第26話 その優しさが、苦しい
翌日には嘘のように熱が下がり、鉛のように重かった身体も、ずいぶん軽くなっていた。
それでも、未亜は『王妃の間』の天蓋付きベッドで絶対安静を命じられた。
ステラとネルは甲斐甲斐しく未亜の世話を焼き、主治医であるアスクレスの指示を受けた上級医師も、朝晩欠かさず診察にやってくる。
けれど——あの倒れた当日の夜、不格好で温かいスープをひとさじずつ口に運んでくれたヴェルラウトの姿は、翌日以降、一度も見かけなかった。
魔王の執務が忙しいのだろうか。けれど、これまでの彼なら、ガルムに仕事を押し付けてでも顔を出しそうなものだ。
それとも、何か見舞いに来られない事情があるのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づくたび、未亜は戸惑った。
「主治医のアスクレス様からのご指示でございます。お身体を早く整えるため、温かなスープをお召し上がりくださいませ」
そう言ってステラたちが恭しく運んでくるスープは、あの日ヴェルラウトが届けてくれたものとはまるで違っていた。
そのスープは、とても美味しかった。
美しく澄み渡った黄金色のスープ。指先ほどの大きさに寸分違わず揃えられた具材。身体の奥にじんわりと染み渡る、文句の付けようのない料理。
だからこそ、未亜には分かってしまう。あの不格好で味気なく、焦げた具材と生煮えの具材が同居していたスープ。あれを作ったヴェルラウトと、この洗練された一皿を作った料理人が、同じ人物であるはずがなかった。
けれど、彼が訪れないからといって、その存在感が薄れることはなかった。
むしろ『王妃の間』は、日に日に彼の気配で埋め尽くされていくようだった。
朝、昼、晩。日課のように、ヴェルラウトからの豪奢な贈り物が届けられたからだ。
倒れた翌日、アスクレスの配下が恭しく運び込んできたのは、繊細な黄金細工が施された、不自然なほど豪華な点滴台だった。透き通った淡い蒼色の薬液が満たされた結晶壺は、夜になれば蛍のような優しい光を放ち、無駄に幻想的な空間を作り出していた。
細い管を通って身体へと流れていく光る液体を眺めながら、未亜はただ呆然とするしかなかった。
それだけにとどまらず、ベッドの周囲はまたたく間に「宝物の山」で埋め尽くされていく。
溢れんばかりの花々、触れた瞬間に驚くほど柔らかな極上の毛布、肌に吸いつくようなシルクのシーツやストール。
そして、サイドテーブルに美しく盛られた見たこともない珍しい果物たち。
不思議なことに、それらの果物はどれも柔らかな桃色や鮮やかな黄色、透き通るような白といった明るい色彩ばかりだった。魔界に溢れていた毒々しい紫や黒といった禍々しい色のものは、なぜかひとつも混ざっていない。
魔界にも、明るい色の果実があるのだと驚いた。
けれど、おかげで、魔界に来てから初めて、まともに果物を口にすることが出来た。人間界の果物よりもむしろ甘さが強く、瑞々しい味わいは、栄養が足りず疲れ果てていた身体に沁み渡った。
「ミア様。陛下から賜ったこの南国特産の『黄金鳳凰のショール』は、こちらの宝石箱の上に重ねておきますね」
「へへ、ミア様! 見てください、このふわふわのクッション! 抱き枕に最高ですよ!」
今日も今日とて、二人が抱えきれないほどの新しい贈り物を運び込み、足の踏み場もなくなった部屋へ器用に積み重ねていた、その時だった。
コンコン、と控えめながらもはっきりとしたノックの音が響いた。
ステラが急いで扉を開けると、そこに立っていたのは主治医のアスクレスだった。
「……失礼する」
部屋に足を踏み入れたアスクレスは、目に入った光景にピタリと足を止めた。
足の踏み場すら失われつつある室内の惨状に、アスクレスの美しい眉がぴくりと跳ね上がった。
積み上げられた宝物の山を巧みに避けながらベッドサイドへと歩み寄った彼は、怪しくも優美な光を散らす点滴台を一瞥する。その整った横顔には「相変わらず理解に苦しむ」と言いたげな呆れが微かに浮かんだものの、何ひとつ言及することはなかった。
そして、手慣れた手つきで点滴の残量を確認してから、未亜へと視線を落とす。
「体調はどうだ、お姫様。これほどの至宝の山に囲まれていれば、さぞや病魔も居心地が悪かろうな?」
アスクレスの薄い唇が、どこか可笑しそうに歪む。
魔王の常軌を逸した甘やかしぶりと、それに困惑する人間の小娘。その対比がよほど可笑しいのか、アスクレスの薄い唇には、意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「……おかげさまで、体調はすっかり良くなりました。ご心配をおかけして、本当にありがとうございます」
丁寧にお礼を述べた未亜は、ふと自らの周囲を見回した。足の踏み場もないほど豪華な品々で埋め尽くされた寝室と、怪しくも美しく光り輝く点滴台。未亜は困ったように、小さく苦笑いを浮かべる。
「ですが……これ以上宝物が増えてしまうと、本当にベッドから出られなくなってしまいそうです。そろそろ、いつもの生活に戻るお許しをいただけないでしょうか?」
困ったような笑みを浮かべた、控えめな懇願だった。
恐怖に怯えるばかりだった少女が、今では苦笑いを浮かべて軽口まで返してくる。その変化が意外だったのか、アスクレスは一瞬目を細めた。やがて、可笑しそうに肩を揺らす。
「ふん、俺も大賛成だ。これ以上この部屋に金品が積み上がれば、俺の診察スペースまで圧迫されて迷惑だからな。……それに、いつまでも患者面をされていては、あの過保護な魔王の奇行が加速するばかりだ」
皮肉たっぷりに言い放つと、アスクレスはくるりと背後の侍女たちへ向き直った。
「顔色も良くなっているし、体調も安定している。その点滴の液が落ちきれば、ひとまず安静は終了としよう。……ただし」
アスクレスは足元の宝物の山を顎で示し、冷ややかに命じた。
「この足の踏み場もない宝の山を片付けろ。病み上がりの姫が足を取られて転倒でもしたら、それこそ我が君の怒りでこの塔が吹き飛びかねん」
「は、はいっ! ただちに片付けますわ!」
胸を張るステラの横で、片付けという単語を聞いた途端、ネルの大きな恐竜の尻尾が力なく垂れ下がった。
「えぇ〜……こんなにいっぱいあるのに……? どこに仕舞えばいいのさぁ……」
ネルが、ガックリと肩を落として項垂れる。
その賑やかなやり取りを前に、未亜の胸の奥には、久しく忘れていた穏やかな温もりが広がっていった。
魔界での生活にも、そこに暮らす魔族たちにも、まだ心を許しきれたわけではない。それでも、こうして自然に笑みがこぼれるほど、少しずつ心に余裕が戻ってきたのは確かだった。
(やっと、ベッドから出られるんだ)
ベッドの上でゆっくりと身を起こした未亜は、分厚いカーテンの隙間から差し込む、魔界の微かな光に目を向けた。
胸の奥には、小さく、けれど確かに、新しい風が吹き抜けるような予感が芽生えていた。
点滴を終えた翌日、アスクレスから改めて告げられたのは、短い散歩の許可だった。
『王妃の間にこもりきりでは、回復するものも回復しない。自分の足で歩き、陽光を浴びろ。まずはそれからだ。』
主治医であるアスクレスのそんな短い宣告を受け、未亜は久しぶりに『王妃の間』の外へと足を踏み出していた。
通されたのは、東の塔に併設された広大な庭園だった。
鏡のように滑らかな白銀鉱石の石畳が続き、その両脇には、クリスタルガラスのように透き通る花弁を持った花々が整然と咲き誇っている。白銀と漆黒の薔薇が優雅に咲き乱れる庭園は、静けさと気品に満ちていた。
未亜のすぐ後ろには、寒さ対策のストールを手にしたステラと、飲み物や軽食の入ったバスケットを嬉しそうに抱えたネルが付き添っている。
けれど——未亜の意識を引きつけてやまないのは、彼女たちではなかった。
未亜たちから十数歩ほど離れた場所で、大きな樹木の影に佇み、じっとこちらを見守っている人影。魔王ヴェルラウトだった。
「王妃の間から外へ出る以上、万が一があってはならない。俺が同行できる時間以外は外へ出すな」という彼の強い指示により、未亜の散歩は彼の執務が終わった午後の時間帯へと合わされていた。
魔王が護衛として付き添うのだとステラから聞かされていた未亜は、以前のように彼が隣を歩くものだとばかり思っていた。けれど、いざ庭園へ出てみれば、ヴェルラウトは決して未亜の数歩以内には近づこうとせず、常に遠巻きに彼女を見守っているだけだった。
庭園の中央にある白銀の噴水のあたりまで歩いてきたところで、どうしても気になった未亜は、そっと足を止めて振り返った。未亜が立ち止まると、後方を歩いていたヴェルラウトもあからさまに動きを止め、遠くの花壇の傍らで仁王立ちのまま視線を泳がせている。
「……ステラさん。魔王さんは、どうしてあんなに離れているんですか?」
未亜は隣のステラへ囁く。
ステラはチラリと遠くのヴェルラウトへ視線を巡らせると、静かに、言葉を選びながら口を開いた。
「……陛下なりのご配慮にございます。ご自分の存在がミア様の心身にこれ以上の負担をかけぬよう、こうして遠くから静かに見守ることに徹しておられるのです」
しとやかにオブラートに包んだステラの説明に、隣のネルが待ってましたとばかりに悪戯っぽく笑い声を上げた。
「そうそう! ミア様が怪物を怖がってまたストレスで倒れたらどうするんだって、アスクレス様にめちゃくちゃ叱られちゃったんだよね!」
ステラの配慮に満ちた説明を台無しにするように、ネルが楽しそうに口を挟んだ。
「ネル……っ」
ステラは即座に額に手を当て、深い溜息とともに首を横に振ったが、ネルは悪びれる様子もなく笑っている。
ネルの無邪気な言葉を聞いた瞬間、未亜の胸の奥が締め付けられた。
——怪物を怖がって、また倒れたら。
スープを運んでくれたあの夜、目覚めた時にはもうヴェルラウトの姿はなかった。
あれから、なぜ彼が一度も部屋に見舞いに来なかったのか。毎日毎日、過剰なまでの贈り物を届かせながら、自身は頑なに姿を見せなかったのはどうしてなのか。そして今も、こうして遠くから守るように立つだけで近づいてこないわけも。
そのすべてが、ネルの無邪気な発言によって、未亜のために自らを遠ざけようとする彼の極端で不器用な遠慮の姿と繋がった気がした。
あの日のスープのぬくもりを思い出し、胸が痛む。彼はきっと、アスクレスから自分が未亜を追い詰めていた事実を突きつけられ、深く傷ついたのではないだろうか。
そして、アスクレスの指摘を否定できない自分にも、未亜の胸に針で刺されたような痛みが走った。その時だった。
「待って! 待ってください、待ってぇぇえっ!」
遠くから、可愛らしくも必死な甲高い悲鳴が響いてきた。
未亜たちが声のする方へ視線を向けると、つぎはぎだらけのエプロンを着た小柄なゴブリンの庭師——ポッケが、自分の身体よりも大きなじょうろを放り出し、両腕を伸ばしながらこちらへ走ってくるのが見えた。
その足元を、すばしっこく駆け抜けていく小さな影が三つあった。
それは、丸っこいウサギのような愛らしいフォルムをしつつも、頭からは小さな水晶のような角が生え、ふわふわの長い尻尾を持つ、見たこともない小魔獣だった。
小魔獣たちはすばしっこく石畳を駆け抜け、まっすぐに未亜の元へとやってくると、助けを求めるように彼女のドレスの裾へとすり寄り、キュンキュンと可愛らしく鳴いた。
「も、申し訳ございません、王妃様……っ!」
ポッケは大慌てで未亜の前に駆け寄り、転びそうになりながらも深々と頭を下げた。
そして顔を上げた瞬間、未亜の肩越しに見えた光景に、その顔がさらに蒼白へと染まった。
遠くの花壇の前に佇むヴェルラウトが、ポッケを射殺さんばかりの眼光で睨みつけていたのだ。
「ヒィぃぃっ……!」と小さな悲鳴を上げ、ポッケはガクガクと膝を震わせた。
だが、ヴェルラウトがこちらへ向かって足を踏み出すことはなかった。小魔獣たちを追い払うこともせず、ただ凄まじい威圧感を漂わせたまま、その場に立ち尽くしている。
「まあ、水晶角ウサギですか。珍しい……。なぜこのような小魔獣が東の塔の庭園に?」
ステラが不思議そうに首をかしげる横で、ネルは楽しそうにしゃがみ込み、「わー、ちっこいな! お前ら、お菓子でも食べるか?」と無邪気に手を振っている。
ポッケは青ざめた顔のまま、必死に頭を下げた。
「ど、どこからか迷い込んできてしまったみたいなのです! 王妃様のお散歩のお邪魔にならないよう、すぐに追い出しますので……っ」
ポッケが、未亜の足元に丸まる小さなウサギたちを捕まえようと手を伸ばした。けれど、すばしっこい小魔獣たちは未亜のドレスの裾の周りをくるくると逃げ回り、絶対に彼女の傍から離れようとしない。
「ふふ、可愛い……」
その微笑ましい追いかけっこに、未亜の唇から自然と温かな笑みが零れた。
「大丈夫ですよ。ポッケさんが手入れしてくださっている庭園は、本当に素敵ですもの。今日はお天気も良いですし、この子たちもお散歩がしたかったのね」
未亜が屈み込み、優しく小さな魔獣たちに語りかけると、小魔獣たちは嬉しそうに「キュン、キュン!」と小さな鳴き声を返した。
「ほらね」
未亜は愛おしそうに目を細める。
「で、ですが……っ」
ポッケはどうしていいか分からず、助けを求めるように目を泳がせ、遠くの魔王へと視線を送った。
ヴェルラウトは相変わらず鋭い眼光でポッケを睨みつけていたが、嬉しそうに微笑む未亜の姿を目にすると、不機嫌そうに顎をわずかにしゃくり、「好きにさせろ」と無言の指示を出した。
「な、何かございましたらすぐにお呼びください……っ!」
ポッケは何度も頭を下げながら、命拾いしたように自分の手入れの仕事へと戻っていった。
未亜は水晶角ウサギたちを引き連れるようにして、庭園の一角にある青々と茂る芝生広場へと向かった。
そのまま芝生の上に腰を下ろそうとすると、ステラが慌てて声を上げる。
「ミア様っ、お召し物が汚れてしまいます! 敷物をお持ちしましたので、こちらへお座りください!」
ステラの手によって広げられた白いシートの上に、未亜はゆっくりとドレスの裾を広げて座り直した。その傍らには、ネルが持ってきたバスケットから色とりどりの小皿が並べられていく。透き通るような淡い黄色のムースと、香ばしい白い焼き菓子。禍々しさを微塵も感じさせない可憐なお菓子に、未亜の表情が和らいだ。
ヴェルラウトは、相変わらず少し離れた樹木の影から、静かにこちらを見守っている。
未亜が腰を下ろすと、一匹の水晶角ウサギがトコトコと歩み寄り、未亜の膝の上にぴょんと飛び乗ってきた。
甘えるようにすり寄ってくる小さな頭を、未亜は愛おしそうに撫でてあげる。その光景は、白銀の庭園の光の中で一枚の絵画のように美しかった。
遠くで見守っていたヴェルラウトの琥珀色の瞳が、一瞬、揺れた。
膝の上の小魔獣を愛おしそうに撫でる未亜。その横顔を見つめていた彼が、ふいに一歩、こちらへ踏み出した。
まるで、抑えていた何かに引き寄せられたかのように。
だが——重厚な靴音が、カツンと白銀の石畳を鳴らした瞬間だった。
膝の上の小さな魔獣がビクッと身体を強張らせ、恐怖に耳を跳ね上げると、一目散に未亜の膝から飛び降りて逃げ去ってしまった。ポッケの包囲から器用に逃げていた他の二匹も、弾かれたように散って行く。
「あっ……」
未亜は慌てて手を伸ばしたが、水晶角ウサギたちの姿はあっという間に植え込みの影へと消えてしまった。
「……すまない」
頭上から降ってきたのは、絞り出すような低い声だった。
気づけば、ヴェルラウトがすぐ近くに立ち尽くしていた。
けれど、自分が近づいたせいで、水晶角ウサギたちを逃がしてしまったことを悔いるように、彼は深く目を伏せている。
久しぶりに間近で見る彼の横顔は、ひどく傷ついているように見えた。
世界を統べる絶対君主としての威厳も、周囲を圧する恐怖の存在感も、今は感じられない。あれほど巨大な身体が、ひどく小さく見えた。
「いえ……、気にしないでください」
未亜は静かに首を振ると、ネルから受け取ったばかりの軽食のお皿を手に取った。そして、目の前に立ち尽くすヴェルラウトへと、そっと優しく差し出す。
「魔王さんも、一緒に召し上がりますか?」
未亜としては、気まずそうに佇む彼を気遣い、純粋な好意から口にした言葉だった。
ヴェルラウトは安堵したように息を吐くと、嬉しそうに彼女の隣に腰を下ろした。そして、差し出された皿を受け取ろうと手を伸ばしかけた、その時だった。
ふと、何かを思い出したかのように、皿に触れる寸前で、ヴェルラウトの大きな手が止まった。
その指先が、行き場を失ったように、ゆっくりと引いていく。
先ほどまで確かに浮かんでいた喜びが、琥珀色の瞳からすっと消えていった。
「俺に構わなくていい。自由に過ごせ」
どこか諦めるように目を伏せた彼は、伸ばしかけた手を静かに下ろした。
以前、一度だけ、ヴェルラウトに連れられて庭園を訪れたとき、彼の大きな手は未亜の肩を我儘に抱き寄せ、ほんの一秒も離れることはなかった。
それなのに今、彼は伸ばしかけた手を引き、震えていた指先を隠すように固く握りしめている。
未亜は、その理由も分からないまま、ただ息を詰めて彼を見つめることしかできなかった。




