸めた老侍従は、白濁した灰色の瞳で冷酷に未亜を射抜いている。人間という下等な生き物が我が君の向かいに座り、あからさまな不機嫌を晒していることが許しがたい――そう言わんばかりの視線だった。
白銀の扉の前には黒銀の甲冑兵が二人、槍を構えて立ち塞がっている。
未亜の後ろにはステラとネルが控え、部屋全体が息の詰まるような沈黙に支配されていた。
そこへ、パタパタパタ……と羽ばたきの手軽い音が響く。
「お食事の準備が整いました、ミア姫様!」
甲高い、けれど恭しい声とともに現れたのは、小さな給仕たち——小悪魔給仕族だった。
体長五十センチほどの愛らしい身体に、小さな三角形の二本の角と黒いミニタキシード。背中の蝙蝠のような羽を激しく羽ばたかせた彼らは、浮遊魔法を交えながら、自分たちの身体よりも遥かに大きい銀のトレイを頭上に掲げて宙を舞っている。
宙を滑るように飛んできて、優雅にお辞儀をしながらテーブルへ器を並べていく姿。
魔界に連れてこられた初日、この異形な給仕を見たときはあまりの恐ろしさに悲鳴を上げた未亜だったが、十三日目となった今はもう驚きはしなかった。だが、宙に浮く小さな悪魔たちの姿は、ここが人間界ではないという絶望的な事実を嫌でも突きつけてくる。
けれど、何よりも未亜の胃を固く絞り上げたのは、彼らが抱えてきた料理の数々だった。
「本日の朝食でございます! 深淵の沼で摘まれました月光草のポタージュにございます!」
給仕の小悪魔が、恭しく銀のドーム型の蓋を外す。
現れたスープを目にした瞬間、未亜の顔からさっと血の気が引いた。
——ドブのような、どろりとした黒紫色の液体。
温かいスープという概念が存在しない魔界において、それは氷のように冷たく冷やされており、器からは黒い煙が、ゆらりと不気味に立ち上っていた。
「そして、メインのプレートでございます!」
重厚な白磁の皿に盛られていたのは、人間界の朝食によく似たワンプレートだった。
だが、そこに載っているのは鮮やかな黄色いオムレツではない。赤紫色の不気味なスクランブルエッグ。その横には、緑と青がまだらに混ざり合った、グロテスクな色合いの太いソーセージが横たわっている。
けれどそれも、夜の食事に比べれば、まだマシなのかもしれなかった。
特に、初日の夜に出された肉のことは、一生忘れられそうにない。焼かれているはずなのに皿の上で蠢く肉を、ヴェルラウトは「新鮮だろう」と満足げに勧めてきた。あの恐怖は、今も未亜の中に焼きついている。
だが、この朝食とて、人間が口にして良いものとは到底思えなかった。
添えられた果実は、まるで生き物の眼球のようにぬらりと怪しく光っている。
グラスに注がれた果実水はドロッとした濃厚な血の赤色をし、唯一、香ばしい匂いをさせている焼き立ての白パンだけが、毒々しい紫色の焦げ目を纏いながらも「食べ物」の体を保っていた。
(……無理。こんなの、食べられない……)
見た目だけで吐き気がこみ上げてくる。
だが、何も食べなければ「身体に障る」と追及され、何をされるか分からない。
未亜は恐怖に震える手で重い銀のフォークに触れるのを諦め、かろうじて毒ではなさそうなパンへと指を伸ばした。
冷え切った指先で、カサリと音がするパンを小さく、本当に小さくちぎる。
指の腹ほどもない小さな欠片を口に含み、ゆっくりと噛み砕く。
ヴェルラウトの食事が終われば、この生きた心地のしない朝食の時間も終わる。
未亜はただ時間を稼ぐためだけに、蟻の歩みのような遅さでパンの欠片を口へ運び続けた。
「……夕べは、よく眠れたか」
重く低い声が、静寂を破ってテーブルを滑ってきた。
未亜の指先がピクリと跳ねる。だが、視線は手元の紫色のパンから動かさない。無心を装い、ただ静かに次の欠片をちぎる。
昨日も一昨昨日も、泣き疲れて気を失うように倒れ込んだだけだ。腫れ上がった瞼と頭の鈍痛がその証拠だというのに、目の前の男はそんな惨状すら見えていないのか。
けれど、自ら勇気を振り絞って問いかけたその言葉が、未亜の傷を抉るものだと気づきもせずに、ヴェルラウトの胸中では幼い期待が揺らめいていた。
今日こそは、小さな言葉ひとつでも返ってくるのではないか。
今日こそは、この冷たい壁に微かな亀裂が入るのではないか。
——魔王という絶対の威光を纏いながら、彼はあまりにも無防備に、根拠もない淡い期待をその瞳に宿していた。
わずかな揺らぎすら逃すまいとじっと見つめ、かすかな応答の兆しをひたすら待っている。
けれど、差し出されたのは永遠のような無言だった。
期待が空を切った瞬間、鮮烈な琥珀ゴールドの瞳が狼狽えたように泳ぐ。 拒絶された傷を隠す術すら知らない力強い体躯は、途方に暮れたように胸を上下させると、深い息を喉の奥で殺す。
言葉を失い、それでも、ほんのひと目でも自分を見てほしい。その拒絶の先にあるものに触れたいと願うように、彼は諦めきれない想いを押し殺し、再び不器用に言葉を継ぐ。
「……部屋の灯りは、眩しすぎなかったか。……夜は暗すぎないか?」
問いかけの意図すら分からない。
魔法の石から放たれる黄金の光で擬似的な昼夜を作られた、本物の太陽も月も奪われたこの鳥籠で、灯りの調節など未亜にとっては何の意味も持たなかった。
ヴェルラウトの不器用な問いかけはどれも、未亜を気遣うためのものだったのだろう。
けれど、未亜にとっては苦痛以外の何物でもなかった。
願うのはただ、家族と暮らす人間界へと帰ることだけなのだ。この息の詰まる鳥籠で快適かなどと問われること自体が、惨めな皮肉にしか聞こえない。
(……お願いだから、話しかけないで……)
声を出せば、恐怖で悲鳴に変わってしまいそうだった。未亜はただ黙々と、機械的にパンをちぎり続けることで、彼からの問いかけを全身で拒絶した。
「……この肉は、東の山脈で捕れた肉だ。身体を温める効能がある」
何とか会話を繋ごうと、ヴェルラウトはポツリ、ポツリと短い言葉を重ねてくる。不器用な歩み寄りは、しかし未亜の心を何ひとつ救わない。
むしろ、声をかけられるだけで、自分がこの怪物の所有物として繋ぎ止められている現実を突きつけてきた。
未亜は無心の境地を装い、聞こえない振りをしながら、ただ機械的にパンをちぎる動作を繰り返す。
「……ミア」
最後に漏れたのは、祈るような未亜の名だった。
返事のない虚無に向かって差し出された呼びかけは、あまりにも短く、あまりにも切なく空を切る。
カチャ……、と未亜の手元で小さな金属音が跳ねる。
あまりの緊張と恐怖に手が震え、食器に触れて音が鳴ってしまうのだ。
その小さな震えを、向かいのヴェルラウトは見逃さなかった。
不揃いなパンの欠片しか口にしない未亜を、琥珀ゴールドの瞳が見つめている。
未亜の華奢な身体、血の色のない唇。小さく小さく食事を摂る姿は、今にも消えてしまいそうな儚さに満ちていた。
その衰弱していくような姿に、ヴェルラウトは胸を締め付けられるような焦燥感を抱いていた。
「ミア、パンばかりでは身体がもたん。」
ヴェルラウトが低く、重厚な声を漏らした。
彼は自らのプレートにのっていた太いソーセージへナイフを立てると、一口大に切り分けた。そしてそれを銀のフォークの先に突き刺すと、テーブルを乗り出すようにして未亜の口元へと差し伸べてきた。
「ほら、肉を食え。……お前が倒れてしまっては、俺の心が死んでしまう」
絶対君主としての威圧感を纏いながらも、その声音には狂おしいほどの愛着が滲んでいた。
未亜を真剣に案じる男の眼差しで、彼は躊躇なく肉を突き出してくる。
その光景に、ヴェルラウトの背後に立つガルムが、苦々しげに白濁した瞳を細めた。
魔王たる者が下等な人間の小娘に自ら給仕をし、懇願するように食事を乞うなど、愚行以外の何物でもない。老侍従の胸中に渦巻く嫌悪の圧力が、部屋の空気をいっそう重く沈ませる。
だが、差し出されたフォークの先を見た瞬間、未亜の思考は恐怖で真っ白に染まった。
切り分けられたソーセージの断面。
そこに詰められたひき肉の繊維が、まるで生きている虫の群れのように、うねうねと蠢いていたのだ。
「……っ!? ひ……っ、あ……っ!!」
半狂乱になって椅子を引き、未亜は激しく身を引いた。
ドレスの裾がテーブルに引っかかり、カチャン!とグラスが倒れて赤い果実水が純白の大理石へ血のように広がる。
「ミア……!?」
ヴェルラウトが驚いたように琥珀の瞳を丸め、突き出していたフォークを止める。
未亜は胸を押さえ、真っ青な顔で激しく肩を上下させていた。喉の奥から込み上げる胃液の酸っぱさに耐えながら、差しのべられたフォークから逃げるように視線を背ける。
皿から立ち上るドブ色の魔素の湯気、うねる肉、そして冷酷に自分を見下ろす化け物たち。
美しいシャンデリアの光の下で繰り広げられる、豪華で、いびつで、息もできない朝食。
生きて朝を迎えたはずなのに。
望まない日常は、今日もまた、未亜の心を容赦なく叩き潰していった。




