第1話 悪夢のような一日がまた始まる
窓の向こうに、漆黒の闇が広がる不気味な魔界の夜が訪れる。
『王妃の間』の灯りは極限まで絞られている。それでも、天井の疑似天窓に嵌め込まれた巨大な魔法の石、魔導大結晶が放つ光に淡く照らされ、室内が完全な暗闇に沈むことはない。
三日月しか浮かばない魔界でありながら、『王妃の間』がある東の塔だけは、満月の夜のような穏やかさを保っていた。
孤独を噛み締める未亜は、早く朝が来てほしいわけでも、夜が続いてほしいわけでもない。
幾度となく流した涙は枯れることを知らず、昨夜もただ泣き疲れて意識を失うように倒れ込んだ。
それから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。
気づけば、あたたかな陽光を模した黄金色の朝の光が、疑似天窓の魔導大結晶から静かに降り注いでいた。
まどろみと絶望の境界線で、未亜は重い瞼を押し開けた。
眠れたのか、眠れていないのかすら分からない。ただ、頭の奥を刺すような鈍痛と、酷く重い瞼の感触だけが、虚ろな意識を現実に繋ぎ止めていた。
最初の一週間は、泣き叫び、扉を叩き、家族の名を呼び続けた。けれど、どれほど声を枯らしても、どれだけ涙を流しても、この白と金で彩られた豪奢な部屋から脱け出す術はなかった。
人間界と魔界は、遙か古代に張られた『巨大な結界』によって完全に隔たれている。
人間が魔界へ足を踏み入れることも、魔族が人間界へ現れることも、世界の理として固く禁じられている。その掟を破ることは、魔界においても決して許されない重大な禁忌だった。
——それなのに、あの恐ろしい魔王・ヴェルラウトは、その掟を、たった一人の人間の娘のためだけに踏みにじったのだ。
一体何のために。ただ、カフェの帰り道に路地裏を歩いていただけのごく普通の人間でしかない未亜を、己の欲望のままに連れ去ったのか。
あまりにも身勝手な魔王の執着によって、人間界から魔界へ連れ去られてから、とうとう今日で十三日目の朝を迎えてしまった。
禁忌を破ってまで未亜を魔王城に閉じ込めているヴェルラウトの狂気は、逃げ場のない絶望となって、日々着実に胸を締め上げていく。
腫れあがった瞼は重く、頬には乾いた涙の筋が皮膚を突っ張らせ、痛々しい引きつりを生んでいた。
未亜が横たわっているのは、かつて初代魔王が愛する王妃のために作らせたという、贅沢の限りを尽くした天蓋付きのベッドだった。
最上のシルクと精霊の羽毛で満たされたフカフカのマットレスは、身を包むほどに柔らかい。だが、その滑らかな寝具の上に横たわる未亜の姿は、あまりにも惨めだった。
身に纏わされているのは、繊細なレースと極上の絹で縫い上げられたネグリジェ。王妃としての愛着と尊厳を込めて与えられたはずの白い衣は、昨夜の涙と寝苦しさでシワだらけに乱れ、細い肩から無残にはだけていた。
胸元や袖口にあしらわれた繊細なレースや宝石の重みが、未亜には自分を繋ぎ止める鎖のように思えて仕方がなかった。
豪奢な天蓋の内側という小さく閉ざされた世界で、小柄な身体を丸める未亜の姿は、まるで豪邸の飾棚に放り込まれた人形のようだった。
カチャン、と遠くで重い金属音が響いた。
王妃の間の入口にある、あの厳重な白銀の扉が施錠を解かれた音だ。続いて、鏡のように磨かれた純白の大理石を打つ足音が近づいてくる。
重い靴音に混じって、カツカツと硬い爪先が床を叩く、異様な足音も聞こえた。
もう毎朝の日課となってしまった恐怖の時間が、刻一刻と迫っていた。
まだ目覚めきらない未亜の身体が、恐怖に反応して小さく硬直した。
やがて、足音はすぐそこで止まる。シャァッ、と軽やかな擦れ音を立てて、天蓋の薄布が左右に開け放たれた。
「……おはようございます、ミア様。お召し替えの時間でございます」
頭上から降りてきたのは、どこか冷ややかで隙のない声音だった。
帳の隙間から差し込む光の中に立っていたのは、侍女長を務めるステラだ。
一見すると隙のない人間の美女に見えるが、その耳は細長く尖り、背中からは艶やかな漆黒の翼が覗いている。そして何より、ロングスカートの裾から伸びる脚は、人間のそれではなく、鋭い鉤爪を持った不気味な鳥の脚だった。
足元に覗くその異形さが、未亜の胸に「自分は化け物の城にいるのだ」という本能的な恐怖を突きつけてくる。
ステラは、涙と汗で惨めに乱れた未亜の寝顔を見下ろすと、ほんの一瞬、縦長に割れた猫のような瞳孔を細めた。
言葉には出さないものの、その美しい容貌には「自分のような優秀な侍女長がなぜこのような脆弱な人間の小娘付きに甘んじなければならないのか」という、隠しきれない苛立ちと不満の影が落ちている。
「うわぁ……人間、また泣いたのかよ? もう諦めりゃいいのに……っ、でございます!」
ステラの背後から顔を出したのは、頭から細い竜の角を生やした小柄な竜人族のネルだった。
太い鱗のしっぽが、未亜の酷い顔に驚いてパタパタと不機嫌そうに床を叩いている。
まだ侍女としては新人らしく、毎回、とってつけたように語尾を「です」「ございます」にして取り繕っているものの、ガサツな地声と馬鹿正直な感想を隠せていない。
「黙りなさい、ネル。品性が疑われます」
ステラは冷たく一蹴すると、未亜の返事を待つこともなく、手際よく掛け布団を剥がした。
「さあ、ミア様。まずは湯浴みへ参りましょう。陛下がお見えになる前に、身支度を整えなければなりません」
ステラの有無を言わさぬ指示により、毎朝の苦痛な日課である湯浴みの時間が始まった。
拒否権など最初から与えられていない。
未亜は、二人によって人形のようにベッドから引き起こされ、湯浴みへと連れ出される。
広大な『王妃の間』の隣に位置する私設浴室には、プールのような大浴場の脇に、身体を清めるための白磁のバスタブが据え付けられている。
湯船からは常に美容と回復の効能を持つ魔導温水が豊かに注がれ、湯気が立ち込めていた。
だが、未亜にとってのこの場所は身を清めるための浴室ではなかった。自分の意思も尊厳も奪われる、逃げ場のない処刑場だ。
「失礼いたします」
ステラの手によってネグリジェが滑り落とされると、湯気の中に未亜の素肌が露わになった。
透き通るような白い肌と華奢な鎖骨が、湯気の中に晒される。反射的に胸元を隠そうとした腕は、あっさりと払いのけられる。
人間なら誰もが恥じらう裸さえ、この城では何の意味も持たない。未亜はただ「慎重に磨き上げるべき魔王の所有物」でしかないのだ。
「さあ、お湯に入るぞ……です!」
ネルの動きはどれも、子供が無邪気に人形を扱うように雑だった。
未亜は有無を言わさずひょいと抱え上げられて、気付いたときにはもう、バスタブへ放り込まれている。
驚く間もなく温かいお湯が肌を包み込むが、息をつく暇さえない。
すぐに身を洗う工程が始まる。
ベテランのステラは手際が良く、柔らかい天然海綿にきめ細やかな泡を立てると、未亜の肌を力加減よく擦っていく。ステラの洗髪や肌の磨き上げは完璧で、痛みを感じさせることはない。
けれど、未亜の恐怖のピークは、身体を洗う担当のネルの手が伸びてくるときだった。
「いっ……!」
竜人族であるネルの指先には、硬い竜の鱗と鋭く尖った爪が生えている。本人は丁寧にやろうとしているのだろうが、元々の馬鹿力も相まって、未亜の繊細な肌を擦る手つきは拷問以外の何物でもなかった。
背中を洗う爪の先端が皮膚をかすめ、まるでヤスリで擦られているかのような痛みが身体を苛む。華奢な肩を掴むネルの指に、少しでも力を込められれば骨が本当に軋んだ。
(痛い……っ、殺される……皮を剥がされてしまう……!)
未亜は恐怖で身をすくませ、痛みに思わず顔を歪めて悲鳴を呑み込んだ。
痛いと口にしたところで、この城には助けてくれる味方なんて誰一人として存在しない。これ以上、孤独を思い知るくらいなら、痛みを堪える方が幾分かマシに思えた。
そんな未亜の気持ちを露知らず、ネルは自分の力を疑うこともなく、「綺麗にするぞ!」とばかりに腕を動かし続けている。
「にしてもさぁステラ。陛下もなんで結界の掟を破って、こんな弱っちい人間を連れてきちゃったんだろ……あ、でございます!」
お湯をバシャバシャと掛けながら、ネルが首を傾げて無邪気に疑問をこぼした。
「人間なんて、ちょっとつぶしたらすぐ死んじゃうのに。お城の偉い人たちも『魔界の結界を揺るがすなんて狂気の沙汰だ』ってすっごい怒ってるぞ……です!」
ネルの悪気のない一言が、未亜の胸を冷たく刺す。
自分の存在そのものが、この恐ろしい世界の禁忌であり、魔族たちにとっても異常な出来事なのだと思い知らされる。
「無駄口を叩くのはやめなさい、ネル。陛下のなさることに私たちが口を挟む筋合いはありません」
ステラはすぐ隣で、最高級の石鹸を泡立てながらその光景を冷ややかに眺めていた。 手際よく未亜の栗色の髪に豊かな泡を馴染ませ、爪を立てずに指の腹で完璧な力加減の頭皮マッサージを施すステラは、間違いなく一流の侍女だった。
だからこそ彼女は、ネルの加減が人間の肌には強すぎることも、未亜が痛みに耐えて唇を噛みしめていることにも、当然気づいているはずだ。
けれど、ステラが助け船を出すことはない。
自分の仕事は、魔王のお気に入りを清潔に磨き上げることだけだ。命に別状がない程度の苦痛など、知ったことではない。
口を挟む労力すら惜しいと言わんばかりに、ステラは淡々と髪を洗い流す作業を続けた。
「はい! おしまい……でございます!」
ネルは湯浴みが終わると、まるで濡れたぬいぐるみを持ち上げるかのように、未亜の脇の下に手をさし入れて、ひょい、と湯船から抱え上げた。
濡れた大理石のタイルの上で、乱暴にタオルで身体を拭われるたび、擦り傷のような痛みが未亜の全身を走った。
そして、休む間もなく、次の苦痛が始まる。
「では、お召し替えを」
バスタオルで包まれたまま、大浴場の隣にある『王妃の間』の着替えの間へと押し戻される。
姿見の前には、下階の衣裳部屋から運ばれてきた今日の衣装が用意されていた。
ステラの手によってバスタオルが滑り落とされる。
湯上がりの無防備な未亜の体に宛がわれたのは、深紫色のベルベットに金糸の繊細な刺繍と、本物のエメラルドがびっしりと散りばめられた重厚なドレスだ。引きずるほどに重く、自由を奪う豪華な鎧のようなドレスだ。
ステラがテキパキと、しかしまったく心のこもっていない冷淡な動作でドレスを肌に通していく。
続いてネルが、後ろからドレスの構造である硬質のコルセットの紐を握りしめた。
着せ替え人形の衣服を引っ張るような、加減のない乱暴な手つき。
ネルが「ふんっ!」と息を呑んで力任せに紐を引いた瞬間——
「う……っ!?」
未亜の口から、耐えかねた低い悲鳴が漏れた。
肋骨が悲鳴を上げ、内臓が押し潰されるような苦しみが走る。呼吸が完全に遮断され、未亜の視界が急速にチカチカと点滅し始めた。湯上がりの桜色だった頬から一気に血の気が引き、死人のような青白さに変わっていく。
あからさまに命の危険を感じさせる未亜の異変に、横でスカートのシワを伸ばしていたステラがぴくりと眉を動かした。
これまでは放置を決め込んでいたステラだったが、未亜の顔が限界を超えて青ざめ、白目を剥きかけているのを見て、流石に手を止める。
ステラは深い溜息をひとつ吐くと、冷ややかな視線をネルへと向けた。
このままでは、魔王陛下が何よりも執着されているこの『お気に入り』が壊れてしまう。流石にそれでは自分の立場が危うい。
「……ネル。少し手を緩めなさい」
ステラが一切の感情を排した、冷酷で恐ろしい忠告を投げかける。
漆黒の翼をわずかに苛立ちげに揺らし、恐ろしいほど冷ややかな眼光でネルを射抜いた。
「そのまま引っ張れば、ミア様の身体が上下にちぎれ飛んでしまいます」
冷酷で恐ろしいその指摘に、ネルの手がピタリと止まった。
「千切れ…っ!?」
コルセットの締め付けが僅かに緩み、未亜の口から「ひゅぅ」と苦しげな吐息が漏れ出た。全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになるのを、ネルの手が危うく支える。
胸の苦しさは続いているものの、死の恐怖からは間一髪で逃れられたことに、安堵の涙が溢れ出た。
「ご…っ、ごめん…!人間って千切れるのか…です!?」
意識が飛びそうになっている未亜の耳に、素っ頓狂なネルの驚きの声が届く。
人間だろうと何だろうと、あんな力で締め上げられれば壊れてしまう。
しかし、今の未亜には、そんな当然の理を指摘する余裕などない。声すらも出せない未亜に出来るのは、涙の滲む瞳に精一杯の力を込め、「私を千切らないで」とネルに訴えることだけだ。
「ど、どれくらい…… これくらい……でございますか?」
ネルがおずおずと、少しだけ紐を引き直す。
途端に、力を抜いてくれたのかどうかさえ判別がつかない激痛が走った。
「う……っ」
未亜の口から再び苦しげな声が漏れた。
未亜にとっては、まだ十分に呼吸が引きちぎられるほど苦しい。
苦しみに身をよじる未亜の顔を見下ろし、ステラは心底うんざりしたように、溜め息混じりに首を横に振った。
「……あなたの力の、一割にしなさい」
「いち……!?」
ネルの声が裏返った。
「はぁ!? 一割なんて、もはや触ってるだけなんだが!? ……じゃなくて、でございます!」
「いいから一割にしなさい。あなたの馬鹿力は、入っていないくらいでちょうどいいのです」
不満そうにぶつぶつと文句を言うネルを、ステラは冷たく一蹴した。
尻尾をボテボテと床に打ちつけながらも、一応は、ネルも手の力を緩める。おかげで、未亜はやっと、まともな息を吐けた。
涙目で必死に酸素を取り込もうとしている未亜を一瞥したステラは、ドレスの乱れを整えながら、忌々しげにぼそりと呟いた。
「……まったく。人間などという弱すぎる生き物は、お世話をするだけで骨が折れますね」
丁寧に髪を結い上げられ、顔には薄い化粧が施されていく。
豪華絢爛な『王妃の間』で、未亜は今日も着せ替え人形のように飾られていった。
だが、どれほど着飾られようとも、自分の力では脱ぐことすら許されない。
この重いドレスは、未亜にとっては生きたまま繋がれている鎖そのものだった。
恐ろしい怪物たちに囲まれ、体中に痛みを刻み込まれる。
今日もまた、この悪夢のような一日が始まってしまった。
そして明日も、その次の日も――この悪夢は続くのだ。




