プロローグ② 朝日の音
大会当日。午前五時手前。
朝焼けの空が広がる中、まだ車の少ない三ツ目通りを、二台のバイクが悠然と駆け抜けていた。
木場駅前のコンビニで水とアイスを買った後、枝川を越え、辰巳方面へと向かっている。
ビルの隙間から、次第に海が見え始めていた。
「ちょっと! スピード出しすぎなんじゃない!?」
「まだまだこんなもんじゃねぇよ! アタシのこむぎちゃんを舐めんな!!」
雪穂の背中にしがみつきながら、香織は必死に声を張り上げる。
初めて乗るバイクのスピードに、さすがの香織もビクビクしていた。
しかし、運転する雪穂はどこ吹く風。
ハンドルを力強く握り、楽しそうにアクセルを開けている。
白く神々しいボディに一目惚れし、二年に進級して以来、ずっと走らせている愛車。
その見た目とは裏腹に、愛嬌たっぷりの名前には、何度聞いても不思議な感覚が残る。
「ねぇ! 迅雷丸とこむぎちゃん、どっちが先に海に着くか競争しようよ!」
「言われねぇでも、そのつもりだよ!」
隣を走るもう一台のバイクから、智子がいつもの調子で勝負を仕掛けてくる。
その後ろに座っている美羽は、バイクから浴びる風圧を無邪気に楽しんでいた。ヘルメットからはみ出した金髪も、爽快な風を受けて大きく揺れている。
やがて二台は、赤信号で並んで停まった。
ゆっくりと顔を見合わせる雪穂と智子。
そして——
信号が青に変わった瞬間。
ブォォォォォォォォン!!!
二人の闘争心を掻き立てるように、二台の排気音が朝の街へ響き渡った。
「美羽! しっかり捕まっててよ!」
「もちのろん! 行けー! ともっち!!」
「香織! アタシのドラテクにビビって、舌噛むんじゃねぇぞ!!」
「無茶な運転しないでよ!!」
朝焼けの街を、二台のバイクが一気に駆け抜けていく。
こうして——豊洲の海を目指した、二人のレースの火蓋が切って落とされた。
♫♫♫
二台のバイクは、海沿いの広場でほぼ同時にエンジンを止めた。
さっきまで響いていた排気音が消えると、辺りには波の音だけが残る。
四人はヘルメットを脱ぎ、海を見下ろすように置かれた大きな石彫のそばへ歩いていった。
朝露をまとった石は、夜の冷たさをまだ少しだけ残している。
その向こうでは、穏やかな東京湾が朝焼けを映し、ゆっくりと光を広げ始めていた。
香織は、遊園地の絶叫アトラクションから戻ってきたかのように大きく息を吐き、ミネラルウォーターを喉へ流し込む。
一面に広がる青色。
潮風が、四人の間を心地よく吹き抜けていく。
カモメの声と、波の音。
そして、どこか遠くから聞こえてくる蝉の声。
香織は、去年、隆志や貴子たちと一緒に訪れた合宿の海を思い出していた。
よく似た景色。
けれど、あの頃とは何もかもが違っている。
そう思うと、ほんの少しだけ顔を顰めた。
美羽はそんな香織を気遣っているのか、何も言わずに肩を揉んでくる。
前を歩く智子と雪穂は、先ほどのレースの勝敗について、くだらない言い争いを続けていた。
いつもなら、どこか鬱陶しく思っていた二人の絡み。
それなのに今は——不思議と心地良かった。
「……付き合わせて、悪かったね」
石彫に腰を下ろして海を眺めていると、ふと智子が隣に座った。
昨夜、隆志に河川敷で戦線布告をした後、智子から飛んできたメッセージを思い出す。
——明日の朝、寄り道していかない?
——迅雷丸と雪穂のこむぎちゃんと一緒に迎えに行くよ!
——あ、めっちゃ早いからよろしくー!
その三つだけが、唐突に送られてきた。
何の説明もない。
聞けば、智子には、大切な出来事の前に景色を眺めて心を整える習慣が、子どもの頃からあるらしい。
雪穂も、いつの間にかそれを真似するようになった。
そして今日は——なぜか美羽まで一緒だ。
スマホを海へ向けながら、ぴょんぴょん跳ねている。
相変わらずのテンションだが、目は半開きだった。
……苦手な早起きを頑張ったんだろう。
それだけで、なんだか少し笑えてしまった。
「……ねぇ香織。覚えてる?」
「何を?」
「あの夏祭りの後、アタシたちに泣きついてきたこと」
反対側から雪穂が日傘を差し出し、香織の顔を覗き込む。ラフなメイクと服装なのに、妙に目を惹く。
雪穂は石彫へ足を伸ばし、海を眺めながら話を続けた。
「急に電話が来てびっくりしたけどさ。
少し嬉しかったんだよね」
もともと雪穂と智子の二人は、ギターとベースのインストユニットとしてネット上で活動していた。
バンドへの憧れはあった。
けれど、他のパートを担ってくれる仲間が見つからず、いつしか諦めかけていた。
夏祭りで出会ったときに交わした話を、香織が覚えていてくれた。
それが二人にとっては、何より嬉しい知らせだった。
幼馴染みが目の前で、自分ではない女の子に告白する。
似たような経験を持つ雪穂は、香織の気持ちを自分のことのように受け止めてくれた。
気づけば、二人は何時間も話し込んでいた。
智子は昔からよくモテていたらしく、自分なりの持論を交えながら、ユーモラスに恋愛相談に乗ってくれた。
気分が晴れないときには、バイクで水族館や自然の中へ、いくつも連れ出してくれた。
そうしているうちに、少しずつ香織の心も軽くなっていった。
……どうやら智子自身も、最近、新しい恋を始めたばかりらしい。
「で、気づいたら菫と美羽も加わってさ」
「美羽が来たのは意外だったよね!」
「ウチだってやればできるし!!」
「いや、最初は絶対無理だと思ってたけど」
「ひどっ!?」
そんな他愛のないやり取りを重ねながら、四人はこれまでの出来事を懐かしんだ。
初めて合わせた日のこと。
一度、菫と雪穂が大喧嘩を拗らせたこと。
クリスマスに全員でお泊まり会をして、遅くまで恋バナで盛り上がったこと。
まだ一年も経っていないのに、思い返せば随分と遠い昔のように感じる。
近くを散歩していたポメラニアンが、そんな四人を気にするように身体を乗り出しながら通り過ぎていく。
「……見られてるよ、美羽」
「え? どこどこ?」
「そっちじゃないって」
美羽が慌てて辺りを見回す。
香織は思わず吹き出した。
——こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
そんな思いが、胸の奥をよぎった。
「……私、今日絶対負けないから」
勝って、貴子と隆志を見返す。
子どもの頃から、ずっと追いかけてきた背中。
いつまでも追いかけているだけでは、終われない。
「……ちゃんと、私を見てほしい」
けれど、その先から言葉が詰まった。
雪穂も、智子も、美羽も、何も言わずに香織を見つめている。
「……少し、怖いんだよね」
ぽつりとこぼした言葉に、美羽が香織の手を取った。
「かおたん!!」
そのまま、美羽が香織の身体を海のほうへ向ける。
「ちょ、ちょっと……何!?」
「叫ぼ!!」
「はぁ!?」
美羽は香織の背中をぐいぐい押していく。
海に向かって叫べ。
どうやら、そういうことらしい。
思えば、去年の合宿でも、浮かない顔をしていた菫に同じ無茶振りをしていた。
あのときは電話越しだった。
けれど今回は、その本人が目の前にいる。
「ほら、かおたん! 大声出して!」
「無理だって!」
「無理じゃない! 海なら誰にも聞こえないよ!」
「いや、普通に聞こえるでしょ!」
美羽の無茶苦茶な理屈に、雪穂と智子が吹き出した。
香織も思わず笑ってしまう。
けれど——
胸の奥に溜まったものは、まだ消えていなかった。
香織はゆっくりと海へ向き直る。
朝焼けの向こうへ視線を向ける。
そして、大きく息を吸い込んだ。
——隆志ぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!
——私の歌!! ちゃんと聴けぇぇぇぇぇぇぇ!!!
海の向こうへ向かって、思い切り声をぶつける。
遠くを優雅に飛んでいた一羽のカモメが、その声に驚いたように羽ばたいた。
思ったより威勢のいい叫びに、残りの三人は面白そうに顔を見合わせる。
香織はもう一度、大きく息を吸い込んだ。
——貴子ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!!
一つ息を吸い直し、今度は貴子への思いを吐き出す。
——アンタより私の方が!!!!!
——何倍も隆志のこと知ってるんだからぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!
その勢いに釣られ、今度は美羽が大きく息を吸った。
——お腹空いたぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!
「それ今言う必要ある!?」
意味不明な叫びに、三人は腹を抱えて笑った。
美羽もいつの間にか、一緒になって笑っている。
さっきまで胸の奥を占めていた不安が、ほんの少しだけ軽くなっていた。
笑い声が、波の音に混ざって海辺へ溶けていく。
その四人を、顔を出したばかりの朝日が穏やかに照らしていた。
お待たせ致しました。
第二部がいよいよ始まります!
第二部は香織たちを中心に物語が動きます!
お楽しみに!!
夜留タクト




