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第21話 魔王の祈り

白銀の庭園を後にし、未亜はヴェルラウトの太い腕に抱き寄せられたまま、東の塔の中へと引き返した。

 

柔らかな陽光に照らされる螺旋階段を上り、高所に架かる一本の空中回廊へと踏み出す。

そこは、東の塔と魔王城の本丸を結ぶ唯一の道だった。眼下に広がる城塞の巨大さに足がすくみ、吹き抜ける風の冷たさに身を縮めると、ヴェルラウトの腕が逃がさぬように未亜の肩を一層強く引き寄せた。

 

回廊を渡りきり、中央主塔の裏手へと入った瞬間、世界から光が消え去った。


白銀鉱石に包まれた美しい景観は姿を消し、代わりに未亜の視界を埋め尽くしたのは、漆黒の大理石と威圧的に切り立つ黒銀の尖塔群だった。重厚で、冷酷で、一切の情を拒絶するような魔王城の主塔。

光の入らない日陰の通路は湿り気を帯び、ひんやりとした不気味な静寂が足元から這い上がってきた。


廊下をすれ違う甲冑の兵や巨漢の従者たちが、重い足音を響かせて通り過ぎていく。彼らが放つ異様な威圧感と鋭い眼光に触れるたび、未亜の心臓は跳ね上がり、呼吸が浅くなった。


「……ひっ」


暗がりからぬっと現れた異形の従者の影に、未亜の唇から小さな悲鳴が漏れた。

その瞬間、肩を抱いていたヴェルラウトの太い腕にぐっと力がこもり、引き寄せられる。彼の胸元から伝わる微熱のような体温と、深い森を思わせる厳かな香りが未亜を包み込み、外界の恐怖を強引に遮断した。

 

主塔の不気味な暗がりを通り抜け、城の最北——「北の離れ」と呼ばれる区域へ至ると、そこにはこれまでの美しさとも荘厳さとも異なる、異質な建築物が佇んでいた。


主塔の装飾性とは無縁の、黒色玄武岩を粗く削り出して積み上げた要塞のような五角形の塔。窓は極限まで小さく、頑丈な鉄格子が嵌め込まれ、建物全体から異質な圧迫感が放たれていた。

周囲には、薬品と異様な魔力の混ざり合った匂いがかすかに漂っている。外壁を埋め尽くす、魔力を遮断するための不気味な紋様を見上げ、未亜は「生き物の気配がしない」という底知れぬ恐怖に身を震わせた。


重厚な鉄の扉の前で、ヴェルラウトが足を止めた。背後からついてきていた侍女たちに向かい、振り返ることもなく言い放つ。


「お前たちはそこで待っていろ」


本来、最高機密情報が集められているこの研究棟へは、魔王とごく一部の研究員、あるいは限られた医療兵以外の一切の立ち入りが禁じられている。そんな聖域であり禁域でもある場所へ、ただの人間に過ぎない未亜を伴うこと自体が、魔王城の中でも異例中の異例だった。

 

「……はい、陛下。こちらで控えております」


ステラが静かに深々と頭を垂れ、ネルも緊張した様子でその場に控えた。

 

ヴェルラウトは、扉に手をかける直前、未亜の肩を包む手に力を込めると、彼女の顔を覗き込んだ。


「……俺から、絶対に離れるな」 


庭に出る前にも聞かされた言葉。けれど、その響きは先ほどよりも遥かに重く、鎖のように未亜の耳に絡みついた。


「……はい」


未亜が小さく頷いたのを確認すると、ヴェルラウトは重厚な鉄扉を押し開けた。


中に一歩足を踏み入れた瞬間、未亜は思わず呼吸を詰まらせた。

そこは、仄暗い白銀と漆黒の空間に青白い魔導灯が細々と灯る、静まり返った場所だった。壁沿いには、見たこともない巨大な獣の骨格標本や、怪しげな液体が満たされた硝子瓶が整然と並んでいる。薬草と防腐剤が混ざり合った独特な匂いが立ち込め、足音一つ響かない。無機質な冷たさは、どこか人間界の病院を思わせた。


二人は通路の奥にある昇降機(エレベーター)へと進んだ。

人間界のような金属の箱ではなく、黒鉄の骨組みと紫色の魔導陣で構成された重厚な檻のような昇降機。ヴェルラウトが右手をかざし魔力を注ぐと、足元の魔法陣が怪しい光を放ち、一瞬の浮遊感の後、ゴゴゴと地響きのような不気味な音を立て、滑るように深部へと下降していく。


ガコン、と重い音を立てて停止した階層は、地下二階。

鉄格子が開いた瞬間、未亜の肌を襲ったのは、これまでとは比較にならない死の気配だった。


「……っ」


凍りつくような冷気に、未亜の小さな肩が大きく震えた。吐き出した息が、白く染まっていた。


「寒いか」


すかさず、ヴェルラウトの手が伸びる。未亜が羽織っていた漆黒の毛皮ケープの端を引き寄せ、ケープの前を隙間なく重ね合わせるようにして胸元を覆い直した。彼の手が擦れた瞬間、厚い毛皮の奥から彼特有の微熱のような体温と香りが立ち上り、氷点下の空間の中で未亜の身体を包み込んだ。


天井から吊り下げられた薄青い氷結晶の魔導灯が、地下深く削り出された広大な岩窟を照らし出している。

「永久凍結結界」によって常に氷点下に保たれたその部屋は、大型検体保管庫——遺体安置所だった。

  

視線を中央へ向けると、そこに滑らかな黒大理石の巨大な台座が鎮座していた。

その上に横たえられていたのは、全長五メートルを超える巨躯——昨夜の暴魔熊だった。


青白い氷の光に照らされた姿は、昨夜の禍々しい暴虐さが嘘のように、静かに冷たく固まっている。

ヴェルラウトの右手から放たれた漆黒の刃によって二つに断ち切られた巨躯は、傷口をぴったりと合わせるように台座の上に横たえられていた。左前足の付け根には、昨夜未亜が懸命に巻きつけた白いセーターが残っている。けれどそれは、土と埃、そして黒く凝固した血にまみれ、いまや原型を留めぬほど汚れ切っていた。


その保管台のすぐ傍らに、見慣れぬ人影が立っていた。

ヨレヨレのTシャツにチノパン、その上から白衣を羽織った長身の若い魔族の男。頭からは小さな二本の角が生え、長い垂れ耳をときおりパタパタと揺らしている。手元には、浮遊する魔導羊皮紙と羽ペンが怪しく漂っていた。


突然現れた城の絶対君主と、その腕に抱かれた人間の娘を目にし、若い男は片眼鏡の奥の瞳を丸くして固まった。

 

「へ、陛下……!? 解剖の予定時刻にはまだ時間がございますが……っ、何か緊急の事態でも……?」

 

男は震え上がりながら、恭しく腰を折った。

ヴェルラウトは男の動揺に一切意を払わず、顎で台座の上の巨獣を示した。


「それに、花を手向けに来た」

「た……手向け……?」


白衣の男は虚を突かれたように間抜けた声を漏らし、片眼鏡の奥の目をパチクリと瞬かせた。魔王が、人間の娘を連れて、冷たくなった暴魔熊に花を捧げに来る——その状況が全く理解できていない様子だった。


「何か不都合でもあるのか」


冷徹な琥珀の瞳が低く射抜くと、青年は跳ね起きるように直立した。


「め、滅相もございません! どうぞ、ごゆるりと……っ!」


焦り散らす若い男は、何が「ごゆるり」なのか、自分でも分かっていない様子で激しく首を振った。そして、ガチガチに緊張した面持ちで、自分の名を名乗った。

 

「あ、あの……っ、私、現場記録を担当しております、ルークと申します……っ!」


未亜が思わず彼の方へ視線を向けても、ヴェルラウトはルークなど視界に入っていないかのように、ただ冷たく検体を見つめている。 

ルークは引き攣った笑みを浮かべ、必死に言葉を繋いだ。

 

「本日は、解剖医長のモルガンより、検体の死後硬直および残留魔力等の『初期検分』を命じられておりました……っ!恐縮ながら、現状保全のため、手向けに立ち会わせていただいてもよろしいでしょうか……っ?」


必死に頭を下げるルークに対し、ヴェルラウトはチラリと視線を流しただけだった。


「勝手にしろ」


短く吐き捨てると、ヴェルラウトは未亜の肩を抱いたまま、台座の傍らへと歩み寄った。

胸を撫で下ろしたルークは深々と一礼し、静かに壁際へと身を引く。浮遊する羊皮紙と羽ペンも、静かに彼の後を追っていった。

 

台座の傍らに立った未亜は、目の前に横たわる巨獣を静かに見つめた。

昨日、自分に襲いかかってきた恐ろしい化物。昨夜は暗闇と恐怖でよく見えなかったが、青白い光の下で見るその身体は、全身が傷だらけだった。無数の古傷と新しい傷跡が痛々しく刻まれている。

致命傷となったのはヴェルラウトの漆黒の刃と切断痕だが、それ以前にも、この魔獣は数え切れないほどの戦いをくぐり抜けてきたのだと分かる。

昨夜、自分を襲おうとした恐怖。城の防衛網を食い破るほどの凶暴さ。この魔獣がどれほど多くの命を奪ってきたのか、未亜にも想像がついた。


それでも——。

 

未亜は胸元に抱えていた小さな花束を、そっと魔獣の冷たい顔の横へと添えた。

東の塔で摘んできたばかりの花々が、青白い光の中で静かに寄り添う。


未亜は両手を胸の前で合わせ、そっと指を組んだ。

目を閉じようとしたその時、隣から低い声が降ってくる。


「……お前は、昨夜もそれをしていたな。なぜ、両手を合わせる」


耳元に落ちてきたヴェルラウトの不審そうな声に、未亜は指を組んだまま顔を上げた。

琥珀ゴールドの瞳で自分を見下ろす彼の表情には、心底わけが分からないといった困惑が浮かんでいる。魔界には、死者に手を合わせるという文化も概念も存在しないのだと、未亜はその時初めて悟った。

 

「……亡くなった命への、敬意を示すためです」


静かに答えた未亜の声に、壁際から「へ?」と素っ頓狂な声が漏れた。

未亜とヴェルラウトの視線が一斉にそちらへ向くと、ルークは慌てて両手を振り、「す、すみません……っ!」と縮こまり、逃げるように浮遊する羊皮紙へと視線を向けた。羽ペンが慌ただしく羊皮紙の上を滑り始める。

 

ヴェルラウトの興味は、すぐに未亜へと戻る。


「敬意とはなんだ。それは、ただの肉の塊だ」


未亜は少しだけ哀しそうに目を伏せ、物言わぬ巨躯を見つめた。そして、静かに首を横に振る。

 

「いいえ。昨日、あの瞬間まで……一生懸命に生きようとしていた、かけがえのない命です。どれほど恐ろしい怪物だったとしても、ひとつの命が生まれて、そして終わったことに対して……手を合わせて、敬意を払うんです」


言い終えると、未亜はそっと目を閉じた。


弱肉強食がすべてを統べる魔界。強者は千年以上を生き、弱者であっても百年を超えて生き抜く。生きるために強くなり、弱ければ踏みつけられて消えていく世界の理の中で、散っていった「敗者の命」に敬意を払うという発想など、彼らにあるはずもなかった。

寂しいけれど、それは、当然のことなのかもしれない。

だから未亜は、目を閉じたまま、そんな彼にも伝わるように静かに言葉を重ねる。


「……それから、この世から旅立った命が、その先にある『天国』で、心穏やかに暮らせるようにお祈りをする……という意味もあります」

「テンゴク……? なんだ、それは」


天国という概念すら存在しないことに、未亜は閉じたまぶたの裏で驚きを覚えた。

 

「亡くなった命が還る場所です。そこは、争いも、苦しみも、差別もないとても美しい場所で……そこに渡った人たちは幸せに暮らしながら、残された私たちを見守ってくれている——人間界ではそう信じられています」


壁際で、浮遊する羽ペンが走る音がかすかに止まり、ルークの大きな長耳がぴくぴくと小刻みに跳ねていた。片眼鏡の奥の目を輝かせ、あからさまに全神経をこちらに集中させている気配が漂う。


ヴェルラウトは鼻を鳴らし、彼らしい嘲笑を吐き捨てた。


「ほう。死んだ後に逝く場所か。……なんとも退屈そうな場所だな」


その呆れたような不遜な物言いと、いかにも魔王らしい感想に、未亜の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……それでも、天国が、この子にとって……とても優しくて、温かい場所でありますように、と。そう願って、私はお祈りを捧げたいです。」


未亜の柔らかく澄んだ声が、凍てつく遺体安置所の冷気を溶かすように、じんわりと温かく広がっていく。

 

「そうか」


ヴェルラウトが静かに呟いた。


祈りを捧げたい、と告げた未亜。けれど、組み合わされた彼女の指先は、かすかに震え始めていた。 


(ごめんなさい……。私が逃げ出したりしなければ、こんな痛くて恐ろしい思いをさせずに済んだのに……本当に、ごめんなさい……)

 

本来、この暴魔熊は解剖のために処分される運命だった。未亜が脱走しなかったとしても、いずれは同じ結末を迎えていたのかもしれない。

けれど、自分が逃げ出さなければ、最期にこれほどの苦痛を味わわずに済んだのではないかという自責の念が、未亜の胸を固く締め付ける。

未亜は、罪悪感と痛みに苛まれながら、唇を噛み締め、震える手で祈りを捧げていた。

  

組み合わせた指先に力が入り、震えが強まったその時——。


ふっと、肩を抱いていたヴェルラウトの長く逞しい腕が離れた。

王妃の間を出てから片時も離れなかった重みが消え、肩に残る体温の余韻だけが残る。

 

「……どうやるんだ。こうでいいのか」


未亜が不審に思ってそっと目を開けると、すぐ隣に立つ男の姿に、言葉を失った。

隣に立つヴェルラウトが、自分の大きな手を胸の前で突き合わせていた。昨夜、一撃でこの魔獣を切り裂いたその殺戮の手が、どう扱っていいか分からないように、不器用に、無骨に組み合わされている。


驚きに未亜の瞳が揺れ、そこに溜まっていた涙が、水晶のように光を反射した。


魔王であるヴェルラウトが、誰かのために手を合わせる。

それが、どれほどありえないことなのか。

ましてや、その相手が、検体となった肉の塊だなんて。

彼の魔王としての誇りも、強者としての理も、許すはずがない。

魔界のことをまだ何も知らない未亜にも、それだけは分かった。


それでも今、彼は不器用に、未亜に寄り添おうとしてくれている。

少なくとも未亜には、亡くなった命にも敬意を払おうとしてくれているように見えた。


罪悪感に押し潰されそうになっていた未亜の胸に、その不器用な優しさが、温かな灯火となってゆっくりと広がっていく。

強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていくのが分かった。

  

「……はい。そうです。そして、そっと目を閉じて……」


未亜の言葉に促されるように、ヴェルラウトは不器用に、静かに瞼を閉じた。


「お祈りしましょう。この子が、安らかに眠れるように」


未亜が再び目を閉じ、祈りを捧げる。


その隣で、ヴェルラウトがうっすらと片目を開けた。

祈るように手を合わせながらも、ヴェルラウトの意識は隣にいる未亜から離れなかった。


もう肩は震えていない。呼吸も、先ほどより穏やかになっている。

それを確かめるたびに、胸の奥に小さな安堵が広がっていく。


魔獣がなぜ、死者になったあとまで敬われるのか。

自分を殺そうとした相手に、なぜ未亜が涙を流すのか。


ヴェルラウトには、いまだに理解できない。


けれど――。


目の前で震えていた小さな肩が、自分が同じように手を合わせただけで、ほんの少しだけ力を抜いた。

それだけでよかった。


祈りの意味も、死者を敬うという人間の習慣も、彼にはまだ分からない。

理解する必要さえなかったのだ。

 

彼が知りたいのは、どうすれば未亜は泣かないでいてくれるのか。どうすれば笑ってくれるのか。それだけだ。   


ただ、隣にいる未亜が泣かずに済むのなら。

彼女が少しでも穏やかな顔を取り戻せるのなら。

自分が斬り伏せた相手に手を合わせることくらい、どうということはない。

未亜が笑ってくれるためなら、魔王としての誇りも、強者としての理も、今だけはどうでもよかった。

ましてや、こんなところを誰かに見られていることなど、気にする価値すらない。


なぜなら、今のヴェルラウトにとって大切なのは、ただひとつ。


自分の隣にいる小さな少女が、もうこれ以上、悲しまないことだった。

 

「あ、」

  

静けさの中、未亜が目を閉じたまま、不意に何かに気づいたように小さな声を漏らした。

隣でこっそりと未亜を盗み見ていたヴェルラウトが、怪訝そうに微かに眉を歪める。


「魔王さんも……ごめんねって、謝ってもいいんですよ? ちょっとやりすぎちゃって、ごめんなさいって」


目を閉じた未亜の口元には、かすかな、けれど確かな悪戯っぽい微笑みが浮かんでいた。

その隣で、ヴェルラウトの整った眉が不機嫌そうに寄った。


「……俺が謝る理由などない。謝罪すべきは、ミアに手をあげたこの愚か者のほうだ。俺はまだ許しておらん」

 

吐き捨てられた言葉は、どこまでも身勝手で傲慢な魔王そのものだった。


「テンゴクとやらで、自らの過ちを悔いることだな」


けれど——目を閉じたままの未亜には見えなかったが、隣で不器用に手を合わせるヴェルラウトの薄い唇は、さっきまで泣きそうだった未亜の表情がほんの少し明るくなったことへの愛おしさに耐えかねるように、嬉しそうに緩んでいた。


冷たい氷結の保管庫の中に、二人の静かな時間が流れていく。



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