第21話 番外編 名もなき命への祈り
研究棟の地下二階にある大型検体保管庫から、暴魔熊を地下一階の『特別解剖室』へ搬入する作業が完了したのは、夜の闇が深まり始めた頃だった。
黒色玄武岩の分厚い壁に囲まれた頑丈な密室は、検体の急速な腐敗や魔力変質を防ぐため、吐く息が白く染まるほどの冷気が満ち、薬品のツンとした香りが立ち込めている。天井から吊り下げられた青白い魔導灯が、中央に置かれた漆黒の解剖台を強く照らし出していた。
そこに横たえられているのは、昨夜、人間の娘を襲い、魔王の漆黒の刃によって切断された特級危険個体——暴魔熊の巨大な屍肉である。
冷気によって血の匂いこそ抑えられているが、その巨躯は今も圧倒的な圧迫感を放っていた。
すでに部屋には、執刀の準備を整えるため、四人の解剖医たちが集まっていた。
壁際の実験机では、首元から下を薄緑の鱗で覆った痩せ型の蛇人族・スライが、ガラス瓶に入った透明な防腐薬品や魔力中和剤をフラスコへとトクトクと静かに注いでいる。解剖中に肉体が急速に腐敗・変質するのを防ぐ薬品の調合に、その鋭い縦割りの瞳を集中させていた。
解剖台の周りでは、岩石族の巨漢・ガルドが、重々しい金属音を響かせている。二メートルを超える巨躯を揺らし、骨を断つための巨大な魔導ノコギリや、五メートルもの肉体を台座へ強固に固定するための黒鉄の鎖、吊り下げクレーンの状態をガチャン、ガチャンと粗野に点検・配置していた。
その少し離れた場所では、顔の真ん中に大きな一つ目を持つ小柄な記録係・モノが、浮遊する何枚もの羊皮紙と羽ペンを周囲に整列させている。既に、測定器の数値は完璧にゼロに合わせ済みで、記録の準備にも余念がない。
そんな黙々と作業に没頭する先輩たちの傍らで、ただ一人、周囲の集中を乱すように口を動かし続けている若い解剖医がいた。
ヨレヨレのTシャツに白衣を羽織った長身の青年——現場記録担当のルークである。
若草色の髪から小さな二本の角を覗かせ、長い垂れ耳をパタパタと揺らしながら、彼は清潔な布の上にメスなどの執刀器具を順番に並べていた。だが、その手元は怪しい。道具を並べることよりも、昼間に目撃した衝撃的な出来事を先輩たちに語ることに全神経が注がれているからだ。
「いやあ、本当に驚きましたよ。まさかあの魔王陛下が、お姫様を連れて地下の保管庫なんかにいらっしゃるなんて!本当に人間なんですね、びっくりしちゃいました!先輩達は人間、見たことあります?」
長耳をぴくぴくと揺らし、片眼鏡の奥の目を輝かせながら、ルークは昼間に目撃した出来事を熱っぽく語り続けていた。だが、おしゃべりに夢中になるあまり、手元のメスを置く位置が何度もズレ、作業は遅々として進まない。
「あるわけないだろう。人間界と魔界は干渉し合わないのが、この世界の絶対の掟だ」
スライが冷たく突き放す。
だが、ルークは、そんな世界の掟など、今はどうでもいいとばかりに続けた。
「なら、教えてあげましょう!その人間のお姫様は、本当に小さくて可憐な方で、可愛らしくって! 陛下が片時も離さないみたいに肩を抱いてらして…!!」
興奮冷めやらぬ様子のルークは、手を胸元に持っていき、感慨深そうに目を瞬かせた。
そんなルークに、ガルドがチラリと視線を向ける。
「おい、手元が止まってるぞ」
ガルドが太い腕で鎖を締め直しながら、呆れ気味に低く唸った。
「ちゃんと動かしてますってば! で、僕、現場記録としてバッチリその場に立ち会ったんですよ!」
騒がしく喋り散らすルークに、ガルドは「それはもう聞いた」と言わんばかりに、適当な相槌で聞き流していた。スライなんて、フラスコを傾けたままチラリと冷ややかな視線を向けただけで、取り合おうとはしない。単眼のモノも、浮遊する羽ペンを器用に操りながら黙々と目盛りを合わせている。新しい知識や噂話を手に入れては無駄話に花を咲かせるのは、ルークのいつもの癖だった。
雑談を受け流しながら大型検体の後ろ脚に鎖を巻きつけていたガルドが、ふと検体の頭元に差し掛かった時、そのゴツゴツした眉間を深く寄せた。
「おい……誰だ、こんなところに花なんて置いたやつは」
暴魔熊の冷たい頭部のかたわらには、青白い光の中で静かに揺れる小さな花束が添えられていた。魔界の不気味な解剖室にはおよそ不釣り合いな、儚く可憐な花だ。
途端に、待ってましたとばかりにルークが勢いよく手を挙げた。
「僕です! 僕がここまで運んできたんですよ!」
ガルドの眉間のシワがさらに深くなり、実験机のスライの蛇のような縦長の瞳が不審げに細められる。モノの周囲を飛ぶ羊皮紙も、一瞬だけピタリと動きを止めた。
「俺が解剖台を整える作業をしてんのに、お前は、何のためにそんなゴミを台の上に乗せてんだ」
「ゴミじゃありませんよ! 陛下のお姫様が持ってきたお花なんです!」
「陛下の……? 人間の娘がか?」
ガルドが怪訝そうに問い詰める。
「ええ。『手向けの花』だそうですよ」
「手向け? ……何にだ」
「この検体に、ですよ」
ルークがさらりと答えて、手のひらで解剖台の巨獣を示した。
意味が分からない、と言いたげにガルドは口をぽかんと開けた。だが、この若い記録係と不毛な問答を続けるのは時間の無駄だと判断したらしい。ガシャン、と不機嫌な音を立てて大型検体の後脚をチェーンで固定する作業を再開した。
「解剖の邪魔だ。どかせ」
ガルドは作業の手を止めずに言い放つ。だが、ルークは「それがですねぇ」とわざとらしく首を縮めてみせた。
「勝手に処分していいと思います? 『お姫様』がせっかく持ってきたお花を捨てたって知られたら、陛下に何をされるか分かったもんじゃないですよ?」
ルークが肩をすくめて大袈裟に震えてみせると、ガルドの分厚い手がピタリと止まった。
魔王がその人間の娘に、どれほど異常なまでに執着し、寵愛しているか。
昨夜、姫が行方不明になったという報せひとつで城中に緊張が走り、魔王軍の精鋭まで駆り出されて大捜索が行われたことは、城の最北にあるこの研究棟にまで届いていた。
たかが花一束。されど、あの絶対君主のお気に入りのお手製だ。
もしあの魔王お気に入りのお姫様が「お花が捨てられた」と泣き出したりでもすれば、自分たちの首が飛ぶどころの話ではない。
静まり返った室内で、ガルドは舌打ちを一つ漏らし、不機嫌そうに鎖の点検へ戻った。壁際で調合を続けるスライも、羊皮紙を弄るモノも、まるで、そこにあるはずの花の存在すら見えなくなったかのように、視界に入れなくなった。
「ね? だから僕も、そのままここまで持ってくるしかなかったんですよ」
ルークが「仕方ないでしょ」と言わんばかりの得意顔をした、その時だった。
黒色玄武岩と黒魔鉄で造られた分厚い昇降扉の表面に、銀色の魔導陣が青白く浮かび上がった。重厚な「ゴゴゴ……」という地響きのような音が室内に響き、扉が天井へと静かに吸い上げられていく。
開かれた闇の奥から、一人の男が姿を現した。
骸骨角族の解剖医長——モルガンである。
灰色がかった濃灰色の肌に、深く刻まれた目元のシワ。頭部から後ろへと伸びる古木のような二本の角。頑丈な黒革のエプロンを締め、両手には使い込まれた黒革の手袋を嵌めている。片方の眼にはめ込まれた魔石が、冷たく暗い光を宿していた。
言葉数の少なさと、感情を一切見せずに黙々と執刀する姿から、部下たちからは「冷血な解剖魔」と恐れられている絶対的な統括者。
彼が一歩足を踏み入れた瞬間、それまで部屋に漂っていた緩やかな雑談の空気は一変した。
凍てつくような緊張感が室内に張り詰める。
モルガンは部下たちに視線すら向けず、壁際にある手洗い場へとまっすぐ歩みを進めた。
白磁と漆黒の石で造られた手洗い場。壁面の魔導石からは、絶え間なく冷やかな霊泉が湧き出ている。
モルガンは黒革の手袋を静かに外し、袖を捲り上げた。古傷が無数に刻まれた太い腕が露わになる。
バシャ、バシャ……と、常時湧き出る冷やかな霊泉で腕を洗う不穏な音だけが響き渡った。
モルガンは、指先から肘の上までを丁寧に洗い流していく。
それは潔癖ゆえではない。
長年、命の残滓に向き合ってきた彼が、執刀へ意識を切り替えるための、不変の儀式だった。
静まり返った部屋の中で、水音だけが規則正しく響く。
ルークはモルガンの背中を気にしつつも、少しだけ声を潜めてお喋りを再開した。
「……でね、その人間の娘、お花を置いた後に両手を合わせて、お祈りを始めたんですよ。何のためだと思います?」
話したくてうずうずしているルークの様子に、ガルドとモノがチラリと視線を向けたが、スライは壁を向いたまま調合を続けた。誰も問いかけに対する返事はくれなかったが、ルークは気にせず、自慢げに声を低くした。
「『死者への敬意』を示すため、らしいですよ」
もったいぶったルークの小さな呟きが、静かな部屋に落ちた。
その瞬間、冷泉で手を洗っていたモルガンの大きな手が、ほんの一瞬だけピタリと止まった。だが、誰もそれに気づくことはなく、モルガンは何事もなかったかのように再び紫色の消毒薬液を手に馴染ませ始めた。
「けいい……?」
静寂を破って思わず問いかけたのは、単眼の記録係・モノだった。
その瞬間、ルークの片眼鏡の奥の瞳がキランと光る。モノは「しまった」という顔をして口を閉じたが、もう遅い。
「そう! それはですね……」
ルークは意気揚々と語り出しかけ——唐突に言葉を詰まらせ、首を傾げた。
「あれ? なんだっけな……」
壁際の棚に向かって指先をひょいと向けると、彼が浮かべていた羊皮紙が一枚、パタパタと蝶のように飛んできた。ルークはそこに自分で書き留めておいたメモを片眼鏡で読み込み、まるで最初から自分の言葉であったかのように胸を張って語り出す。
「……どれほど恐ろしい怪物だったとしても、ひとつの命が生まれて、そして終わったことに対して、手を合わせて敬意を払うのです!」
ふふん、と鼻を鳴らすルークに対し、ガルドは短く鼻で笑った。
「くだらん。死んだ肉に敬意を払って何になる」
「それだけじゃありませんよ!」
ルークは羊皮紙のメモの次の行に視線を滑らせる。
「『この世から旅立った命が向かう“テンゴク”という場所で穏やかに暮らせるように、残された者たちがお祈りしている』そうなんですよ」
「テンゴク? なんだそりゃ」
ノコギリの刃の噛み合わせを点検していたガルドが、眉をひそめた。
「亡くなった命が還る場所、だそうです。そこは争いも苦しみも差別もないとても美しい場所で、そこに渡った人たちは幸せに暮らしながら、残された者たちを見守ってくれている——人間界では、そう信じられているらしいですよ」
ルークが嬉々として読み上げる。
それまで会話に入らず黙々と調合を続けていたスライが、フラスコを机に置いた。カツンという無機質な音が小さく響く。
「理解不能なカルト思想だな」
スライが、冷ややかに吐き捨てた。
「百年も生きられん軟弱な人間共らしい、無意味な精神的気休めだ。」
スライの鋭い指摘に、ルークは不満げに口を尖らせた。
「えー。僕はなかなか面白い思想だと思うんだけどなぁ」
ルークは不満そうに口を尖らせると、「ほら、両手をこうやって胸の前で合わせて、目を閉じるんですよ」と、メモに書かれた動作を真似てみせる。
スライは細い指先で注射器状の魔導具を持ち上げると、半眼でルークを睨みつけた。
「手を動かせとは言ったが、解剖に関係のない無意味なおままごとをしろとは言っていないぞ、ルーク」
「ちぇ。先輩達はお堅いんだから」
ルークが小声でぶつぶつと文句を言いながらメスの整列に戻ると、手洗いを終えたモルガンが静かに振り返った。
新しい黒革の手袋をゆっくりと手に嵌めながら、彼は解剖台の傍らへと歩み寄る。
その圧倒的な静寂の圧力に、全員が即座に私語をやめ、それぞれの立ち位置についた。
モルガンは解剖台の上に横たわる暴魔熊を見つめ、そして、その頭元に置かれた可憐な花束に視線を留めた。
彼の片方の眉が、微かに跳ね上がる。
「……この花は、なんだ」
モルガンは解剖に対して誰よりも厳格であり、完璧主義者だ。執刀の妨げとなる無駄なものを一切許さない。それを熟知している部下たちは、息を殺してその場に固まった。
さっきまで雄弁だったルークは、青ざめた顔でさっと目を伏せる。だが、ガルドたちの静かな視線が一斉にルークへと集まり、腹を括るしかなかった。彼は、冷や汗を流しながら消え入りそうな声を絞り出す。
「……へ、陛下の……お姫様が、手向けにと持ってこられたお花でして……勝手に処分していいものか、迷っておりまして……っ」
モルガンが無言で花を見つめている時間が、あまりにも長く感じられた。
ルークは必死に名誉挽回を図るように、早口で捲し立てる。
「す、すぐ捨てます! 今すぐゴミ箱に……っ! あ、いや、花瓶を用意してどこか遠くの棚に……っ!」
目の前の厳格な長官に怒られる。あるいは魔王の逆鱗に触れて消される。ルークは、二つの恐怖の狭間でパニックを起こしているような慌てっぷりだ。
けれど、モルガンは黒革の手袋を指先まで静かに馴染ませると、短く呟いた。
「……構わん。置いとけ」
「……へ?」
ルークの間抜けな声が零れた。
ガルドも、スライも、モノも、自分の耳を疑ったように目を丸くし、お互いに顔を見合わせた。
あの職人気質で無駄を何より嫌うモルガン長官が、解剖に一切関係のない「花」をそのまま台の上に置くことを許すなど、あり得ないことだったからだ。
静まり返る部屋の中で、モルガンは、暴魔熊の冷たく固まった顔と、そこに添えられた小さな花束をじっと見つめていた。
やがて、周囲の困惑をよそに、モルガンは黒革の手袋を嵌めた両手を、ゆるやかに胸の前へと持ち上げた。
そして——。
ルークがさっきおどけて見せていた動作をなぞるように、無骨な大きな手を合わせ、太い指を静かに組み合わせた。
そのまま、古木のような角を持つ頭をわずかに傾け、両目をそっと閉じる。
「……モ……モルガン長官……? 一体、なにを……」
スライが困惑を隠しきれず、掠れた声で問いかけた。
ガルドも、モノも、信じられないものを見る目で長官の背中を見つめている。人間界の文化を、半ば面白おかしく語っていたルークでさえ、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
組み合わされたモルガンの無骨な手。
これまで、数多くの防衛線を食い破り、命を奪ってきた暴魔熊の屍肉。
そして、その頭元で青白い光を浴びて咲く、可憐な花々。
モルガンは目を閉じたまま、低く、重い声を落とした。
「……ほんの数秒だ。付き合え」
解剖台を囲む全員が、言葉を失った。
人間のおままごとのような儀式。無意味な精神的気休め。
ルークが話していた異世界の戯言を、誰よりも真面目に受け止めたのは、この頑固な長官だった。
最初に動いたのは、ルークだった。
戸惑いの表情は消え、彼の口元がにんまりと嬉しそうに緩むと、どこか誇らしげな笑みが浮かんだ。そして、得意げに自分の両手を胸の前で合わせ、指を組んで目を閉じる。
続いて、単眼のモノがモルガンとルークを交互に見やったあと、迷いながらも小さな手を胸の前で組む。
残されたガルドとスライは、互いに心底理解できないといった風に戸惑いの視線を交わし合った。
効率と成果だけが求められるこの解剖室で、こんな意味のない行為に何の意味があるのか。
強さがすべての魔界では、死者の命を惜しむことなど、正気の沙汰ではなかった。
だが、彼らは「敗者の肉体」をただ捨てるのではなく、そこに残された情報を解き明かし、次の命を守るために人生を捧げてきた解剖医でもある。
ガルドは、観念したように、重い溜息をひとつ吐くと、ゴツゴツとした巨大な岩の手を、ぎこちなく胸の前で組んだ。
スライもまた、苦笑するように浅く息を吐き、細い指先を不器用に組み、静かに目を閉じた。
冷え切った地下の特別解剖室。
恐ろしい異形たちが、解剖台の上に横たわるかつての暴魔に向かい、不器用に、けれど静かに手を合わせていた。
言葉はない。祈りの言葉も、呪文もない。
天井の魔導灯が放つ青白い光だけが、彼らの影を石床に長く落としている。
数秒の静寂。
それは、彼らがこれまで生きてきた気の遠くなるような年月の中で、初めて訪れた、名もなき命への「無言の祈り」の時間だった。
やがて、モルガンが静かに目を開けた。
組んでいた手を解き、整然と並べられたメスを手に取る。
「……これより、特級個体の初期検分および解剖を開始する」
静かで、いつも通りの低い掠れ声。
「はいっ!」
ルークたちの引き締まった返事が、密室に響いた。
ガルドが鎖の具合を確かめ、スライがフラスコを持ち上げ、モノの羊皮紙が滑らかに浮遊を始める。
いつもと変わらない、異形の職人たちの現場が動き出す。
暴魔熊の頭元で静かに寄り添う小さな花束だけが、青白い光の中で、ほのかに温かな陰影を落としていた。




