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第十八話 運命の音

~前回のあらすじ~


竹島と幸田からの話を終えた後、財閥一同が捜査を開始。


証拠を揃えて叔父の元を訪れると、真実を告げられる。


——全ては、私が手配した

——貴子の人気も意図的に作ったもの


そうして貴子と啓一は、残酷な大人の世界の片鱗を叩きつけられていく。



 どれほど、そうしていただろう。


 机と床の境界線だけが、

 くっきりと視界に残っていた。


 まるで、

 誰かに時間のスイッチを押されたように。


 何も考えられない。


 何も感じられない。


 ただ、

 呼吸だけが浅く続いていた。


「………」


 やがて——


 小さな音が鳴った。


 それが叔父の笑い声だと気づくまで、

 数秒かかった。


「……ハハ」


「ハハハ……ハハハハハ!!」


 顔を上げる。


 叔父は、こちらに背を向けていた。


 肩を震わせながら、

 取り憑かれたように笑っている。


 これまでの笑みとは違う。


 余裕でも、

 愛想でもない。


 そこにあったのは——


 明らかな、蔑みだった。


 乾ききった、

 冷たい笑い声だった。


「何がおかしいんですか!?」


 父が、声を荒げた。


 その隣で、

 母も涙を堪えながら叔父を睨みつけている。


「甘いんだよ——

 君たちは」


 叔父は振り返らない。


 ただ、

 笑いを噛み殺しながら言った。


「努力してきた?

 傷つけないでくれ?」


「……ハハ」


「笑わせるな!!!」


 その一言だけで、

 部屋の温度が下がった気がした。


 叔父はゆっくりと振り返る。


 先ほどまで浮かべていた穏やかな笑顔は、

 どこにも残っていなかった。


「君たちは、

 本当に何もわかっていない」


 静かな声だった。


 だからこそ、

 恐ろしかった。


「君は、

 大人の世界に足を踏み入れたんだよ」


 叔父は、

 まるで子どもに常識を教えるように言った。


「活動を始めた時点で、

 大人も子どもも関係ない」


 一歩。


 ゆっくりと、

 こちらへ近づいてくる。


「君自身が——商品なんだ」


 胸の奥が凍りついた。


「勘違いしないでほしい」


 叔父は続ける。


「商品であることは、悪いことじゃない」


「価値があるから、人は金を払う」

 価値があるから、人は集まる」


「価値があるから、人は守ろうとする」


 一拍。


「私は、君の価値を誰より理解している」


 その言葉に、

 吐き気がした。


「だからこそ、私は動いた」

「だからこそ、私は投資した」


「だからこそ、

 私は君を表舞台へ引き上げた」


 叔父は胸に手を当てる。


「私がいなければ、

 君は今も無名のままだったかもしれない」


「それの、何が悪いことなんだね?」


 誰も答えられない。


 会議室の隅では、

 桐岡のキーボードだけが規則正しく鳴り続けていた。


 カタ、

 カタ、

 カタ——


 その音だけが、

 この場の冷たさを淡々と記録しているようだった。


「勝くんも、沙富もそうだ」


 父と母へ視線を向ける。


「社会というものは、

 綺麗事だけでは回らない」


「君たちもそれくらい理解しているはずだ」


 父も母も、

 何も言えなかった。


「啓一くん」


 今度は啓一を見る。


「君の言葉も理解できる」


「友人を守りたいのだろう。

 立派じゃないか」


 一度だけ頷く。


 だが。


「だがね」


 その目だけが冷えた。


「友情では、才能は守れない」


 啓一の肩が震える。


「努力だけでも守れない。

 誠意だけでも守れない」


「守るには力が必要なんだ」


 叔父は指先で机を叩いた。


「金だよ」


 コン。


「組織だ」


 コン。


「影響力だ」


 コン。


「それを持たない者が、

 才能を守れると思う方がおかしい」


 その言葉に、

 誰も反論できなかった。


 いや。


 したかった。


 けれど、

 言葉にならなかった。


「そもそも——」


 叔父は何でもないことのように続ける。


「もう貴子くんの活動で得られる収益は、

 すべてこちらで管理する仕組みに移行している」


「……まさか」


 母の声が震える。


「契約は成立している」


 叔父は即座に答えた。


「法的にも、

 手続き上も問題はない」


「だから私は、

 管理者として責任を果たすだけだ」


 その言い方が、

 何より恐ろしかった。


「つまり——」


 叔父は私を見た。


「君の活動は、

 今後も私が守るということだ」


 守る。


 その言葉が、

 まるで呪いのように聞こえた。


「……わかるかい?」


 叔父が近づく。


 近い。


 逃げたいのに、

 身体が動かない。


「君は歌えばいい」


 一歩。


「数字を作るのは私だ」


 また一歩。


「君は才能を磨く」


「私はそれを守る」


「役割分担だよ」


 穏やかな口調だった。


 だからこそ、

 寒気がした。


「私は君を利用しているんじゃない」


 叔父は微笑む。


「君を導いているんだ」


 その瞬間——


 はっきりとわかった。


 この人は、

 自分が間違っていると思っていない。


 本気で。


 本当に心の底から。


 自分は正しいことをしていると信じている。


 だから怖い。


 だから、

 どうしようもなく気味が悪い。



 私は——


 人間として見られていなかった。


 叔父にとって私は、

 守るべき才能であり。


 磨くべき資産であり。

 成功させるべき事業だった。


 そこに、

 私自身の気持ちはなかった。


 誰も言葉を発しない。


 悔しさだけが、胸の奥で熱を持つ。

 けれど、それをぶつける術はなかった。


 ただ、

 涙だけが滲んでいく。


 窓の外は、まだ晴れていた。

 星々の光が、無邪気に笑っている。


 まるで、

 何事もなかったかのように。


 私なんて、

 最初からいなかったかのように。



 それが、

 どうしようもなく残酷だった。



「大人気ないと軽蔑するかい?

 ……構わないさ」


 叔父は肩をすくめた。


「なんとでも言ってくれたまえ」


 その口調には、

 罪悪感の欠片もなかった。


「この世界はね、

 とりわけ“若さ”が価値になる」


「君が望んだことでもあるだろう?」


 私を見る。


「コメントも、

 仕事の連絡も見きれないから——

 管理してほしい、と。

 私に頼んだのは誰だったかな?」


 反論できなかった。


 確かに、

 そう頼んだのは私だった。


 けれど——


 だからといって。


 だからといって、

 こんなことまで許した覚えはない。


「勘違いしないでくれたまえ」


 叔父は続ける。


「私は何も奪ってなどいない」


「むしろ与えた側だ」


「機会を。知名度を。

 成功への道筋を」


 ゆっくりと指を折る。


「そして、

 その対価を受け取っているだけだ」


 その顔には、

 本気でそう信じている人間の表情があった。


 だからこそ、気味が悪かった。



 叔父にとってこれは、搾取ではない。


 正当な取引なのだ。



「……その利益を、

 どうするつもりなんだ」


 父が慎重に問いかけた。


「ははは」


 叔父は椅子にもたれ、脚を組む。


「安心してくれたまえ」


「海外の広告会社に投資しているだけだよ」


「物騒な事業に手を貸しているわけじゃない」


 そういう問題じゃない。


 言い返したかった。


 けれど——


 喉の奥が、

 得体の知れない何かに塞がれていた。


 代わりに——


 カタ、カタ、カタッ。


 桐岡の打鍵だけが、

 少し強く響いた。



「それと——」


 叔父は思い出したように言う。


「沙富が言っていたオトノークマカデミーだが」


 母の肩がぴくりと動く。



「あれはもう手を離れている」


「問題が起きたのは、

 経営権を譲渡してからだよ。

 あれには私も肝を冷やしたよ」


 ふ、と笑う。

 他人事のように。


「……話していなかったかな?

 すまない。

 会う人間が多くてね。

 てっきり伝えていたと思っていた」


 その軽さに、

 母の指先が小さく震えた。


「…相変わらずの得意技なのね」


「都合が悪くなると、

 いつも自分だけ外で高みの見物」


「責任を取らないまま」



 静かな声だった。


 けれど——


 その一言には、

 長年積み重なった感情が滲んでいた。



「……娘には、

 まだ将来があります」


 静かに、

 父が言った。


「権利を持っているとはいえ、

 肉親でもないあなたが、

 一方的に介入するのは——

 あまりに身勝手ではありませんか」


 その言葉に、


 会議室の隅で、

 キーボードを打つ指が、

 ほんの一瞬だけ止まった。



「……では」


 叔父は、

 ゆっくりとこちらを向く。


「今一度、

 本人の気持ちを聞こうじゃないか」


「……私の、気持ち?」


 その言葉に、

 ようやく喉の奥の何かが動いた。


 震える膝を押さえながら、

 私は叔父を見上げる。



「……私は……」


 声が掠れる。


 それでも、

 ここで言わなければ、

 一生、自分を許せない気がした。


「……そんなために、

 歌っていたんじゃありません」


 叔父の眉が、

 わずかに動く。


「誰かに褒められたいとか、

 有名になりたいとか——」


「そう思ったことも、

 なかったわけじゃありません」


 涙で滲む視界を、

 何度も拭った。


「でも……違うんです」


「私はただ、

 好きなように歌って——」


「聴いてくれた人が、

 少しでも嬉しい気持ちになってくれたら、

 それだけでよかった」


 胸の奥から、

 熱いものが込み上げる。


「それなのに……」


 拳が震える。


「あなたは、

 それを利用した」


「私の気持ちも。

 努力も。

 あの日の喜びも——」


「全部、お金に変えたんです!」


 会議室に、

 自分の声が響く。


 もう止まらなかった。


 桐岡のキーボード音が、


 そこで初めて止まった。


 記録することすら、

 追いつかないほどの沈黙だった。


「利益のために、人の気持ちまで踏みにじって、

 関係のない人を不快に思わせて——」


「それで、

 何が“守った”ですか!」


「……最低です」



 叔父は、

 静かにこちらを見下ろしていた。


 まるで、

 聞き分けのない子どもを見るような目で。


「……最低?」


 ふ、と笑う。


「残念だが、

 それが業界の現実だよ」


 冷たい声だった。


「君は、"実力だけで評価される世界"

 だとでも思っていたのか?」


「残念だが、

 そんなものは最初から求められてはいない」


 一歩。


 叔父が近づく。


「求められているのは——」


 さらに一歩。


「数字だ」


 その一言が、

 胸を鋭く刺した。


「再生数。話題性。広告価値。」


「人を喜ばせたい?

 素晴らしい志だよ!!」


「だが、

 それを見る人間がいなければ——」


 叔父は、

 私の目を真っ直ぐ覗き込む。


「君の歌は、

 存在しないのと同じだ」


 息が詰まる。


「何も知らなかったのは、

 君の方だろう」


「知らなかった、では済まされない」


「この世界を動かしているのは、

 才能でも、

 優しさでもない」


 一拍。


「金だ」


 低く、

 言い切る。


「それが、資本主義社会の生き残り方だ」



「違う!!」


 気づけば叫んでいた。


「私の歌は、私のものです!」


 震える足で、立ち上がる。


「それに——」


 一歩。


「人は誰だって、

 自由を、幸せを、

 求めているはずですわ」


「音楽は、人の心を満たすものです!」


 また一歩。


「叔父様の言っていることは、

 ただの暴論です」


「あなたには——」


 喉が震える。


「人の心がありません!」



 室内は静寂に包まれる。


 啓一と両親も、

 同じ思いを宿した視線を叔父に向ける。



「……否定するのか」


 叔父の笑みが、

 消えた。


「君が?」


 その声が、低くなる。


「資本主義を、

 否定するのか!!」


 甲高い怒声とともに、

 飲み干したコーヒーが

 ソーサーに叩きつけられた。


 硬い音。


 その直後——


 カタ、カタ——


 桐岡の指が、

 慌ただしくキーを叩いた。


 その音だけが、

 迫る不穏を知らせているようだった。



「今まで!散々!

 財力に守られてきた君が!」


「その恩恵を受けながら、否定するというのか!!」


 じわじわと迫り、壁際まで追い詰められる。



「……だったら」


 目の前に、顔が迫る。


「独りで生きてみろよ」


「っ——!」


 髪を掴まれ、無理やり顔を引き上げられる。


 叔父の歪んだ顔が迫る。


「何もできない小娘が!!」


 身体が浮き——

 床へ叩きつけられていた。


 鈍い音が響く。


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 会議室から、音が消えた。



「貴子!」


 啓一と両親が、駆け寄る。


「なんてことを……!」

「怪我はない!? 貴子!」


「栄治郎さん!

 アンタ子どもに手出すのかよ!!」


 啓一も、たまらず掴みかかった。


 その瞬間。


 窓の外で、雷が鳴った。


 空を裂くような轟音に、

 全員の肩が跳ねる。


 雨脚が、

 一気に強くなる。


 窓ガラスを叩く雨音が、

 会議室の静寂を埋めていく。


 私はもう、何も言えなかった。


 怒りも。


 悔しさも。


 悲しみも。


 全部、どこかへ流されていく。


 ただ一つ——


 胸の奥で、

 いつも鳴っていたはずの音が。


 ふっと、

 消えた気がした。


 そこに残ったのは、


 ぽっかりと空いた、深い穴だけだった。



「……こんな天気だ。

 君たちも帰れなくなるだろう」


 叔父は乱れた袖口を整えながら言った。


「とにかく、

 貴子くんにはこれまで以上に頑張ってもらう」


「なぁに。貴子くんがうちに利益を齎してくれれば、我が金村コーポレーションも潤う」


「それは、君たち澤森財閥にとってもプラスになるはずだろう?」


「これこそ、素晴らしいウィンウィンじゃないか」


「……そう思わないか?沙富」


 資本主義に取り憑かれた悪魔は、

 実の妹を蔑んだ目で俯瞰していた。


「……あなたは昔から変わらないわね」


 母は静かに叔父を見つめる。

 その目には、もう怒りさえなかった。


「なんでも自分の都合に合わせて解釈して、

 話術で人を言いくるめる」


「私はずっと——」


 一度、目を伏せる。


「あなたが兄であることが情けなかったわよ」



「亜紀絵さんも。

 茂輝くんも。豊水ちゃんも」


「みんな、あなたから離れていった」


「それでも何も感じなかったんでしょうね」



 亜紀絵さんと茂輝と豊水は、私が小六の頃に叔父の元を離れた、叔母と従兄妹の二人だ。


 叔父との別居を機に、澤森財閥とも関わることもなくなり、長らく会っていない。



「……そうかもしれないな」


 叔父は、

 ネクタイを整えながら笑った。


「だが私は、家族を犠牲にしてでも、ここまで会社を大きくしてきたと自負している」


 その声に迷いはない。


「そして後悔もしていない」



「君たちは、優しすぎるんだよ」


「亜紀絵も、茂輝も、豊水も」


「人を失うことばかり恐れている。

 だから、何も変えられない」



 そして、

 母を見て言う。


「……君も昔から変わらないな」


「忍耐や義理だと偽って、

 いつも自分を犠牲にする」


 小さく鼻で笑う。


「本当に——

 気の合わない妹だよ」



 そのとき。


 カタ——


 桐岡のキーボードの音が、止まった。


 それが、

 この日の終わりを告げる音だったのか。


 それとも——


 私の中で、

 何かが失われた音だったのか。


 あるいは、何かを繋ぎ止めようとしていた音なのか。


 もう、わからなかった。



 叔父の言葉。

 両親の叫び。

 啓一の怒り。

 そして、私の涙。


 そのすべてを、

 忘れないように。


 心の奥底へ、

 刻みつけるように。



 あの日。


 私の中で何かが、

 確かに壊れた。



 この日はもう、

 誰の顔も、まともに見られなかった。


 両親の泣き声も。

 啓一が膝を叩く音も。

 窓の外の轟音も。


 そのすべてが、遠かった。



♫♫♫



 人生最悪の日から、五日後。


 私は再び、

 両親とともに叔父のオフィスへ向かっていた。


 ——いや。


 向かっている、というより、

 向かわされていると言った方が正しいのかもしれない。


 叔父と同じ空気を吸うことすら、

 もう耐え難かった。


 それはきっと、

 両親も同じだろう。


 けれど今日は、

 私たちだけではなかった。


 隣に座るその人の存在が、

 車内の空気そのものを変えていた。


 私も、

 長い間、顔を合わせていなかった人物。


 澤森財閥の頂点に立つ人。


 そして——


 私たちに残された、

 最後の切り札。


 使用人たちは、

 その人を前にして異様なほど神経を尖らせていた。


 屋敷を出るときから、

 誰もが足音を殺し、

 視線を伏せていた。


 その理由は、

 よくわかる。


 車の中でも、

 “ボス”は一言も発していなかった。


 まるで、

 そこに置かれた彫像のように、

 微動だにしない。


 けれど——


 確かにそこにいる。


 重い存在感と、

 わずかな体温だけが、

 静かに隣にあった。


 その沈黙に、

 誰も言葉を差し挟めない。


 父も。


 母も。


 そして私も。


 叔父には、

 できることなら、

 もう二度と会いたくなかった。


 けれど同時に——


 この人を前にした叔父が、

 どんな顔をするのか。


 それだけは見たいと思っている自分がいた。



 ——資本主義に守られている人間。


 五日前、

 叔父に投げつけられた言葉が、

 今も頭の奥で何度も反響している。


 そのたびに、

 胸のどこかが冷たくなる。


 窓の外では、

 灰色の空の下、

 首都高の景色が絶え間なく流れていく。


 車は、静かに、

 けれど確実に——


 決着の場所へと向かっていた。



♫♫♫



 車が到着するやいなや、

 待ち構えていた使用人たちが一斉に動いた。


 まるで、

 一人の王を迎えるように。


 誰よりも先に車の扉が開かれ、

 恭しく差し出された手に導かれながら、

 “ボス”はゆっくりと車外へ降り立つ。


 杖をつく。


 ただ、それだけの動作なのに——


 空気が変わった。


 誰も声を出さない。


 いや、

 出せないのだ。


 白昼だというのに、

 その場だけが別の世界に切り離されたようだった。


 下駄の音。


 杖の音。


 そして、

 誰かが息を呑む音。


 それだけで、

 空気が痺れていく。


 少し前、

 南や啓一に借りて読んだ海賊漫画の、

 ある場面を思い出した。


 圧倒的な存在が、

 ただそこに現れただけで、

 周囲の人間が言葉を失う——


 まさに、

 あんな光景だった。


 その人物こそ——


 澤森喜代四郎。


 私の祖父。


 澤森財閥の頂点に立つ、

 絶対的な存在。


 光沢のある藤色の和服が、

 日差しすらも容易く跳ね返していく。



 この人は、

 もともと人間というものが

 あまり好きではないらしい。


 滅多なことでは、

 “下界”に姿を見せない。


 父から聞かされてきた話では、

 父が幼い頃からすでに、

 半ば隠居したような生活を送っていたという。


 それでも——


 澤森の名は広がり続けた。


 人を信じず。


 人に媚びず。


 ただ、

 己の力と意思だけで。


 財を積み上げ、

 事業を拡大し続けてきた。


 その人が今、

 叔父のオフィスへと歩いている。


 杖を鳴らしながら。


 一歩ずつ。


 まるで、誰かの運命を裁くために。



 社内に足を踏み入れた途端、

 その場にいた社員たちは、

 一斉に言葉を失った。


 誰もが黙って頭を垂れる。


 ほんの一瞬のことだったが、

 額に浮かぶ冷や汗だけは、

 はっきりと見えた。


 誰も、

 祖父の顔をまともに見ようとしない。


 ただ、

 通り過ぎるのを待つように、

 息を潜めている。


 怪訝な表情のまま、

 祖父は歩みを止めない。


 杖の音だけが、

 静まり返ったフロアに響いていた。


 コツ。


 ……コツ。


 そのたびに、

 胸の奥まで揺さぶられるようだった。


 エレベーターに乗り込んでも、

 誰ひとり口を開かなかった。


 父も。


 母も。


 そして私も。


 この異様な空気に、

 ただ息を呑むしかなかった。


 やがて——


 叔父の待つ会議室へ、

 足を踏み入れた、その瞬間。


 叔父から、

 余裕が消えた。


 ……いや。


 吸い取られた、

 と言った方が正しいのかもしれない。


 表情から。


 足元から。


 まるで、

 そこにあった“自信”という名の栄養を、

 何かに根こそぎ奪われるように。


 空気の色が、

 ひやりと揺れた。


 窓際のサボテンだけが、

 場違いなほど静かだった。


 それでも叔父は、

 気圧されまいとするように

 ジャケットの裾を正し、

 いつもの笑みを貼りつける。


「ご無沙汰しております」


 恭しく頭を下げる。


「ご足労をおかけいたしました。

 いやぁ……

 どなたかと思えば、

 喜代史郎様でいらっしゃいましたか」


 貼りつけた笑顔のまま、

 言葉を重ねる。


「お元気そうで、何より——」


「誰が喋ってよいと言った?」


 その一言で、

 空気がさらに痺れた。


 凍る、ではない。


 押し潰される。


 そう表現した方が、

 近いだろうか。


「……ウヌと、

 世間話などする気はない」


 祖父は、

 杖を一度だけ鳴らした。


 コツ——


 それだけで、

 叔父の肩がわずかに揺れる。


「傘下の分際で」


 一言ずつ、

 叩きつけるように。


「我が財閥の宝を食い物にし」


「我らを出し抜こうとした——」


 一拍。


「不届者が」



 これまで、

 たくさんの“大人”を見てきた。


 けれど——


 祖父に勝る人間を、私は見たことがない。


 その威圧は、

 怒鳴ることすら必要としない。


 ただ、

 そこに立つだけでいいのだ。


 さすがの叔父も、

 完全にペースを崩していた。


 その表情を見ただけで、

 少しだけ胸がすいた気がした。


 ……けれど。


 同時に私は、


 その祖父の隣にいる自分ですら、

 少し怖かった。



♫♫♫



 しばらく、

 誰ひとり動けなかった。


 その場を最初に動かしたのは——


 桐岡だった。


 何も言わず、

 祖父のために椅子を引く。


 他の使用人たちも、

 その動きに合わせるように静かに配置についた。


 まるで、

 あらかじめ決められていた儀式のように。


 その流れに促されるまま、

 私たちも席へと腰を下ろす。


 祖父の隣。


 こんなに近くに座るのは、

 いつ以来だろう。


 相変わらず、

 口数は少ない。


 こちらを見ることもない。


 ただそこにいるだけなのに——


 その視線だけで、

 人ひとりくらいなら

 容易く凍らせてしまえそうだった。


 悍ましい。


 そう思うほどの威圧感。


 それなのに、

 不思議と心強かった。


 まるで、

 嵐の中で見つけた

 巨大な岩陰のように。


 叔父は、

 私たち全員が座るのを待ってから、

 ようやく自分も椅子に腰を下ろした。


 いや——


 座ったというより、

 恐る恐る、

 尻を置いた、と言った方が近い。


 祖父の顔色を、

 何度も窺いながら。


 その姿は、

 いつもの叔父とはまるで別人だった。


 部屋に満ちる沈黙は、

 重かった。


 誰も、

 口を開かない。


 ただ——


 誰かが唾を飲み込む音だけが、

 やけに大きく響いた。


 そして。


 その静寂を切り裂くように——


 カタ。


 桐岡が、

 ノートパソコンを開いた。




「……時間を使いたくない。やれ」


 祖父は、叔父から一度も目を逸らさぬまま、

 それだけを言い捨てた。


 その短い一言に、

 全員の背筋が強張る。


 けれど——


 桐岡だけは違った。


 微かに頷くと、

 何事もなかったように

 ノートパソコンへ指を置く。


 カチ。


 カチ、カチ。


 静まり返った会議室に、

 乾いた打鍵音だけが響く。


 そして——


 叔父の秘書のパソコンに、

 一通のメールが届いた。


 受信音が、

 妙に大きく聞こえた。


「……先日の話し合いは、

 すべて記録させていただきました」


 桐岡は、

 感情を一切乗せない声で告げる。


「その内容をもとに、

 我々の要求をまとめたファイルを

 送付しております」


 一拍。


「一つずつ、

 確認させていただきましょう」


 その声に感情はなかった。


 怒りも。


 軽蔑も。


 正義感すらない。


 ただ、業務を遂行する人間の声だった。



 叔父が画面に目を落とした瞬間——


 その顔から、

 完全に余裕が消えた。


 いや。


 今度こそ、

 本当に。


 言葉も。


 笑みも。


 取り繕うための仮面すらも。


 私は、

 使用人が差し出したタブレットを

 そっと受け取った。


 そこに並ぶ文字列を見て、

 息を呑む。


 驚くべき内容だった。


 譲渡契約の不備。


 収益移転の不透明な経路。


 権利管理上の違反。


 そして——


 叔父自身の発言記録。


 逃げ道を、

 一つずつ塞ぐように。


 淡々と。


 正確に。


 容赦なく。


 ……さすがは、

 澤森財閥の切り札だった。


 滅多に会うことはない。


 けれど——


 これほど頼もしい存在を、

 私は他に知らない。


 桐岡が、

 静かにページを進める。


 彼女がここまで長く言葉を発する姿も、

 珍しかった。


 その声を聞くたびに、


 心に張りついていた靄が、

 少しずつ晴れていく。


 どんなに残酷な世界にも、

 希望はある。


 そんな言葉を、

 綺麗事だと笑う人は多いだろう。


 ……私も、

 少し前まではそうだった。


 けれどこの瞬間だけは、


 確かに、

 それを信じられた。


 どんなに残酷な世界にも、

 希望はあるのだと。


 けれど——


 その光には、

 必ず影があった。


 救われることと、

 失うことは、

 時に同じ場所にある。


 目の前に差した希望の光が、

 どれほど冷たいものなのか。


 私が抱いた安堵が、

 どれほど儚いものなのか。


 このときの私は、

 まだ知らなかった。


 この世界の愚かしさを——。

ご覧いただきありがとうございます。


表現を追求すると必ず権力にぶち当たる


私のメンターがよく仰る言葉です。


誰もが理想と現実のギャップに戸惑う。

しかし、それでもやり続ける原動力が、また新しい作品を生み出すことに繋がると私は信じております。


さて、第一部もいよいよ核心に迫って参ります。

この過去が現在のバンドにどう影響してくるのか…?


次回もお楽しみに

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