第二十六話 仲間の音①
〜前回のあらすじ〜
南の計らいで、貴子の騒動はなんとか事なきを得た。
花火が始まり土手に並ぶ隆志たち。
香織は隆志へ手を重ねようとするが、本音を漏らした貴子によって、その勇気も虚しく終わってしまう。
貴子の弱さを知り、隆志は抱いていた気持ちを打ち明ける!
——貴子。
——俺は、お前が好きだ。
そうして、貴子と香織の運命は大きく変わり始める…。
夏祭りの一週間後。
八月も下旬に差し掛かり、長い夏休みの終わりが近づいてきている。
二学期に入る前にもう一度バンド合わせをしたいと、貴子が提案をしてきた。
——少し話したいことがある。
その一文に、隆志は胸を躍らせた。
——告白の返事が聞けるかもしれない。
そんな期待を抱きながら、ギターケースを背負った。
外には、どこか夏の終わりを思わせる風が吹いていた。美羽の家の前に咲く向日葵たちも、最後の日差しを求めるように、空へ伸びている。
♫♫♫
スタジオへ入ると、南たちが先にセッティングを始めていた。
貴子は買ったばかりだという青いテレキャスターを肩にかけ、上機嫌にペグを回している。
夏祭りの出来事を乗り越えようと、無理に笑っているようにも見えて、その笑顔が胸に刺さる。
ドラムの席には、見たことのない女子が座っていた。
小柄で黒髪のショートカット。
顔立ちも、叩き方も、少しだけ菫に似ている。
イメチェンでもしたのだろうか。
だが、南と貴子とは敬語で話している。
それだけで、菫とは別人だとわかった。
その女子の名は——直居好恵。
後に隆志のバンドで、ドラムを叩くことになる少女。
これが、好恵との出会いだった。
「……よ、よろしくお願いします」
好恵はぎこちなく一礼すると、ドラムの椅子へ静かに腰を下ろした。
「じゃあ、みんないい?」
南の声で、四人の視線が集まる。
意味深に咳払いをしてから、南は再び指を立てた。
「突然ですが!今日からバンド活動再開しますー!」
イェーイ、と南は明るい声で手を叩く。
その調子が、場違いなほど明るかった。
「というわけで——」
「今日は新曲のアイデアを出していくよー!!」
そう言って、更に手を高く上げる。
貴子も好恵も、控えめに手を叩いた。
いつもと違う空気感に、隆志は思わず手を挙げていた。聞きたいことが、あまりに多すぎる。
「おい。ちょっと待て」
全員の視線が向く。
聞きたいことが三つあると指を突き出し、隆志は状況を確かめていく。
まず一つ目。
何故急にバンド再開になったのか。
二つ目。
新曲作っても、ベースがいない状態で成り立つのか。
そして三つ目。
香織と菫はこのことを知っているのか。
そもそも休んだ理由すら聞いていない。
練習をするにしろ、
これらは掘り下げないわけにはいかないだろう。
南は隆志の疑問を一通り聞くと、小さく息を吐いた。
「…そうだよね」
南と貴子は、一度だけ顔を見合わせる。
そして、南が静かに口を開いた。
「じゃあ、順番に説明するね」
南は気持ちを切り替えるようにスマホを取り出した。
「これなーんだ?」
その画像に記されていたのは——
「…全国高校生バンドコンテスト?」
「そう!!」
本戦は来年の夏。
だが、募集は今年の秋から始まるらしい。
数日前、貴子が両親を介して再会した幸田から、このコンテストの存在を教えてもらったという。
一月に動画審査、五月に予選オーディション。
そして、八月に本戦が行われる。
優勝バンドはレーベルの専属サポートを受けられる。とチラシには書かれている。
「…一応、スポンサーも調べてみたんだけど、
貴子の叔父さんのところは関与してないみたい」
念の為、澤森財閥にも調べさせた。
だからこそ、間違いない。
——今度は、ちゃんと"実力"で栄光を掴みたい。
貴子は、自分にも言い聞かせるようにトーンを落とした。
そこで、せっかくなら文化祭のステージで学校中に見てもらいたい。だから新曲を作る。一曲だけでは尺が足りないからだ。
「…まぁ、面白いとは思うけどさ、
ベースはどうすんだよ?」
「それは……」
南は言葉を詰まらせる。
貴子も居心地の悪そうに、目線を下へ落とした。
誰も答えられない。
だがその空気は——
「…これから!」
好恵の言葉によって、確かに変わった。
「これから見つけていけばいいと思います」
声は僅かに上擦っているが、不思議と力強い。
両手でがっしりと握られているスティックが、全員の緊張を解いていく。
「……で、お前らはどういう関係なんだよ?」
「……あ。そっか」
南は一瞬ぽかんと間を残してから、手を叩く。
過去の話に出てきているから、隆志と好恵もてっきり面識があったと思っていたらしい。
好恵は南と貴子が連れて来た中等部の三年。
来年には自分たちの後輩になる予定だ。
歌い手時代の貴子に、
リズム感覚を叩き込んでくれた後輩。
貴子や南から噂は聞いていたが、まさかこんな形で巡り会うとは思ってもいなかった。
募集条件は、"予選時に高等学校に在籍している者であれば参加可能"にはなっているため、ギリギリ参加資格は満たしている。
吹奏楽部での功績のおかげか、中等部からは二つ返事で許可が降りたらしい。
「…吹奏楽とバンドじゃ、雰囲気少し変わるけど、
大丈夫なのか?」
「…はい」
好恵は隆志の目を真っ直ぐ見つめる。
その目には、確かな決意が宿っていた。
好恵は一度だけ息を吸い直し、隆志の前へ歩み寄る。
「…川村先輩のことは、お二人から伺っています。
兄が、本当にご迷惑をおかけしました」
合宿で空気を壊したこと。
夏祭りで貴子を追い詰める原因を作ってしまったこと。
そのすべてを、好恵は自分のことのように背負っていた。
「…で、香織と菫は?」
その音の直後、貴子と南の表情から、
一切の感情が消えた。
——その話をするな。
何も言われてないのに、呼吸だけでわかってしまう。
貴子は珍しく不貞腐れた態度で、椅子へ勢いよく座り込んだ。
空調の冷気が、異常に肌を震わせてくる。
「……え?俺、何か変なこと聞いたか?」
誰も答えない。
好恵も事情を知らないのか、不安そうに二人を見比べている。
「……そうだよね」
長い沈黙の後、南が重たい息を溢す。
見慣れない目を細める仕草が、もう一度背筋を震わせる。二人と親しい好恵も、張り詰めた空気に耐えきれず、小さく咳払いをした。
「……隆志。言いたくないんだけど——」
その先に続いた言葉は、今でも鮮明に覚えている。
聞き間違いかと思った。
けれど何度聴いても変わらなかった。
「…ごめん。気になると思うけど、
この件は、もう何も聞かないで」
南はそれ以上を語ろうとしなかった。
貴子を気遣っているのか、
好恵にプレッシャーをかけたくないのか、
頑なに話そうとしない。
代わりに貴子が、
「そのために、好恵に入ってもらうことにしたのよ」
と強引に話を遮る。
南も大袈裟に、赤子をあやすような明るい声で好恵に戯れて空気を戻そうとしていた。
隆志にはその光景が、異様なほど遠くに感じた。
さっき南が発した言葉が、脳内にへばり付いたまま、思考を鈍らせていく。
子どもの頃からずっと一緒だった幼馴染み。
高校で出会った真面目すぎる女。
別に意識していたわけじゃない。
練習が終わった後に、大体話すのはこの二人だった。
菫とは、練習の振り返りを。
香織とは、ネットニュースの感想や美羽とのくだらないエピソードを。
特に意味があった時間だったわけじゃない。
だが隆志にとっては、ルーティンのようなものだった。
乱れる呼吸を正そうと、オレンジジュースを流す。
飲み慣れた百パーセントの酸味すら、今日は遠かった。
隆志は自分に湧いた感情を誤魔化すために、
闇雲にギターに触れた。
忙しない左手。
余裕のないオルタネイトピッキング。
いつもより尖ったその歪みに、
南と貴子も言葉を飲み込んだ。
——隆志。言いたくないんだけど
——あの二人は、もう来ないと思ってて。
——香織も菫も、
——これからは、私たちの敵になる相手だから。
その言葉が、何度も全身を飛び回っていた。
♫♫♫
「新曲は、歌スタートにしてみたいのよね」
「めっちゃいいね!それ!」
「ということは、その後にドラムインって流れですか?」
「だね!」
四人での合わせを終えた後。南と貴子は、好恵を交えて新曲のイメージを膨らませていた。
好恵のリズムさばきは、想像以上にレベルが高い。さすが吹奏楽の名門校で腕を磨いてきただけはある。
ギターのバッキングが加わったことで、リードパートの幅も広がる。
貴子も南も、いつも以上に楽しそうだった。
——本当なら、喜ぶべきこと。
それでも隆志は、どうしても集中できない。
——香織と菫は、自分たちの敵。
その言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。
「ちょっと隆志ー?聴いてる?」
「……聴いてるよ」
「絶対嘘じゃん!!」
南のツッコミに、ようやく意識が引き戻される。
この役割が香織ではないことに、やはりまだ違和感が残っていた。
「…久しぶりでしたけど、
こうして音を合わせるのは、楽しいですわね」
貴子は隆志を気遣うように、そっと目を向ける。
頬は少しだけ赤くなっていた。
夏祭りの夜が、不意に脳裏をよぎる。
「…そうだな」
変に意識してしまわないように、
曲のことへと話題を変える。
南は何も言わず、口元を緩ませる。
「…もっと、皆さんの力になれるように頑張ります」
話の中で、好恵は静かに力を込めながら告げる。
「頼もしいわね。好恵」
「期待してるよ!好恵ちゃん」
そのまま話し合いは、賑やかに交わされていった。
忙しなく開閉する自動ドアから、
晩夏の風が、ごうっと流れ込んで来る。
♫♫♫
「では、私はそろそろ」
どのぐらい話し込んでいただろう。
気づけば西日が傾いていた。
大まかなアレンジをパソコンへ打ち込んでいると、区切りのいいところで、好恵は先に席を立った。
「あら。もうこんな時間ね」
「これから塾?頑張るねー」
「いえいえ。お先に失礼します」
好恵は恥ずかしそうに笑った後、一礼をしてからスタジオを出ていく。
隆志は去り行く背中を静かに見つめる。トートバッグの紐を握る右手の親指と人差し指で、不思議なリズムを奏でていた。
「…アイツ、どこでドラム習ったんだ?」
好恵が歩いた方を見つめたまま、
隆志はそっと口を開く。
「吹奏楽のスパルタ指導ー!」
南は得意気に、調子のいい声で言う。
自分の体験でもないのに、何故か誇らしい。
「入部当初は、館山の地下室に特訓しに来たこともあったわ」
そうして貴子と南は、好恵の自慢話を始めた。
ドラムを始めてから、両親の知り合いの音楽教室に通い続けていたこと。
成績も落とすことなく、ストイックに練習し続けたこと。
そのままの勢いで、一年から引退する最後のコンクールまで、ずっと演奏隊のレギュラーだったこと。
吹奏楽好きの間では、それなりに名の知れた存在であること。
本人は鼻にかけない性格だからか、そこが可愛いとも言いながら、我が子のように語っている。
甘い物には目がないことも、ついでに教えてくれた。
「…だからあんなに肝が座ってんのか」
「そうなのよー!」
もし中等部から入っていたら、彼女のプレイスタイルをより間近で体感できたのだろうか。隆志そんなことを考えながら、買ったばかりのアセロラドリンクのキャップを回した。
「…アイツの叩き方、なんか菫に似てるんだよな」
"菫"、というワードに、南は瞬時に目を細める。
ひやりと刺すような圧に、隆志は思わず、パソコンの画面へ視線を落とした。
「……それはあるかもしれないわね」
少しして、貴子が低く呟いた。
その声色に、南までビクリとしていた。
「…あの子も、菫ちゃんと同じで真面目すぎるところあるから」
貴子は引き攣ったように笑う。
その言動には、明らかに別の意味が含まれている。
だがこの瞬間だけは、
踏み込めないほど、空気が歪んでいた。
「……アイツは、何か絡んでるわけじゃないんだよな?」
あえて"啓一"の名前は出さなかったが、隆志のその問いかけで、空気が少し止まる。
南が答えようとしたそのとき——
——ボン。
——ベン、ベン。
——ベルルルン。
唸るような噛みつくようなベースラインが、向かいの部屋から流れてきた。
全員、音の方へ視線を向ける。
音が止まる。
気のせいだったかと顔を見合わせたとき——
再び空気が揺らいだ。
さっきの唸りと噛みつきの中に、どこか迷いのあるような不安定な音。
スラップは歯切れがいい。それなのに、胸の内を誤魔化すような濁りが、音の隙間に残っていた。
その揺らぎが、不思議と夏祭りの貴子を思い出させた。
やがて再び演奏は途切れる。
しばらくして、一人の男が部屋から出てきた。
白く染めた短髪に、オレンジのメッシュ。
背丈は貴子より少し高いぐらいで、両耳にピアスを三つずつつけ、ドス黒いサングラスをかけている。
見るからに不良少年だ。
明らかに関わってはいけない人種。
そう思っていた。
「…あ?」
視線を向ける四人を、その男は一瞬で威圧する。
たった一音だけなのに、それだけで冷や汗が垂れた。
やはり、関わってはいけない人間だ。
それなのに、隆志は何故か気になってしまう。
男はロビーを出ようとするが、入り口付近でチンピラのような男性数名が、道を塞いで腰を屈めている。
その様子に、ベースケースを握り直し、鋭い舌打ちを響かせた。
「おい。お前ら通行人の邪魔なのわかんねぇのかよ」
自分よりも年上そうな輩に、男は躊躇なく吐き捨てる。
「あぁん?自分誰に向かって口聞いてんねん?」
「今俺たちは大事な話してんだよ。邪魔すんなよコラァ」
「あっちにも出口あるでー。僕ちゃん?」
輩は声を高らかに笑う。
「何あれ。感じ悪っ!」
南は眉を顰め、小さく吐き捨てた。
貴子は何か気になる様子で、そのやり取りを見つめていた。
男は大きく息を吐いてから、首を鳴らす。
そうして輩たちを食う勢いで、低く笑った。
「…お前らいくつだよ。
公共の場でマナーも守れねぇでみっともねぇ」
「あぁん?さっきから何様じゃワレェ!」
「君高校生?年上には敬語使いなさいって、先生から教わってねぇのか?」
「ほな、俺たちが教えてやるよ。
先輩への口の利き方をなぁ!!」
輩の一人が外に連れ出そうと、男の肩に手をかける。
「…触んなボケ」
男は素早く振り払う。
その勢いで、輩の一人が仲間とぶつかってしまう。
「痛えじゃねぇかこの野郎!」
ぶつかった唯一標準語の青年が、小柄な関西弁の野郎を怒鳴りつけた。
「仲間割れかよ。いい歳してダッセ」
白髪のベーシストはこれ見よがしに吐き捨て、堂々とその場を離れようとするが、リーダーらしきもう一人の関西弁の男に腕を引っ張られる。
「どこ行くん自分?
まだ話は終わってないねん」
「お前らみたいな社会のゴミと話すことはねぇよ」
「誰がスクラップや!さっきから誰に物言うとんじゃ!」
三人組は完全に怒りを露わにし、牙を向ける。
「敬語も碌に使えないとは、
ほんまに東京の教育はオワコンやなぁ!!」
スタジオにいる全員に聞こえるように、顔を回しながら大きく吐き捨てる。
その様子に、南は香織や美羽ように頬を膨らませた。
「オワコンはお前だろ。
知らねえみたいだから教えてやるよ」
ベーシストの少年は更に声を低くして、
「敬語を使うかどうかは、年齢じゃねぇよ。
テメーが使いたいと思った相手に使うもんだ」
「使ってほしけりゃ、それに相応しい生き方しろやボケ!」
屈辱的なセリフを突きつけた。
その言葉の鋭さに、あれだけ威勢のよかった三人は黙り込んだ。
しばらくして——
「……つまらんわ」
少年の真横で、聞こえるように呟いた。
「お前ら。はよ行くぞ!」
そのまま二人もそそくさと後を追う。
もう一人の関西弁の男は、少年を数秒間睨みつけながら歩いていた。
白髪の少年も、一度舌打ち吐いた後、
ロビーの自動販売機でミネラルウォーターを買い、勢いよく口へ流し込んだ。
南はホッとした様子で、大きく肩を震わせる。
隆志はさっきの一連のやり取りに、夏祭りで雪穂から聞いた、ある噂を思い出した。
——白田って奴がベースをやってる。
——口が悪く、上級生相手でも容赦なく喧嘩を売る。
そして、自分の斜め後ろの空白の席。
——もしかして。
気づけば隆志は声をかけていた。
「…なぁ」
ゴミ箱の周りに散らばった缶やペットボトルを拾う背中に、隆志の真っ直ぐな声が響く。
「…あ?」
その少年は一瞬視線を向けるだけだった。
「もしかして、白田か?」
少年の動きが、一瞬止まった。
「やっぱりそうだよな?
さっきのベースの音。
年上にもビビらない性格」
黙々と、少年は一つ一つをゴミ箱へ戻す。
「もしかして、お前が白田か?」
全てを捨て終わると、
少年はベースケースを肩にかける。
「…だるっ。失せろや」
それだけ吐き捨て、今度こそスタジオを出て行った。
「やっぱアイツ感じ悪い!!」
南は美羽の真似をして、顔を赤らめる。
貴子だけは、少年の背中が見えなくなるまで目で追っていた。
♫♫♫
次の日も、そのベースの音は聞こえてきた。
向かいの部屋には、今日も一人。
軽やかなはずの左手は、どこか苛立ちをぶつけるようにフレットを駆けていく。
どれだけ前から弾いていたのかはわからない。
それでも、その音は何かを叫び続けているようだった。
やがて演奏が止まる。
白髪の少年は、自分の左手をじっと見つめた。
考え込むように視線を落とし、ふと天井を仰ぐ。小さく何かを呟いたあと、もう一度ベースを構えた。
——ボン。
——ベン、ベン。
再び鳴り始めた音は、やはり荒々しい。
それなのに、不思議と雑音には聞こえなかった。
むしろ、その奥にある何かを知りたくなる。
隆志はガラス越しに、無意識のうちに少年を見つめていた。
「隆志ー!そろそろ始めるよー!」
休憩を終えた南が、部屋の入口から顔を覗かせる。
その隣には貴子も立っていた。
「アイツ今日も来てるんだね」
南は少し煙たそうに眉をひそめる。
それでも、つられるようにガラスの向こうへ目を向けた。
それとは対照的に、貴子はガラス越しの少年を静かに見つめていた。
白い短髪。
耳に並んだピアス。
昨日の振る舞い。
どこかで見覚えのある空気。
貴子は、少年から目を離せなかった。
「隆志ー! 貴子ー! 早く早くー!
今日こそサビまで合わせるよ!」
南の大きな声がロビーに響く。
近くのコンビニで充電器を借りていた好恵も、ちょうど戻ってきた。
そのまま四人で部屋へ戻ろうとした、その時だった。
「……おい」
低い声に、四人が一斉に振り返る。
そこには、例の白髪の少年が立っていた。
「……お前ら、さっきからうるせぇんだけど」
眉間には深い皺。
露骨に不機嫌そうな表情だった。
好恵は肩をびくりと震わせ、思わず貴子の後ろへ隠れる。
だが、南だけは違った。
むしろ待っていたと言わんばかりに、一歩前へ出る。
「ねぇ」
にっと笑って、人差し指を立てた。
「今日だけでいいから、ベース弾いてくれない?」
「……は?」
♫♫♫
——一回だけだ。それ以上は関わるな。
それだけ言い残し、少年は渋々ベースを肩へ掛けた。
ボンボンとチューニングを合わせる横顔が、どうしてか気になってしまう。
「じゃあ、よろしく!!」
南はベーシストに優しく笑いかけ、全員と顔を見合わせる。その少年は、何も言わなかった。
愛用している白いベースは、近くで見ると、かなり年季が入っている。隆志はその雰囲気が、無性に気になってしまう。
好恵がスティックを高く上げ、カウントを鳴らす。
ワン、ツー、スリー、フォー。
貴子の歌い出しに合わせた二本のギターのパートが、少年の耳を震わせる。
ジャーンと響くバッキングと儚さを纏ったリードギター。その隙間を埋めるように、南のキーボードが柔らかく重なる。
好恵のシンバルとキック、四つ打ちとハイハット。
そして、少年のベースがいよいよ重なる。
全員がその瞬間を、待ち望んだ。
——ボロン。
合わない。
呼吸も音圧も、明らかに不調である。
おまけに音も僅かにブレる。
南は思い切り唇を尖らせた。
——雲一つない夜
——満ちている君は綺麗だ
——先の見えない時代で
——誰より眩しい人
曲はAメロへと流れていく。
まだ歌詞は仮だったが、様にはなっている。
南と二人で、徹夜で考えたらしい。
敵わぬ人への憧れを、月の満ち欠けに例えた歌詞。
貴子らしい挑戦的な言葉選びだった。
——無情で冷酷な世界でも
——君という光が揺れていた
Bメロも順調に進んでいる。
その場凌ぎのベースラインは、どうしても浮いてしまう。自分たちが合わせるべきなのかを探りながら、なんとか半分まで辿り着いた。
彼の表情は、ただただ怪訝そうだった。
——触れられそうで触れられない
——そう 君こそが…
サビ前。
一瞬ブレイクし、一小節分のフィル回し。
好恵のストロークが力一杯弾けるパート。
だが——
ベースラインだけが、わずかに止まり遅れた。
目が大きく開かれ、彼は指を止めてしまう。
全員も、それに釣られるように中断する。
「ちょっと!なんで止めちゃうの!」
「…初見であんなのわかるかよ」
「せっかくいい流れだったのにぃ!」
少年は気怠そうに息を吐き、アンプからシールドを抜いた。
「おい。まだ練習終わってねぇだろ」
「……は?一回だけって言ったよな?」
そのままベースケースを背負い、早足でスタジオを出て行った。
「なんなのアイツ!」
南はさっきまで彼がいた場所を睨みつける。
「…でも、上手かったですよね」
「…そうですわね」
好恵と貴子も、気圧されたように顔を見合わせる。
技術不足ではない。
ただ、あの少年だけが誰とも目を合わせず、一人で演奏しているように見えた。
♫♫♫
次の日も、彼はスタジオにいた。
だが、この日はいつもとは違っていた。
「昨日の演奏。どういうつもり?」
「は?なんだお前」
帰ろうとしているところで南と出会し、気づけば言い合いになっていた。とはいえ、絡んでいるのはほとんど南だった。
「人に合わせる気ないなら来ないでよ!」
「お前が強引にやらせたんだろうが」
「それでも同意したのはそっちです!」
その様子を、貴子は懐かしそうに見つめていた。
子どもの頃、クラスの男子とあんな風に喧嘩していたことがあると、貴子は笑いながら教えてくれた。
口は悪いが、一昨日の一件で最低限の倫理観は持っていることはわかっていた。
それでも、少しだけヒヤヒヤする。
好恵はまた、貴子の後ろに隠れた。
「二度と関わるなって言ったよな?
約束破る女は嫌われるぞ。クソダサツインテール」
「はぁ!?愛想もないくせに女子に向けていい言葉もわかんないわけ!?
そっちこそ嫌われるわよ!童貞ピアス!」
「んだとぉ!?」
言い合いは激化していく。
南がここまでムキになるのも珍しい。
「…おい。これ止めなくていいのか?」
「…ええ。ゆうかなら大丈夫ですわ」
かなり険悪な雰囲気だが、貴子は心配していなかった。
やがて痺れを切らし、彼はその場を離れようとする。
「待ちなさい!逃がさないわよ!!」
そう言って少年の前に立ち塞がり、羽交締めにする。
「おい何すんだツインテール!」
「もう逃がさない!今日も一緒に来てもらうわよ!!」
南は力いっぱい、彼を部屋へと引き摺り込んでいく。
その光景に、気づけば呆れと安堵の息が漏れていた。
"関わってはいけない"。
そう思っていたのに、どうしてか気になってしまう存在。
このときはまだ知らなかった。
彼もまた、残酷で複雑な運命を抱えていたことを。
あの音が叫び続けていた理由を、
このときはまだ、誰も知らなかった。
♫♫♫
「これが曲の流れ。わかった!?」
少年は舌打ちをし、渋々椅子に腰を下ろした。
ネックには長年弾き込まれた跡が残っている。
それでもボディは丁寧に磨かれ、弦だけは新品だった。
ベン。べべン。
と軽く両手で音を鳴らす。
かなり慣れた手付きに、やはり惹かれてしまう。
「じゃあ、また頭からね」
好恵のカウントから曲が始まる。
頭サビ。イントロ。Aメロ。Bメロ。
順調に進んでいく。
ベースの音は、昨日よりは噛み合っている。
だが、やはり合っていないのは変わらない。
そのままサビ前のブレイク。フィル回し。
無事に決まり、サビへと突入。
順調に進んでいく。
と思った矢先——
隆志のギターが、ハウリングを起こしてしまった。
エフェクターの歪みを切り替えたときに、足がどこかに触れてしまったのだろう。
「みんな悪い。」
演奏が打ち切られ、隆志は慌ててエフェクターを直す。
南はつまらなそうに、代理のベーシストを見つめる。
その彼は無愛想に水を飲んだ後、ある人物へ指を向けた。
「……ドラムの、チビ」
低い調子に、好恵は思わず固くなった。
彼の目は細いまま。これは絶対に怒られるやつだ。
貴子も南も唾を飲み込むが、口から出た言葉は——
「お前のビートは、大したもんだな」
空気が固まる。
人を褒めることもあるんだ、とそんな視線が飛び交った。
「……あ、ありがとうございます」
頭の処理が追いつかず、好恵は数秒遅れてお礼を言う。それだけ言うと、彼はまた無表情へ戻った。
「……もういいだろ。時間の無駄だ」
そう言って、また勝手に帰り支度を始める。
変わらない態度に、南はキーキー声を上げる。
うるせい女だ、と捨て台詞を残し部屋を飛び出す。
「待てよ」
気づけば身体が動いていた。
ロビーの空調の冷気が、隆志の身体に染み込んでいく。
「…お前のベース。なんか気になるんだよ」
「荒い音なのに、真っ直ぐで。
壊れそうなのに、最後まで前に進もうとしてる」
「なんか、放っとけねぇんだよ。お前の音」
少年は何も言わず、隆志の評価を背中で受け止める。
「……そうかよ」
少ししてそれだけ漏らすと、少年は足を動かす。
「せめて——」
自動ドアが開く。
暴発的に外の熱気が襲いかかってくる。
その温度差が、隆志の足を止めてしまう。
「せめて名前だけでも、教えてくれ」
隆志は言葉だけでも、少年へ投げる。
少年は黙ったまま、振り返らずに歩いていく。
名前だけでも聞きたい。だがそれも叶わない。
彼が本当に白田なのか。
最低限それだけは確かめたいが、何も答えてくれない。距離だけが広がっていく。
自動ドアが閉まりかけた、その瞬間だった。
「……白田」
足が止まる。
「白田真介」
ご覧くださりありがとうございます。
さてさて、ここからは現体制になるまでを描きます。
香織と菫の突然の離脱。
好恵の加入。
そして、白田との出会い。
協調性のない彼は、どうやって仲間になっていったのか。
次回もお楽しみに!
夜留タクト




