第23話 幸せだった、はずだった
「——っ、ミア……!? 目を開けろ、ミア……っ!!」
『王妃の間』の豪奢な壁を激しく震わせたものは、魔王城の誰も聞いたことのない、悲痛で狂おしい絶叫だった。
重厚な白銀の扉の向こう側、主の命にいつでも応えられるよう控えていたステラとネルが、ただごとではない気配に弾かれたように部屋へ駆け込んでくる。
「陛下……っ!? どうなさいましたか……!!」
リビングへなだれ込んできた配下の姿を、ヴェルラウトは血走った琥珀ゴールドの瞳で射抜いた。
だが、駆け寄ろうとした侍女ふたりの動きが、一瞬で凍りつく。
「……っ!」
ステラが息を呑み、小さな悲鳴とともに口元を両手で覆う。傍らのネルは瞳を限界まで見開き、その場に金縛りに遭ったかのように立ち尽くしていた。
彼女たちの瞳に宿った戦慄を、ヴェルラウトは見逃さなかった。
言葉にせずとも分かった。
まるで目の前の小さな人間が、すでに息絶えてしまったかのような——二度と目覚めぬ死体でも見るかのような恐怖の眼差し。
不吉で不敬なその視線が、ヴェルラウトの胸の奥で渦巻く焦燥をさらに煽り、凄まじい苛立ちとなって爆発する。
(貴様ら、何を見ている……! ミアが、死んだとでも思っているのか……!?)
そんな目で見るな。不吉なことを考えるな。勝手にこの者を死へと追いやるな。
あまりにも残酷なほどに正直な配下たちの視線。だが、それ以上に、彼女たちの怯えた表情が、己の腕の中で途絶えかけている未亜の「死」を突きつけてくるようで、耐え難い。
何もできない。
この恐ろしい魔界を圧倒的な力で統べることは容易いのに、未亜のためには、ただ抱きしめ、その名を呼び続けることしかできない。
その己の無力さに、ヴェルラウトは正気を失いそうになるほどの焦燥に駆られた。
忌まわしい想像を己の頭から追い払うように、彼は喉が引き裂かれんばかりの怒号を叩きつける。
「——アスクレスを呼んでこい!! 今すぐ、城中の医師をここに集めろ……っ!!」
圧倒的な魔圧が部屋中に爆ぜ、白銀の扉がガタガタと悲鳴を上げた。
「か……っ、かしこまりました……っ!!」
未亜の死を目の前に突きつけられたかのように固まっていたネルの首根っこを、ステラが半ば力ずくで引っ掴んだ。ふたりは顔を真っ青に染め、脱兎のごとく廊下の奥へ駆け去っていく。
嵐のような足音が遠ざかり、部屋には再びふたりきりの静寂が訪れる。
けれど、そこには、さっきまでの誇らしげで機嫌の良かったヴェルラウトの声も、未亜に求めていた甘やかな空気も、もうどこにも残されていなかった。
床へ虚しく転がった深青のストール。場違いなほどに暖かな黄金色の光が優しく降り注ぐ中、ヴェルラウトは震える手で未亜の蒼白な頬へと触れた。
いつもの彼女なら、柔らかくひんやりとした肌の感触が返ってくるはずだった。
だが今、手に触れた肌は、まるで火の中にあるかのように熱く、内側から焼け落ちてしまうのではないかと思えるほどだった。
微かな胸の上下で呼吸をしていることだけは確かだった。
けれど、かつて血色のあった肌は、今や青白く澄み切っている。腕の中にいる未亜は、生きている人間であるはずなのに、本当に、美しい硝子細工の人形になってしまったかのようだった。
彼女の命に縋るように、か細い手首に触れてみても、脈は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
「ミア……っ、なぜだ……っ」
外傷はない。あの夜に手足に出来た傷も、手当ての末に完全に塞がったはずだ。
それなのに。血の一滴すら流れていないのに、目の前で愛する者の命が指の隙間からこぼれ落ちようとしている。
力で世界をねじ伏せてきた魔王にとって、何の傷もないはずの人間の身体が、内側から弱っていくということは、理解を超えた未知の恐怖だった。
どんな強力な魔術も、どれほど強大な力も、この小さな命を留める術にはなり得ないのだと突きつけられているようだった。
「何が……何がお前の命を奪おうとしている……っ!」
壊れものを抱くように、けれど二度と離すまいと強い力で、ヴェルラウトは熱に包まれた未亜の身体を胸元へ抱きしめ続けた。
絶対に、渡さない。
死の影にも、運命にも、この手から未亜を奪わせはしない。
漏れそうな悲鳴を堪えるように、強く唇を噛む。
悲痛な誓いのように、固く閉じられたヴェルラウトの瞳。その目尻から、一筋の熱がこぼれ落ちそうになる。
けれど彼は、それすら許さぬように、今にも消えそうな彼女をただひたすら抱きしめた。
熱すぎる彼女の体温さえ、彼女がまだ生きている証と信じ、強く、強く抱きしめることで、必死に堪えていた。
静まり返る『王妃の間』の寝室には、どこか異質な緊張感が満ちていた。
天蓋付きの豪奢なベッドの脇には、薬草のツンとした匂いを漂わせるガラス瓶や、青白く光る魔力点滴の器具、精巧な銀の注射器、極細の魔導針が並べられたトレイが整然と置かれている。
普段の静かなプライベート空間は、一夜にして命を繋ぎ止めるための無機質な診療室へと変貌していた。
広大な寝室にひしめき合っていた城中の医師たちは、宮廷魔導医長のアスクレスによって、追い散らされ、室内に残るのは、数名の上級医師のみ。
ベッドに横たわる未亜の細い腕には、蒼白い液体の満ちた壺から伸びる管が繋がれ、ゆっくりと、けれど確実にその体内へ栄養薬を送り込んでいた。
壁際では、ステラとネルが邪魔にならぬよう直立不動で息を殺している。その傍らには、報せを聞きつけて駆けつけた老執事長・ガルムが黒檀の杖をついて佇んでいる。老執事の冷ややかな眼差しは、点滴を打たれ死んだように眠る未亜へ向けられ、「ほら見ろ、あっけなく死に瀕している」と無言で嘲笑っているかのようだった。
だが、ヴェルラウトの目には、部屋を埋める器具も、配下たちの視線も、一切入っていなかった。
彼はベッド脇の椅子に腰かけ、眠り続ける未亜の左手を、大きな両手で壊れもののように包み込んでいた。小さな指先を己の額に強く押し当て、祈るように、ただただ固く目を閉じている。
点滴の管が繋がれた未亜の肌は、先刻までの恐ろしい高熱が少し引いたものの、未だ紙のように白い。微かな胸の上下だけが、彼女がまだこの世界に留まっていることを辛うじて告げていた。
「……よし。点滴の状態も安定している。お前たちは下がっていい」
手際よく点滴の確認をしていたアスクレスが、銀縁眼鏡を押し上げながら指示を出した。首元に巻きついた二匹の小蛇が、スルスルと彼の肩口へと戻っていく。医師たちが手際よく医療器具を片付け、恭しく一礼して静かに部屋を退出していった。
銀髪をかき上げたアスクレスが、冷たいエメラルドグリーンの瞳を静かに巡らせた。
「さて……陛下が喉から手が出るほど知りたがっておられる、お姫様の容態ですが」
アスクレスの静かな声が響いた瞬間、ヴェルラウトの身体が跳ねるように強張り、包み込んでいた手を額から離して勢いよく顔を上げた。
血走った琥珀ゴールドの瞳が、狂おしいほどの焦燥を宿して医長を射抜く。壁際の侍女たちに緊張が走り、ガルムだけが、関心なさそうに鼻で短く息を吐き、黒檀の杖へ体重をかけた。
「——過度な疲労ですね」
アスクレスは肩に巻いた白蛇の頭を指先で撫でながら、飄々と宣告した。
静寂が、部屋を包み込む。
あまりにも拍子抜けな、けれどあまりにも不穏な響きを持つその診断に、誰もが言葉を失う。
「……疲労、でございますか……? ミア様には、この魔界での生活が、そこまでのご負担だったと……?」
静寂を破り、恐る恐る問いかけたのはステラだった。さっきまで、自分の至らない従事によって人間を死なせかけたと思い込んでいた彼女の声には、驚きと戸惑いが混ざっている。
アスクレスは一瞬だけステラへ視線を向けると、そのままヴェルラウトへと向き直る。
「まぁ、端的に言えば、そういうことだな」
はっきりと頷く主治医の言葉に、ヴェルラウトは、己の耳を疑った。
あり得ない。冗談にすらならない。
「……戯言を言うな、アスクレス」
地の底から響くような低音が、ヴェルラウトの唇から漏れ出た。
意味がわからなかったのだ。
未亜が暮らしやすいよう、この城で最も日当たりが良く暖かい東の塔を与えた。王妃の間には、毎日世界中から集めさせた至宝を贈り届けた。身の回りの世話をさせるため、城で最も優秀なステラを配し、万が一の暴走や危機から未亜を守れるよう、最も腕の立つネルを護衛兼侍女として添えたのだ。警護も完璧に固めている。
何ひとつ不自由のないこの完璧な聖域で、未亜が「疲弊」するなど、あってはならないことだった。
「ミアが疲労などするものか。彼女を害する脅威は、俺がすべて排除済みだ」
ヤブ医者を見るような冷徹な殺気を込め、ヴェルラウトは低く突き放す。
だが、アスクレスは眉ひとつ動かさなかった。肩の上の白蛇がちろちろと赤い舌を覗かせる中、彼は呆れたように小さく首をすくめてみせる。
そして、ベッド脇のサイドテーブルに向けて、ひょいっと指先を振るった。浮遊する羊皮紙が彼の手元へとぱたぱたと飛んでくると、彼は、そこに書かれている魔界文字と数字へ視線を落とす。
「では、ミア様の容態を陛下にもわかるようにご説明いたしましょう。まず一つ目に、深刻な『栄養失調』です。血液中の魔素や、栄養状態を示す各種数値に著しい偏りが見られました」
「かたより……?」
思わず首を傾げたネルの呟きに、アスクレスは静かに頷く。
「うちの若い医師に厨房の小悪魔給仕族を問い詰めさせ、確認済みです。ミア様は毎食、運ばれる料理のほとんどを残しておられたそうですね。おおかた、好きなものだけを少し口にし、他には一切手をつけなかったのでしょう」
アスクレスが呆れたように吐き捨てた。
「……あぁ、そうだ」
ヴェルラウトは、己の正当性を証明するかのように胸を張った。
「ミアはパンが好きなのだ。だから、この魔界中のあらゆる極上のパンを取り寄せ、与えていた。今朝も、俺の皿からパンを分けてやったのだ」
どこか誇らしげに語るヴェルラウトだったが、アスクレスの冷ややかな眼差しとぶつかると、わずかに視線を泳がせた。そして、言葉を濁して微かに目を逸らした。
「……まぁ、ミアが好んで口にするのはいつも、あのパサついた白いパンだけだったが」
「そのせいですよ、陛下」
アスクレスは呆れたように短く息を吐くと、容赦のない第二の追撃を口にした。
「そして二つ目。過度なストレスによる精神的疲労です」
ヴェルラウトの眉根が激しく寄った。胸の奥で、激しい苛立ちが爆ぜた。
「……何度も同じことを言わせるな!」
ヴェルラウトの低音が部屋を震わせた。怒号とともに恐ろしい魔圧が放たれ、部屋の空気が一瞬で凍りつく。
「ミアにストレスなどあるはずがない! ……確かに城へ連れてきた頃こそ、泣くこともあったかもしれんが……」
一瞬、ヴェルラウトがアスクレスの視線から逃れるように顔を背けた。
だがすぐにまた、強い意志を持って、主治医を見返す。
「ここ最近の彼女は俺を受け入れ、穏やかに暮らしていたのだぞ!」
ヴェルラウトには、揺るぎない自信があったのだ。
初めて「おはようございます」と、あの可憐な唇から挨拶を返してくれたあの朝から、未亜は変わったのだ。
食事中に問いかければ小さな声で答えてくれ、頑なに拒んでいた贈り物も、今では「ありがとうございます」と受け取ってくれるようになった。数日前には一緒に庭園へ降り、死した魔獣に手向けの花を供え、静かに祈りを捧げてさえいた。
あれは、自分が彼女を愛し、贅を尽くして守っていることへの応えではなかったのか。
自分が注ぎ続ける真摯な愛が、ついに未亜の心を解かしたのだと、ヴェルラウトは本気で信じていた。
だからこそ、ヴェルラウトは狂おしいほど幸せだった。そして、未亜もまた、自分と共にこの城で過ごす日々に、小さくとも幸福を感じてくれていた。そのはずだ。
自分の信じた真実を少しの疑いもなく語る魔王を、アスクレスはどこか哀れむような、冷ややかな目で見つめた。そして、あえて視線をベッドの上の未亜へと逸らしながら、情け容赦のない真実を突き立てた。
「……では、陛下。それは貴方の『おめでたい妄想』だったということでしょう」
「なっ……」
「実際のミア様は……恐ろしい怪物の傍らで、いつ殺されるか分からぬ恐怖に、毎日生きた心地もなく過ごされていたのかもしれませんね。死に瀕するほどのストレスを抱えて」
頭を殴られたような衝撃に、ヴェルラウトは言葉を失い、固まった。
ここ数日は幸せに満ちていた心は、一瞬で深く抉られ、ヴェルラウトの琥珀ゴールドの瞳が、限界まで見開かれる。
妄想——。
あの愛おしい「おはよう」も、消え入るような「ありがとう」も。ともに手を合わせたあの愛おしい時間すらも。
未亜の歩み寄りだと信じて疑わなかったすべてが、彼女にとっては幸福などではなく、生き延びるために、恐怖に怯えながら耐えていた、地獄のような時間だったというのか。
「つまり、今のミア様は、栄養が足りず、身体が回復する力を失っている状態です。そのうえ長期間にわたる強い緊張と恐怖が重なった。今回の発熱と意識消失は、その結果でしょう」
『栄養不足』に『恐怖と緊張によるストレス』。
ヴェルラウトが信じていた温かな世界が、音を立てて崩れ去っていく。
言葉を失い、完全に硬直した魔王を見かねたように、アスクレスは少しだけ声を和らげた。
「……まぁ、栄養剤を点滴しておりますから、数日安静にさせれば熱も下がり、意識も戻るでしょう。本来なら、私が出るまでもない病状です」
アスクレスが補足するように告げた言葉に、ヴェルラウトは縋るような思いで未亜を見つめ直した。
愛おしさに胸を締め付けられながら、ベッド脇の椅子にもう一度腰掛け、白く冷たい彼女の頬を、壊れものを触る手つきでそっと撫でる。
——彼女は、生きている。あと数日すれば、目を覚ます。また、あの瞳で自分を見てくれる。
死という永遠の絶望に怯えていたヴェルラウトにとって、それは唯一の救いだった。
壁際のステラとネルも、安堵のあまり胸を撫で下ろし、小さく息を漏らす。ガルムだけが、忌々しそうに不快感を露わにして苦虫を噛み潰すような顔で横を向いた。
「——ですが」
アスクレスの静かで厳しい一言が、安堵しかけた室内の空気を容赦なく切り裂いた。
「このまま、これまでと同じ生活を続ければ、遠からず再び倒れます。そしてそれを繰り返せば……人間の脆弱な器は耐えきれず、やがて本当に命を落とすでしょう」
「……ッ!?」
ヴェルラウトの息が止まる。ステラとネルが絶句して顔を見合わせた。
「ならば……どうすればいい!!」
ヴェルラウトは弾かれたように立ち上がり、叫んだ。
威厳も誇りも投げ打ち、ただ愛する者を救いたい一心で主治医を詰問する。
「どうすれば……ミアを死なせずに済むのだ!!言え、アスクレス!!俺は何をすればいい!!」
再び焦燥し、我を失いそうになっているヴェルラウトに、アスクレスは当然のように言い放った。
「簡単なことです。身体に良い栄養のあるものを食べさせ、健康的な環境を整える。……要は、まともな食事と安らぎを与えてやれば良いのです」
だが、その「簡単」なことが、ヴェルラウトにとっては、どんな複雑な古代魔法を解き明かすよりも、一筋縄にはいかない大国の攻略よりも、遥かに難解だった。
なぜなら、自分はすでに、それを全て与えているつもりだったからだ。腕利きのシェフに王宮最高峰の豪華な料理を作らせ、世界で最も美しい部屋で保護していた。
これ以上、何をどうすればいいというのか。
途方に暮れる主の背中を見つめ、侍女のステラが意を決したように小さく手を挙げた。
「……あの、栄養ということでございましたら、」
張りつめた静寂の中、ステラが緊張で震える声で、おずおずと続ける。
「ミア様に、スープを召し上がっていただくのはいかがでしょうか……? 以前、温かいスープがお好きだとおっしゃっていましたし……」
彼女なりに、か弱い王妃の命を繋ぐ方法を必死に手繰り寄せたのだろう。
だが、その提案はかえって、追い詰められたヴェルラウトの焦燥と苛立ちを激しく煽るだけだった。
「だが、飲まなかったではないか!!」
ヴェルラウトの雷鳴のような怒号が寝室に響き渡る。
初めての食事のときから、未亜が冷たいスープに一切手をつけないことは知っていた。
だから、「温かいスープが好きだ」という言葉を聞いたその日の夜、彼は喜んで、すぐさま東塔の厨房へ命じ、湯気の立つ温かいスープを夕食に用意させたのだ。
ヴェルラウトも「これはミア好みの温かいスープだ、お前の身体にも良い」と自ら勧めもした。けれど、どれほど懸命に勧めようとも、未亜は困ったように口を結び、頑なにスプーンを握ろうとはしなかった。
「飲まぬものを強いても意味がない! 温かいスープなど、何の解決にもならん!」
絶望的な突っぱねに、ステラが顔を蒼白にして引き下がる。
重苦しい沈黙が再び部屋を支配した、その時だった。
「……それってさぁ、温かかったら良いってわけじゃなくて、人間界のやつが良かったんじゃないのかなぁ……?」
ぽつりと漏れ出たのは、ネルの空気の読めない呟きだった。
一瞬にして、室内のすべての視線がネルへと集中する。その中に、自分を鬼のような顔で睨みつけるステラの姿を見つけ、ネルは慌てて姿勢を正した。
「……で、ございますわ!!」
慌てて取り繕うような敬語を叫ぶネルだったが、ヴェルラウトの耳にはもう、配下たちの声は届いていなかった。
(人間界の……スープ……)
ヴェルラウトは繋いだ未亜の手に視線を落とし、心の中でその言葉を静かに反芻した。
禍々しい色彩をした魔界の食事の中で、彼女が唯一口にしていた、人間界のものに似たパサついた白パン。
冷たいものを拒み、「温かいスープなら」と呟いた彼女の言葉。
全て覚えている。彼女の瞳の揺らぎも、小さくこぼした些細な一言でさえも。
その全てを大切に拾い上げて、彼女のために尽くしてきたつもりだった。
けれど、その結果、未亜はベッドの上で真っ青な顔で眠っている。
己が与えてきた至宝も、魔界の贅を尽くした料理も、何ひとつ彼女を救えてはいなかったのだ。
今、ヴェルラウトが見ていた未亜が、彼女の言葉が、全く違うものに変わっていこうとしている。
与えていた。与えられる全てを。けれどそれは、彼女にとっても本当に至高の品だったのか。
食べさせようとした、高級食材ばかりの食事を。けれどそれは、彼女にとって、ただの毒だったのか。
ヴェルラウトは繋いだ未亜の細い手を力なく見つめ直した。
固く閉じられた彼女のまぶたの裏に、自分が決して知ることのなかった「愛する人の本音」が、静かに影を落としている。そんな気がして、心臓が痛いほどに震えた。




