第三十九話 好敵手の音
演奏が始まる前のホール内は、午前の部で演奏を終えた高校生たちの声と観客の熱気でざわついていた。まだ貴子の歌声や隆志たちの音への余韻を語り合う声も残っている。
その中で、藤井楓はコンテストのパンフレットを黙々と繰っていた。
恩師から聞いていた他の二人の教え子の存在。
そして、突如として表舞台から姿を消した伝説の歌い手——りさこわも。
二年前。
生放送の場当たりが終わった廊下で、すれ違っただけの少女。
その彼女が、わずか数時間後に「伝説」と呼ばれる歌い手となった。
楽屋のモニター越しに聴いた、圧倒的な歌声。
以前よりもさらにレベルアップしたパフォーマンス。
その存在と再び競い合えることに、楓は静かに胸を高鳴らせていた。
客席の熱気はすでにピークに達しており、じっとしているだけでも汗が滲んでくる。口に含んだレモン味ののど飴も、入れたそばから溶けていきそうだった。
「楓先輩。珍しく機嫌いいっすね」
口元が緩んでいたのを察したのか、後輩の平澤堅太が陽気な口調で隣に腰掛けた。ギター担当のこの男は、首回りや髪型の主張がいつも以上に強い。
「ああ! さっきのボーカルの子、めっちゃキレイでしたよね!」
パンフレットのページを覗き込みながら、平澤はさらに声のトーンを上げる。
入念に手入れされた銀髪、抜群のスタイル、クールで隙のない雰囲気の中に見せる時折の華奢な表情。その全てに文句のつけようがないと、聞かれてもいないのに熱心に語り出してきた。
思えばこの男は、今日のコンテストが始まってからずっと、登場する女子メンバーの分析ばかりしている。
危機感がないのか、ただのマイペースなのか。
まあ、そこが彼らしくもあるわけだが。
「先輩もそう思いません?」
平澤が無邪気に同意を求めてくる。
楓はパンフレットから目を離さないまま、さっき耳にした圧倒的な歌声を脳裏に呼び覚ましていた。
「あー! もしかして、惚れちゃったんですか!?
へー! 普段は無表情で無口な先輩でも、恋とかするんですね!」
楓は無言で後輩の足をギュッと踏みつけた。
平澤の大袈裟なリアクションが、ホール内の温度をさらに上げていく。
「……ちょっとした知り合いでな。少し思うところがあっただけだ」
「へー」
平澤はどこか興味なさそうな相槌を打つと、鞄からミネラルウォーターを取り出した。
「……それに今日は、身内の関係者が二人も出ているんだ。だからこそ、負けられない」
「へー。どんな人なんですか?」
「いや。直接の接点はないから、どんな子かは知らない。ただ、そのうち一人がさっきのドラムだという話だ」
楓の淡々とした言葉に、平澤は今度はまったく違うベクトルで表情を変えた。
「え? さっきのドラムって、あの小っちゃい子ですか!?」
そこから、平澤の好恵に対する熱弁が始まった。
一見内気そうに見えて、実は芯が強い。
小柄なのに、ステージ上に漂うあの存在感。
まさに「冷静と情熱の間」と呼ぶにふさわしい人材。
ドラムの音が、内に秘めた蒼い炎を猛烈に燃えたぎらせていた——と、一度も話したことがないくせに、やけに自慢げに口を回す。
「ちょっと平澤くん! いい加減にして!!」
聞き覚えのある小言が飛んできた。
振り返ると、バンドメンバーの家田レナの姿があった。後ろには後輩の小塚原愛も並んで立っている。
「レナ先輩!! やはりいつ見てもお美しいです!」
「頼むから静かにして。少しは東海地区代表としての自覚を持ってよ」
家田は大きくため息をつき、客席へ腰を下ろした。
小塚原は家田をガードするように、二人の間にサッと身を滑り込ませる。
「おい小塚原! そこにいられたらレナ先輩が見えないだろ!」
「安心しな、堅太。レナ先輩は彼氏持ち。お引き取りください」
「そんなぁ!?」
平澤のお約束の調子に、張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ。小塚原のスマホについているト音記号のストラップも、場の雰囲気を楽しむように揺れている。
楓はもう一粒のど飴を口に放り込み、パンフレットの次のページを繰る。
午後の部の二番手。
そのバンドの中にも、師の教え子がもう一人いるらしい。
これから始まる演奏に、楓は静かに期待を膨らませた。
「……相手が誰だろうと関係ない。勝つのは僕たちだ」
楓は呟くように、けれど確かな強さで決意を口にする。
「……午前の部の最後はすごかった。でも、僕たちだって負けてない」
——たとえ相手が伝説でも。権力者であっても。
楓の静かな決意に、バンドメンバーたちも雰囲気を察して息を呑んだ。
「……そうだね」
家田が優しく頷く。
平澤と小塚原も一瞬戸惑ったものの、すぐに空気を変えようと平澤がユーモアで対抗した。
「レナ先輩!! 気合い入れのチューお願いします!」
「堅太、マジでいい加減にしろよお前」
午後の部ラストを飾る四人は、いつものくだらない掛け合いに戻っていた。
やがて、場内に予告のブザーが重々しく鳴り響く。
観客のざわめきが、波が引くように小さくなっていった。客席を離れていた人々も、ぞろぞろと元の席へ戻ってくる。
ホール全体にピンと緊張が走り、誰もが固唾を呑んで舞台を見つめる。
その静寂の中で、緞帳がゆっくりと上がり始めた。
舞台上に立つ四人。
ベーシストが鳴らす印象的なイントロが、瞬時に会場中の集中を掻き集めていく。そこへドラムと二本のギターが重なり合い、音の大きな渦となって広がっていった。
それだけで、ホール内の空気の色がガラリと変わる。
午後の部でも繰り広げられるであろう、壮絶な大混戦——その開幕を、強烈に予感させる音だった。




