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第十七話 絶望の音

〜前回のあらすじ〜


啓一とのファーストキス。

優勝後のインタビュー。

叔父や好恵たちとのお祝いを終え、幸せ絶頂の貴子。


そんな中、転機は突然やってきた。


父のオフィスの元に届いた一枚の手紙。

それはあの日が出来レースではないかという内容だった。


優勝自体が仕組まれていたと、疑いをかけられる貴子。

襲いかかる重圧を耐え、一つ一つを確かめると、

自分にだけは対応が違っていた事実を知る。


そして、叔父が運営する芸能事務所の黒い噂を耳にしてしまう。


果たして何が起こっていたのか?

叔父の目的は…?貴子の運命は…?



♫♫♫



「……あの優勝に、そんな背景があったなんて」


 そこまでの話を聞き終えた香織は、呆然としたまま言葉を漏らした。


 震える指先が、膝の上でぎゅっと握られている。


「私も、最初に聞いたときはびっくりしたよ。思わず二度聞きしちゃったし」


 南は懐かしそうに笑い、コーヒーを一口飲んだ。


 笑える話ではないはずなのに、その表情はどこか清々しい。

 長く抱えていたものを、ようやく誰かと共有できたような顔だった。


「……そんな話、本当にあるんだね」

「それ、俺も同じこと言った」

「ってか、隆志はなんで知ってるわけ?」

「……呼び出して、直接聞いた」


 左手をフレットの上に滑らせながら、隆志は短く答える。


 ぽつり、ぽつりと鳴るギターの音。

 アンプを通していなくても、その指先に迷いはなかった。


「……貴子、笑ってたよ。

 “すごい真剣に聞いてきた”って」


 南は軽い調子でそう言って笑ったあと、

 視線をそっと啓一へ向けた。


 地下室の隅。


 壁にもたれたまま、一言も発さない男がいる。


 腕を組み、視線を伏せたまま。

 明らかに、不機嫌だった。


 同じ過去を知る者として、

 その胸の内は痛いほどわかる。


 けれど今は、こんな奴に構っている場合ではない。


 一方、中庭では——


「つまり、貴子にだけ口外禁止や接触禁止を言いつけたのは、当日の違和感を他の出演者に気づかせないため。


 ……だけど、その甲斐虚しく、

 出演者側から先に疑われてしまった、ってことね」


 菫は整理するように言葉を並べ、

 最後に眼鏡の位置をそっと直した。


「それに、仕事の窓口も連絡手段も、

 全部その叔父さんに握られていた……」


 言いながら、グレープジュースをストローで吸う。


「……貴子も、苦労してるのね」


 その一言が、

 いつかの放課後に聞いた言葉と重なった。


「……隆志くんにも、

 同じこと言われたわね」


 貴子は小さく笑った。


 けれど、その笑みはすぐに消える。


 菫は長く息を吐き、

 高く伸びたヤシの木を見上げた。


 吹き抜ける風が、葉を大きく揺らす。


「……それで?」


 静かな声だった。


「どんな結末になるの?」


 淡々としているようでいて、

 その問いには確かな緊張が滲んでいた。


「……綺麗なオチじゃないわよ」

「貴子が話し出したんでしょ。

 ここまで聞いたら、気になるじゃん」


「……そうよね」


 貴子は静かに立ち上がる。


 一歩ずつ、

 ゆっくりと日向へ向かって歩いた。


 差し込む陽の光が、

 キラキラと銀の髪を照らす。


 その横顔に落ちる影は、

 どこかひどく寂しかった。


 振り向いたその目には、

 すでに小さな涙の粒が揺れている。


「……泣いちゃったら、ごめんね」


 その言葉は、

 地下室で南も口にしていた。


 まるで、

 これから語る記憶の重さを知っているように。


 貴子はゆっくりと目を閉じ、

 深く息を吸った。


 そして——語り始める。


 伝説の歌い手、りさこわも。

 それがどうやって、突然姿を消したのか。


 なぜ、

 あれほど愛していたはずの音楽を、

 避けるようになったのか。


 その全てが、

 今、明かされる。




♫♫♫


 その夜のことは、今でも鮮明に覚えている。


 両親も、啓一も。

 きっとどこかで、叔父が改心してくれると信じていた。


 ……いや。

 信じたかった、というべきかもしれない。


 今思えば私たちは、

 “家族”という言葉に、甘えていたのだと思う。



 幸田たちとの話を終えた翌日。


 父は、母から事情を聞き終えるとすぐに動いた。


 顧問弁護士へ連絡を入れ、

 秘書たちに指示を飛ばし、

 山のような資料を机に積み上げていく。


 母もまた、

 幸田たちから教えてもらった関係者へ、一人ずつ連絡を取っていた。


 証言を集めるために。


 確証を得るために。


 そして——

 自分の兄を、問い詰めるために。


 私はその様子を、ただ見ていることしかできなかった。


 何かを手伝おうとしても、

 頭の中は真っ白で、

 指先だけが冷たく震えていた。


 その夜は、一睡もできなかった。


 ベッドに入っても、

 瞼を閉じるたびに、

 あの日の控え室が蘇る。


 誰もいない廊下。

 偽物の契約書。

 知らない“私”のアカウント。


 そして、

 叔父の顔。


 朝になっても、

 胸の奥のざわつきは消えなかった。


 調査がひと段落したのは、

 夕暮れが近づいた頃だった。


 父は最後の書類に目を通し、

 静かに立ち上がった。


「……行こう」


 その一言だけだった。


 向かった先は、小田原。


 叔父のオフィスがある場所だった。


 車内には、

 重たい沈黙だけが流れていた。


 誰も、ほとんど話さなかった。


 助手席の母は、

 窓の外を見つめたまま、何も言わない。


 父は後部座席で目を閉じ、

 腕を組んでいた。


 啓一もまた、

 珍しく口数が少なかった。


 みんな、

 眠っているように見えた。


 けれどきっと、

 誰も眠れてはいなかった。


 私もほとんど寝ていないはずなのに、

 不思議と眠気は来なかった。


 心臓だけが、

 ずっと嫌な音を立てていた。


 叔父に会えば、

 何かが終わる。


 そんな予感がしていた。


 窓の外で、

 夕日がゆっくりと沈んでいく。


 赤く染まった空が、

 まるで何かの終わりを告げているようで。


 私はその景色から、

 目を逸らせなかった。


 車内に漂っていた、

 あの不穏な空気。


 肌にまとわりつくような、

 逃げ場のない緊張。


 あのとき私は、

 まだ知らなかった。


 この先、

 叔父の口から語られる言葉が。


 私の中に残っていた

 最後の“信頼”までも、

 完全に壊してしまうことを。




♫♫♫



 エントランスに入ると、役員の吉ヶ岳が出迎えた。


 深々と頭を下げたあと、

 私の姿を見つけると、穏やかに目を細める。


「……パーティー以来ですね」


 それだけ告げると、

 彼はエレベーターのボタンを押し、

 私たちを会議室のある八階へと案内した。


「お呼びしますので、こちらでお待ちください」


 席に着いたのを確認すると、

 吉ヶ岳は丁寧に一礼し、叔父を呼びに部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 その音を合図にしたように、

 同行していた秘書の一人、桐岡が鞄を開いた。


 中からクリアファイルを取り出し、

 ノートパソコンを静かに机へ置く。


 慣れた手つきで目薬を差し、

 何も言わず画面を開いた。


 父は腕を組んだまま、

 一点を見つめている。


 母は両手を強く握り合わせ、

 視線を落としていた。


 その表情は静かだったが、

 今にも何かが張り裂けそうだった。


 啓一は、黙ったまま

 私の手を握っていた。


 自分でもわかるほど、

 全身が震えている。


 けれど、

 その温もりだけが、

 今の私を繋ぎ止めてくれていた。



♫♫♫



 やがて、

 ノックの音が響く。


 扉が開き、

 吉ヶ岳とともに叔父が姿を現した。


「これはこれは。

 珍しいじゃないか」


 部屋に入るなり、

 叔父はいつものように笑った。


「沙富たちが、わざわざうちに赴くなんて」


 その声音には、

 警戒も焦りも感じられない。


 まるで、

 これから始まるのが

 家族との何気ない談笑であるかのように。


 叔父は大きく椅子を引き、

 豪快に腰を下ろした。


 もう一人の秘書がコーヒーを配り終えると、

 吉ヶ岳とともに静かに退室する。


 再び、

 扉が閉まった。


 さっきよりも、

 その音が低く響いた気がした。


 叔父は何事もないように

 コーヒーを一口飲み、

 満足げに息をつく。


「……それにしても、

 こんな時間に何の用かね?」


 軽い口調だった。


「明日も取引先との接待があるんだ。

 できれば手短に済ませてくれると助かる」


「それは、あなた次第ですよ」


 母の声は、

 驚くほど冷たかった。


「私たちも長居をするつもりはありません。

 ……さっさと、本題に入りましょう」


 その瞬間、

 空気が変わった。


 母は叔父を真っ直ぐ見据えていた。


 実の兄に向ける目ではない。


 家族を見る目ではない。


 そこにあったのは、

 怒りだった。


 失望だった。


 そして——


 最後の確認をしようとする、

 わずかな希望だった。


 叔父はその視線を受けてもなお、

 余裕を崩さなかった。


 むしろ、

 面白そうに口元を緩めている。


 私はその表情を見て、

 胸の奥が冷えていくのを感じた。




 しばしの睨み合いのあと、

 父が静かに書類を机へ並べた。


 偽の契約書。


 当日のタイムテーブルの食い違い。


 関係者たちの証言。


 一枚ずつ、

 確実に。


 逃げ道を塞ぐように。


「……なんだね、これは」


 叔父は書類に目を落とすと、

 椅子にもたれたまま、小さく息を吐いた。


 その口調は、

 まるで他人事だった。


 自分は何も知らない、とでも言いたげに。


「……あなたが一番、ご存知でしょう?」


 母の声は、

 氷のように冷えていた。


 私は膝の上で、

 震える拳を押さえ込むので精一杯だった。


 啓一の手の温もりがなければ、

 今にも感情が決壊していたと思う。


 その横で、

 桐岡が無言のままノートパソコンを打ち続けている。


 カタ、

 カタ、

 カタ——


 その音だけが、

 やけに大きく耳に響いた。


「……どういうことか、

 説明していただけますか」


 今度は父が問いかけた。


 声は静かだった。


 けれど、

 感情を押し殺しているのがわかった。


 私の知っている父ではなかった。


 父はこれまで、

 決して他人に怒りを向ける人ではなかった。


 争いごとを極端に嫌い、

 どんな相手にも笑顔を絶やさない人だった。


 そんな父が今、

 叔父をまっすぐ見据えている。


 その光景だけで、

 胸が苦しくなった。


「昨日、妻と娘が会った二人が、

 いろいろ教えてくれた」


 父は一枚ずつ、

 証拠を指先で示していく。


「娘にだけ別の段取りが伝えられていたこと。

 契約書が偽造されていたこと。

 そして、会場で娘を見た出演者が、

 一人もいなかったこと」


「このグループチャットのアカウントも、

 娘本人のものではない。


 ……全ての連絡を管理していたのは、

 栄治郎さん。


 あなたですね?」


 叔父は答えない。


 書類を片手に持ち上げ、

 ただ斜に構えたまま眺めている。


 口元には、

 わずかな笑みさえ浮かんでいた。


「この二人は、

 一ヶ月以上もあなたに連絡を取ろうとしていた」


 今度は母が言う。


「それでもあなたは、

 一度も応じなかった。


 ……わかっていて、

 無視していたんじゃないんですか?」


 叔父はなおも黙ったまま、

 コーヒーを一口啜った。


 その仕草に、

 母の声音がさらに低くなる。


「……オトノークマカデミー」


 その名前を、

 ゆっくりと吐き捨てる。


「かなり悪質な会社みたいですね。

 業界内では有名だと、

 幸田さんたちは仰っていました」


「私たちも、

 業界に疎かったとはいえ——


 あなたに任せきりにしていたのは、

 間違いだったようです」


 母は顔を上げた。


「……全部、

 洗いざらい説明してもらいましょうか」


 再び、

 二人の視線がぶつかる。


 父は深く息を吐き、

 椅子へと腰を下ろした。


 その瞬間だった。


 叔父が、

 書類を机へ置き——


 ぱん、と手を叩いた。


「素晴らしい」


 その声に、

 全員の動きが止まる。


「いやあ、参った」


 叔父は心底感心したように笑った。


「まさか一日でここまで辿り着くとは」


 書類を軽く持ち上げる。


「さすが澤森財閥だ」


 一度頷いてから、肩を竦めた。


「……我ながら感心するよ」


「ふざけないでください!」


 母が立ち上がった。


「こちらは真剣なんです!

 娘の人生がかかっているのに、

 あなたは一体、何を考えているんですか!」


 実の妹の叫びにも、叔父はきょとんと目を瞬かせて不思議そうに笑うだけだった。


「いやいや。

 だからこそ賞賛しているんじゃないか」


 言いながら立ち上がり、

 ゆっくりと部屋の中を歩き始めた。


 この状況で、

 どうしてそんな態度が取れるのか。


 その姿を見た瞬間、

 叔父に向けていた感情が、

 明確に音を立てて崩れた。


 尊敬も、信頼も、

 家族としての情も。


 全部。


 けれど——

 それだけでは、終わってくれなかった。



「見たところ、

 徹夜で調べたようだね」


 叔父は背を向けたまま言った。


「その執念深さと実行力こそ、

 澤森財閥の強みだ」


 叔父は満足そうに頷いた。


「なるほど。

 だからここまで大きくなれたのか」


 小さく笑う。


「皆様にはいつも驚かされ——」

「手短に済ませたいんじゃなかったんですか?」


 鋭い声が、言葉を遮った。


 桐岡だった。


 部屋の空気が止まる。


 彼女は元々、おっとりした性格で、

 滅多に自分から口を開かない。


 その彼女が、

 叔父をまっすぐ見ていた。


 それだけでわかった。


 これは、

 相当な異常事態なのだと。


 明日は雪でも降るのだろうか。

 そんな場違いなことを、ふと思った。


 それほどまでに、この空気は重かった。



「……そうだったね」


 叔父は小さく笑った。


「ここまで来てしまった以上、

 隠し通すのも無粋か」


 椅子に腰を下ろし、

 深く息を吸う。


「……全て、

 お話しよう」


 その瞬間——


 私は、

 十五歳にして初めて、

 “残酷な大人の世界”を知ることになる。


「どこから話そうかね」


 叔父は指を組み、

 楽しげにこちらを見渡した。


「……ではまず、

 貴子くんが出演したあの番組について」


 一拍置いて、

 彼はあっさりと言った。


「結論から言おう。


 ……君たちが調べた通りだ」


「貴子くんの優勝は、

 私が手引きした」


 息が止まる。


「番組に投資し、スポンサー権を確保した」


「出資者の意向には、制作側も逆らえない。

 こちらが推したい人物を、一定の形で前に出すことは、そう難しいことではない」


 あまりにも淡々と。


 まるで、

 今日の天気でも話すように。


「沙富や啓一くんから、

 君が歌をやっていると聞いたとき——」


「これは使える、と

 そう思ったのだよ」


 ぞくりと、

 背筋が冷えた。


「だがその頃の君は、まだ無名だった」


「動画の再生数も伸び悩み、

 どれほど才能があろうと、

 埋もれて終わる可能性の方が高かった」


 叔父は肩をすくめる。


「そんなときに、

 ちょうど番組の話が

 うちの映像会社に回ってきた」


 その口元が、

 ゆっくりと歪む。


「だから私は考えたのだよ。


 ——君を、

 “話題”にしようとね」


 嫌な予感がした。


「無名のまま出演しても、

 誰にも見向きはされない。


 たとえこちらが推しても、

 視聴者はついてこない。


 ならば先に、数字を作ればいい」


 そして、

 叔父は当然のように言った。


「貴子くんの動画を回すために、

 工作員を雇ったのだよ」


 頭が、真っ白になった。


 ……聞き間違いだと思った。


 けれど。


 叔父は笑っていた。


 つまり、

 現実だった。


「結果は大成功だった」


 叔父は満足そうに頷く。


「君の動画は、私の想像以上に跳ねた」


「話題性は十分。


 あとは、

 君が番組に出演しさえすれば——


 全て、

 計画通りだった」


 言葉が出ない。


 胸の奥が、

 気持ち悪くてたまらない。


「……何が言いたいかって?」


 叔父は立ち上がり、

 ゆっくりと私の前まで歩いてきた。


 そして、

 机にそっと手を置く。


 逃げ場を塞ぐように。


「つまり——」


 その顔は、

 穏やかだった。


「君を人気者にしたのは、私なんだ」


 吐き気がした。


「悪く思わないでくれ」


 叔父は笑う。


「こんなことは、

 メディアでは珍しくもない」


「数字のためなら、

 誰もが平気で嘘をつく」


「作られた話題。

 作られた人気。

 作られた評価。」


「だが——」


 彼は指を立てた。


「それで救われる才能もある」


 その言葉に、

 怒りより先に、

 寒気が走った。


「現に君は、

 ここまで来られた」


「違うかね?」


 私は、何も答えられなかった。


 隣に座る啓一もまた、

 言葉を失ったまま肩を震わせている。


 桐岡の手が、一瞬だけ止まった。



 けれど、

 すぐにまた動き出す。


 カタ、

 カタ、

 カタ——


 その音だけが、

 やけに鮮明に耳に残った。


 誰も、

 何も言えなかった。



「……ああ、そうそう」


 そんな空気さえ気に留めず、

 叔父は思い出したように続けた。


「出演の連絡が

 ぎりぎりになってしまった件だが——


 あれは番組側から、

 “ある程度の数字に達してから”

 という条件を出されていてね」


 数字。


 その一言が、

 やけに冷たく響く。


「急激に再生数が伸びれば、

 当然、不自然さを疑われる。


 だから、

 ちょうどいい頃合いを待ったのだよ」


 叔父は満足そうに頷いた。


「結果として、

発表のタイミングそのものが話題性を生んだ。


 あれは実に良かった」


 まるで、

 成功した投資案件を語るように。


 そこに、

 私の気持ちは一つもなかった。


「次に、契約書の件だ」


 叔父は書類を軽く指先で叩く。


「その会社は、

 今回の企画のためだけに設立した

 子会社の一つだ」


「まあ、役目は終わったからね。


 もう既に別会社と合併させて、

 名義も消してある」


 その言い方は、

 あまりにも軽かった。


 まるで、

 不要になった道具を

 片付けたと言わんばかりに。


「口外禁止を言い渡した理由も、

 単純なものだよ」


 叔父は、

 今度は私を見る。


「君は真面目だ。


 素直で、聞き分けもいい。


 だから——」


 一瞬、

 微笑んだ。


「信じ込ませるのは、容易だった」


 胸が、ずきりと痛んだ。


「そういうものだ、と言えば

 君は疑わない。


 だから、

 偽の契約書でも問題ないと思った」


「まさか、

 出演者たちが直接君に接触しようとするとはね。

 そこは、私の誤算だった」


 誤算。


 その言葉に、

 吐き気がした。


「君だけ対応を分けたのは、

 控え室の様子を他の出演者に悟られないため」


「そして——

 君の“身分”を守るためだ」


 身分。


 その言葉に、

 思わず眉が動く。


「芸能の世界には、くだらない嫉妬が多い」


「君がうっかり、私たちの存在を話してしまえば、

 余計な憶測を呼び、妨害される可能性もあった」


 叔父は肩をすくめた。


「私は、君を守ったのだよ」


 違う。


 違う。


 そう言いたかったのに、声が出ない。


「それに、君の控え室だ」


 叔父は笑う。


「あれだけ華やかな贈り物を、

 他の出演者の前に置けるわけがないだろう?」


 あの、部屋いっぱいに並んでいた花。

 胸が締めつけられる。


「あれは、

 君の出演を祝ったものではない。


 優勝を祝すために、私が用意させたものだ」


 全部、

 最初から決まっていた。


 最初から。


 その事実だけが、

 頭の中で何度も反響する。


 叔父の表情は、

 どこまでも軽やかだった。


 どこまでも、

 爽やかだった。


 まるで、

 自分が誰かを傷つけたなど、

 一度も考えたことがないように。


 そのとき、

 はっきりと思った。


 ——この人は、

 私たちとは違う。


 生きている世界が違う。


 物事を測る物差しが、

 決定的に違う。


 どうしようもない嫌悪感が、

 全身を押し潰していく。


 今すぐ、

 この場所から逃げ出したい。


 そう思っているのに。


 どうしてか、

 腰が上がらなかった。


 会議室に入った瞬間から、


 足と腰に、

 重い錘を括りつけられてしまったような。


 そんな感覚に、

 じわじわと蝕まれていた。


 誰も動かない。


 誰も言葉を発しない。


 ただ——


 桐岡が、

 叔父との会話を記録し続ける

 キーボードの音だけが。


 カタ、

 カタ、

 カタ——


 静かな部屋に、いつまでも響いていた。




「……なんで、そんなことを?」


 ようやく、

 塞がっていた私の口が開いた。


 咄嗟に出た言葉のせいで、

 呼吸はまだ乱れたままだった。


 胸が苦しい。

 声が震える。


 それでも、

 聞かずにはいられなかった。



 どうして。


 どうして、こんなことをしたのか。


「簡単なことだよ」


 叔父は、笑った。


 まるで、

 当然の問いに当然の答えを返すように。


「君には才能がある」


 その一言だけは、

 妙にまっすぐだった。


「その天から授かった力に、

 価値を与えるのが——


 我々、大人の仕事なのだよ」


 叔父は両手を広げ、

 芝居がかった仕草で歩き出す。


「君はまだ知らないだろうが、

 この世界には——


 才能がありながら、

 誰にも見つけられず、

 そのまま地に埋もれていく原石が、

 掃いて捨てるほどある」


 歩みを止め、

 こちらを振り返る。


「なぜだと思う?」


 誰も答えない。


 けれど叔父は、

 最初から答えなど求めていなかった。


「——力だよ」


 声が、一段高くなる。


「どれほど才能があろうと。

 どれほど努力しようと。


 それを守る力がなければ、

 ただの雑草と同じなのだ」


 その言葉に、

 胸がざわつく。


「彼らには力がなかった。


 ……いや」


 叔父は、

 わざとらしく首を振った。


「力を持つ者と、

 巡り会えなかったのだよ」


 その目は、

 本気だった。


「私は、

 そんな者たちを何人も見てきた」


「ああ……

 なんと、嘆かわしいことか」


 胸に手を当て、

 本当に悲しんでいるように目を伏せる。


「才能があるのに、

 誰にも知られず、

 誰にも守られず、

 消えていく者たち——」


「見るたびに、

 胸が痛んだよ」


 その声は、

 まるで聖職者の祈りのようだった。


 ……だからこそ、

 気味が悪かった。


「君には、

 そうなってほしくなかった」


 叔父の声に、

 熱が宿る。


「だから私は——」


 両腕を広げた。


「守れる力を持つ、この私が!」


「君の才能に、

 価値を生み出してあげたのだよ!」


 その声が、

 会議室に響き渡る。


「不安にさせてしまったね」


「だが、悪く思わないでくれたまえ」


 一歩。


 叔父が近づく。


「全ては、貴子くん——」


 また一歩。


「君のためなんだ」


 近い。


 近すぎる。


「君が羽ばたくために、

 私は私にできる全てを尽くした」


 その手が、

 私へ向かって伸びてくる。


「私はいつだって、君のことを——」


「触んないで!!」




 拒絶するのに、もう迷いはなかった。

 迷ったら、このまま飲まれてしまう。


 子どもだって大人に歯向かえる。

 今思えば、そんな反骨精神だったのかもしれない。



「私はただ、好きなように歌って、聴いてくださった方が喜んでくれて。それだけで充分です」


「もちろん。番組に出られたことは嬉しかったです。

 貴重な体験でしたし、感謝もしています。

 ですが、こんなことされても喜んだままでいられるほど、私は安い女ではありませんわ」



 初めて、叔父に反論した。


 いや、ここまで物申したことは、

 人生で初めてかもしれない。



「栄治郎さん」


 啓一も、背中に手を添えてから反論する。


「貴子は、ずっと努力してきたんです!

 俺も、好恵も、側で見てきたからわかります!!」


「確かに、貴子の才能にはいつも驚かされます。

 敵わないと思いながら、ずっと憧れてました!

 貴子は俺たちの自慢です!

 だからどうか、これ以上貴子の気持ちを踏み躙らないでください!」



「お願いします!!」



 啓一は深々と、叔父に頭を下げた。


 彼はいつだって、自分を犠牲にする人だから。

 やるときはやる男だから。

 私はただ、彼の隣に並ぶことしかできなかった。



「啓一くんもここまで言っているんだ。

 栄治郎さん。お願いします。

 子供に頭を下げさせないでくれ」


「これ以上、娘を傷つけないでください」



 父も母も説得のために動く。


 桐岡も無言のまま、流れで頭を下げた。




 ここまでやれば、叔父も改心してくれる。

 きっと、全員が同じ気持ちだっただろう。



 だが、そんな期待も虚しく、


 すぐに私たちは、叔父の本性を知ることになった。

ご覧いただきありがとうございます。

この回は、書いていてかなり胸が痛くなりました。


大人は容赦がありません。

全く嫌な世の中ですね笑


まぁとにかく、次回もお楽しみに


夜留タクト

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