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プロローグ

(もう、やだ……っ)


抱きしめた膝にぎゅっと顔を埋め、未亜(みあ)は溢れ出る涙を堪えるように唇を噛んだ。

膝を濡らす温かい涙とは対照的に、座り込む純白の大理石の床からは冷気ばかりが伝わってくる。小さな身体をさらに小さく丸めて、彼女はただひたすらに耐えていた。


少しだけ瞳を開き、涙で滲む視界のままそっと顔を上げる。長い栗色のウェーブヘアが、華奢な肩をさらりと滑り落ちた。 


見上げる吹き抜けの天井には、不思議な光を放つ大きな石が嵌め込まれている。おかげで、室内だというのに、まるで麗らかな春の陽光を模したような、暖かな黄金色の光が降り注いでいる。

あてがわれた『王妃の間』は、広大なワンフロアすべてがひとつの優雅なスイートルームになっており、重々しい魔界のイメージとはかけ離れた、洗練された白と金の光あふれる空間だった。

そして部屋の一角には、溢れんばかりの宝飾品や絹の織物、人間界の家が何軒も買えるような希少な魔石が、小山のように積み上げられていた。


けれど、その黄金の輝きも陽だまりのような温もりも、今の未亜にとっては自分を閉じ込める鳥籠の装飾でしかなかった。


身に纏わされているのは、魔界の伝統だという漆黒と深紅の重厚なベルベットドレスだ。

コルセットで強く締め上げられた肋骨が息をするたびに痛み、引きずるほど重い宝石刺繍の裾が細い脚に絡みつく。


未亜はすがるような想いで、視線をさらに遠く——アーチ状の大きな窓へと向けた。

しかし、そこに広がっていたのは救いなどではない。美しい白銀の欄干の向こうに鎮座するのは、どこまでも禍々しく不気味な紫色の空だった。

優しい太陽も、幼い頃から見慣れた街並みも、大好きな家族の温もりも、ここには存在しない。どこを見渡しても、自分が異郷の地に囚われた「籠の鳥」であると思い知らされるだけだった。


(帰りたい……っ)


寒さと恐怖に打ち震える身体を、未亜はもう一度強く抱きしめ直す。


その時だった。


部屋の外、長い廊下の静寂を割って、規則的な足音が響いてきた。

ゴツ、ゴツ、と重く床を叩く、不気味なほど重厚な革ブーツの歩調。


——来た。


未亜の背筋に、氷を突きつけられたような戦慄が走る。

もう、覚えてしまった。それは、ここへ連れてこられてからというもの、毎日、朝も夜もなく繰り返されてきた恐怖の合図だった。


重厚な白銀の扉が、ノックもなく静かに開け放たれる。

開いた扉の向こうには、黒銀の甲冑に身を包んだ威圧的な見張り兵が佇んでおり、ここはいくら美しくとも決して出られない、『王妃の間』とは名ばかりの『牢獄』なのだと無言で突きつけていた。


甲冑兵たちの間を割って部屋へ足を踏み入れたのは、この城の主だった。


198センチという圧倒的な体躯。

威圧感のある分厚い胸板と太い腕。

けれど、その恐ろしいほどの存在感の中にあってなお、彼の容貌は息を呑むほど整っていた。

宵闇を溶かしたような深い黒髪は、無造作に流れているだけだというのに、まるで夜そのものが形を得たかのような艶やかさを纏っている。

彫刻のように端正な輪郭。鋭く通った鼻梁。薄く結ばれた唇。その顔立ちは、人の手では決して生み出せないほど完璧で、神が創り上げた美しい像を思わせた。


ただ一つ――人間には存在しない黒い角と、灰色の白目に浮かぶ黄金の瞳だけが、彼が決して人の世の者ではないことを告げている。


美しいのに、恐ろしい。

触れれば命ごと奪われる、夜の獣のような美しさだった。


魔界を恐怖で支配する絶対君主、魔王、ヴェルラウト。

人間界から未亜を奪い去った男だった。


アッシュグレーの肌に、胸元を深く開けた漆黒の薄手シャツ。片肩に掛けた深紅のハーフケープが、彼の歩みに合わせて静かに揺れる。

ヴェルラウトは、黒く硬質な爪を持つ大きな手に、またひとつ贈り物を抱えていた。

それは、精霊が織り上げたという真珠色の輝きを放つ繊細なレースのショールだった。光の加減で虹色に揺らめくその布地は、一目で極上の品だと分かる。


「……ミア」


地鳴りのように低い声が、部屋の静寂を揺らす。

ヴェルラウトはゆっくりと未亜の前に歩み寄ると、その巨大な影で彼女を完全に覆い隠した。

彼は膝を折り、未亜の目線まで頭を下げる。そして、真珠色のショールをそっと彼女の華奢な肩へ掛けようとした。


けれど、未亜は両膝に顔を埋めたまま、固く身をすくませて涙を流し続けるだけだった。一目たりとも、彼が見せる宝物を見ようとはしない。


「……これも、受け取ってはくれないのか」

 

低く絞り出された声に、落胆と焦燥が混ざり合う。

ヴェルラウトは差し出しかけたショールを諦めるように引くと、財宝の山へ置く間すら惜しむように、雑にその場へ横たえた。


そして焦燥に駆られた様子で、すぐさま胸元の内ポケットから一握りの眩い光を取り出した。

それは、夜空の星を閉じ込めたかのように煌めく、純金と白銀結晶で象られた大ぶりの髪飾りだった。


「ならば、こちらはどうだ。お前のその美しい髪に似合うと思って用意させた。……頼む、ミア、一目でいい。俺を見てくれ」


ヴェルラウトは大きな手を伸ばし、未亜の栗色の髪にその美しい飾りを挿し込もうとする。

けれど、冷たい金属の触感が肌をかすめた瞬間、未亜は弾かれたように強く頭を振り、それを拒絶した。


ヴェルラウトの指先からすり抜けた輝く髪飾りが、冷たい大理石の床へむなしく跳ね、静かな音を立てて転がる。


「……っ」


自分の差し出した最高級の宝物が、見向きもされずに床を転がる様子に、ヴェルラウトは息をのんだ。

彼は髪飾りを拾おうともしなかった。

伸ばしかけた大きな手が、行き場を失ったように空中で止まる。

琥珀色の瞳だけが、傷ついた猛獣のように途方に暮れて揺れていた。

 

「……どうしてだ……」 


髪飾りが転がった余韻だけが残る部屋に、ヴェルラウトの呟きが落ちる。

未亜は答えないまま、さらに深く膝の中へ顔を隠した。

重苦しい沈黙だけが、二人の間に横たわる。

   

やがて、ヴェルラウトは拾い上げることすら恐れるように硬質な指先を宙に彷徨わせると、受け取ってもらえなかったショールと転がった髪飾りを、これまでに贈ってきた高価なドレスや宝石が山をなす部屋の隅へ、静かに放り置いた。積み上がった財宝の山は、彼の報われない愛と、徒労の歴史そのものだった。


ヴェルラウトは再び未亜に向き直ると、大きな手を、もどかしそうに一瞬空中へ彷徨わせた。


「ミア、お前は何が欲しいんだ? 教えてくれ。……お前のためなら、俺はこの世界中のすべてを捧げよう」


真摯で、狂気じみた愛が込められた言葉。

けれど、それは未亜の心には一切届かない。噛み合うことのない圧倒的な温度差に、胸が潰れそうになる。


未亜は涙で濡れそぼった頬をそのままに、ゆっくりと顔を上げた。


視界が涙で滲む。

目の前にあるのは、異形そのものの顔(かんばせ)だ。灰色の白目に、闇の中で生き物のように怪しく光る琥珀ゴールドの虹彩。野性的な美しさを湛えた琥珀の瞳が、切なさそうに未亜を見つめている。


「……何も、いりません……っ」


未亜はかすれた声を絞り出し、縋るように彼を見返した。


「何も欲しくなんてありません……! お願いだから、早く……私を帰して……っ」


ボロボロと溢れ落ちる大粒の涙。

未亜にとって、この魔界は恐怖でしかなかった。窓から見える不気味な紫の空も、見張りの甲冑兵も、そして目の前に座す巨大な魔王の存在も。ただただ、温かい家族が待つ人間界へ戻りたい。当然の願いだった。


しかし——「帰して」という言葉を聞いた瞬間、ヴェルラウトの表情が劇的に陰った。


大きな眉が思い切り顰められ、琥珀色の瞳が歪む。

ヴェルラウトは大きなアッシュグレーの両手を伸ばすと、涙でぐちゃぐちゃになった未亜の小さな両頬を、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。

炉のように熱い体温が、未亜の冷え切った肌に直に伝わってくる。


「なぜだ……っ、ミア。お前は口を開けば、そればかりだ……!」


喋るたび、唇の隙間から鋭く尖った長い犬歯が覗く。


「なぜ俺の愛を受け入れない。こんなにも愛しているのに。お前のためになんでも捧げると言っただろう……! だから、俺を見てくれ。俺のいない世界に行きたいなどと、願うな……っ!」


彼の声はひどく苦しげで、悲痛だった。

か弱き人間を我儘に攫い、禍々しい魔王城に閉じ込めているのは魔王であるヴェルラウトの方なのに。まるで彼こそが、愛を得られず傷ついた被害者であるかのように、痛々しく顔を歪めている。


「……ぁ、……」


未亜の口から、無力な吐息が漏れた。


何度も、何度も伝えたのだ。「人間界に帰りたい」「家族のもとへ返して」と。

けれど、この男にはどんな言葉も届かない。未亜が「帰りたい」と乞えば乞うほど、ヴェルラウトは恐ろしいほどの独占欲と執着を募らせ、より重い愛と贅沢で未亜を縛りつけようとする。


——何を言っても無駄なのだ。どれだけ声を枯らして泣いても、懇願しても、この怪物は私を解放してはくれない。


絶望が、冷たい毒のように全身へ広がっていく。

未亜の心の中で、何かがパキリと音を立てて折れた。


顔を覆うヴェルラウトの熱い掌の上で、未亜はただ力を抜き、呆然と琥珀色の瞳を見つめ返しながら、静かに涙を流し続けることしかできなかった。






扉の向こうに未亜の姿が消え、王妃の間の暖かな黄金色の光が完全に遮られる。

世界を隔てるかのように重い扉が閉ざされ、その鈍い音が、どこまでも続く豪華絢爛な大理石の廊下へ虚しく響き渡った。

   

扉の両脇には、長身の黒銀甲冑兵たちが、身の丈を超える長い漆黒の槍を手に直立している。彼らは息を殺し、ただ前方の暗がりを見据えて微動だにしない。一切の感情を殺し、ただ前だけを見据えて不気味な彫像のように固まっている。 


背後でカチャンと施錠される音を聞きながら、ヴェルラウトは地鳴りのような深く重いため息を落とした。

  

(……今夜の品も、気に入らなかったか)


また、空振りに終わった。

世界中から集めさせた至宝も、未亜には響かない。彼女の心に、指一本触れることすらできない。手元に残る未亜の涙の冷たさと、拒絶された痛みが、胸の奥の巨大な空洞を削り取っていく。

愛する者に拒まれ続ける男の顔は、苦痛と落胆で悲痛に歪んでいた。

甲冑兵たちが決して主の顔を見まいと、さらに強張った姿勢で直立不動を貫く。


苦々しい沈黙を破ったのは、渡り廊下の奥から響く、重厚な木突きの音だった。

コツン、コツン、と黒檀の杖を鳴らし、一人の老魔族が歩み寄ってくる。


白銀の髪をきっちりとオールバックでひとつに結び、額の両脇からは太く太く渦を巻いた立派な羊の角を覗かせている。隙のない高貴なローブを纏ったその男は、前魔王の時代から城に仕える執事長兼最高顧問——ガルム・ヴァルハイドだった。

 

「——陛下。お戻りでございますか」


かすかにかすれた、しかし気品あふれる老人の声だった。

ローブの胸元で、端の欠けた勲章を誇らしげに光らせたガルムは、絶対の確信を込めて深く頭を下げた。

 

「今宵こそ、あのお方も陛下のお心尽くしの品々にさぞ歓喜されたことでしょう」


これで今夜こそ、気難しく荒れていた魔王の機嫌も直るだろう。そう言いたげな老執事の言葉に、魔王の眉間が一瞬で凶悪に深まった。

ゆっくりと首を巡らせたヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳が、暗闇の中で獣のようにギラリと狂暴な光を放つ。


「……ッ」


灰色の白目に浮かぶ獣のような黄金の光。それだけで、ガルムは自らの期待が打ち砕かれたことを悟った。喉の奥で苦い溜息を密かに呑み込み、見事なほどに手慣れた手腕で精一杯の取り繕いをみせる。 


「……さようで、ございますか。なかなか強情な女……、いえ、意思の強いお嬢様でございますな」


胸中に渦巻く苦々しい思いを殺し、ガルムは白々しい敬意を装ってそう呟いた。

ガルムの瞳に冷徹な蔑みの色が混ざる。恭しい丁寧語の裏に、かすかな苛立ちを滲ませながら、老執事は淡々と、しかし刺すような言葉を続けた。


「ですが陛下、いつまでもあのように甘やかされては、付け上がるばかり。一度……あの娘に相応しい『罰』をお与えになってはいかがでしょうか。己が陛下の温情によって、かような贅沢な部屋で何不自由なく生かされているのだと、その愚かな身に刻み込ませるべきかと存じます」


老執事の、慇懃無礼で冷酷な忠言。

だが、その言葉がガルムの唇を滑り落ちきるよりも早く、廊下を埋め尽くすほどの魔圧が爆ぜた。

 

「……っ!?」


見張りの甲冑兵たちが膝を折り、石造りの床に亀裂が入る。

ただ、ヴェルラウトがゆっくりと視線を向けただけだった。

次の瞬間——ドンッ!!


目に見えぬ無形の衝撃がガルムの胸を打つ。

老兵の細い身体は抵抗する間もなく宙へ弾き飛ばされる。そして、数十メートル先の硬い石壁へと激しく叩きつけられた。


「……ぐ、ぁ……っ」


吐血し、ガルムは、壁を背にして床へ崩れ落ちる。

その鈍い衝突音が廊下へ響き終わるのを待ってから、ヴェルラウトは静かに歩み寄った。ゴツ、ゴツ、と重い革ブーツの音が廊下に響くたび、周囲の空気が凍りついていく。


倒れ伏すガルムを見下ろすヴェルラウトの顔には、一切の情けも、慈悲もなかった。

胸元から覗く太い首筋、アッシュグレーの肌の奥で禍々しい魔力が渦巻いている。


「……誰に向かって口を利いている、ガルム」


地の底から響くような低音が静かに落ちる。


「次はない」


無慈悲な響きだった。

 

「ミアを傷つけるような口を、もう一度利いてみろ」


ヴェルラウトは凶悪な犬歯を覗かせ、硬質で黒い爪をゆっくりと折り曲げた。


「その皺だらけの顔を、俺の爪で八つ裂きにしてやる」


命の保障すら危うい圧殺的な殺意に、ガルムは青ざめた顔を床に擦り付け、必死に平伏した。


地の底から響くような死の宣告に、見張りの甲冑兵すら全身を強張らせ、息を殺した。

真っ青な顔で震えるガルムに二度と一瞥も与えず、ヴェルラウトは深紅のハーフケープを翻した。

恐怖だけをその場に置き去りにし、誰の言葉も届かない底なしの孤独を纏って、魔王は深い闇の奥へと消えていった。 




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