第三十七話 家族の音②
〜前回のあらすじ〜
香織たちは、大会を見にきた家族と共に昼休みを過ごしていた。
出番に備え、身体を解す智子と雪穂。
妹の結衣と忙しなくはしゃぐ美羽。
その中で香織は、美羽がこれまで見せたことのない一面を知る。
賑やかに騒いでいる仲間の姿に、香織は隆志への想いを固めていく。
♫♫♫
エレベーターのドアが開く。
先に歩き出した秘書の女性に続き、菫も乗り込む。女性が素早くドアを閉めると、再び動き出したエレベーターの音が、やけに重く響いた。
まるで、運命からは逃れられないと嘲笑うかのように。
女性は、一言も話さなかった。
ただ淡々と、気配を押し殺すように立っている。
懐かしい、凍てつくような緊張感。
菫は長く息を吐き、乱れそうになる呼吸を整えた。
やがて、エレベーターが停止する。
ドアが開く。
そこは、関係者のみが立ち入りを許された階だった。
綺麗に手入れされた会議室が、視界の横をいくつも通り過ぎていく。
その一番奥。
手前まで来たところで、秘書の足が止まった。
他の部屋とは違う。
この部屋のドアノブだけは、金で造られている。
「……ちゃんと食べてる?」
秘書の女性は背中を向けたまま、後ろにいる菫へ、ぎこちなく尋ねた。
「……仕事中でしょ」
短い返事。
それきり、沈黙が落ちる。
菫は小さく拳を震わせた。
深く息を吸い、もう一度口を開く。
「……それより、なんであの人と会わなきゃいけないわけ?」
女性の肩が、わずかに強張った。
少しだけ間を置いてから、
「……指示ですので」
他人行儀な声で答える。
そして、静かに扉へ歩み寄った。
菫は、その背中をじっと見つめる。
何か言いたげに唇を動かしかけるが、結局、何も言えなかった。
深く息を吸う。
目を閉じる。
そして——
コン、コン。
ノックの音が、静かな廊下に響いた。
「……失礼します」
ゆっくりとドアが開く。
得体の知れない空気が、部屋の奥から流れてきた。
「……菫様をお連れしました」
慣れない呼び方に、菫は顔を顰める。
「ご苦労様」
その男の声を聞いた瞬間、全身に寒気が走った。
笑い方だけでも、ぞっとする。
菫は秘書に促されるまま、渋々、部屋へ足を踏み入れた。
「……しばらくだね。元気かい?」
「……どういうつもり?」
男は、不敵な笑みを浮かべて菫を迎え入れる。
その態度が、余計に腹立たしかった。
テーブルの上には、予約が取れないことで有名な料亭の弁当が、綺麗に並べられている。
「立ち話も疲れるだろう。座りたまえ」
菫は動かない。
頑なに、座ろうとしなかった。
秘書の女性は、その様子に小さく顔を伏せる。
男はそれを見て、ふっと息を吐いた。
やがて急須を手に取り、湯呑みにお茶を注ぐ。
そのまま、ゆっくりと菫へ近づいた。
「そんなに警戒しないでくれたまえ。
私が一度でも、君に危害を加えたことがあったか——」
「来ないで!!」
気づけば、声を荒らげていた。
恐怖と怒りと軽蔑。
いくつもの感情が入り混じった叫びが、自分の胸を突き刺す。
男は一瞬だけ足を止めた。
そして、手にしていた湯呑みを近くの席へ丁寧に置く。
「……君はもういい。休んでくれ」
秘書の女性へ、穏やかに微笑みかける。
男はそのまま、先ほどまで座っていた対角線上の席へ腰を下ろした。
女性はもう一度、深く顔を伏せる。
そして静かに踵を返した。
ドアノブに手をかける直前——
菫と、一瞬だけ目が合う。
「……失礼します」
ゆっくりとドアが閉まった。
その直後、空調の音だけが、やけに大きく響いた。
「……名前で呼んであげないんだね」
しばらく睨み合ったあと、菫が口を開いた。
「それがどうしたんだね?」
男は表情一つ変えず、ジャケットの襟を整える。
その余裕のある仕草が、じわじわと空気を歪ませていく。
菫は大きく息を吐き、男の顔を見ないように椅子を引いた。
「……これから出番だろう。
君の好きな魚料理だ。しっかりと味わってくれ」
「いらないわよ。それに、アンタとなんか食べたくない!」
菫は背を向けたまま、机を叩いた。
乾いた音が、部屋いっぱいに響く。
その音は、閉じられたドアの向こうにも届いていた。
扉の横で立ち尽くしていた秘書の女性にも。
その耳に届いた音は、痛いほど哀しく響いた。
「……せっかく久しぶりに会えたんだ。
今日くらいは顔を見て話さないかい?」
菫は目を血走らせ、肩で荒く呼吸をしている。
自分の息遣いが、こんなにも苦しい。
「……大体、アンタ何しに来たのよ!」
「私たちのこと、ずっとほったらかしにしてたくせに……今更、何の用よ!!」
「何を言ってるんだい。今日は素晴らしい晴れ舞台じゃないか!」
男の声が、初めて少しだけ強くなる。
それでも口調は穏やかなままだった。
だからこそ、その声には異様な圧があった。
「娘の活躍を見守らない父親が、どこにいるんだい?」
「秘書と不倫してできた娘でしょ!!!!」
自分でも驚くほど、言葉が自然に出てきた。
忘れたいと思っていた血筋。家柄。
そのすべての元凶が、今、同じ部屋にいる。
菫は、合わせたくなかった顔を男へ向けた。
目を見開き、睨みつける。
「大体、私、アンタから名前で呼んでもらったこと、一度もないんだけど」
「……そりゃそうよね」
声が震える。
「だって、“菫”って名前をくれたの、アンタじゃないもんね!!」
事実を突きつけるたび、涙が溢れてくる。
忘れようとしても、忘れられない。
胸の奥に押し込めていた過去が、ゆっくりと心を蝕んでいく。
「お母さんのことだって、一回も名前で呼んであげたことないじゃん!!」
「なのに今更、家族みたいな顔しないでよ!!」
菫は顔を覆った。
指の隙間から、嗚咽が漏れる。
このあとには、自分の出番がある。
泣いている場合じゃない。
そう思えば思うほど、込み上げてくる感情は抑えられなかった。
「……そうか」
男は、静かに口を開く。
「想像以上に苦労をかけてしまったようだね」
諭すような微笑み。
だが、その言葉には温度がなかった。
男はティッシュを一枚取り出す。
それを手にしたまま、ゆっくりと菫へ歩み寄った。
「……金に不自由はさせていなかったから、てっきり不満はないものだと思っていたよ」
「すまなかった。私がもっと君に寄り添うべきだった」
芝居じみた口調でそう言うと、男は菫の前で片膝をついた。
「……こんな思いするぐらいなら」
菫は、残っていた力を振り絞るように声を絞り出す。
「私なんか、生まれてこなきゃよかった!!!」
叫んだ瞬間——
胸の奥で、何かが切れた。
実の父へ吐き捨てるように言い残し、勢いよく席を立つ。
震える手でドアノブへ触れた、そのとき——
「本当に、そう思うかい?」
男の声が、背中へ静かに突き刺さった。
足が止まる。振り返りたくない。
それでも、その声だけは耳にこびりついて離れなかった。
「……どういう意味よ?」
「生まれてこなきゃよかった、なんて言うものじゃないよ」
男はゆっくりと歩み寄る。
穏やかな笑みは変わらない。
けれど、その目だけは少しも笑っていなかった。
「君のドラムの師は、誰だったかな?」
菫は黙ったまま、視線を逸らす。
「そう。私の息子、茂輝だ。
君から見れば、腹違いの兄になる」
さっきまでの叫びを浴びても、その口から“菫”という名前が出ることはない。
最後まで、“君”だった。
「私がいなければ、君と茂輝は出会っていなかったんじゃないかな?」
返す言葉はない。
男は、その沈黙さえ肯定と受け取ったように、淡々と言葉を重ねていく。
「大変熱心に練習していたじゃないか。それに——」
わずかに口角が吊り上がる。
「好きだったんだろう?」
「初恋だったんだろう? 茂輝が」
獲物へ止めを刺すように、静かに囁く。
「そんな思いができたのは、誰のおかげかな?」
菫は何も言い返せなかった。
唇を強く噛み締める。
耳を塞いでも、その声だけが頭の中で反響し続ける。
「……そうだろう。
全部、私が君に生を与えたからなんだよ」
——命懸けで産んだのは母だ。
あんたは、何もしていない。
そんな言葉すら、もう口にする気力は残っていなかった。
肩へ伸びてきた手を振り払い、菫はゆっくりと息を整える。
「……貴子にも、そうやって聖人ぶってたんだね」
その一言で——
初めて、男の表情が揺らいだ。
ほんのわずかに目を見開き、菫を見つめ返す。
「……私も最初は、嘘だと思った」
菫は男を睨み返す。
「アンタが、まさか貴子の叔父さんだったなんて」
声は震えていた。
怒りなのか、悲しみなのか。
もう、自分でもわからない。
「先生はいつも、アンタのことを冗談混じりに話してた。
皮肉ばっかり言うくせに、どこか憧れてるみたいだった」
茂輝の笑顔が脳裏をよぎる。
あの人だけは、本当に父を信じようとしていた。
「合宿で貴子から話を聞いたときは……
アンタにも事情があって、ただ貴子の家族とは分かり合えなかっただけなんだって」
一度、目を閉じる。
「……不器用な人なんだって、信じたかった」
その言葉は、男に向けたものではなかった。
自分自身へ言い聞かせていた、最後の願いだった。
「……でも、そのあと、お母さんと先生と豊水さんに全部聞いた」
菫は一歩、男へ近づく。
「そこで、やっと全部繋がった」
「……私がアンタの隠し子だったことも」
「ずっと蚊帳の外に置かれてた理由も」
息を震わせながら、最後の一言を突きつける。
「全部、事実を隠すためだったんだって……!」
部屋が静まり返る。
空調だけが、乾いた音を立て続けていた。
菫は、自分の父——金村栄治郎を真っ直ぐ見据えた。
そして、低い声で問いかける。
「……ねぇ。
どうして、お母さんを秘書に縛りつけてるの?」
栄治郎は静かに息を吐いた。
「縛る、か。随分と酷い言い方をするね」
「君のお母さんは、自分の意思でここにいる」
「……嘘」
菫は即座に言い返した。
「だったら、なんで今でもアンタの隣にいなきゃいけないの?」
「どうして、名前すら呼んでもらえないの?」
栄治郎は答えない。
ただ湯呑みに手を添え、一口だけお茶を含む。
「……人には、それぞれ役割というものがある。
君のお母さんは、それを理解してくれているだけだよ」
「ふざけないで!!」
机を叩く音が、部屋中に響いた。
「アンタは何にも分かってない!!」
菫が詰め寄ろうとした、その瞬間——
コンコン。
控えめなノックが響いた。
「失礼します」
ドアが開く。
「……もうやめろ、菫」
先に姿を現したのは、茂輝だった。
その隣には、豊水も立っている。
「豊水さん……」
豊水は何も言わず、菫の肩を抱いた。
震えている身体を、自分の方へそっと引き寄せる。
「もう十分。これ以上ここにいたら、あなたが壊れる」
菫は唇を噛み締めたまま俯く。
茂輝だけは、父を真っ直ぐ見据えていた。
「父さん。今日は、もう帰ってくれ」
栄治郎は、小さく肩をすくめる。
「……そうか。残念だ」
それ以上は、何も言わなかった。
豊水は菫の背中を支え、茂輝は二人を守るように前へ立つ。
三人は、そのまま部屋を後にした。
静かにドアが閉まる。
VIPルームには、栄治郎だけが残された。
しばらく、沈黙が続く。
やがて彼は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「……貴子くんも、好恵くんも、立派なステージだったよ」
そして、ふと思い出したように口角を上げる。
「それに……あのギターの子」
脳裏に浮かぶのは、ステージ上で交わされた視線。
互いに向ける表情。
そして、貴子の歌に宿っていた熱。
「……なるほど。そういうことか」
栄治郎は静かに立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
「……面白くなってきたじゃないか」
その笑みだけが、昼下がりのVIPルームに静かに残っていた。
ご覧いただきありがとうございます。
とんでもない爆弾でしたね!!
この関係が菫と貴子の分裂にどう関わってくるのか。
伏線回収をお楽しみに。
夜留タクト




