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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第99話:戻る男たちは、月の熱を砦へ運ぶ

 朝の森は、昨日とは違う顔をしていた。


 男たちの村へ向かう時には、ソータの胸の中に不安が多かった。

 境界の決まり。

 見知らぬ村。

 バルクの意思。

 ミレイユに報告しなければならない荷。


 だが、帰り道には別の重さがあった。


 荷は減っている。

 持っていった布や塩や保存容器は、男たちの村へ渡した。

 甘い干し果実も、子どもたちの笑顔と一緒に消えていった。


 けれど、ソータの胸の中は、行きよりずっと重かった。


 バルクが村で信頼されていること。

 大角猪を盾で受け止めたこと。

 メバドスが本当はバルクにも残ってほしかったこと。

 それでもガルナに会いたがる彼を見て、かわいそうで言えなかったこと。

 隣国の辺境の民が不穏な動きをしていること。

 メバドスと精鋭たちが村に残ること。

 そして、自分が助太刀すると約束したこと。


 どれも、形のない荷だった。


 だが、今のソータには分かる。

 形がないから軽いわけではない。


(全部、持って帰る。)

(ちゃんと。)

(言葉で。)

(表情で。)

(俺が見たままを。)


 ソータは胸元の小板に触れた。

 昨夜の宴の中で何度も書いたせいで、指先には炭の黒が少し残っている。

 字は綺麗ではない。

 だが、読める。

 たぶん読める。


(ミレイユに読めないって言われたら、口で補えばいい。)

(いや、まず怒られるな。)

(でも、それも含めて報告だ。)


 前方では、ダンとオルムが道を選んでいる。

 昨日と同じ道のはずなのに、人数が増えたせいで森の空気が変わっていた。


 男たちの村から砦へ向かう者たちが一緒にいる。


 荷を背負う者。

 飾り布を肩にかけた者。

 髪を整えた者。

 緊張を隠せずに何度も服を直す若い男。

 妙に無口な男。

 逆にやたら喋る男。


 フルムーンのために砦へ向かう男たち。

 彼らの足取りには、期待と緊張が混ざっていた。


 そして、その中で一番分かりやすく浮かれているのがバルクだった。


 バルクは大きな体で道の先を見つめ、歩幅が自然と大きくなりすぎてはガルドに睨まれ、慌てて速度を戻す。

 少し進むたびに、砦の方角を見る。

 まだ見えるはずもないのに見る。


 レオンが隣でにやにやしていた。


「バルクさん、道を目で引っ張ってるっすね。」


「何のことだ。」


「気持ちだけ先に砦へ行ってるっす。」


「そんなことはない。」


 バルクはきっぱり言った。


 その直後、また砦の方角を見る。


 レオンが吹き出した。


「説得力ないっす。」


 ガルドが低く言う。


「歩幅を戻せ。」


「戻している。」


「また広がった。」


「すまん。」


 バルクは本気で反省した顔をした。

 そして十歩後にはまた歩幅が広がった。


 ガルドはため息をついた。


「重症だ。」


「治す気はない!」


 バルクが昨日と同じことを言った。


 周囲の男たちが笑う。


 ソータも笑った。

 その笑いの中に、昨日より少しだけ安心が混じっていた。


 バルクは変わっていない。

 変わったところもある。

 でも、根っこの部分は変わっていない。


 それが嬉しかった。


◆◇◆


 境界石の前で、一行は足を止めた。


 昨日も見た黒い石。

 月、水、槍、重なる手の模様。

 白い小石の円。


 男たちはそれぞれ短く頭を下げた。

 ソータも同じように頭を下げた。


 今度は、行きよりもその意味が少しだけ分かる気がした。


 ここは線だ。

 ただの道の印ではない。

 男たちの村と砦。

 迎える側と向かう側。

 古い誓いと今の暮らし。

 その境目だった。


 この石の向こうに、ミレイユは来られなかった。

 だからこそ、自分が見て持ち帰る。


 ソータはもう一度、石の模様を目に焼きつけた。


(丸い月。)

(水の波紋。)

(槍。)

(手を重ねる印。)

(白い石の輪。)


 レオンが横から小声で言う。


「また覚えてるっすか。」


「うん。」


「ミレイユさん用っすね。」


「うん。」


「愛っすね。」


「だから急にからかわないで。」


 レオンは笑った。


 ガルドが短く言う。


「必要な記録だ。」


「ほら。」


 ソータは少しだけ胸を張った。


 レオンが肩をすくめる。


「ガルドさんが味方につくと強いっす。」


 境界石を越え、砦側の森へ入る。


 男たちの空気が変わった。

 誰かが服の襟を直す。

 誰かが髪に差した飾りを触る。

 誰かが小声で祈る。


 バルクは、なぜか深呼吸を何度もしていた。


「バルクさん、緊張してるっすか。」


「していない。」


「息、荒いっすよ。」


「これは森の空気を吸っているだけだ。」


「吸いすぎっす。」


 ソータは思わず笑った。


「ガルナさん、きっと待ってますよ。」


 その言葉に、バルクの顔が一気に柔らかくなった。


「そうか。」


「はい。」


「そうか。」


 同じ言葉を二度言った。

 それだけで、周囲の男たちがまた笑った。


◆◇◆


 一方、砦では朝から妙な落ち着かなさが漂っていた。


 フルムーンが近い。

 男たちが来る。

 それは砦にとって特別な日だった。


 女たちは普段より念入りに髪を整え、広場を掃き、炉の周りを整え、宴の準備を進めている。

 肉を吊るし、果実酒を出し、飾り布を張る。

 弓の訓練の音もいつもより少し早く終わり、代わりに笑い声や歌の断片が増えていた。


 ミレイユはその様子を、オルドアイの隣で見ていた。


 昨日一日、砦の仕事を見て回った。

 外周。

 射場。

 薬草場。

 食事場。

 持ち出し箱の運用。

 獣の足跡への対応。


 今日の砦は、それとは別の顔をしている。

 戦う砦ではなく、迎える砦。

 女たちが待つ場所。

 祈りと期待と、少しの焦りが混じる場所。


 オルドアイは普段と変わらないように振る舞っていた。

 だが、ミレイユには分かる。

 彼女も落ち着いていない。


 左腕の緑の組み紐に触れる回数が、昨日より多い。


「オルドアイ。」


「何だ。」


「あなた、緊張している?」


 オルドアイは即座に答えた。


「していない。」


 ミレイユはじっと見た。


 オルドアイは少し目を逸らした。


「少しだ。」


「素直でよろしい。」


「お前はどうだ。」


「私は緊張しているわ。」


「素直だな。」


「あなたに移ったのかもしれないわ。」


 オルドアイは笑った。


 カレンが二人の少し後ろで言った。


「二人とも顔に出ている。」


 ミレイユとオルドアイが同時に振り返る。


「私は出ていません。」


「私は出ていない。」


 また声が重なった。


 エルザが静かに微笑む。


「今日はよく重なりますね。」


 ミレイユは少し頬を赤くした。


「偶然よ。」


 オルドアイも腕を組んだ。


「偶然だ。」


 カレンは淡々と頷いた。


「仲が良い。」


「良くありません。」


「良くない。」


 三度目も重なった。


 エルザはとうとう小さく笑った。


 ミレイユは額に手を当てた。


「もういいわ。」


 オルドアイも、どこか楽しそうに息を吐いた。


 昨日より、確実に距離が近くなっている。

 それを認めるのは悔しい。

 だが、否定し続けるのもそろそろ苦しくなってきた。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


(ソータ。)

(早く戻ってきなさい。)

(あなたがいない間に、いろいろ変わっているわよ。)


 そう思った時、見張り台から声が上がった。


「北の道に影!」


 広場の空気が一気に変わった。


 女たちが顔を上げる。

 誰かが笑う。

 誰かが息を呑む。

 弓を取る者もいるが、警戒より確認の動きだった。


 オルドアイの目が鋭くなる。


「数は。」


 見張りの女が答える。


「複数! 男たちの一団! 先頭にダンとオルム!」


 砦のあちこちから歓声が上がった。


 ミレイユの胸も跳ねる。


 ソータが戻ってくる。

 ガルドも。

 レオンも。

 そしてバルクも。


 オルドアイは走り出しそうになったが、途中でミレイユを見た。


「行くぞ。」


「ええ。」


「走るか。」


「走りません。」


「では早歩きだ。」


「それなら。」


 カレンが後ろから言う。


「転ぶな。」


「分かっているわ。」


 エルザも静かに続いた。


 四人は門へ向かった。


◆◇◆


 砦の門が見えた時、ソータは思わず息を止めた。


 昨日出た場所。

 ミレイユが見送ってくれた場所。

 オルドアイが腕の緑の組み紐に触れていた場所。


 今、その門前には多くの女たちが集まっている。


 赤や緑の布。

 髪飾り。

 弓を背負ったままの女。

 笑いを抑えきれない若い女。

 腕を組んで待つ年嵩の女。


 その中に、ミレイユがいた。


 紅い髪紐が朝の光を受けて揺れている。

 ソータの胸が、はっきりと熱くなった。


 隣にはオルドアイがいる。

 左腕の緑の組み紐が見えた。

 彼女もこちらを見ている。

 少しだけ口元が緩んでいる。


 エルザとカレンもいる。


 戻ってきた。


 ソータは足を速めそうになった。

 だが、隣でガルドが低く言った。


「落ち着け。」


「はい。」


「転ぶな。」


「はい。」


 レオンが笑う。


「ソータさんも顔がやばいっす。」


「分かってる。」


「正直っすね。」


 門の前で、一行は止まった。


 砦側の女たちが男たちを迎える。

 声が重なる。

 名前を呼ぶ声。

 笑い声。

 安堵のため息。


 その中で、ソータはまっすぐミレイユの前へ向かった。


「ただいま。」


 声が少し震えた。


 ミレイユは一瞬、何かを言おうとして、唇を引き結んだ。

 それから、静かに答えた。


「お帰りなさい。」


 その言葉だけで、ソータの胸がほどけそうになった。


 だが、ミレイユはすぐに目を細めた。


「報告は?」


「あります。」


「省略は?」


「しません。」


「甘い干し果実は?」


「食べてません。」


「本当に?」


「本当に。」


 レオンが横から言った。


「子どもたちに大人気だったっす。」


 ミレイユの目が少し明るくなる。


「そう。」


「ちゃんと書きました。」


 ソータは小板を取り出した。


 ミレイユはそれを受け取り、素早く目を走らせる。

 眉が少し動いた。


「字は。」


「読めますか。」


「読めるわ。」


 ソータは心底ほっとした。


 カレンが後ろで淡々と言った。


「合格だ。」


「ありがとうございます。」


 ミレイユは板を読みながら、途中で目を止めた。


「大角猪。」


「はい。」


「バルクさんが受け止めたの?」


「はい。」


 オルドアイが目を丸くした。


「本当か。」


 バルクが胸を張る。


「本当だ!」


「怪我は。」


「少しだ!」


 ガルドが低く言った。


「少しではない時もそう言う。」


「今回は少しだ!」


 オルドアイはバルクを見て、少し感心したように頷いた。


「やるな、バルク。」


 バルクは嬉しそうにした。


「ありがとう、姫。」


 だが、その直後、彼の視線が激しく動いた。


 ガルナを探している。


 誰の目にも分かった。


 レオンが小さく笑う。


「始まったっす。」


 オルドアイがにやりとした。


「探している相手は、あちらだ。」


 彼女が顎で示した先。

 門の少し奥、広場へ続く道の横に、一人の女が立っていた。


 ガルナだった。


 長身で、引き締まった体。

 褐色の肌。

 腕を組み、平静を装っている。

 だが、目は完全にバルクを見ていた。


 バルクは固まった。


「ガルナ。」


 声が低く、少し震えていた。


 ガルナは、ほんの少しだけ顎を上げた。


「遅い。」


「すまん。」


「怪我は。」


「ない。」


 ガルドが横で小さく言った。


「少しある。」


「ガルド!」


 ガルナの目が細くなる。


「怪我があるのか。」


「少しだ。」


「見せろ。」


「ここでか。」


「見せろ。」


 バルクは一瞬困った顔をした。

 だが、次の瞬間には嬉しそうになっていた。


 ガルナに心配されるのが嬉しいのだ。


 レオンが腹を抱える。


「もう駄目っす。」


 ソータも笑った。


 ガルナはバルクの腕を取り、広場の端へ連れていく。

 バルクは大きな体をしているのに、まるで素直な犬のようについていった。


 周囲から冷やかしの声が飛ぶ。


「おお、戻ったぞ!」


「ガルナ、逃がすな!」


「逃げん!」


 バルクが叫ぶ。


 ガルナが振り返って睨むと、周囲の女たちが笑った。


 ソータはその光景を見て、胸が温かくなった。


 これをメバドスは見たかったのだろうか。

 いや、見なくても分かっていたから、バルクを送り出したのだ。


 その優しさも、ちゃんと伝えなければならない。


◆◇◆


 門前の迎えが一段落すると、ヤンガルドアイが姿を現した。


 彼女は砦の長として堂々と立っていた。

 だが、視線は男たちの中を一度探る。


 すぐに、そこにメバドスがいないことを確認したのだろう。


 表情はほとんど変わらなかった。

 しかし、ミレイユはわずかな変化に気づいた。

 目元が、ほんの少しだけ硬くなった。


 ソータも気づいた。


 メバドスの言葉が頭に浮かぶ。


 余計な心配はするな。

 怒るだろうな。

 怒る時は、心配している時だ。


 ソータは一歩前へ出た。


「ヤンガルドアイさん。」


「戻ったか、ソータ。」


「はい。」


「メバドスは。」


 声は静かだった。


 静かすぎるほどだった。


「村に残りました。」


 ヤンガルドアイの目が細くなる。


「聞いている。」


「隣国の辺境の民の動きが不穏で、精鋭数人と村を守るそうです。」


「それも聞いている。」


 ソータは一瞬迷った。

 だが、必要なことは伝えると約束した。


「メバドスさんは、余計な心配はするな、と。」


 ヤンガルドアイの眉がぴくりと動いた。


「余計な心配だと。」


 周囲の空気が少し冷える。


 ソータは背筋を伸ばした。


「はい。」


「そう言ったか。」


「はい。」


「馬鹿者が。」


 声は低かった。

 だが、怒鳴りではなかった。


 そこにあるのは、怒りと心配が混ざったものだった。


 ヤンガルドアイは腕を組み、北の方角を見た。


「昔からそうだ。勝手に背負い、勝手に残る。」


 ソータは黙っていた。


「そして、こちらには心配するなと言う。」


 その声に、ほんの少しだけ柔らかさが混じった。


「心配するに決まっておろう。」


 ミレイユはその横顔を見た。

 砦の長ではなく、一人の妻の顔が一瞬だけ見えた。


 しかし、それはすぐに隠された。


 ヤンガルドアイはソータへ向き直る。


「他には。」


「本当は、バルクさんにも残ってほしかったそうです。」


 バルクが遠くでガルナに腕を見られながら、こちらを振り返った。


「俺か?」


 ソータは頷いた。


「でも、毎日毎日ガルナさんのことばかり言うから、かわいそうで言えない、と。」


 一瞬、砦全体が静まり返った。


 次の瞬間、爆笑が起きた。


 アマゾネスの女たちが腹を抱える。

 男たちも笑う。

 レオンも声を上げて笑う。

 ガルナの耳が赤くなる。

 バルクは真っ赤になった。


「村長!」


 バルクが叫んだ。


「そんなことを言ったのか!」


 ソータは真面目に答えた。


「言いました。」


「ソータ、正直すぎる!」


「必要なことは伝える約束なので。」


 ミレイユが額に手を当てた。


「確かに必要だけれど、もう少し言い方があったかもしれないわ。」


 オルドアイは笑いすぎて肩を震わせている。


「メバドス殿らしい。」


 ヤンガルドアイも、口元を押さえた。

 完全に笑いを堪えている。


「そうか。」


 彼女は言った。


「それで残せなかったか。」


 声は少しだけ柔らかくなっていた。


 ガルナはバルクの腕を掴んだまま、ぼそりと言う。


「残らなくてよかった。」


 バルクがぱっと彼女を見る。


「ガルナ。」


「うるさい。怪我を見せろ。」


「はい。」


 周囲がまた笑った。


 ヤンガルドアイは軽く息を吐いた。


「メバドスには後で文を送る。」


 その言い方に、周囲の女たちが少し身構えた。


 文の内容は、きっと優しいだけでは済まない。


 ソータは内心でメバドスに謝った。


(すみません。)

(でも、必要なことは伝えました。)


◆◇◆


 報告は、すぐに集会小屋で改めて行うことになった。


 だがその前に、砦へ戻った男たちを迎える時間が必要だった。

 フルムーンの熱気は、すでに砦へ広がり始めている。


 男たちはそれぞれ、待っていた女たちのもとへ向かう。

 長く会えていなかった者同士が手を取り合い、短く言葉を交わし、ある者は笑い、ある者は泣きそうな顔をしている。


 ミレイユはその光景を見ていた。


 昨日まで、自分にはよく分からない決まりだった。

 女は男たちの村へ入れない。

 男たちが砦へ来る。

 砦で迎える。


 今、その意味が少しだけ分かる気がした。


 これはただの移動ではない。

 待つ場所と戻る場所をはっきりさせるための儀礼だ。

 男たちは村から来る。

 女たちは砦で迎える。

 その動きそのものが、互いの役割と絆を確認する。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


 自分も今朝、ソータを迎えた。

 お帰りなさい、と言った。


 それは、少しだけこの砦の女たちと同じ行為だったのかもしれない。


 オルドアイが隣で言った。


「どう見える。」


「熱いわね。」


「そうだな。」


「少し、分かった気がする。」


「何がだ。」


「ここで待つ意味。」


 オルドアイは少しだけ目を細めた。


「そうか。」


「あなたも、待っていたのね。」


 オルドアイは一瞬黙った。


 そして、素直に頷いた。


「ああ。」


 その視線は、ソータへ向いていた。


 ミレイユは胸の奥が少し痛んだ。

 だが、目を逸らさなかった。


「私もよ。」


「知っている。」


 二人は並んで、ソータを見る。


 ソータはその視線に気づき、なぜか少し背筋を伸ばした。

 レオンが横で笑っている。


 カレンが静かに言った。


「挟撃だな。」


 エルザが頷く。


「本人はまだ気づいていないかもしれません。」


「気づいている顔だ。」


 カレンは淡々と言った。


 ソータは二人の視線を受け、少し困ったように笑った。


(戻ってきた。)

(でも、ここからまた別の緊張が始まる気がする。)


 そんな顔だった。


◆◇◆


 昼前、集会小屋で正式な報告が始まった。


 ヤンガルドアイ。

 オルドアイ。

 ミレイユ。

 ソータ。

 ガルド。

 レオン。

 エルザ。

 カレン。

 そして、バルクとガルナも同席した。


 アルベールはいつの間にか茶と軽食を整えていた。

 昨夜の宴にも参加していないはずなのに、男たちの村の空気まで見透かしたように、胃に優しいものを並べている。


 ミレイユはそれを見て、少し目を細めた。


「アルベール。」


「はい、お嬢様。」


「あなた、また妙に準備がいいわね。」


「戻られた皆様は、昨夜宴でございましたでしょう。」


「なぜ分かるの。」


「フルムーン前でございますので。」


「それだけ?」


「執事でございますので。」


「万能の言い訳にしないで。」


 ヤンガルドアイがそのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。

 そして、アルベールへ視線を向ける。


「アルベール殿。」


「はい、ヤンガル様。」


 その呼び方に、ミレイユはまた眉を動かした。


 ヤンガルドアイは何事もないように言う。


「後で酒を用意せよ。」


「お体に障らぬ程度でございましたら。」


「メバドスへ文を書く前に飲まねばならん。」


「文面が荒れますので、書いた後をおすすめいたします。」


「む。」


 ヤンガルドアイが少し不満そうにする。


 アルベールは穏やかに微笑んだ。


「怒りのままに文を書かれますと、後で読み返した時に大変なことになります。」


「経験があるような口ぶりだな。」


「さて、どうでございましょう。」


 ミレイユは額に手を当てた。


 この二人の距離もまた、妙に近い。

 そして、ヤンガルドアイはたぶん自覚していない。


 オルドアイもそれを横目で見て、楽しそうにしていた。


 報告は、ソータの小板をもとに進められた。


 境界石。

 男たちの村の様子。

 荷の反応。

 子どもたちに干し果実が喜ばれたこと。

 保存容器が特に注目されたこと。

 バルクの狩りでの活躍。

 メバドスの信頼。

 昨夜の宴。

 隣国の辺境の民の動き。

 メバドスと精鋭の残留。

 そして、ソータが助太刀を約束したこと。


 助太刀の部分で、ミレイユの目が鋭くなった。


「ソータ。」


「はい。」


「相談なく約束したのね。」


 ソータは姿勢を正した。


「はい。」


「内容は?」


「剣で戦うことではありません。荷や備蓄、退避に必要なもの、連絡、運搬で助けるという意味です。」


「そこまで言ったのね。」


「はい。」


「勝手に前線へ出る約束ではないのね。」


「違います。」


「本当に?」


「本当に。」


 ミレイユはじっとソータを見た。


 ソータは逃げなかった。


 しばらくして、ミレイユは息を吐いた。


「なら、後で詳細を詰めます。」


「はい。」


「あなた一人で抱え込まない。」


「はい。」


「商会として何ができるか、砦として何が必要か、男たちの村とどう連絡を取るか、全部整理するわ。」


 ヤンガルドアイが頷いた。


「頼もしいな。」


 ミレイユは礼をした。


「仕事ですので。」


 オルドアイが小さく笑う。


「出たな。」


「何が。」


「商人の言葉。」


「便利ですもの。」


 ソータは、ミレイユのその姿を見て胸が少し軽くなった。


 約束したことを怒られると思っていた。

 いや、実際少し怒られた。

 だが、彼女はその約束をただ否定しなかった。

 形にしようとしてくれている。


 それが、心強かった。


◆◇◆


 報告が終わる頃には、砦の外はすでに夕方へ向かい始めていた。


 フルムーンの宴の準備が進む。

 男たちが来たことで、砦の空気は昨日とは比べものにならないほど熱を帯びている。


 バルクは報告が終わるとすぐにガルナの方へ行こうとした。


 ガルドが低く言った。


「待て。」


 バルクはぴたりと止まった。


「何だ。」


「正式な話は後だ。」


「分かっている。」


「逃げるな。」


「逃げん。」


 ガルナが横から言った。


「私も聞く。」


 バルクは彼女を見た。


「ガルナ。」


「当然だろう。」


「ああ。」


 バルクの顔がまた緩みかけた。


 ガルナが睨む。


「締めろ。」


「はい。」


 周囲が笑った。


 ガルドはため息をついたが、その目は少し柔らかかった。


 ソータはその光景を見て、心から思った。


(バルクさん、大丈夫そうだ。)


 大丈夫。

 でも、変わった。

 変わったけれど、失われたわけではない。


 仲間は、別の場所に根を下ろしても仲間でいられるのかもしれない。


 その答えはまだ完全には出ていない。

 けれど、少し見えた気がした。


◆◇◆


 夜が近づくにつれ、砦の中央広場には火が入った。


 昨日までの宴とは違う。

 今日はフルムーンを迎えるための宴だ。

 男たちの村から来た者たちと、砦の女たちが向かい合い、混ざり、笑い、少し緊張しながら距離を縮めていく。


 空には丸い月が昇り始めていた。


 まだ完全に高くはない。

 森の梢の上、薄い青の残る空に、大きく白い月が浮かんでいる。


 ソータはその月を見上げた。


 ここまで戻ってきた。

 報告もした。

 バルクもガルナと再会した。

 メバドスの不穏な話も伝えた。

 約束も、ミレイユが形にしてくれそうだ。


 だが、終わったわけではない。


 むしろ、ここから別の夜が始まる。


 オルドアイが近づいてきた。


 左腕の緑の組み紐が、月明かりを受けて深い色に見える。


「ソータ。」


「うん。」


「戻ったな。」


「戻った。」


「約束通り。」


「うん。」


 オルドアイは少しだけ笑った。


「よい。」


 その声は、昨日までより静かだった。

 強引さだけではない。

 待っていた者の安堵があった。


 ミレイユも近づいてくる。

 紅い髪紐が揺れる。


「報告はまだ終わっていないわ。」


「まだ?」


「あなたの感想が残っている。」


「感想。」


「寂しかったことも、嬉しかったことも、怖かったことも、全部。」


 ソータは少し黙った。


 ガルドとレオンが言っていた。

 言うべきことは言え。

 寂しかったことも言った方がいい。


 ソータは小さく頷いた。


「話す。」


「よろしい。」


 オルドアイが横から言う。


「私も聞く。」


 ミレイユが少しだけ眉を動かす。


「あなたも?」


「聞く。」


「なぜ。」


「ソータが何を見たか知りたい。」


「……。」


「それに、メバドス殿の話も、バルクの話も、私にも関わる。」


 ミレイユは少し考え、頷いた。


「そうね。」


 ソータは二人を見た。


 紅い髪紐。

 緑の組み紐。


 帰る場所と、自分自身へ戻る約束。

 その二つが月明かりの下に並んでいる。


 胸が少し苦しくなった。

 けれど、逃げたい苦しさではなかった。


 ちゃんと話さなければならない。

 ちゃんと向き合わなければならない。


 その重さだった。


 広場では、宴の歌が始まりつつあった。

 フルムーンの夜が、砦へ降りてくる。


 ソータは二人を見て、静かに言った。


「じゃあ、あとで全部話す。」


 ミレイユは頷いた。


「ええ。」


 オルドアイも頷いた。


「ああ。」


 月はさらに高く昇る。

 砦の熱は増していく。


 男たちは女たちのもとへ戻り、バルクはガルナの隣で子どものように笑っている。

 ヤンガルドアイは北の方角を一度だけ見て、それからアルベールへ酒を求めていた。

 アルベールは、困ったようでいてどこか楽しげに、杯を整えている。


 そしてソータは、紅と緑の二つの結び目の間で、これから訪れる夜の意味をまだ知らないまま、丸い月を見上げていた。

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