第三十八話 恩師の音
〜前回のあらすじ〜
昼休みに菫を呼び寄せた一人の男。
その人物は金村栄治郎。
なんと菫は、彼の秘書との間にもうけられた隠し子だった。
湧き上がる憎悪の感情。
そんな菫を救ったのは、彼女のドラムの師であり腹違いの兄姉である茂輝と豊水だった。
VIPルームを背に、少し離れた広間。
大きな窓の前に並ぶベンチへ、三人の兄妹が腰掛けていた。
二宮茂輝。
二宮豊水。
そして、丸山菫。
苗字は違う。
それでも、三人には確かな血の繋がりがあった。
豊水は、まだ震えの残る菫の背中をゆっくりと摩っていた。大きく束ねたポニーテールも、心配するかのように揺れている。
その隣で、茂輝が腕時計へ目を落とした。
そろそろ、午後の部が始まる。
けれど、今は急かさなかった。
妹の呼吸が落ち着くまで、二人はただ黙って待っていた。
幼い頃。栄治郎が代表を務める金村コーポレーションや、親族である澤森財閥のパーティーで、茂輝と豊水は一人の少女と出会った。
丸山菫。
当時はまだ、彼女が自分たちの腹違いの妹だとは知らなかった。
ただ、親同士の付き合いで顔を合わせる少女。それだけだった。
まさか自分たちの父が、秘書との間に子をもうけていたなど——そんな事実を、幼い二人が知る由もなかった。
やがてその事実を知ってしまうと、家庭は一気に冷え込み、四年前に両親は離婚した。
茂輝と豊水の親権は母親が持つことになり、それ以来、二人は母方の姓である「二宮」を名乗っている。
父・栄治郎とは、別の姓。
——それでも。
三人の間にある血の繋がりだけは、消えることがなかった。
「……ありがとう」
菫は、切れそうな糸を繋ぎ止めるような声で呟いた。
「……先生たちが来てくれなかったら、今頃……」
その先の言葉は、内側へ落ちて消えた。
茂輝や豊水も、菫が従妹の貴子と同じ高校に進学したことは聞いていた。
クラスは違っても一緒に勉強していたこと。一緒にバンド活動を始めたこと。合宿へ行ったこと。
その全てを、菫は恩師でもある茂輝と豊水に、無邪気に話してくれていたのだ。
だが後に菫は、自身が栄治郎の隠し子であること、そして茂輝たちの家族が崩壊した原因であることを知ってしまう。
茂輝に密かな想いを寄せていた菫は、しばらく現実を受け入れられずにいた。
「……菫が出ると知ったときは、驚いたよ」
茂輝はそっと頭を撫で、菫の正面へかがみ込んだ。
昔から変わらない、静かな温もり。
さっきまでの反吐が出るほどの寒気が、スーッと引いていく。
「あなたにも苦労させたわね。……って、本当はあの変態が言うべきなんだろうけど」
「……豊水さんも、駆けつけてくれてありがとうございます」
「……豊水さん、か」
豊水は、少しだけ眉を下げた。
その声のトーンに、茂輝も微かに顔を顰める。
「他人行儀なのは、少し複雑」
「……だって」
菫は、俯いた。
「私が……二人の家族を壊した原因だから」
「違う」
茂輝が、静かに割り込んだ。
「菫が悪いんじゃない。子どもが親のしたことに責任なんて、持てるわけないんだから」
その声は、どこまでも穏やかだった。
菫は何も言えず、ただ唇を噛む。窓の外を走り抜ける総武線の重い塗沫音が、無情に耳を劈いた。
「……それで」
軽く咳払いをした後、豊水は重たい空気を払うように口を開いた。
「……この大会に出た理由、兄さんでしょ」
「……え?」
「顔見りゃわかるわよ。何年相談に乗ってきたと思ってんの」
豊水は妹が顔を上げたのを確認してから、買ったばかりのコーヒーに口をつけた。
ふと、菫と茂輝の目が合う。
幼い頃から憧れてきた存在。
茂輝は菫や貴子の六歳上で、現在はロックバンドでドラムを担当している。高校同期の四人で結成し、二十歳の現役大学生時にメジャーデビュー。それから僅か三年で、国民的バンドへと成長を遂げた。
clown splasher——通称クラスプ。
今大会の優勝特典である武道館コンサートの前座枠。その本公演こそが、彼らのステージだった。
小学五年生の時。
母親に連れられて行った高校の文化祭。
年上の幼馴染が立つステージ。
幕が上がった瞬間からの高揚感は、今でも鮮明に覚えている。
あんな風に、誰かを魅了したい。
ただ彼に近づきたい一心で、菫は当時茂輝が講師としてアルバイトしていた音楽教室に通い、ドラムを始めたのだった。
「……先生と同じステージに、私も立ちたい」
菫は顔を赤らめる。
本心を言い当てられても、不思議と嫌な気はしない。
豊水と茂輝も、懐かしそうに顔を見合わせた。
「……人一倍負けず嫌いだったな、菫は」
「最初の方は、うまくいかなくて泣きじゃくってたよね」
「うるさい!!」
三人は、音楽教室時代の思い出を笑い混じりに語り合う。
もし叶うのなら、何も知らなかったあの頃に戻りたい。話せば話すほど、甘い思い出が胸を強く締め付けた。
「……悔しいか?」
「……何が?」
「いや。お前のバンドの方でも、いろいろあったみたいだからな」
「……いろいろ、ね」
菫は深く息を吸った後、天井を見上げた。
円形の蛍光灯の明かりの中に、貴子と衝突した夜の光景が重なって浮かび上がる。
「……菫があの子と敵対関係になってしまったのは、俺たちにも責任がある。
巻き込んでしまって、すまなかったな」
豊水も兄の言葉に、静かに目を伏せた。
幼い頃は仲良く遊ぶことも多かったが、両親の離婚以来、父側の親族である澤森家との関わりは皆無に等しい。
「……一度見てみたかったな。妹と従妹の共演を」
「バカなこと言わないで」
「りさこわもの一件にもあの人が関わっていたなら、どのみち時間の問題でこうなってた」
「……だから、二人は何も悪くない」
言い終えた声は、かすかに震えていた。
茂輝は何も言わず、小さな菫の体を両手で優しく包み込んだ。
自分たちが抱える傷もまた、同じなのだと諭すように。
♫♫♫
「……じゃあ、もう行くね。お弁当もありがとう」
昼休みも終わりに近づき、菫は仲間たちの待つ控え室へ向けて立ち上がった。
「……落ち着いてな」
「……うん」
菫と茂輝は、そっと手を取り合う。
「……あの人のことは、気にしなくていいから。思いっきりやりなよ」
豊水は一度VIPルームへ視線を向け、細く息を吐いた。
「……ありがとう。二人も気をつけてね」
菫は引き攣ったような笑みを残し、非常階段を上っていく。遠ざかる小さな背中を、茂輝はどこか寂しげに見守っていた。
「あの子、まだ思ってるのかな?」
「何が?」
「……いや、昔兄さんに言ってたじゃん」
『大人になったら、先生と結婚する』
ドラムを習い始めた頃の菫は、目を輝かせてそう意気込んでいたものだ。
豊水のどこか懐かしむような問いかけに、茂輝は目を細める。
「……昔の話だろ。あの子だって、もうわかってるさ」
「……だといいんだけど」
豊水は小さく息を吐き、再びベンチに腰を下ろした。
茂輝はもう一度だけ菫の消えた階段を見つめてから、胸ポケットからスマホを取り出す。
「……あと二人か」
画面に表示されたPDFファイルへ目を落とし、茂輝は低く呟いた。
「……相変わらず熱血講師~」
「悪いかよ」
出演を控える教え子たちの演奏に期待を寄せる兄の姿に、豊水は口元を緩める。
「それにしてもびっくりだよね。
この大会に兄さんの教え子が三人も出てるなんてさ。
まぁ、そのうち一人はパート変わってるけど」
「……何の因果だろうな」
茂輝は缶コーヒーを一口飲むと、くるりと窓辺を向き、外の景色に目をやった。入道雲が広がる青空の下を快速電車が爽やかに通り抜ける。
「……率直にさ、さっきの演奏。兄さんの中では何点なの?」
「好恵ちゃんの演奏か? そりゃ申し分ないよ」
三年前。
父の会社の役員の娘である直居好恵は、まだ中学一年生だった。習い始めた当初は極度の人見知りで、少し注意されただけで泣いてしまうような子だった。
それでも彼女は、着実に努力を重ねてきた。吹奏楽の強豪校でコンクールメンバーに選ばれるまでに成長し、今では圧倒的な実力でバンドを支えている。開会式の前に挨拶を交わした際も、昔とは別人のように凛と背筋を伸ばしていた。
「……で、何点?」
「よせよ」
豊水に顔を覗き込まれ、茂輝はどこか決まり悪そうに視線を逸らした。窓から差し込む陽射しが、二人を優しく照らしている。
「……貴子も、随分大人になっていたな」
「最後に会ったの、いつだったっけ?」
その名が出た瞬間、茂輝の表情がわずかに曇った。
貴子の小学校卒業を記念して開かれた食事会。
当時からどこか大人びていた従妹。
けれど時折見せる屈託のない笑顔に、自分たちも、両親も、澤森財閥の人間すらも、皆が苦しい現実を忘れたように笑い合っていた。
それからわずか数日後に、家族が崩壊するなんて——誰も思いもしなかった。
「……ねぇ。もしだよ。もしこの大会で貴子たちが優勝したら、私たちどうなっちゃうのかな?」
「……どうって?」
「ほら。あの一件以来、お父さんは澤森財閥の人たちと接触禁止でしょ」
豊水は、ずっと胸の奥で危惧していた不安を、恐る恐る茂輝へ打ち明けた。
優勝者だけに立つことが許される、武道館のステージ。
そこには、父の会社である金村コーポレーションがスポンサーとして深く絡んでいる。
もしナギサノユラギが勝ち進んだ場合、貴子は栄治郎の関わる案件に携わることになってしまうのだ。
間接的な接触すらも禁止——たとえ不可抗力であったとしても。
もしその取り決めが破られれば、過去の不正取引までもが白日の下に晒されることになる。そうなれば栄治郎は失脚。コンサートどころではなくなるだけでなく、茂輝たちのバンドへの信頼すら揺らいでしまうことは容易に想像できた。
さらに万が一、父の不倫の事実まで公になれば、世間からの矛先は菫にまで向きかねない。
そんな最悪の結末が、二人の脳裏を駆け抜けた。
「……考えるな、そんなこと」
茂輝は飲み干した紙コップを強く握り締め、顔を仰いだ。
行いはどうあれ、父親であることに変わりはない。自分たちまで見限ってしまえば、ここまで引き上げ、支えてくれた恩を仇で返すことになってしまう。
それだけは、絶対にあってはならない。
茂輝は、もどかしさの混もった長い息を吐き出す。
窓の外から届くアブラゼミの声や救急車のサイレンが、ひどく遠くに聞こえた。
しばらくして、茂輝のスマホが震える。
「……すまない、ひとつ仕事の電話をしたい。昼休みも終わるし、俺はこのまま客席に戻るよ」
「わかった。じゃあ、また後で」
潰した紙コップをゴミ箱へ捨て、茂輝は喫煙室の方へと足を進める。豊水もまた、エレベーターへ向けて立ち上がった。
「……豊水」
不意に、茂輝が豊水の背中へ声をかけた。
その声が珍しく微かに震えていることに、豊水は戸惑いを覚える。
「……俺たちなら大丈夫だ。俺の教え子たちは、みんな立派なプレイヤーだから」
音楽の力は、権力なんかに負けたりしない。
胸中でそう呟くように告げると、茂輝はゆっくりと踵を返した。豊水にはその背中が、あまりにも悲しく、そして儚く見えた。
広間一面に、空虚な足音が響き渡る。
小さな不安と、大きな思惑。
譲れぬ覚悟と、揺れる想い。
それぞれの感情を抱えたまま、昼休みは静かに終わりを告げた。
ご覧いただきありがとうございます。
この作品、比較的良好な家庭環境が多いですのでかなり異色の回だと思います。
菫に纏わる内容も描いていきます!
本筋であるバンドの大会が霞まないように頑張ります笑
それでは次回もお楽しみに
夜留タクト




