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第三十二話 余韻の音

〜前回のあらすじ〜


文化祭は、五人体制になって初のライブの瞬間だった。隆志たちはこれまでの軌跡を振り返りながら、コンテストのステージを締め括った。


 大歓声が巻き起こる。

 貴子や隆志を呼ぶ声が、大きく響いた。


 ゆっくりと緞帳が降りていく。

 一同が頭を下げる中、貴子はもう一度マイクを握った。



 息を深く吸い込み、多幸感MAXの表情で力一杯思いを乗せた。



 その言葉で、香織と菫の心臓が跳ねる。


 忘れもしない。

 あの合宿の初日。

 音の違いに行き詰まって訪れた海。

 その海で、彼女が叫んでいた台詞。


 感謝の言葉のはずなのに、不思議と重苦しく切ない声色に聞こえたフレーズ。



 ——見つけてくれて、ありがとうございます


 かつての人気は作られたもの。

 真剣に聴いてくれている人なんていないと思っていた。


 けれども、そんなことはなかった。


 南も、好恵も、啓一も、白田も、菫も、雪穂も、智子も、美羽も、香織も、隆志も。


 会場にいる全員が、かつての自分の歌を聴いてくれていた。


 出番前、噂になっていたもう一人の自分。

 誰が何の目的でかなんて、そんなことはどうでもいい。


 今はただ、自分と出会ってくれた人たちに。

 数あるバンドの中から、自分たちに期待を寄せてくれた主催の人たちに。

 ここまで連れてきてくれたメンバーに。


 精一杯の感謝を込めて、貴子は叫んだ。

 その中には、香織と菫も、啓一も含まれていた。


 儚い余韻を残したまま、

 バンドコンテストの昼の部は、盛大に幕を閉じた。



♫♫♫



 緞帳が降りきっても、しばらく声は止まなかった。

 かつてない達成感に、五人は息を切らしてその場に崩れ落ちた。


「……終わったのか…?」


 隆志がその言葉を発するまで、数秒間が空いた。

 波の音がゆっくりと引き、現実が戻ってくる。


 南は貴子に抱きつき、

 好恵は感無量に涙を浮かべている。


 白田は水を飲み干して、天井を見上げている。

 ステージに吊るされたサスライトが、賞賛を浴びせるように煌めいた。



♫♫♫



 隆志たちの演奏の様子は、楽屋のモニターからもはっきりと伝わっている。

 出番を終えた者も控える者も、圧倒的な迫力に度肝を抜かしていた。


「何こいつらバケモンかよ」

「ベースエグすぎたわ」

「俺ら完全に忘れられるやつやん!」

「ドラムの子、吹奏楽の大会出てなかった?」

「ツインテールの子、めっちゃ可愛くね!?」

「ギターの紅髪、主張強え〜」

「午後の奴ら可哀想…」


 それぞれ感想を言い合いながら、

 昼休憩の支度を始めている。


 その中で一人、藤井楓だけは静かにモニターの一人を見つめていた。


 抜群のスタイルに長い銀髪。

 それに、あの歌い方。


 楓は眼鏡を拭きながら、貴子たちの最後の音を受け止めていく。


「この子の歌、なんか聴いたことあるんだよな」


 ギター担当の平沢堅吾が、隣のイスを引いて座ってくる。笑顔を絶やさない天然の不思議ちゃんだが、彼も実力は確かである。


「…奇遇だね堅吾。僕も同じことを思っていたよ」


 楓は磨いたばかりの眼鏡を中指でくいっと上げた。レンズの反射が、いつもより清々しい。


「やっぱり、あの噂本当だったのかな?」


 冷却パックを顔につけた小塚原愛が、食い気味に会話に参加してくる。何にでも興味を示すが、絵に描いたように熱がりな女。鏡台に置かれたスマホのケースには、ト音記号の大きなキーホルダーが付けられている。


「小塚原ー。噂って何?」

「平沢知らないの?昨日のリハのときから話になってたでしょ」


 "伝説の歌い手、りさこわも”。

 彼女が再び、ステージに上がるらしい。


 貴子がその張本人とは当然知らないが、

 歌い方だけで、やはり勘付く人はいる。


「ちょっとみんな。いつまで気とられてるの?」


 鋭い声で、家田レナが手を叩く。

 制服のネクタイは、一ミリたりとも乱れていない。


「今の子たちは、確かに上手かった。

 けど、私たちがやるべきことは変わらないはずよ」

「レナ先輩!今日もお美しい!」

「平沢くん危機感なさすぎ!

 東海地区の代表だってこと、忘れてないよね?」

「もちろんです!レナ先輩のためなら、

 例え火の中水の中にでも——」

「先輩。こいつには構わず続けてください」


 家田に猛アタックをする平沢を、小塚原が黙らせる。

 楓だけは、さっきまで美声が流れていたモニターを見つめていた。


「ゴゴイチは私たち。わかってるとは思うけど、みんな気を引き締めて」


 几帳面な口調で、場の空気をまとめていく。


「…もし相手が伝説であるなら、尚更好都合よ」


 家田はそれだけ呟くと、もう一度手を叩く。


「じゃあ、今のうちにしっかり休んで、

 全力でいきましょう!!」


 小さなミーティングを終え、それぞれが財布を手に取る。


「レナ先輩!お昼デートしましょ〜!」

「しないしダルいし付き合ってない」


 お決まりのようなミニコントが交わされる。

 小塚原は小さく息を吐き、スマホのタイマーを止める。メイク直しを済ませ、近くのコンビニへと足を進める。


「楓。昼行かないのか?」


 平沢は扉を開けながら、楓を振り返る。

 楓は少し間を置いてから、席を立った。


 楽屋の扉が閉まる。

 外へ出る直前、壁越しにステージを見つめた。

 廊下の雰囲気が、少しだけ二年前のあの日に似ている。


 ——もう一度、あの歌い手に会えた。


 その事実に、楓は口元を緩ませる。



♫♫♫



「いやぁ。本当にすごかったね」

「ほんそれ〜!全員マジ鳥肌!」


 楽屋に戻った智子と美羽は、昼休憩のために楽屋を訪れた。

 香織と菫はイスに腰掛けながら、静かに肩を震わせている。


「二人とも、大丈夫?」


 雪穂は水を飲みながら、二人を気にかけている。


「…ありがと。もう大丈夫」

「…これぐらい、なんともないし」


 菫は強がってはいるが、少しずつ表情は落ち着いてきた。


「しかし、あのお嬢様たちもよくやるよねー。

 元メンバーが目の前にいるのにさ」


 智子は重たい空気を和ませようと笑う。

 だがその話題はやめろ、と言わんばかりに雪穂に睨まれる。


「…いいよ別に」


 菫がそっと息を吐く。


「…別に、もう終わったことだから」


 俯瞰した態度で、眼鏡を上げる。

 その様子が、香織には更に重たくのしかかる。


 楽屋に、数秒だけ静寂が落ちる。

 しばらくして、香織が恐る恐る口を開いた。


「…歌詞半分作った私としては、少し複雑だったけどね」


 ぎこちなく笑い、いちごオレに口をつける。

 ミルクの滑らかさと苺の甘みが、張り詰めた何かを解いていく。


 智子のスマホが鳴る。

 通知を見て、大きく手を叩く。


「ねぇみんな。お昼さ、屋上で食べない?」


 その声は、新しい何かを繋ごうとしていた。



♫♫♫



 廊下が長く伸びている。

 出番を終えたナギサノユラギの五人が、余韻を噛み締めるように歩いている。


 誰も言葉を交わさない。

 タオルで汗を拭く仕草が繰り返されるだけだった。


 一歩。また一歩。

 さっきまでのあの熱量を忘れないように、

 五人の軌跡を惜しむように、

 ゆっくりと、足跡を刻んでいく。


 そんな彼らの元へ、一人の青年が歩み寄った。


「素晴らしい演奏だったよ」


 五人は振り返る。

 そこにいたのは、自分たちよりも年上の男。

 右腕に描かれた馬のタトゥーが、確実な存在感を漂わせている。


 その青年に反応を示したのは、二人。


「…源馬さん」


 最初に口を開いたのは白田だった。

 他の四人は、意外な"さん"呼びに、思わず目を丸くした。


「一周忌のとき以来だね。真介くん」


 源馬は白田へ笑いかける。


「さっきのソロ。

 お父さんと話していたようだね」


「先生も、きっと喜んでいるよ」


 源馬は父の教え子の一人だった。

 彼は茂則だけではなく、白田家とも親交が深い。

 弟たちも懐いており、白田も兄のように源馬を慕っていた。


「頑張ったね。真介くん」

「…当たり前じゃないですか」


 背中を向け涙を浮かべる白田に、隆志たちは顔を見合わせる。


 もう一人。

 貴子もまた、源馬をじっと見つめていた。


「…君も久しぶりだね。貴子ちゃん」


 この声。髪型。

 やっぱりこの人だ。


 口調や雰囲気は違うが、あの日の会話が鮮明に蘇ってくる。


「…お久しぶりです。竹島さん」


 竹島源馬。

 活動ネームは、"げんまじょー"。

 あの番組での不正を幸田と共に伝えてくれた、澤森家の恩人。


 意外な再会に、貴子は深々と頭を下げた。

 ステージの熱だけを置き去りにするように、空調の冷気が五人と竹島の間を通り過ぎていった。



♫♫♫



 屋上の賑わいは、さっきのステージにも負けていなかった。


 生徒たちが互いに写真を取り合ったり、景色をスマホに残したり、走り回って大はしゃぎしていたりと、ここでも青春の音が絶えず鳴っている。


「お兄ちゃん!やっほ〜」


 点々と置かれたベンチの一つに座って、智子の兄がそっと手招く。隣のビルの影が一帯を覆うように伸びている。隣には妻らしき女性も並んでいた。お腹が大きく膨らんでいる。


「お兄ちゃん。来てくれてありがとう!」

「いやいや。智子の晴れ舞台だし、来ないわけないだろ」

「萌実さんも、ありがとうございます」


 萌実は軽く頭を下げる。

 智子は萌実の膨らんだお腹に手を当てると、


「アタシたちの音、聴いてよね」


 と優しく囁いた。


 香織も思わず笑みをこぼし、智子に並んでそっと手を添えた。小さな鼓動が、力強く伝わってくる。


「…いつの予定なんですか?」


 香織が尋ねると、


「十月だって〜」


 智子が萌実より早く、我が子のように言った。

 その調子に、全員が吹き出す。


 そこへ——


「二人とも悪い。遅くなった」

「結衣!マジ早く歩きすぎ!お姉ちゃんを労えし!」

「…お姉ちゃんが遅いだけ」


 雪穂が弟たちを、美羽が妹の結衣を連れて戻ってくる。全員が揃うと、智子の合図で一同はお弁当を広げる。

 香織の両親は来ていないが、メッセージ付きの弁当箱が用意されていた。

 小さな日常を包み込むように、夏のそよ風がゆっくりと吹き抜けていく。


「…ってかすーすーどこ行ったの?」

「菫は、なんかお客さん来てるみたいで、会いに行ったよ」


「…けど、なんかいつも以上にピリピリしてたんだよね」


 異様な雰囲気だったと、香織は箸を進めながら告げる。美羽は面白くなさそうに口を尖らせ、雪穂は気になる様子で空を見上げる。

 智子はお構いなしに、雪穂の弟の匠海に唐揚げを餌付けしている。


 賑やかな笑い声が、街中へ溶けていく。



♫♫♫



 エレベーターのドアが開く。

 歩く秘書の女性は菫を乗せると、素早く乗り込みドアを閉じる。再び動き出す音が、やけに重く響いた。

 運命からは逃れられないと、嘲笑うかのように。


 その女は、一言も話さなかった。

 淡々と、気配を押し殺すように立っている。


 懐かしい凍てつくような緊張感に、菫は長く息を吐き、呼吸を整えた。


 鉄の滑車のドアが開く。

 関係者のみが立ち入りを許される階。

 綺麗に手入れされた会議室ばかりが、視界の横を軒並み通り過ぎていく。


 一番奥の部屋。

 その手前で、秘書の足が止まった。

 この部屋のドアノブだけは金で造られている。


「…ちゃんと食べてる?」


 秘書の女性は背中を向けたまま、後ろの菫へぎこちなく尋ねた。


「…仕事中でしょ」


 沈黙が続く。

 菫は小さく拳を震わせ、深く息を吸ってからもう一度口を開いた。


「…それより、なんであの人と会わなきゃいけないわけ?」


 女の表情が更に強張る。

 少し考えたような間を残してから、


「…指示ですので」


 他人行儀に答えると、静かに扉へ歩み寄る。


 菫はその背中をじっと見つめる。

 深く息を吸い、目を閉じてから、ノックの音を響かせた。



「……失礼します」


 ゆっくりとドアが開く。

 得体の知れない空気が、部屋の奥から流れてくる。


「…菫様をお連れしました」


 慣れない呼び方に、菫は顔を顰めた。


「ご苦労様」


 その男の声で、全身に寒気が走る。

 笑い方だけでもぞっとする。


 菫は秘書に釣られ、渋々部屋へ片足を入れた。


「…しばらくだね。元気かい?」

「……どういうつもり?」


 不敵な笑みで迎え入れてくる。

 その態度が、余計に腹が立つ。


 テーブルには、予約が取れないことで有名な料亭の弁当が整然と置かれていた。


「立ち話も疲れるだろう。座りたまえ」


 菫は頑なに座ろうとしない。

 秘書の女性は、その様子に小さく顔を伏せた。


 見兼ねた男は急須でお茶を淹れると、ゆっくりと菫に近づいた。


「そんなに警戒しないでくれたまえ。

 私が一度でも、君に危害を加えたことがあったか——」

「来ないで!!」


 気づけば声を荒げていた。

 恐怖と怒りと軽蔑が入り混じった叫びが、こんなにも痛い。


 男は一瞬足を止め、近くの席に湯呑みを丁寧に置いた。


「…君はもういい。休んでくれ」


 秘書の女性にそっと笑うと、男はさっきまで座っていた対角線上の席へ尻を乗せた。

 女性はもう一度顔を伏せてから、静かに踵を返す。

 ドアノブに手をかける直前、菫と一瞬だけ目を合わせた。


「……失礼します」


 ゆっくりとドアが閉まる。

 悍ましい空気を象徴するように空調の音が大きく響いた。



「……名前で呼んであげないんだね」


 しばらく睨み合った後、菫が一言目を発した。


「それがどうしたんだね?」


 男は表情一つ変えず、ジャケットの襟を正す。

 余裕な振る舞いが、じわじわと空気を歪ませていく。


 菫は大きく息を吐き、

 男の顔が見えない角度で椅子を引いた。


「…これから出番だろう。

 君の好きな魚料理だ。しっかりと味わってくれ」

「いらないわよ。それにアンタとなんか食べたくない!」


 菫は背を向けたまま机を叩いた。


 その音は、部屋の外まで聞こえていた。

 扉の横で静かに涙を浮かべる秘書の耳にも、痛いほど哀しく響く。


「…せっかく久しぶりに会えたんだ。

 今日くらいは顔を見て話さないかい?」


 菫は目を血走らせて、肩で呼吸を整えている。

 息遣いの音が、こんなにも苦しい。


「……大体、アンタ何しに来たのよ!」


「私たちのこと、ずっとほったらかしにしてたくせに今更何の用よ!!」

「何を言ってるんだい。今日は素晴らしい晴れ舞台じゃないか!」


 男の声が強まる。

 穏やかな口調だが、異様な圧を感じた。


「娘の活躍を見守らない父親がどこにいるんだい?」

「秘書と不倫してできた娘でしょ!!!!」


 自分でもびっくりするほど自然に言葉が出た。


 忘れたいと思っていた血筋。家柄。

 その全ての元凶は、今同じ空間にいるこの男。

 菫は合わせたくない顔を向け、目をガン開いて睨みつけた。


「大体、私アンタから名前で呼んでもらったこと一度もないんだけど」


「……そりゃそうよね。

 だって、“菫”って名前くれたの、アンタじゃないもんね!!」


 事実を突きつけるたびに、涙が溢れてくる。

 忘れようとしても忘れられない過去が、胸の奥をじわじわと蝕んでいく。


「お母さんのことだって、一回も名前で呼んであげたことないじゃん!!」


「なのに今更、家族みたいな顔しないでよ!!」


 菫は顔を覆い、小さく嗚咽を漏らした。


 このあと出番を控えている。

 泣くわけにはいかない。


 そう思えば思うほど、込み上げる感情は抑えきれなかった。


「……そうか。想像以上に苦労をかけてしまったようだね」


 男は諭すように微笑む。


 だが、その言葉に温度はない。


 ティッシュを一枚取り出すと、そのまま菫へゆっくり歩み寄った。


「……金に不自由はさせていなかったから、てっきり不満はないものだと思っていたよ。」


「すまなかった。私がもっと君に寄り添うべきだった」


 芝居じみた口調でそう言うと、男は片膝をついた。


「……こんな思いするぐらいなら」


 菫は残っていた力を振り絞るように声を絞り出した。


「私なんか生まれてこなきゃよかった!!!」


 叫んだ瞬間、胸の奥で何かが切れた。


 実の父へ吐き捨てると、勢いよく席を立つ。

 震える手でドアノブへ触れた、そのとき——


「本当にそう思うかい?」


 男の声が、背中へ静かに突き刺さった。


 足が止まる。振り返りたくない。

 それでも、その声だけは耳にこびりついて離れなかった。


「……どういう意味よ?」


「生まれてこなきゃよかった、なんて言うものじゃないよ」


 男はゆっくりと歩み寄る。

 穏やかな笑みは変わらない。

 だが、その目だけは少しも笑っていなかった。


「君のドラムの師は、誰だったかな?」


 菫は黙ったまま視線を逸らす。


「そう。私の息子、茂輝だ。

 君から見れば、腹違いの兄になる」


 さっきまでの叫びを浴びても、その口から”菫”という名前が出ることはない。


 最後まで、“君”だった。


「私がいなければ、君と茂輝は出会っていなかったんじゃないかな?」


 返す言葉はない。

 男はその沈黙すら肯定と受け取り、淡々と言葉を重ねていく。


「大変熱心に練習していたじゃないか。それに——」


 わずかに口角が吊り上がる。


「好きだったんだろう?」


「初恋だったんだろう? 茂輝が」


 一拍置き、獲物へ止めを刺すように囁く。


「そんな思いができたのは、誰のおかげかな?」


 菫は何も言い返せなかった。

 唇を強く噛み締める。

 耳を塞いでも、その声だけは頭の中で反響し続ける。


「……そうだろう。


 全部、私が君に生を与えたからなんだよ」


 命懸けで産んだのは母だ。あんたは何もしていない。

 そんな言葉すら、もう口にする気力は残っていなかった。

 肩へ伸びてきた手を振り払い、菫はゆっくりと息を整える。


「……貴子にも、そうやって聖人ぶってたんだね」


 その一言だけで、初めて男の表情が揺らいだ。

 ほんのわずかに目を見開き、菫を見つめ返す。


「……私も最初は嘘だと思った」


 菫は男を睨み返す。


「アンタが、まさか貴子の叔父さんだったなんて」


 声は震えていた。

 怒りなのか、悲しみなのか、自分でももうわからない。


「先生はいつも、アンタのことを冗談混じりに話してた。

 皮肉ばっかり言うくせに、どこか憧れてるみたいだった」


 茂輝の笑顔が脳裏をよぎる。

 あの人だけは、本当に父を信じようとしていた。


「合宿で貴子から話を聞いたときは……

 アンタにも事情があって、ただ貴子の家族とは分かり合えなかっただけなんだって」


 一度、目を閉じる。


「……不器用な人なんだって、信じたかった」


 その言葉は、自分自身へ言い聞かせていた願いでもあった。


「……でも、そのあと、お母さんと先生と豊水さんに全部聞いた」


 一歩、男へ近づく。


「そこで、やっと全部繋がった」


「……私がアンタの隠し子だったことも」


「ずっと蚊帳の外に置かれてた理由も」


 息を震わせながら、最後の一言を突きつける。


「全部、事実を隠すためだったんだって……!」


 部屋が静まり返る。

 空調だけが乾いた音を立て続けていた。


 菫は自分の父——金村栄治郎を真っ直ぐ見据えたまま、低く問いかける。


「……ねぇ。

 どうして、お母さんを秘書に縛りつけてるの?」


 栄治郎は静かに息を吐いた。


「縛る、か。随分と酷い言い方をするね」


「君のお母さんは、自分の意思でここにいる。」

「……嘘」


 菫は即座に言い返す。


「だったら、なんで今でもアンタの隣にいなきゃいけないの?」


「どうして、名前すら呼んでもらえないの?」


 栄治郎は答えない。

 湯呑みに手を添え、一口だけお茶を含む。


「……人には、それぞれ役割というものがある。

 君のお母さんは、それを理解してくれているだけだよ」

「ふざけないで!!」


 机を叩く音が、部屋中に響いた。


「アンタは何にも分かってない!!」


 菫が詰め寄ろうとした、その瞬間——

 コンコン、と控えめなノックが響く。


「失礼します」


 ドアが開く。


「……もうやめろ、菫」


 先に姿を現したのは茂輝だった。

 その隣には豊水も立っている。


「豊水さん……」


 豊水は何も言わず菫の肩を抱く。

 震えている身体を、自分の方へそっと引き寄せた。


「もう十分。これ以上ここにいたら、あなたが壊れる」


 菫は唇を噛み締めたまま俯く。

 茂輝だけは父を真っ直ぐ見据えていた。


「父さん。今日は、もう帰ってくれ」


 栄治郎は小さく肩をすくめる。


「……そうか。残念だ」


 それ以上は何も言わなかった。

 豊水は菫の背中を支え、茂輝は二人を守るように前へ立つ。


 三人はそのまま部屋を後にした。

 静かにドアが閉まる。


 VIPルームには、栄治郎だけが残された。

 しばらく沈黙が続いたあと、彼は誰に聞かせるでもなく呟く。


「……貴子くんも、好恵くんも、立派なステージだったよ」


 そして、ふと思い出したように口角を上げる。


「それに……あのギターの子」


 ステージ上で交わされた視線。

 互いに向ける表情。

 貴子の歌に宿っていた熱。


「……なるほど。そういうことか。」


 栄治郎は静かに立ち上がり、窓の外へ目を向けた。


「……面白くなってきたじゃないか」


 その笑みだけが、昼下がりのVIPルームに静かに残っていた。

ご覧いただきありがとうございます。


さてさて、衝撃の繋がりが明らかになりましたね。

貴子の過去編にて登場した、竹島と栄治郎がまさかの再登場。

ずっとあっためてた伏線が、ようやく描けた…!!


さてさて、第一部もいよいよ次回完結です!

お楽しみに


夜留タクト

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