第二十五話 失恋の音
〜前回のあらすじ〜
花火が始まる前、香織と隆志の距離が縮まる。
手が触れるまであと少し——。
だがそんなとき、様子がおかしい貴子を発見する。
追いかけていくと、貴子は車道へ飛び出してしまう…!
間一髪で救出した隆志だが、貴子の暴走は一向に止まらず……!
♫♫♫
河川敷に、少しずつ賑わいが戻ってくる。
さっきまでの騒ぎなど、もう誰も覚えていないかのように、人々は笑い合い、屋台の袋を片手に花火の開始を待っていた。
隆志たちも土手の石畳に腰を下ろしている。
左隣では、美羽がスマホを貴子へ突き出していた。少しでも笑わせようとしているのが、見ているだけで伝わってくる。
「ほらほら!見てこれ!」
画面の中では、美羽が飼っているハムスターのつぶきちが、回し車から勢いよく転げ落ちると、何事もなかったように餌を頬張っている。
「デカくなったな。つぶきち」
「もう一年だっけ?」
「そう!マジ早いー」
貴子はその様子を、愛おしそうに見つめていた。
「で!みんな見て!!」
美羽は勢いよく画面を切り替えた。
そこには、夏休み前に家族になったメスの”まろきち”が、気持ち良さそうに眠っている。
「この子ずっと寝てるの!マジ癒やしー」
「……ふふ」
貴子の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「…可愛いですわね」
「でしょー!やったぁ!」
美羽はガッツポーズを決める。
その隣では南がペットボトルを差し出しながら、静かに貴子の様子を見守っていた。
貴子は落ち着きを取り戻してはいるものの、さっきまでの出来事が嘘だったようには見えない。
啓一が絡んでいるなら、きっと家柄特有の事情なのだろう。
もし、自分があんな立場だったら。
隆志はそんなことを考えるだけで、胸の奥が重くなる。
「でも、きーちゃんが無事でよかったよー。ゆうっぺから電話来たときは、マジでビビった!」
「……大丈夫?貴子ちゃん」
「……ええ。ご心配をおかけしましたわ」
あれだけ叫んだからだろう。
貴子の声は、まだ少し掠れていた。
やがて花火のアナウンスが響き渡る。
人々は一斉にスマホを構え、その瞬間を待ち続けていた。
美羽も負けじとスマホを掲げる。ケースに付いた能力バトルアニメのアクリルキーホルダーも、待ち遠しそうに揺れている。
「ちょっとたかちー!映らないじゃん!!」
「お前が動いたらいいだろ!!」
美羽はわざとらしく頬を膨らませる。
そのやり取りに、少し青ざめていた香織の表情もようやく和らいだ。
「ゆうっぺ!たかちーたち頼んだ!」
そう言い残し、美羽は画角を求めてあちこち歩き回る。
「んー……」
右へ。左へ。
スマホを掲げて首を傾げる。
「……やっぱここか!」
結局、香織の隣へ戻ってきた。
「ここなら全員入りそう!」
美羽らしいマイペースさに、全員の口元が少しだけ緩む。
「ほらかおたん、もうちょい詰めて!」
そう言って美羽は、香織の肩をぐいっと押した。
「えっ、ちょっ……」
香織の身体が、隆志のすぐ隣まで寄せられる。
不意に近づいた距離。
香織の鼓動が、大きく跳ねた。
美羽はその様子を見て、満足そうにニヤリと笑う。
ちょうどそのとき——
パン!
最初の火花が、夜空へ弾けた。
淡い桃色の光はゆっくりと花開き、
繊細で、力強く、
無情な世界へ抗うように、確かな音を刻んでいく。
誰もが、その美しさに見惚れていた。
そのまま、次々と打ち上がっていく炎。
——人生は一瞬。
——後悔するな。
消えゆく花火の一つ一つから、そんな声が聞こえた気がした。
香織は小さく息を吸う。
隆志の右手。
そのすぐ隣へ、自分の左手を静かに添える。
指先が触れそうで、触れない。
ほんの数センチ。たったそれだけの距離なのに、何メートルよりも遠く感じた。
早まる鼓動。
隆志に聞こえてしまいそうで、香織は小さく息を整えた。
手を重ねようと、真上に上げる。
右手と左手が触れ合う、その直前——
「…どうすればよかったの?」
花火に紛れるほど小さな声で、貴子が呟いた。
不意のその声に、香織の鼓動が止まった。
触れられなかった左手だけが、そっと自分の膝へ戻る。
夜空では、色とりどりの花火が次々と咲いては消えていく。
どれほど美しくても、その輝きは一瞬だった。
「……貴子?」
南は貴子の顔を覗き込む。
小さな涙が、ぽつりと垂れていく。
その表情は、南が二度と見たくないと願っていた頃の貴子、そのものだった。
南は一瞬息を呑み、無言で背中に手を添える。
隆志も、その様子を真剣に見つめていた。
青色の浴衣と、長く結われた三つ編みが、
夏の夜に浮かび上がる。
「…もう、何が正解なのかわからない」
貴子はいつも首にかけている星型のネックレスを、震える左手で握りしめながら、後悔と失望が混ざった声で呟いた。
美羽も言葉を探そうと、横の貴子と花火を交互に顔を向ける。動きが少しだけ機械的だった。
香織だけは——
左側へ視線を向けることができなかった。
見てしまえば、もう全部わかってしまう気がした。
「……私ね」
「もう、誰にも迷惑かけたくないの」
貴子は夜空を見上げたまま、小さく笑った。
その笑顔は、どこまでも苦しかった。
「私のためだって言ってくれる人がいても、
そのせいで、その人まで苦しくなるなら……」
「そんな優しさ、もういらない」
一度だけ息を詰まらせる。
「……だから、一人でいようって決めたの」
「皆さんにも気を遣わせてしまって、本当にごめんなさい」
貴子は静かに涙を浮かべた。
事情のわからない美羽だけは、ぽかんと見つめている。
そこへ、大量の花火が一気に打ち上がる。
咲き乱れる大輪の花は、夏の夜空を繊細に彩っていく。
美羽が明るい声で食い付き、スマホを向ける。
「きーちゃん!!」
撮りながら、美羽が笑う。
「何があったか知らないけどさ!」
「せっかく花火なんだから、下向いてたらもったいないって!」
貴子はゆっくり顔を上げる。
「ほら見て!マジ綺麗!!」
ドカン。ドカン。
真夏の音が、河川敷いっぱいに響く。
「ウチらもいるしさ!
今日は難しいこと考えるの、マジ禁止!!」
美羽は満面の笑みで夜空を指差した。
「お嬢様は笑っていた方が……」
美羽は胸を張り、わざと咳払いを一つする。
「マジ百倍可愛いですわ!」
「執事の人は"マジ"とか言いませんー」
南がすかさずツッコミを入れる。
そのやり取りに、貴子の口元がほんの少しだけ緩んだ。
そのまま、誰も言葉を発さなかった。
夜空には、大輪の花が何度も咲いては散っていく。
ドン——。
ドンドン——。ドーン。
腹の底まで響く振動。
赤、青、緑、紫。
夏だけが持つ一瞬の輝きが、五人の横顔を順番に照らしていく。
美羽は夢中でスマホを向けている。
南はそっと貴子の肩に手を添えたまま、夜空を見上げる。
香織は膝の上で左手を握り締める。
そして隆志だけは——
花火ではなく、貴子を見つめていた。
「…貴子」
隆志の口から漏れたその音で、
全員が視線を向ける。
美羽と南も、思わずドキッとしてしまう。
「一人でいるなんて言うな」
「迷惑なんかじゃねぇ」
「そんなふうに決めつけんな」
——お願い。それ以上言わないで。
香織はただ一人だけ、そんなことを願っていた。
花火の音が強くなる。
まるで誰かの鼓動を、代弁するかのように。
ドクン。
ドクンと、大きく響く。
「——だったら俺が側にいてやる」
——貴子。
それが、隆志が初めて名前で呼んだ瞬間だった。
隆志は一度だけ息を吸った。
花火の音が、ほんの一瞬だけ遠くなる。
吐き出すまでの間が、やけに長く感じた。
——俺は、お前が好きだ。
その瞬間。
ドォォン——!!
今日一番大きな花火が、夜空いっぱいに鳴り響いた。
隆志は貴子を力強く引き寄せる。
夜空では、新しい音が次々と鳴り続ける。
貴子の傷跡への慰めか。
隆志の勇気への賞賛か。
香織の恋が、静かに終わる音だったのか。
運命を引き裂くその音は、
決して止まってくれなかった。
ご覧いただきありがとうございます。
いよいよ貴子と香織の恋の因縁が動き出しましたね!
プロローグや合宿での恋バナのくだりは、この展開の布石だったのです。
さてさて、第一部も大詰め。
次回からは遂に、あの人が本格登場します!
お楽しみに!!
夜留タクト




