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第27話 優しい手を、信じてみたら

水晶角ウサギが逃げ去った芝生の広場には、気まずい静けさが残っていた。

 

ステラが広げた白いシートの上に、未亜とヴェルラウトは並んで座っている。

 

シートの縁には、未亜の靴が爪先を揃えて置かれていた。靴を脱いでから上がるのは、生まれ育った世界の癖だ。その繊細なヒールのすぐ傍らで、ヴェルラウトの黒革のブーツは、純白の布をためらいもなく踏んでいる。


人間界なら眉をひそめられる振る舞いだろう。

けれど、王の足元を咎める者など、魔界にはいないらしい。ステラが一瞬だけそのブーツへ視線を落とし、何も言わずに微笑んだのを、未亜は見ていた。


用意された軽食へ伸びるのは、華奢な白い手だけだった。魔王の大きな手は、膝の上で固く握られたまま動かない。会話もなかった。


どこかで、ポッケがジョウロで花に水をやる音がしている。鮮やかな羽の蝶がネルの鼻先をかすめ、盛大なくしゃみをした彼女を、ステラが横目で睨んだ。


午後の陽射しはやわらかく、花の香りを運ぶ風が、二人の頬をそっと撫でていく。


軽食の皿がほとんど空になり、侍女たちが片付けを始めた頃だった。


「ネル」


低い声に、ネルの尻尾がぴんと立つ。


「は、はいっ!?」

「ポッケのところへ行け。小魔獣の餌があるはずだ。あるだけ持ってこい」


ネルはステラと目を見合わせてから、転がるように駆けていき、ほどなく小さな麻袋を両手で掲げて戻ってきた。


「お持ちしました! 花壇を掘り返しちゃう子たちを、傷つけずに外へ誘い出すための餌だって。ポッケ、真っ青な顔で、震えてて面白かった……でございます!」


ステラの苛立った咳払いに、ネルが肩を跳ねさせて青い顔をする。

だが、ヴェルラウトは失礼な侍女の言葉を咎めるでもなく、静かに袋を受け取ると、しばらく手の中で持て余した。

やがて、それを未亜に直接渡すことはせず、指先でシートの上を滑らせて、彼女のほうへ寄せた。


「……これで、さっきの連中を呼んでみろ」


視線は庭の遠くへ向けられたまま、声もいつもと変わらない。けれど、袋を置いた指は、未亜の指に触れないよう、慎重に引かれていった。


「いいんですか?」

「構わん。俺には使い道がない」


袋をじっと見つめてから、未亜は両手でそっと拾い上げた。口を開くと、乾いた木の実と穀物を固めた粒がぎっしりと詰まっていて、ほのかに甘い香りがする。


(使い道がないのなら、わざわざ取り寄せたりしないのに)


胸の内で小さく思って、未亜は袋を抱き直した。


「ありがとうございます、魔王さん」


シートの端に腰をずらして靴を履く。ステラが「お足元にお気をつけくださいませ」と囁くのに頷いて、未亜はウサギたちが消えた植え込みへ向かった。


「ウサギさんたち、まだいる……?」


声をひそめて呼びかけると、白銀の薔薇の葉陰がかさりと揺れた。ぴょこん、と小さな顔が覗く。水晶の角が陽を弾いて、ちらりと瞬いた。


「よかった。まだ、いてくれたのね」


胸の奥から安堵がこみ上げて、頬が緩む。しゃがみ込み、粒を手のひらに広げて差し出した。


「魔王さんがご飯をくれたの。食べる?」


ウサギは鼻をひくひくさせた。ためらったのは、ほんの一呼吸だけだった。ふわふわの尻尾を揺らして駆け寄ると、未亜の手のひらに前足をちょんと乗せ、夢中で粒をかじり始める。


湿った鼻先が、手のひらをつつく。ひんやりして、くすぐったい。かりかり、と尖った歯が当たるたびに肩がすくんだけれど、痛くはなかった。ふわふわの毛並みの奥から、驚くほどの熱が伝わってくる。こんなに小さな身体の中で、命が確かに脈打っている。


「ふふ、くすぐったい」


こぼれた笑い声に誘われるように、茂みの奥から二匹目、三匹目が顔を出した。三匹は未亜の周りに集まり、競うように手のひらへ鼻先を寄せてくる。

嬉しくて、未亜は何度も目を細めた。


けれど、あのときのような重い靴音は、聞こえてこなかった。


振り向くと、ヴェルラウトはシートの上に座ったままだった。立ち上がる気配さえない。大きな身体を窮屈そうに折りたたみ、膝の上で拳を握って、ただ静かにこちらを見ている。

琥珀色の瞳は、確かに未亜を映していた。それなのに、決して越えてはならない線を引いて、その向こう側に身を潜めているように見えた。


その姿が、ふいに胸に刺さった。


『怪物』


ネルの無邪気な声が、耳の奥でよみがえる。


あの言葉を口にしたとき、ステラは窘めるように額を押さえていた。二人のそんな端々が、未亜の中でひとつの形に繋がっていた。


一歩踏み出しただけで散っていった、小さな背中。「……すまない」と絞り出して項垂れた、傷ついた横顔。


自分が近づけば、誰かを怯えさせてしまう。彼はその事実を、きっと何度も、何度も突きつけられてきたのだろう。


未亜は、手のひらのウサギと、シートの上のヴェルラウトを見比べた。それから、そっと立ち上がった。

ドレスの裾を軽く払い、まっすぐに彼のもとへ歩いていく。三匹のウサギは、未亜の足元に寄り添うようについてきた。


近づいてくる気配に気づいて、ヴェルラウトの肩がびくりと跳ねた。逃げるように、あるいはウサギを怯えさせまいとするように、彼が腰を浮かせる。


「おい、来るな。また——」


未亜はシートの縁で靴を脱ぎ、揃える間も惜しんで上がり込んだ。中腰で固まった彼の足元、黒いブーツのまわりに、手のひらの餌をぱらぱらと撒く。


「おいで。大丈夫よ」


囁きに、ヴェルラウトは何も言えなくなった。中途半端に浮かせた腰のまま、彼は何が起きているのか分からない顔で、未亜と、足元に散らばる粒とを見下ろしている。


最初は、何も起こらなかった。薔薇の花弁を揺らす風の音だけが、やけに大きく聞こえた。


未亜の背後から顔だけを覗かせたウサギたちは、耳を伏せ、ちらちらとヴェルラウトを窺っている。逃げ出したい気持ちを、餌の香りが引き留めているようだった。三匹はシートの縁でぴたりと足を止めた。そこに、見えない境目があるかのように。


やがて、いちばん小さな一匹が、そろりと前足を踏み出した。

白い布の上へ。

続いて二匹目、三匹目。小さな魔獣たちは、びくびくと震えながらも魔王のブーツの先へ鼻先を寄せ、撒かれた粒を、かりかりとついばみ始めた。


風が止んだ、と思った。噴水のせせらぎも、遠くのジョウロの音も、すべてが息を潜めたようだった。


「…………まあ」


最初に声を漏らしたのは、いつも飄々としたステラだった。目を見開き、開いた口を手のひらでそっと覆っている。ネルに至っては、取り落としかけたバスケットを抱えたまま、顎が外れそうなほど口を開けて固まっていた。


そして、誰よりも驚いているのは、ヴェルラウトだった。


彼は中腰のまま、信じられないものを見る目で自分の足元を見つめていた。足の下で世界がひっくり返った、とでもいうように。


魔界では、きっと、ありえない光景なのだろう。


けれど、未亜には少しも不思議ではなかった。この人が小さな命を傷つけたりしないことを、未亜は知っている。それが彼らに伝わりさえすれば、あとは当たり前のことが起きるだけだった。


足元の餌がなくなると、ウサギたちは彼のブーツの先を前足でかりかりと引っかいて、おかわりをねだり始めた。

その図々しさに、未亜はくすりと笑う。


「魔王さん、両手を出していただけますか? 手のひらを上にして」

「……何をする気だ」


訝しげに眉を寄せながらも、彼は逆らわなかった。腰を浮かせた不自然な姿勢のまま、持て余したように大きな両手を差し出す。


未亜は、その手のひらをじっと見つめた。


包丁で切った細い線も、赤く爛れていた火傷の跡も、もうどこにも残っていない。


(……治ったんだ)


胸の奥で固く結んでいた何かが、ほどけた。気づかれないよう、未亜は小さく安堵の息をつく。


それから、残っていた餌を、彼の手のひらにそっと乗せた。


「座ってください。落とさないように、ゆっくり、慎重に」


ヴェルラウトは一瞬ためらうように未亜を見て、それから、割れ物を運ぶような手つきで腰を下ろした。

手のひらを水平に保ったまま、肩に妙な力を入れて、ぎこちなく。魔界の頂点に立つ王が、ひとつかみの餌を前にこれほど真剣な顔をしているのが、どこか愛おしかった。


未亜は、自分の手のひらにも数粒を残していた。それをお手本のように、そっと前へ差し出してみせる。


「こうやって、手を差し出すんです」

「俺がやっても、こいつらは食わん」


ヴェルラウトは眉間に皺を寄せ、期待に満ちた視線から逃げるように顔を背けた。


「やってみないと、分かりませんよ」


「おいで」と未亜が手招きすると、彼は何か言いたげに唇を動かし、結局、観念したように小さく息を吐いた。断りきれない、という顔だった。仕方なさそうに、餌を載せた手をウサギたちのほうへ差し出す。


その瞬間だった。


水晶角ウサギたちが、びくっと身体を強張らせた。耳がぺたりと伏せられ、三匹とも弾かれたように後ずさる。ちょこちょこと未亜の背後へ駆け込み、ドレスの裾の影で身を寄せ合って隠れてしまった。


「……ハッ」


ヴェルラウトが、鼻から短く息を漏らした。


ほらな、と言わんばかりの笑いだった。そこには、慣れきった諦めが滲んでいた。

けれど、未亜は諦めなかった。自分の手のひらに残っていた餌を、迷いなく、彼の手のひらへ移す。


熱を出して倒れ、彼のいない時間の中で、未亜は知ったことがあった。


この魔界で、人間の身体はあまりにも脆く弱いこと。そして、この魔王には、誰かのために両手を傷だらけにして、不恰好なスープを作ってしまう優しさがあること。

もっと前から、気づいていたのかもしれない。命を奪ってしまった魔獣のために、不慣れな手つきで祈りを捧げてくれた、あの姿に。


魔界は怖い。魔王も、怖い。それは今も変わらない。


けれど、それだけではなかった。一年の約束を交わしてから、彼の隣で過ごした日々の中で、未亜は少しずつ、そのことを知り始めていた。


「ほら、食べたいでしょう? 私の分は全部、魔王さんにあげちゃったから、もうないのよ」


困ったように笑って、未亜はドレスの陰で丸まった三つのお尻を、指先でそっと前へ押し出した。


けれど、小さな魔獣たちは戸惑うばかりだった。つぶらな瞳で、未亜と、彼の手のひらの餌とを、何度も何度も見比べている。


ヴェルラウトの視線が、ゆっくりと下がっていく。差し出した手を、引っ込めようとしている。


その指先が動く前に、未亜は、ウサギたちの背中にそっと手を添えて囁いた。


「大丈夫よ。この人は、怪物なんかじゃないの」


隣で、空気が止まった。


「近づいても、怖いことなんてないわ。……ただ、見た目がちょっと、恐ろしいだけで」


差し出された手のひらが、ぴくりと跳ねた。続いて、粒を載せた指先が、堪えきれないように細かく震え始める。粒がひとつこぼれ落ちそうになり、彼は慌てて握り込みかけて、はっと思い直したように、またぎこちなく開いた。


彼の顔は、見てはいけない気がした。見てしまえば、この人はまた目を伏せて、顔を背けてしまうだろう。


視界の端で、彼の喉が一度だけ、ゆっくりと上下した。


『怪物』


その言葉を、彼がどんな顔で受け止めてきたのか。未亜は、知らない。

けれど、ステラもネルも、きっと心のどこかで、魔王のことを怪物だと思っていることを、未亜はもう知ってしまった。

 

そして、未亜もまた、そう思っていた。


今も、怖くないと言えば嘘になる。出会ったあの日の恐怖は、まだ指先に染みついている。彼は、恐ろしい魔獣を片手で葬ってしまえるほどに強い。だから、怖くない、とは思わない。思えるはずがない。


それでも、心のない怪物ではない。

それだけは、今の未亜にとって、揺るぎない真実だった。


ウサギの一匹が、ドレスの陰から、そろりと鼻先を伸ばした。


言葉が通じたのか、それとも、ただ匂いに負けただけなのか。未亜には分からない。けれど、小さな身体はおずおずと、確かに彼の手のひらへ近づいていく。

前足が、手のひらの縁に触れた。


そして——かり、と餌をかじった。


二匹目が続き、三匹目も続く。やがて三匹は、頭を寄せ合うようにして、魔王の手のひらに夢中になった。


ヴェルラウトは、息を殺していた。瞬きすら忘れて、自分の手の上に集まった小さな命を見つめている。ほんの少しでも動けば消えてしまう夢を見ているかのように、身じろぎひとつしない。かりかり、と小さな歯の音がするたび、大きな肩がかすかに震えた。


未亜は、その横顔を静かに見つめ、柔らかく微笑んだ。


「ね、美味しいでしょう?」


ウサギに向けた言葉のふりをして、けれど本当は、隣に座る人に向けた言葉だった。


「魔王さんがくれるものは、優しい味がするのよ」


あの夜のスープを、未亜は忘れていない。


味はほとんどなく、焦げた具材と生煮えの具材が同居していた。それでも、あの不恰好な一杯には、彼が傷だらけの手で自分のために作ってくれたという、確かな温もりがあった。


その感謝を、ウサギたちへの言葉の中に、そっと忍ばせる。


彼に、ちゃんと届いただろうか。


視線を上げると、ちょうど琥珀色の瞳がこちらを向いたところだった。視線が重なる。

 

息を呑む気配がした。いつも鋭く細められている瞳が、かすかに見開かれて、揺れている。そして、アッシュグレーの頬に、ほんのわずか、けれど確かな赤みが差していた。


ふと気づけば、魔界の空は、いつの間にかゆっくりと茜色に染まり始めていた。白銀の薔薇も、噴水の水面も、淡い夕映えの色に縁取られている。毒々しい紫や黒ばかりだと思っていた魔界の空に、こんなに優しい色があったなんて。


もうすぐ、魔界の夜が来る。


その赤が彼の頬の色なのか、空の色なのか、未亜にはもう、分からなかった。


未亜は視線を戻し、少しだけ悪戯っぽく、けれどたしかな感謝を込めて微笑んだ。

言葉にはしなかった。けれど、その笑みのすべてが、伝わればいいと思った。


空っぽになった大きな手のひらの上で、おかわりを求めた一匹が、彼の指先を鼻先で無遠慮につついた。


黒く硬い爪が、怯えるように微かに揺れた。

けれど、太い指が、その図々しくも愛らしい鼻先を、遠慮がちに撫でた気がした。

確かめようと顔を上げかけて、やめた。見間違いではなかったと、信じていたかったから。 

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