第25話 届いたスープ
ベッド脇の椅子に腰掛け、ベッドへ上半身を預けていたヴェルラウトの長い睫毛が、微かに揺れた。
静かに瞼を開くと、目の前には薄暗い寝室が広がっていた。
いつの間にか眠り込んでいたことに気づき、ヴェルラウトは眉根を寄せた。
スープを数口飲ませた後、ベッド脇の椅子に腰掛けたまま、ただ静かに彼女の寝顔を見守っていたはずだった。悪夢に魘されてはいないか、息苦しそうにしてはいないかと案じていたはずが、不覚にも我を忘れて微睡みに落ちてしまっていたらしい。
己の油断に苦々しさを覚えつつ、ヴェルラウトはすぐさま身体を起こし、ベッドの上へと視線を走らせた。
そこには、変わらず可憐であどけない未亜の寝顔があった。
けれど、あまりにも静かで動かないその姿は、一瞬、本当に息絶えてしまったのではないかという恐ろしい考えを抱かせる。
ヴェルラウトは身を乗り出し、胸元に掛けられた柔らかい羽毛の動きに目を凝らした。
羽毛が静かに、けれど規則正しく上下している。それを確認し、ヴェルラウトはようやく安堵の息を吐いた。
(……大丈夫だ。生きている……)
胸を撫で下ろしながら、ヴェルラウトは指先をそっと伸ばし、未亜の柔らかい頬へと触れた。
指先に返ってきたのは、火のように熱かった先刻とは異なる、じんわりとした控えめな温もりだった。まだ平熱よりは少し高いが、恐ろしい高熱は引いている。
安堵の吐息が、自然と口から漏れ出た。
本当は、このまま彼女が目覚めるまで傍らに留まりたかった。
長い睫毛が揺れ、その可憐な瞳が開いた瞬間、彼女が一番最初に眼にするのが自分であればいいのに。そして、彼女の声を聞き、その手に触れて、もう大丈夫だと、安心させてあげたい。
けれど——ヴェルラウトの耳の奥には、アスクレスの容赦のない言葉が、冷たくへばりついて離れなかった。
『恐ろしい怪物の傍らで、いつ殺されるか分からぬ恐怖に、毎日生きた心地もなく過ごされていたのかもしれませんね。死に瀕するほどのストレスを抱えて』
未亜の衰弱した身体が突きつけてきた、動かしようのない『事実』。
主治医が言い放った『恐ろしい怪物』が誰を指しているのかなど、問い直すまでもなかった。
(怪物の俺がここにいては……お前はまた、苦しみ、倒れてしまうのか……?)
穏やかな寝顔を見つめる琥珀ゴールドの瞳が、悲痛に揺れる。
愛おしくて仕方のなかった控えめな微笑みも、蚊の鳴くような可憐な挨拶も、守っているつもりで抱きしめれば、拒絶せずに身を委ねてくれた柔らかい身体も。
すべては、彼女が己の命を守るために必死で繕っていた「嘘」だった。
(なぁ、ミア。あんなに楽しそうに、俺の隣で花を摘んでいたではないか…)
心のどこかでまだ、アスクレスの言葉を信じられない自分がいる。
それでも、主治医の診断は正しかったのだと、倒れた原因が疲労だと聞いて、静かに受け入れた未亜の姿に、残酷なまでに突きつけられてしまったではないか。
ヴェルラウトが無意識に握りしめた拳が、微かに震えていた。
けれど、どうすればいいというのか。
ヴェルラウトはすでに、彼女のその健気で痛々しい「嘘」すらも、たまらなく愛おしくなってしまっているというのに。
未亜が大切だ。この世界のいかなる至宝よりも、己の命よりも、遥かに尊い。
彼女の笑顔を、その心を穏やかに守ることこそが、人間界で彼女を見つけ出したあの日から変わらぬ、ヴェルラウトのたった一つの切望だった。
ならば——選ぶべき道など、初めからひとつしかなかった。
「……っ」
ヴェルラウトは、ちぎれそうな胸の痛みに耐えるように唇を噛み締め、苦しげに未亜の寝顔から視線を切った。ゆっくりと上体を起こし、椅子から立ち上がる。
未亜に必要なのは、栄養のある食事と、身の危険を感じずに休める穏やかな時間。
そこに自分という怪物の存在は必要ないどころか、あってはならない毒なのだと、どれほど拒絶したくとも理解せざるを得なかった。
溢れそうになる深い溜息を喉の奥で押し殺し、ヴェルラウトはサイドテーブルの上に置いたままの銀のトレイへと大きな手を伸ばす。
その瞬間——彼の動作が凍りついた。
白磁の器の底。そこに残っているはずのスープが、消えていた。
一瞬、自分の目が捉えている光景が理解できず、思考が激しく混乱する。
「誰ひとりとして入ってくるな」と魔王自身が命じた王妃の間。絶対君主の命を破ってこの部屋へ足を踏み入れられる者など、この魔界のどこを探しても存在するはずがない。
この広大な寝室にいるのは、未亜と、ヴェルラウトの二人だけだ。
そして——空になった器。
導き出される答えは、あまりにも明白だった。
ヴェルラウトは信じられない思いで、息を呑んで未亜を見た。それから、空の器へ視線を移す。
言葉を失ったままで、何度も何度も交互に視線を彷徨わせた末、彼は、最後に、もう一度だけ未亜の可憐な側貌を見つめた。
やがて彼は、恐ろしいほど静かな手つきで、音ひとつ立てずに銀のトレイを持ち上げた。大きな手が、まるで奇跡そのものを抱くように大切に握りしめる。
そこに伝わる重みは、この部屋へ運んできた時よりも遥かに軽くなっている。けれど、それもまた『おめでたい妄想』に過ぎないのかもしれない。それでも今の彼には、世界中の至宝よりも重く、尊いものに感じられた。
今、未亜が目を覚まし、まだ自分が室内に留まっていると知れば、怯えて身をすくめるかもしれない。あるいは、熱が下がりきっていない身でありながら、無理をして「もう大丈夫だ」と嘘を重ねるかもしれない。
ヴェルラウトは呼吸の音すら殺し、ブーツの足音ひとつ立てぬよう極限まで配慮しながら、静かに寝室を後にした。
未亜の安眠を守るため、灯りが絞られた『王妃の間』の広大なリビングを通り抜け、重厚な白銀の扉を開く。
扉の向こうの廊下には、いつも通り黒銀の甲冑兵が二人。そして、未亜の身の回りの世話にすぐ戻れるよう、侍女のステラとネルが壁際に直立して待機していた。
魔王が姿を現した瞬間、甲冑兵たちは甲冑の金属音を重々しく響かせ、石床へ片膝をついて深々と首を垂れる。
「陛下、長らくのお付き添い、誠にお疲れ様でございました」
ステラが一歩前に踏み出し、最上級の敬意を込めて頭を下げた。傍らのネルも慌ててそれに倣う。
ヴェルラウトの冷徹な視線がステラへ注がれる。侍女長は静かに顔を上げた。
「そちらのお下げものは、私どもにお任せくださいませ」
ステラが背後のネルへ短く目配せすると、ハッとしたネルが素早く前へ進み出て、恭しく両手を差し出した。
ヴェルラウトは手元のトレイ、その上の空になった白磁の器へもう一度だけ視線を落とすと、慎重な手つきでそれをネルの手へと渡した。
恭しく頭を下げてトレイを受け取ったネルが、ふと器の底へ目を落とし、驚愕のあまり、丸い瞳を大きく見開く。
「ミア様のご様子はいかがでしょうか。……私どもは、お世話へ戻ってもよろしいでしょうか」
「……あぁ」
ヴェルラウトは静かに一度だけ頷いた。
「スープは完食した。じきに回復するだろう」
その一言に、今度はステラが息を呑み、絶句して瞳を大きく見開いた。
「今はまだ眠っている。静かに休ませてやれ。……目覚めたらすぐに体調を確認し、アスクレスを寄越せ」
それだけを告げると、ヴェルラウトは侍女たちに背を向けた。
「……かしこまりました。そのように……」
ステラは去りゆく主の背中へ深く深く頭を下げた。
絶対君主としての誇りと威厳をその全身に纏い、一切の隙も見せぬ完璧な背中。背後に控える侍女たちの動揺など露ほども意に介さぬように、彼は大理石の床を重厚に鳴らして立ち去っていく。
中央主塔へと続く長大な空中回廊へと足を踏み入れれば、頭上に魔界の夜空が広がっていた。
星の輝きすら呑み込む漆黒。紫の砂嵐も今はおさまり、濃密な闇だけが広大な魔王城を包み込んでいる。
魔界の夜風が吹き抜ける度に、彼の片肩にかけられた漆黒のハーフケープが静かに翻る。裏地の深紅がふわりと優雅に靡いた。宵闇を溶かしたような黒髪を夜風に遊ばせながら歩む魔王の姿は、闇そのものを従える神のごとく美しく、そして孤高だった。
やがて、彼は己の領域である『西の塔』へと辿り着く。
見張りの兵を通り抜け、最上階にある自室のドアを開ける。
漆黒の魔導炎が暖炉で静かに揺らめく、重厚な『王の間』。
しんと静まり返った広大な室内へ足を踏み入れ、ヴェルラウトは肩のハーフケープを無造作に外した。黒檀で作られた重厚なコートツリーへとそれを滑らせるように掛け、彼は吸い寄せられるように窓際の大きな一人掛けソファへと向かった。
沈み込むように深く身体を預ける。
その琥珀色の瞳は、窓の向こうへと向けられていた。中央主塔の陰に隠れた、東の塔の『王妃の間』。今いる場所からは見えないその部屋を、彼はじっと見つめていた。
淡い照明が落ちるだけの薄闇の中、先ほど手にした銀のトレイの感触が、鮮明に蘇ってくる。
空になっていた、白磁の器。
静かに呼吸を重ねていた、未亜の愛おしい寝顔。
(……なくなっていた。……空に、なっていた……)
その事実が、胸の奥にゆっくりと染み渡っていく。
己が差し出してきた至宝も、豪華な衣類も、何ひとつ受け取ってはくれなかった彼女が。
自分の一方的な愛に恐怖し、ただ「帰りたい」と泣くだけだった可憐な少女が。
(俺の作ったスープを……ミアが……飲み干してくれた……)
未亜は、魔王が作ったスープだったとは気づいていなかっただろう。伝えてもいないのだから、知るはずもない。
彼女はただ、自分の身体を守るために、生きるために、薬代わりにスープを飲んだだけなのかもしれない。
それでも、構わなかった。
静寂のなか、じわじわと、恐ろしいほどの熱量で実感が胸の奥底から湧き上がってくる。
誰も見ていない、自分だけの絶対の聖域。
絶対君主としての仮面を脱ぎ捨てた部屋で、冷酷な魔王の唇が、震えるように緩んでいく。
「……そうか……っ」
胸に込み上げる歓喜を噛み締めるように、ヴェルラウトは高い天井を仰ぐ。大きな手で顔を覆うと、指の隙間から、魔王とはとても思えない甘やかな、深い安堵の吐息が漏れた。
魔界を統べる王は今夜、一人で、狂おしいほどの喜びと愛おしさに、ただただ静かに打ち震えていた。
更新をお待たせしてしまい、申し訳ありません。
またお楽しみいただけましたら嬉しいです。
今後とも『魔王の恋熱』をよろしくお願いいたします。




