第25話 番外編 魔王様の愛情、火力最大につき
時計の針を、数時間前へと遡る——未亜が寝室でひとり静かに微睡みの中へと落ちていた、その頃。
中央主塔の地下に位置する、魔王城の大厨房。
ちょうど夕食の膨大な仕込みを始めるため、下働きから上級料理人まで、数十名が集まっていたその広大な空間は、未だかつてない異常事態に、異様な緊迫感と戸惑いに包まれていた。
「おい、冗談だろ……? なんであのお方がここに……」
「しっ、声を落とせ! お怒りに触れたら命がないぞ……っ」
本来であれば、包丁の乾いた音や鍋の煮立つ湯気が活気よく響き渡っているはずだった。
しかし今、作業台を取り囲む料理人たちは手元を完全に止めている。ひそひそと交わされる会話の合間にも、コックたちの視線は一点に注がれていた。
調理台の前に佇む一人の男。黒大理石の台を前に、腕を組んで仁王立ちしているのは、魔王ヴェルラウトだった。
数百年にわたる歴史の中、この城の最深部で命令を下すのみだった絶対君主が、なぜか自ら厨房へと足を踏み入れ、禍々しい殺気を漂わせながら食材を見つめているのだ。
壁際にずらりと居並ぶ、執事長のガルム、侍女のステラとネル。そして魔王直属の側近兵達によって続々と運び込まれてくる高級食材や珍味の品々——。
この異常事態に、料理人たちは狼狽えるばかりだった。
平伏すべきか、立ち去るべきか、それともいつも通り包丁を握るべきか。指示を出してくれるはずの総料理長がまだ現れない厨房で、命の危険すら感じる圧迫感に怯え、あわあわと固まることしかできない。
そんな中、いち早く動いたのは、仕込み担当の小柄なフラーマだった。
「お、俺、グラン親分を呼んできますっ!
——お頭ーっ! 大変だぁーっ! 早く来てくださいーっ!!」
彼は丸っこい身体を弾ませ、脱兎のごとく厨房を飛び出していった。
彼の悲鳴のような声を背に受けながら、副料理長のチェルシが、ようやくハッとする。けれどまだ、ふさふさの狐耳は不安げに寝かされたまま、ビクビクと震えていた。
「ど、どういうことですか……!?ガルム執事長……!一体全体、何が起きているのですか……!? 陛下が何故このような場所に……!?」
意を決したチェルシが、ふさふさの尻尾を恐怖で逆立てながらも、壁際に控える老執事長ガルムへ、必死に訊ねた。
だが、ガルムは黒檀の杖を硬い音で突くだけで、不快そうに視線を逸らした。彼は、恐ろしい魔王城を統べる我が主が、たかが一人の無力な人間の小娘のために自ら料理をするなど、滑稽であり、何より忌々しくて仕方がなかったのだ。
調理台の上には、魔王の直属の側近たちが魔界中から急ぎかき集めてきた珍奇な食材が、山のように積み上げられていた。
魔王の欲するものは、簡潔でありながら、料理人たちにはあまりにも難解だった。
『人間界のスープに入っていそうなものを持って来い』というあまりにも曖昧な命令。
初代魔王が張った結界によって断絶された人間界の情報は、古代の古文書に僅かに記されているのみ。途方に暮れた配下たちが、少ない手がかりをもとに解釈の限界まで知恵を絞り、必死の思いで運び込んだ品々だった。
竜の肉片、発光するキノコ、極彩色の深海魚。
それに加え、配下たちが「人間界のスープとは何か」を必死に考え抜いた末の、混迷を極めた品々も混ざっている。
人間界の「薬膳」の記述から着想を得たという、怪しく乾いた「千年乾燥トカゲの丸焼き」。
「温かな汁物には油脂が浮いている」という文献を誤解して持ち込まれた「黄金の魔獣油脂ブロック」。
さらには「人間は果実の水分を好む」という理由で拾い集められた、毒々しく甘い香りを放つ「紫斑の蜜桃」。
配下たちの必死な迷走ぶりが窺える食材の山を前に、ヴェルラウトは腕を組み、琥珀ゴールドの瞳を極限まで鋭く光らせていた。
一つ一つ不器用に持ち上げては、難しい顔で吟味する。けれど、未亜から「温かいスープが好きだ」という言葉しか聞いていない彼に、どれが『未亜の好む人間界のスープ』にふさわしいのかなど分かるはずもない。
「……おい、ガルム。どれを選べばいいのだ」
ヴェルラウトが苛立ちを隠さずに問いかけたのは、背後に佇むガルムだった。
幼少期よりヴェルラウトを庇護し、時には父親のごとき厳しさと深い忠誠をもって彼を育て上げた老執事。それは、世界で唯一、弱音や無知を晒せる相手への無意識の依存だった。
だが、ガルムの返答は冷ややかなものだった。
「……どれでも宜しいのではございませんか。何を使おうと、人間の小娘には贅沢すぎる代物。紫の毒キノコでも煮込んで飲ませておけば、そのうち静かになりましょう」
投げやりで、明確な悪意を孕んだ言葉。未亜の体調などどうでもよく、むしろこの機会に死んでしまえばいいとすら思っているのが透けて見える答えだった。
「……ふざけているのか、ガルム」
ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳に凄まじい殺気が宿り、室内を一瞬で氷点下へと叩き落とす魔圧が爆ぜた。ガルムは冷徹な面持ちのまま、ただ深く頭を垂れる。
空気が破滅へと傾きかけたその瞬間、壁際に控えていた侍女のステラが、すかさず一歩前に出た。
「陛下! 恐れながら……」
ヴェルラウトの鋭い視線がステラを射抜いたが、彼女は意を決して言葉を繋いだ。
「普段、ミア様のお食事の様子を拝見しておりますと、黒や紫といった暗い色のものを避けておられるように見受けられました。……明るい色味のものをお選びになってはいかがでしょうか」
命がけの助言だった。ガルムの悪意に満ちた言葉に比べ、毎日未亜のそばでその挙動を観察してきた侍女の言葉には、確かな説得力があった。
「あ、あと白だ!! ミア様は白いパンが好きだから、白いものも絶対好きだぞ!」
すかさず口を挟んだのはネルだった。人差し指をピンと立て、自分もまた未亜の食事風景を欠かさず見つめていたのだと胸を張る。
だが、出しゃばった部下に向けるステラの射るような視線に気づいた瞬間、ネルはハッとして顔を青くした。
「……で、ございますっ!」
今回もまた、ネルは、今さら何の意味もない敬語を取り繕うように付け足した。
「ミアが白が好きなことくらい、俺も知っている」
魔王に、不敬と切り捨てられても不思議ではない侍女たちのやり取りだったが、ヴェルラウトはひとこと言い返すだけで、すぐさま目の前の食材の山へと視線を戻した。
自分自身は未亜の顔ばかりを見つめ、料理の色彩に怯える彼女の小さな変化に気づいてやれなかった。けれど、パンを好む彼女の癖だけは、ヴェルラウトも確かに知っていた。
「明るい色、そして白か……」
彼は袖を捲り上げると、積まれた食材の山へと豪快に手を突っ込んだ。山が崩れ、高級な珍味や魔獣の部位が床へ転がり落ちるのも構わず、真剣な眼差しで「明るい色彩のもの」を探し求める。
そして探し出したのは、鮮やかなオレンジ色をした根菜と、綺麗な緑色の小さな房を持つ野菜。さらに、ネルが誇らしげに語った言葉を拾い上げ、白くて丸い芋っぽい塊を掴み取った。
「……よし」
食材は揃った。
「それで、どうすればいいのだ。このまま鍋に入れるのか」
そう言うなり、ヴェルラウトは選んだ食材を、まだ水も張られていない空の鍋へと丸ごと豪快に投げ入れた。
ドスン、と乾いた重い音が鍋の底から響く。
工程を進められたことに満足したのか、彼の表情に僅かな誇らしさが浮かぶ。そして、そのまま、腕組みをして完成を待つかのように鍋を見つめる。
だが、生の野菜を洗うことも切ることもせず、空の鍋に投げ入れただけでスープができるはずもない。
「ふ……ぶっ!」
あまりにも破天荒な料理に、後ろで控えていたネルが思わず吹き出した。
その瞬間、ネルの脚に激痛が走る。ステラの鋭い鳥足の爪が、容赦なくネルの足甲を力強く踏みつけた。
「い……っ……っ!」
爪が肉に食い込む鈍い痛みに、ネルは涙目になりながらも必死に両手で口を塞ぎ、悲鳴を押し殺す。
水ひとつ入っていない大鍋の中で、丸ごとの野菜が無造作に転がっている。
そして、その前で満足げな魔王。周囲には、青ざめるコックたち。
そんな収拾のつかない混乱の渦中へ、重厚な扉が豪快に押し開かれた。
「ガハハハハ! 陛下が厨房に乗り込んで来られたと聞いて飛んできましたぞ!!」
厨房の空気を一変させる大音響とともに姿を現したのは、この大厨房を束ねる巨鬼族の総料理長——コック帽を頭にちょこんと乗せたグランだった。
その後ろから、ゼィゼィと息を切らしたフラーマが転がり込んでくる。
魔王城の威厳と、不器用すぎる愛が交錯する大厨房に、さらなる嵐の予感が吹き荒れようとしていた。
グランの豪快な登場によって、緊迫した大厨房はいつも通りの活気を取り戻す——はずだった。しかし現実は、ただ事態をさらなる混沌の渦へと呑み込まれていっただけだった。
「……っ、ふぅ……っ、ふぅ……っ」
副料理長のチェルシは、ふさふさのキツネ耳をぺたりと倒し、まな板の脇で生気を失ったように手を震わせていた。野菜を洗い、まな板に並べるだけの単純な作業のはずなのに、指先が生まれたての小鹿のように震えている。
原因は、すぐ隣で包丁を握りしめ、無言の圧を放っている、この世界の絶対君主だった。
ヴェルラウトがそのアッシュグレーの右手に握っているのは、とても野菜を刻むためのものとは思えない、巨大な肉切り用の出刃包丁だった。分厚く重厚な黒鉄の刃。調理場という平和な空間にありながら、仁王立ちでそれを構える魔王の姿は、まるで目の前の敵を冷酷に葬ろうとする戦場の残虐な一幕にしか見えない。
あまりの威圧感に、だれ一人として「陛下、その包丁は用途が違います」などと指摘できる猛者はいなかった。
「ふむ……」
ヴェルラウトが短く低く唸り、太い腕を頭上高く振り上げる。
「ひっ……!?」
悲鳴にも似た声が、厨房のあちこちから漏れた。
次の瞬間、雷鳴のような破撃音とともに、黒鉄の刃が木製の大きなまな板へと力任せに振り下ろされた。
ドガァンッ!!
厨房全体を揺らすような爆音とともに、鮮やかなオレンジ色をした野菜が、木っ端微塵に粉砕されて周囲へ飛び散る。ヴェルラウトは眉ひとつ動かさず、再び包丁を高く掲げ、躊躇いなく何度も何度も振り下ろした。
ドッ! ガン! ドガッ!!
広大な木のまな板の上には、オレンジ、緑、白の野菜だったものの残骸が散乱していった。
親指ほどの塊から、擦り潰されたような微細な破片まで。魔王に見つかってしまった哀れな野菜たちは、不揃いにもほどがある凄惨な姿へと変わり果てていた。
「あの……っ、陛下! もう少し力を抜いて、大きさを揃えるように切っていただけますと……火の通りが均一に……っ」
あまりの有様に見かねたチェルシが、恐る恐る助言を口にするが、真剣そのものの魔王の耳には届かない。
それもそのはず、ヴェルラウトをここまで調子に乗らせている元凶は、すぐ後ろで見守る総料理長のグランだった。
「ガハハハハ! 良いぞ良いぞ、見事な気合いだ!! 料理は心意気! おのれの全霊を刃に込めるその想い……! これぞ料理に必要な“情熱”でございます!」
グランが丸太のような腕で自分の胸を叩き、豪快に絶賛する。さらに、その弟子であるフラーマまでが角からパチパチと火の粉を散らし、目を輝かせて乗っかった。
「おぉーっ! 陛下の包丁捌き、ダイナミックでめちゃくちゃ格好いいっす!!」
「そうだろ! 男の料理はこうでなくっちゃな!!」
師弟そろって煽り散らかす声に、ヴェルラウトは「ふむ、これで良いのだな」とばかりに自信を深め、野菜が粉々になるたび、どこか誇らしげに胸を張ってみせるのだった。
そして、事件は起こった。
チェルシが震える手で、次の白い塊をまな板へ差し出した瞬間と、ヴェルラウトが無心で包丁を叩きつけたタイミングが、完全に重なったのだ。
ドガァン!!
「——きゃあああああああああっ!!??」
厨房に響き渡ったのは、普段の落ち着いた低い声からは想像もつかない、甲高い悲鳴だった。
振り下ろされた巨大な刃が突き刺さったのは、チェルシの手のひらからミリ単位の距離——まな板の木肌だった。巨大な刃がまな板に深々と食い込み、木の板が衝撃に耐えかねて大きく跳ねた。
「ぷっ……あははっ!」
壁際で見守っていたネルが、男であるチェルシから出たあまりに可愛い悲鳴に耐えきれず、思わず吹いた。傍らのステラに肘で小突かれるが、笑いが止まらない。
だが、当のチェルシにとっては死活問題だった。あとほんの少し何かがずれていれば、料理人にとって命の次に大切な右腕が手首から飛んでいたのだ。
顔面蒼白になり、腰を抜かして床に崩れ落ちたチェルシは、泣きそうになりながら、右手首が無事であることを、震える左手で何度も確かめた。
(つ、繋がってる……っ! 手首、切れてない……っ!? 神様、あぁ神様……!助かった……っ!!)
ヴェルラウトは突き刺さった包丁を引き抜くと、床で尻もちをつき震える副料理長をチラリと見下ろし、不快そうに片眉を上げた。ほんの一瞬、己の怪力さゆえに配下を本気で怯えさせてしまったことに、琥珀ゴールドの目が泳いだ。「やりすぎたか」という微かな気まずさを抱いたものの、そんな殊勝な言葉を口にするような魔王ではなかった。
「……俺が刃を落とす場所に、ぬけぬけと手を出すお前が悪い。料理人としての手を失いたくなければ、今後は間合いに気をつけろ」
ヴェルラウトはぶっきらぼうに言い捨て、フンと鼻で息を吐いた。
包丁が振り下ろされた瞬間、まな板の上に差し出されたチェルシの手に気づいたヴェルラウトは、ほんのわずかに刃の角度をずらし、直前で軌道を変えていた。
だが、パニックに陥っているチェルシが知る由もない。
(はぁあああッ!? 俺が悪いのか!? 今の絶対に俺のせいじゃないだろうが!! 殺す気か、この脳筋魔王ーーっ!!)
チェルシは心の中では狂ったように激しい罵倒が渦巻いていたが、直面した死の恐怖と、魔王への圧倒的な畏怖の前に、声など出せるはずもなかった。
「……へ、陛下……。私の手は……野菜では、ございません……。包丁を使われる際は……どうか周囲へのご配慮を……っ」
床にへたり込んだまま、涙目になったチェルシがようやく絞り出したのは、蚊の泣くような弱々しい懇願だった。
「俺に切り刻まれたくなければ、周囲が勝手に警戒すれば良いだけの話だ」
どこまでも横暴な魔王の言葉に、チェルシは天を仰いだ。
その後も、魔王の振る舞いが急に改まるはずもなく、もはや料理ではなく惨劇と呼ぶにふさわしい『食材殺戮ショー』が淡々と繰り広げられた。
やがて、次の工程——「煮込み」へと移る。
巨大な寸胴鍋を前に、火調担当のリーダーであるフラーマが、ここぞとばかりに腕を鳴らして前に出た。
「火加減の調整なら任せてくださいっす、陛下! 俺の炎角で最高の火力を——」
「……不要だ」
ヴェルラウトの冷たく短い拒絶が、フラーマの言葉を遮った。
「え……?」
「手出しは一切許さん。すっ込んでいろ」
「えっ……ですが、スープの煮込みには絶妙な火の通し方が——」
「よいと言っている」
一切の手出しを拒絶する強い眼差しに、誰もがそれ以上言葉を挟めなくなってしまう。
道具を揃えさせ、教えを乞うところまでは許しても、実際に煮込み、仕上げる工程だけは、絶対に自分ひとりの手でやり遂げなければならない。
まるで、何かに取り憑かれたかのように、ヴェルラウトは誰一人として、鍋に近づくことすら許さなかった。
(俺が……俺自身がやらねば、意味がないのだ……)
なぜ、魔王は、これほどまでに配下の手を借りることを嫌がるのか。
不器用な手で鍋の取っ手を握りしめる魔王の胸の内を、この厨房にいる誰ひとりとして知らなかった。
ただ栄養を補給させるためだけなら、総料理長のグランや、東の塔の専属料理長に作らせた方が、遥かに手際よく、美味しく栄養も十分なスープが完成しただろう。いつもなら、彼もそう命じていたはずだ。
だが、今回ばかりは、ヴェルラウトは、どうしても己の手で作り上げなければならなかったのだ。
これは——言葉にできない、未亜への「謝罪」だった。
一年間、自分の側にいてくれると誓ってくれたあの夜。
朝の些細な挨拶に、可憐な微笑みに、自分に添えられた温かな手に、ヴェルラウトは狂おしいほどの救いと幸福を感じていた。
だが、それらすべてが、己という恐怖の象徴から命を守るための、未亜の健気で悲痛な「嘘」だったのではないか。
そう思い知らされたヴェルラウトには、かつての幸福を信じ続けることなど、もうできなかった。
彼女の幸せだけを願っていたはずなのに。
この世界で一番、彼女を暗闇へと追い詰め、恐怖で締め上げていたのは、他の誰でもない自分だったのだ。
「すまなかった」と頭を下げて謝罪したところで、か弱い彼女は再び「恐ろしい怪物」の前で身を縮こまらせ、「お気になさらないでください」と無理をして笑うのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。これまでの全てを思い返せば、ヴェルラウトには、そうとしか思えなかった。
だからこそ。
どれほど独りよがりな自己満足で、歪で不格好な愛情の押し付けであったとしても、己の手で、無様になってもがきながら、想いを込めた一皿を差し出す。それ以外に、数百年もの孤独に生きてきた魔王には、愛しい者への償う術を知らなかったのだ。
そんな魔王の健気で不器用な覚悟など、この場にいる誰も知る由もない。
そして、ついに大鍋に水が張られ、煮込みの工程が始まると、ガルムや侍女たち、そしてコックたちが恐れていた通り、厨房は惨劇と化していった。
火事だ。紛れもない大惨事の火災であった。
大厨房のコンロには、調理者が魔力を注ぎ込むことで火力を調節する魔術仕掛けが施されており、普段ならば職人たちが繊細な魔力操作で火加減を調節し、至高の料理を生み出している。
しかし、料理の基礎も火加減という概念も持ち合わせぬヴェルラウトにあるのは、愛する未亜のために至高のスープを作り上げるという「情熱」のみ。
その強すぎる想いに応えるかのように、ヴェルラウトは魔界最強の魔力を惜しみなくコンロへと注ぎ込んだ。その結果、火力は際限なく上昇してしまった。
「——ぬおおっ!?」
次の瞬間、大厨房の天井に届かんばかりの荒々しい火柱が吹き上がった。
巨大な寸胴鍋が紅蓮の炎に飲み込まれ、熱風が吹き荒れる。コックたちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
その地獄絵図のような惨状の中で、グランだけが腕を組み、満足そうに腹から笑い声を響かせた。
「ガハハハハ! さすがは魔王陛下だ!! ここまで激しい『情熱』を宿した火は見たことがねぇ!!」
「グラン料理長!! 陛下を煽らないでくださいっ!!」
副料理長のチェルシがキツネ耳を逆立てて悲鳴を上げる。
「あああっ、親分が褒めるからまた火が強くなって……!!」
チェルシが、濡らしたタオルを半狂乱で振り回し、炎と格闘を始めた。
「あ、あわわ……っ! 火が強すぎて、俺たちの調理台が……鍋まで真っ赤に焼けていくっす!!」
さすがにお調子者のフラーマも、自分の仕込み場が炎に包まれて溶け落ちていく光景には青ざめて絶叫した。
「気合い」をモットーとする総料理長グランも、さすがに城の大厨房が全焼しては困ると思ったのか、ここで初めてヴェルラウトへ「火加減」という基本概念を助言した。
しかし、普段から弟子たちの自主性を重んじる放任主義のグランは、最低限の助言と、厨房の崩壊を防ぐ手助けをした程度で、あとはやはり魔王の「情熱」に任せて見守る姿勢を崩さない。
それからも地獄のような破天荒な調理は続いた。
炎が暴れ出せば「熱すぎるなら冷やせばよかろう」と、ヴェルラウトはどこからかガルムに持って来させた巨大な氷塊を豪快に大鍋へと叩き込んだ。凄まじい轟音とともに白い蒸気が噴き上がり、厨房を埋め尽くす。コックたちが一斉に悲鳴を上げ、飛び散った氷の破片が、退避の遅れたガルムの額を直撃した。老執事長は無言で額を押さえたが、主君に苦言を呈する気力は、とうに尽き果てていた。
その傍らで、魔王だけは満足げに鍋の中を覗き込んでいた。
そんな奇行の限りを尽くした調理の末——奇跡的に、黄金色のそれらしいスープが完成した。
城で最も高級とされる真っ白な磁器の器に、ヴェルラウトは出来上がったスープを注ぐ。野菜を木っ端微塵に破壊していた先刻の荒々しさとは打って変わり、壊れものを扱うように丁寧で、どこか愛おしげな手つきだった。
「お前たちはついてくるな。俺が良いと言うまで、侍女であっても王妃の間へ足を踏み入れることは許さん」
立ち昇る湯気を抱えるようにトレイを持ち上げると、ヴェルラウトはガルムやステラたちにそう命じ、一人で厨房を後にした。その背中には、これから初恋の相手に告白をしにいく少年のような、かすかな緊張が揺らめいていた。
魔王の威圧的な影が消え去った瞬間、大厨房に一斉に安堵の溜め息が漏れた。
「……た、助かった……」
「終わった……、のか……」
「生きてる……、俺、生きてるよな……?」
数名のコックたちが、脱力して次々と床へ倒れ込んでいく。ようやく生きた心地を取り戻した彼らが腰を抜かす中、侍女のネルだけが目を輝かせて動き出した。
「あっ、お待ちなさいネル!」
制止しようとするステラを振り切り、ネルは犬のように鼻を鳴らしながら、先刻までヴェルラウトが立っていた鍋の前へと駆け寄った。
「なぁステラ! これ、鍋に残ってるやつは誰も飲まないんだろ? じゃあさ、僕がもらってもいいよねっ!?」
くるりと振り向き、ネルはニパッと満面の笑みを浮かべた。
「良いわけがないでしょう! それは陛下がミア様の為にお作りになったものですよ。万が一、ミア様がお気に召されて、おかわりを望まれたらどうするのです。きちんと残しておきなさい!」
ステラが眉をひそめて叱り飛ばした。
子どものように駄々をこねるネルと、母親のように厳しく叱るステラ。そのやり取りを、老執事長ガルムは「くだらん」と言いたげに鼻で小さく鳴らした。この茶番に付き合う気はないとばかりに、黒檀の杖を突いてさっさと厨房を立ち去っていく。
だが、一度好奇心に火がついたネルは引き下がらない。
「えぇーっ! だってちょっとだけだよ? ほんのひとさじ! どうせバレやしないってば!」
命知らずなネルの主張に、チェルシが「正気かお前……」と引き攣った顔で見つめる。関わり合いを恐れたコックたちはそそくさと侍女たちから距離を置き、ようやく平穏を取り戻した自分たちの戦場で、遅れていた夕食の仕込みへと取りかかり始める。
「そういう問題では……っ」
「いいじゃんかー! 人間界のスープなんて、僕、生まれて初めて見たんだよ!? ちょっとだけでいいから飲んでみたいんだってばー!」
尾を左右にぶんぶんと振り、子どものように必死におねだりするネル。その子どもっぽい仕草に、ステラは深く溜め息を吐いた。
だが、ステラ自身も、好奇心は人一倍強い。人間界のスープがどのような味わいなのか、知りたいという欲求がないわけではない。
「……一口だけですよ。本当に、一口だけです」
諦めたように呟きながらも、ステラは、誰にも見られないよう周囲を気にしながら、ちゃっかり自分とネルの分の小皿を用意した。
鍋に残された黄金色の液体と不格好な具材をすくい分ける。
二人は顔を見合わせ、同時に小皿を口元へ運ぶ。
——そして、二人の動きがピタリと凍りついた。
味が、しない。
そういえば魔王は、調味料で味を整えるという工程を一切行っていなかった。グランは素材の旨味が引き出されると考えていたのかもしれないが、ヴェルラウトの調理はそんな次元にすら達していなかったのだ。ただ豪快に火で炙り、熱すぎたからと氷で急冷しただけ。その乱暴な工程のせいで、野菜は表面が煮崩れたり焦げたりしている一方、芯は生煮えのまま硬く残っていた。
「……ねぇ、ステラ。人間界のスープって、こんなに不味いの……? 僕、魔界に生まれて本当によかった……」
小皿を握りしめたままのネルの沈んだ声には、人間たちへの心の底からの同情が滲んでいた。
ステラは無言でネルを一瞥すると、手元の小皿に残された不気味な液体をじっと見つめ直した。
人間界のスープそのものが不味いのか。それとも、主である魔王の料理の腕が壊滅的だったのか。
ステラは直前の凄絶な料理工程を脳裏で思い返した。出される答えは、火を見るよりも明らかだった。
「……これはスープではありません。お湯の中に野菜の残骸を放り込んで、痛めつけた何かです」
ステラの容赦のない呟きは、早速料理を始めて大きなフライパンを振っていたグランの耳に届いた。
巨漢の総料理長は、豪快な笑い声を響かせる。
「ガハハハ! 問題ねぇさ! 料理ってのは『心意気』だ! 陛下のあの熱いお気持ちは、しっかり人間のお嬢ちゃんにも届くだろうよ!!」
ステラには、とてもそうは思えなかった。
スープによる栄養補給が望めないとなれば、せめて点滴で補うしかない。
「……アスクレス様に、ミア様の点滴をより強力な栄養剤に変えていただくよう手配いたします」
ステラは不気味な小皿を下げ、ネルを引きずるようにして大厨房を後にした。
そうして、ヴェルラウトが『王妃の間』から出てきたのは、それから数時間後のことだった——。
薄暗い静寂が満ちる長大な廊下。
風のように颯爽と去っていった魔王の背中を見送り、廊下の奥へと消えたことを確認したネルが、呆然とした顔でぽつりと呟いた。
「ね、ねぇ……ステラ。ミア様、マジで……あのクソ不味……あ、違った、えーっと……お味が、その、大変よろしくあらせられないスープを……本当に全部、召し上がられたのか……?」
丁寧語を取り繕おうとして、ネルの言葉遣いは余計におかしな表現になっている。けれど、ステラはそれを指摘して直してやる余裕はなかった。
彼女はネルの手元にある「完璧に空となった白磁の器」と、重厚な王妃の間の白銀の扉を、信じられない心地で交互に見やった。
そして、静かに、けれど固い決意を込めて口を開いた。
「……すぐにアスクレス様をお呼びしましょう。腹痛のお薬の処方も必要です。ミア様がお腹を壊されているかもしれません」
か弱すぎて倒れた人間が、ネルですら一口で悶絶したあの「痛めつけられた何か」を完食したという恐怖。未亜の身体を本気で案じ、真顔で頷き合うステラとネルであったが——。
ネルの手元にある、スープ一滴すら残っていない白磁の器。それこそが、「気持ちは届く」と言い切った、あの豪快な総料理長の言葉が正しかったことの、何よりの証明であった。




