第24話 不恰好な愛を、ほんの一口だけなら
分厚いベルベットのカーテンが隙間なく引かれ、広大な『王妃の間』の寝室は、薄暗い静寂に包まれていた。
天井に嵌め込まれた魔導大結晶の光も、眠りを妨げぬよう極限まで絞られている。白く霞む視界の向こう、天蓋の天幕がゆっくりと影を落としていた。
ベッドに横たわる未亜の左手には細い管が繋がれ、蒼白い液体が一定の間隔で静かに落ちている。
熱のせいで頭の芯が重く、起きているのか夢を見ているのかさえ定かではない。
ぼんやりとした意識の海を漂っていたその時、カチャリと、気遣うように小さな金属音が響いた。
静寂を破る微かな音に、未亜の長い睫毛がわずかに震え、ゆっくりと持ち上がる。
視界に映ったのは、もうすっかり見慣れてしまった豪奢な天井の彫刻だった。覚めない悪夢のように、ここが依然として異郷の牢獄であることを突きつけてくる。
コツ、コツ、と重い革ブーツの足音が床を叩き、静かに近づいてきた。
侍女ステラの鳥足が立てる規則正しく硬い爪音でもなければ、ネルが尻尾を無邪気に揺らしながら踏み鳴らす大雑把な足音でもない。
いつもの威風堂々とした歩調とは程遠い、どこか慎重で、怯えを孕んだかのような足音。だからこそ、視線だけを巡らせて姿を捉えるまで、それが魔王だとは気づかなかった。
けれど、その姿を目にした瞬間、途切れていた記憶の破片がすっと繋ぎ合わさる。
(……そうだ……私、倒れたんだ……)
急激に視界が暗転し、糸が切れたように倒れ込んでいった自分の身体。それを受け止めた逞しい腕の感触と、耳元で悲鳴のように自分の名を叫んでいた、あの悲痛な低い声。
静かに歩み寄ってきたヴェルラウトの手には、小さな銀のトレイが抱えられ、白い磁器の器からほんのりと湯気が立ち上っている。
ベッド脇の椅子へ腰を下ろそうとしたヴェルラウトが、開かれた未亜の瞳と正面からぶつかり、息をのんだ。
「……起きたのか」
その声は驚くほど小さく、安堵とともに、どこか怯えのような微かな揺らぎが滲んでいた。普段の圧倒的な威厳も、一方的に愛を押し付けてくるときの強引な執着も、今の彼からは微塵も感じられない。
「はい……ご迷惑を、おかけして……」
掠れた声で答え、身体を起こそうとした未亜は、左手首に引かれるような違和感を覚えた。視線を落とすと、細い手首に細い管が繋がれ、蒼白く光る液体の壺へと伸びている。
「起こしてやる。動くな」
ヴェルラウトは持っていたトレイを一度サイドテーブルへ置くと、大きな手を未亜の背中にそっと差し入れた。
いつもなら微熱のように熱い彼の掌が、今日はどこかひんやりと冷たく感じる。その心地よさに、未亜は初めて、自分自身がひどい高熱に侵されているのだとぼんやり自覚した。
「……栄養不足と疲労だそうだ。今、その点滴でお前に必要な栄養を送っている」
ヴェルラウトは、ベッド脇の椅子に腰掛けながら、静かに現在の状況を説明した。
「……あぁ……そう、ですか……」
未亜は力なく頷いた。
驚きや狼狽はなかった。限界を迎えていた身体の悲鳴にも、心に溜まり続けた疲労にも、自覚はあったからだ。
だが、その感情の波立たない、淡々とした反応を目にした瞬間、ヴェルラウトは胸を突かれたように身を強ばらせた。まるで、認めたくない現実を無言で突きつけられたかのように、彼の美しい異貌が傷ついたように微かに歪んだ。
「……安心しろ」
ヴェルラウトは、未亜からあえて目を逸らすと、横を向いたまま、どこか自分自身に言い聞かせるように言葉を落とした。
「……数日、安静にしていれば……また、元の生活に戻れる」
彼は未亜と目を合わせないまま置いたばかりの銀のトレイをもう一度手にとると、未亜の正面へと向き直る。
「スープだ。少しでもいい、飲め。点滴だけでは身体が持たん」
未亜の虚ろな視線が、彼の膝の上に置かれたトレイへと落ちた。
重厚な磁器の中に満たされていたのは、ゆらゆらと揺れる液体だった。
それは、この城に来てから出されてきた禍々しい料理の数々——毒々しい紫や不気味な漆黒、異様な深い緑色をしたものではなかった。
禍々しさもグロテスクな異彩もない、澄んだ黄金色の透明なスープ。
その底には、オレンジや白、鮮やかな緑色をした野菜のような具材が沈んでいる。人間界の人参やジャガイモ、ブロッコリーによく似ていた。だが、どれも形がどこか不揃いで歪で、黒っぽい斑点や紫色の小さなシミのようなものが混ざっており、やはりこれも、この禍々しい異郷の地で育った未知の食材なのだと告げていた。
ヴェルラウトが静かな手つきでスプーンを沈め、すくい上げた液体を未亜の口元へと運んでくる。
いつもの不気味なスープではなかったからか。それとも、高熱と頭の重みのせいで、拒絶する思考すら働いていなかったからなのか。
未亜は少しだけ躊躇うように睫毛を揺らした後、静かに小さく口を開いた。
口の中に流し込まれた液体を、未亜は味わうでもなく、ごくりと喉の奥へ押し流した。
飲み込んだことを確認すると、ヴェルラウトは再びスープをすくい、次のひとさじを唇へと運んでくる。
薬を飲んでいるのと同じ感覚だったかもしれない。
促されるままに口を開き、運ばれてくるスープをただ流し込む。何の感慨も抱くことなく、身体を生かすための作業のようにスープを飲み下し続けた。
数口、続いたところで、やがて未亜の限界が訪れた。
身体を支えていることすらままならず、座っているだけで視界がグラグラと揺れ始める。
未亜は小さく息を漏らし、静かに首を横に振った。
「……ごめんなさい。まだ、頭がぼーっとしていて……。少し……休んでも、いいですか……」
伏せられた睫毛が影を落とす。
「あぁ……そうしろ。……ゆっくり休め」
ヴェルラウトの手が再び背中に添えられ、未亜の身体を優しくベッドへと横たえさせた。
柔らかい羽毛に包まれた瞬間、引き潮のように意識が遠ざかっていく。
そのまま再び、深い深い眠りの底へと沈んでいった。
再び目を覚ました時も、視界を覆っていたのは変わらぬ薄暗闇だった。
時を告げる光も影もない。天井に埋め込まれた魔導大結晶の輝きは極限まで絞られ、分厚いベルベットのカーテンが窓を遮っているため、窓の外の禍々しい空すら伺い知ることはできなかった。
どれほど眠っていたのだろう。
重い頭を巡らせようとした未亜は、自分の腰のあたりに、確かな重みとわずかな熱を感じ、思わず身を固くした。
不審に思ってそっと視線を落とすと、そこにあったのは巨大な漆黒の影だった。
濃いグレーのシャツに、漆黒のハーフケープを肩にかけたヴェルラウトだ。
ベッド脇の椅子に腰掛け、ベッドへ向かって横向きに上体を伏せるようにして、ヴェルラウトが眠り込んでいる。
未亜の華奢な身体を己の巨躯で押し潰してしまわぬよう、背を固く丸め、触れないよう細心の注意を払ったのが一目で分かるほど、無理のある苦しそうな体勢をしていた。未亜の腰に微かに乗っていたのは、力を抜いて投げ出された彼の右腕だった。
(……起きない、よね……)
彼を起こさぬよう、未亜は息を殺しながら慎重に身体を起こした。
さきほど目覚めた時よりも、幾分か頭の重みは和らいでいる。点滴から送り込まれ続けた栄養薬か、あるいは先刻なんとか流し込んだスープの力か、鉛のようだった身体に少しだけ感覚が戻っていた。
(……ずっと、ここにいたのかな……)
未亜は静かに、眠る魔王の横顔を見下ろした。
夢の中でも険しい緊張に包まれているかのように眉間が深く寄せられていた。そのせいか、宵闇のような黒髪が乱れ、どれほど無防備な寝姿であろうとも、魔王としての圧倒的な威厳と覇気は微塵も削がれていない。
けれど、未亜を押し潰さぬよう丸められた背中には、痛々しいほどの慎重さが滲んでいた。
ふと、未亜の視線が、シーツの上に投げ出された彼の大きな両手へと落ちる。
(……?)
シーツの上に投げ出された、その無骨で大きな両手。
硬質な黒い爪を持つそのアッシュグレーの指先や手甲のあちこちに、痛々しい赤い火傷の痕や、細かな切り傷が無数に刻まれていた。
この世界の頂点に君臨し、圧倒的な強さと権力を誇る魔王の手に刻まれた、不釣り合いなほどに小さな傷の数々。
(どうして……こんな傷が……?)
疑問が脳裏を掠めた瞬間、未亜の胸の奥で、彼の手に残されていた傷と先刻の記憶が、繋がってしまう。
未亜は、その答えを確かめるようにベッドの周囲へ視線を巡らせる。
サイドテーブルの上には、先ほどヴェルラウトが置いていった銀のトレイと、白磁の器がそのまま残されていた。
(もしかして……あのスープ……魔王さんが……作ったの……?)
導き出した答えに、未亜自身が一番戸惑っていた。
誰が信じるだろう。この恐ろしい魔界の頂点に君臨する魔王が、自ら厨房に立ち、慣れない包丁を握り、鍋のスープをかき混ぜる姿など、どう頑張っても想像できない。
欲しいと言えば、世界中のあらゆる至宝を手にできる男なのだ。毎日毎日、そうして手に入れた豪華な贈り物を未亜のもとへ届け続けている男が、なぜ、自らの手でスープなど作る必要があるというのか。
けれど、それならば、彼の傷だらけの指先の理由は何なのか。この小さな無数の傷が、あり得ない真実を雄弁に物語っているのだとしたら——。
信じがたい思いと、胸の奥を刺すような衝動に突き動かされる。
未亜はヴェルラウトを起こさぬよう、掛け布団を擦り寄せる音すら殺しながら、そっと手を伸ばした。
サイドテーブルから白磁の器を持ち上げ、膝の上の柔らかい掛け布団の上へと慎重に乗せる。
こぼさぬよう気をつけながら、改めて、未亜はその中身を見つめ直した。
黒や紫、毒々しい深緑をした、あの禍々しい魔界の料理ではない。人間界のスープによく似た、光を透かす黄金色の液体。
その底に沈む不揃いな具材を見つめるうち、未亜の瞳が大きく見開かれた。驚きの叫びが漏れそうになり、慌てて片手で口元を覆う。
(これ……っ)
人参やジャガイモ、ブロッコリーに似た魔界の野菜。
先ほどは、魔界の食材だから形が不揃いなのだと思っていた。けれど、そうではなかったのだとしたら。
これは、包丁など握ったこともない男が、不格好に、必死に切り分けたからこその歪さだったのではないか——。
未亜は、すぐ横で、不器用に丸められたヴェルラウトの背中を見つめる。
それから、トレイに置かれたままだった銀のスプーンを、静かに手に取った。
数秒間、じっと器の中のスープを見つめたあと、片手で白磁の器を支え、スプーンで黄金色の液体を静かにすくった。
ゆっくりと、口へと運ぶ。
今度は機械的に飲み下すのではなく、口内でしっかりと味わった。
ヴェルラウトに飲ませてもらってからどれほどの時間が経ったのかは分からない。けれど、あの時は温かかったスープは、すっかり冷め切っていた。
(……味、しない……。おいしく……ない……)
舌の奥で、出汁のような素材の旨味が、かすかに感じられなくもない。
だが、味が薄すぎるというより、味付けという概念そのものを忘れて煮立てたのではないかと疑うほど、ただの白湯に近い無味の液体だった。
続いて、未亜はジャガイモに似た白っぽい具材をスプーンですくい上げた。
目線の高さまで持ち上げてみる。よく見れば、人間界のジャガイモとはやはり違う。異様に白く、表面がうっすらととろけている気がした。
おそるおそる、口へと運ぶ。だが、噛み締めた瞬間、未亜の眉が固く寄った。
(……硬……っ! なにこれ、すごく硬い……っ)
表面こそトロリとしていたが、中心部は驚くほど固かった。歯が折れるほどではないものの、生の大根か固い生栗を噛んでいるかのようだ。
未亜は奥歯で必死にそれを噛み砕く。静かな寝室で、出来るだけ咀嚼音が響かないように気をつけても、口の中では、ガリ、ゴリ、と不穏な音が響いた。
なんとか喉の奥へと押し込んだ頃には、顎は疲れ、短い息が漏れた。けれど、それだけ頑張ってみたところで、味は、スープと同様に、素材そのものの味すらほとんどしなかった。
次に、人参に似た鮮やかなオレンジ色の具材をすくって口へ運ぶ。
(辛っ……!? なにこれ、すごく辛い……っ)
今度は硬くなかった。むしろ口に入れた直後にとろけるような柔らかさが、口いっぱいに広がった。
だが、それがいけなかった。その瞬間に、刺すような激しい辛みが舌を襲った。口の中が燃え上がるような強烈な辛み。水など手元にない未亜は、慌てて白磁の器の縁に直接口をつけ、味のない冷めたスープを勢いよく流し込んだ。
人参の甘みを想像していただけに、余計に衝撃が大きかった。
不意打ちの刺激に涙ぐみながらも、もともと辛いもの自体は苦手ではない未亜は、ひと心地つくと、今度は慎重にそのオレンジ色の具材を小さく削ぐようにして、ゆっくりと口の中で味わい直した。
ほとんど味を感じなかった口内に、今度は強烈な刺激が広がり、ようやく「食べものを口にしている」という実感が湧いてくる。とはいえ、口内を宥めるように、再び冷えたスープを数口すくって流し込んだ。
緑色のブロッコリーに似た具材は、反対に驚くほど甘かった。粒々とした蕾のような食感だけが、少し懐かしい。
決して「美味しい」とは言えない不格好なスープを、未亜は一口、また一口と、静かに口へと運び続けた。
そうして食べ進めるうちに、未亜はある事実に気づく。
最初に驚かされた硬すぎるジャガイモに似た具も、食べ進めると、時折とろとろに柔らかくなったものが現れた。辛すぎる偽物の人参も、甘い偽物のブロッコリーも、硬いものと柔らかいものが極端に混ざり合っていた。
火の通りが、完全にバラバラだったのだ。最初に食べて硬すぎたあの偽物のジャガイモは、生煮えだっただけだったのだろう。
魔王城の厨房で腕を振るう、一流シェフが作った洗練された料理だとは、到底思えなかった。
味付けは皆無、形も火の通りさえも不揃いな具材が沈むだけのスープ。ただひたすらに、「人間界のスープ」という外見の模倣だけに執着したかのような、あまりにも不格好な一皿。
——それは、まるで。
未亜の都合も、好みも知らぬまま、一方的に過剰な愛と贅沢を押し付けてくる、ヴェルラウトの不器用な情愛そのもののようだった。
未亜は、まだ器の底に半分ほど残っている黄金色のスープをスプーンですくうと、静かに、そっと唇へと運んだ。




