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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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100/150

第100話:満月の砦で、待っていた女たちは本音をこぼす

 フルムーンの宴は、これまでの宴とは熱の質が違っていた。


 ワイバーン肉の宴には、驚きと歓待があった。

 外から来た者たちを迎え、腹を満たし、互いの距離を測る熱だった。


 だが今夜の熱は、もっと深いところから立ち上っている。


 長く決められた形。

 待つ者と戻る者。

 砦の女たちと、北の村の男たち。

 互いが互いの場所を守り、満月の夜にだけ同じ火を囲む。


 その熱は、笑い声の中にも、歌の中にも、酒の香りの中にも、肌に触れる夜風の中にもあった。


 中央広場には大きな焚き火が組まれている。

 炎は高く伸び、火の粉を夜空へ投げ上げていた。

 その上には満月がある。

 白く、丸く、森の梢を越えて砦を照らしている。


 女たちの髪飾りが月明かりを受けて光り、男たちの肩にかけた布が風に揺れる。

 肉が焼ける匂い。

 果実酒の甘い匂い。

 薬草を混ぜた煙の苦い匂い。

 湿った森の匂い。


 すべてが混ざり、砦の夜を濃くしていた。


 ソータは、その空気の中で少しだけ落ち着かずに立っていた。


 戻ってきた。

 報告もした。

 ミレイユにも、オルドアイにも、ヤンガルドアイにも、必要なことは伝えた。

 メバドスの言葉も、バルクのことも、隣国の辺境の民の不穏も、全部ではないにしても、大事な部分は渡した。


 それなのに、胸の奥はまだざわついている。


 理由は分かっている。


 月が高い。

 宴が熱い。

 オルドアイの視線が時折こちらへ来る。

 ミレイユも、何かを考えている顔をしている。


 そして、ソータ自身も、今日という夜がただの宴では終わらないことを、どこかで感じ取っていた。


(落ち着け。)

(まず、食べる。)

(報告の続きもある。)

(勝手に変な方向へ考えるな。)

(でも、この空気は。)


「ソータさん。」


 レオンが横から声をかけた。


「はい。」


「また顔が大変っす。」


「大変って何。」


「いろいろ考えすぎて、煙が出そうな顔っす。」


「そんな顔ある?」


「あるっす。今っす。」


 レオンは片手に肉の串を持っている。

 もう片方の手には薄めた酒の杯があった。

 彼は今日、かなり慎重に飲んでいる。

 北の村の宴で学んだのか、砦の宴で再び学ぶつもりなのかは分からない。


 ガルドは少し離れた場所で男たちと話していた。

 表情はいつも通り静かだが、完全に警戒だけをしているわけではない。

 メバドスが残ったこと、辺境の民の話、村の防衛。

 そのあたりを北の男たちから聞き取っているのだろう。


 エルザは射場で親しくなったアマゾネスの弓使いたちに囲まれていた。

 弓の話をしているようで、時折、彼女の表情が少し柔らかくなる。


 カレンは肉を食べていた。

 静かに、確実に、大量に食べていた。


 ソータはそれを見て少し安心した。


(カレンさんは変わらないな。)


 しかし、その安心はすぐに別の光景で揺れた。


 バルクとガルナだ。


 バルクはガルナの隣に座っている。

 正確には、座らされている。

 ガルナが彼の腕の擦り傷を確認し、薬草を塗り、包帯を巻き直していた。

 バルクは大きな体を縮こまらせ、嬉しそうにしている。


「痛いか。」


 ガルナが聞く。


「痛くない。」


「嘘をつくな。」


「少し痛い。」


「最初からそう言え。」


「すまん。」


 ガルナは怒っているように見える。

 だが、手つきは丁寧だった。

 バルクはその手元を見て、だらしなく笑いそうになり、必死に堪えている。


 レオンがそれを見て呟いた。


「幸せそうっすね。」


「うん。」


「もう帰ってこなさそうっすね。」


 その言葉は軽く言われた。

 だが、ソータの胸には少し刺さった。


 レオンもすぐに気づいたらしい。


「あ、すみませんっす。」


「ううん。」


 ソータは首を振った。


「たぶん、その通りだから。」


「ソータさん。」


「でも、悪いことじゃない。」


 ソータはバルクを見た。


「寂しいけど。」


 レオンは少し黙り、それから小さく頷いた。


「俺も、ちょっと寂しいっす。」


「うん。」


「でも、あの顔見たら、まあ仕方ないっすね。」


「うん。」


 バルクはついに笑いを堪えきれず、ガルナに頬をつままれていた。


 ソータとレオンは同時に笑った。


◆◇◆


 宴が進むにつれ、ヤンガルドアイの周囲にも人が集まり始めた。


 砦の長である彼女は、表向きは堂々としている。

 男たちの来訪を受け入れ、酒を注がれ、言葉を交わし、笑う。

 メバドスが来られなかったことも、誰かが口にすれば「村を守るのがあやつの役目だ」と短く答える。


 だが、ミレイユには分かった。


 彼女は寂しいのだ。


 顔にはほとんど出ない。

 声にも出ない。

 それでも、北の方角へ視線が動く回数がわずかに多い。

 杯を持つ手が、ほんの少しだけ長く止まる。

 メバドスの名が出るたび、目の奥に火のようなものが揺れる。


 怒り。

 心配。

 誇り。

 そして、寂しさ。


 ミレイユはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。


(この方も、待つ女なのね。)

(長で、母で、戦士で、それでも妻。)

(メバドス様を心配している。)


 そのヤンガルドアイの隣には、いつの間にかアルベールがいた。


 彼はごく自然に杯を差し出し、酒の量を調整し、強すぎるものを水で割り、重い料理の合間に胃を落ち着ける温かな汁物を置いている。

 まるで昔からこの砦の宴にいたかのような馴染み方だった。


 ヤンガルドアイが杯を持ち上げる。


「アルベール殿。」


「はい、ヤンガル様。」


「これは薄い。」


「今夜は長い宴でございますので。」


「私を子ども扱いするか。」


「大切なお方を酔い潰れさせぬのも、執事の務めにございます。」


 ヤンガルドアイは一瞬、言葉を詰まらせた。


 大切なお方。


 その一言に、周囲の数人が反応した。

 ミレイユも眉を動かした。

 オルドアイは遠くから見て、にやりとした。


 アルベールは何も気づいていないような顔をしている。

 いや、気づいていないはずがない。

 この男は、たぶん全部分かっていてその顔をしている。


 ヤンガルドアイは、少しだけ頬を赤くしたように見えた。

 酒のせいかもしれない。

 きっと酒のせいにするだろう。


「……お主は、言葉がうまいな。」


「恐れ入ります。」


「昔もそうだったか。」


 周囲の空気が少しだけ張る。


 アルベールの目が、ほんのわずかに細くなった。


「昔のことは、さて。」


「またそれか。」


「今夜は満月でございます。」


「関係あるのか。」


「昔話より、今宵の火を見ていただく方がよろしいかと。」


 ヤンガルドアイはじっとアルベールを見た。


 しばらくして、ふっと笑った。


「逃げ上手め。」


「執事でございますので。」


「便利な言葉だな。」


「はい。」


 ヤンガルドアイは杯を受け取り、薄められた酒を飲んだ。


 その横顔は、少しだけ穏やかだった。

 メバドスがいない寂しさの穴を、アルベールが埋めているわけではない。

 そんな簡単なものではない。


 だが、今夜だけ、その穴の縁に座ってくれる者がいる。


 ミレイユには、そう見えた。


(アルベール。)

(あなた、本当に何者なの。)


 問い詰めたい。

 だが今夜は、少しだけ待とうと思った。


 ヤンガルドアイの横顔が、あまりにも寂しそうで、少しだけ救われているようにも見えたから。


◆◇◆


 ミレイユは焚き火から少し離れた場所で、ソータの小板を改めて読んでいた。


 文字は確かに読める。

 ところどころ曲がっていて、急いで書いた場所は少し危ういが、それでも十分だった。

 内容は思ったより多い。


 境界石の模様。

 沢の位置。

 男たちの村の構造。

 保存容器への反応。

 甘い干し果実の効果。

 バルクの狩りでの評価。

 メバドスの人柄。

 隣国の辺境の民。

 村に残る精鋭。

 助太刀の約束。


 そして。


 毎日毎日ガルナの話ばかり。

 かわいそうで残れと言えない。


 ミレイユはそこを読んで、思わず口元を押さえた。


「何を笑っている。」


 オルドアイが横に来た。


「バルクさんのところよ。」


「それは笑う。」


 オルドアイは当然のように言った。


「村でも毎日言っていたのだな。」


「そうみたい。」


「ガルナは愛されているな。」


「ええ。」


 ミレイユは広場の端で並ぶバルクとガルナを見る。


「見ていれば分かるわ。」


「ソータも、ああなれば分かりやすいのにな。」


 ミレイユの眉が上がる。


「今、何て?」


「ソータも、好きな女のことを毎日毎日言えばよい。」


「言わなくても、顔には出ているわ。」


「では、私のことも出ているか。」


 オルドアイはまっすぐ聞いた。


 ミレイユは返答に詰まった。


 宴の音が一瞬遠くなる。


「……時々ね。」


 正直に答えた。


 オルドアイの目が少しだけ開く。


「そうか。」


「嬉しそうにしないで。」


「無理だ。」


「本当にあなたは。」


「厄介か。」


「ええ。」


 オルドアイは笑った。

 だが、その笑いはいつもより少し柔らかい。


 ミレイユは小板を閉じた。


「ソータは、あなたのことも見ているわ。」


 口に出してから、胸が痛んだ。


 認めるのは、まだ簡単ではない。

 ソータがオルドアイを見ること。

 オルドアイがソータを求めること。

 自分がそれを完全には拒めなくなっていること。


 それでも、嘘はつけなかった。


 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


「お前がそれを言うのか。」


「言いたくはなかったわ。」


「では、なぜ言った。」


「事実だから。」


「商人だからか。」


「いいえ。」


 ミレイユは少しだけ息を吸った。


「恋人だから。」


 オルドアイは黙った。


 ミレイユは続けた。


「私はソータの恋人だから、彼が何を見ているかも、見ないふりをし続けるわけにはいかない。」


「……。」


「腹は立つわ。」


「ああ。」


「妬くわ。」


「知っている。」


「でも、彼があなたを見ていることを、なかったことにすると、私は彼のどこかを見ないことになる。」


 オルドアイは何も言わなかった。


 焚き火の火の粉が夜空へ上がる。

 遠くで男たちの笑い声が聞こえる。

 満月が白く光っている。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「それは嫌なの。」


 オルドアイは、しばらくして言った。


「お前は強いな。」


「強くないわ。」


「強い。」


「怖いのよ。」


「それでも見ている。」


「怖いから見ているの。」


 ミレイユの声は、少しだけ震えた。


「知らないままの方が、もっと怖いから。」


 オルドアイは緑の組み紐を握った。


「私は。」


「何?」


「私は、まだどうすればよいのか分からない。」


 その言葉は、予想外だった。


 ミレイユはオルドアイを見る。


 オルドアイの顔は、いつものように堂々としていない。

 強気で、挑発的で、欲しいものへ手を伸ばす顔ではない。


 少しだけ困ったような顔だった。


「ソータが欲しい。」


「……ええ。」


「それは分かる。」


「ええ。」


「だが、どう求めればよいのかは、分からない。」


 ミレイユは黙った。


「砦では、欲しいものは強く示す。力も心も、隠しすぎれば伝わらない。」


「あなたらしいわ。」


「だが、ソータは違う。」


 オルドアイは焚き火の方を見た。


 ソータはレオンに何か言われて困った顔をしている。

 その横でガルドが短く注意し、レオンが笑っている。


「あの男は、押せば倒れる。」


「ええ。」


「倒れた後、自分が悪いと思う。」


「ええ。」


「だから、押しすぎてはいけない。」


 ミレイユは少し驚いた。


 オルドアイは分かっている。

 ソータの危うさを。

 優しさの弱点を。

 自分を責める癖を。


「でも、待ちすぎても伝わらない。」


 オルドアイは続けた。


「私は、加減が下手だ。」


「知っているわ。」


「すぐ言うな。」


「事実です。」


 オルドアイは少しだけ笑った。

 しかし、すぐにまた真面目な顔になる。


「ミレイユ。」


「何?」


「お前は、ソータをどう抱きしめれば壊れないか知っているのだな。」


 ミレイユは顔を赤くした。


「言い方。」


「違うのか。」


「違わないけれど、言い方が直接すぎるの。」


「では、どう言えばいい。」


「もっと、こう。」


 ミレイユは言葉に詰まった。


 オルドアイがじっと見る。


「分からないのか。」


「あなたにだけは言われたくないわ。」


 オルドアイは笑った。


 その笑いは、少しだけ救われたようだった。


◆◇◆


 ソータは、遠くからミレイユとオルドアイが並んで話しているのを見ていた。


 最初の頃なら、その光景だけで胃が痛くなったはずだ。

 今も少し痛い。

 しかし、今はそれだけではない。


 二人が話している。

 自分抜きで。

 互いに向き合って。


 それは怖い。

 何を話しているのか分からないから。

 でも、少し安心もする。


 ミレイユが一人で抱えていない。

 オルドアイが一人で突っ走っていない。


 そう思うと、胸の奥が少し温かかった。


 そこへ、アルベールが近づいてきた。


「ソータ様。」


「アルベールさん。」


「お戻りなさいませ。」


「ただいま戻りました。」


「ご無事で何よりでございます。」


 アルベールは穏やかに微笑んだ。


 その笑みを見ると、不思議と安心する。

 ただし、その安心の下には、相変わらず得体の知れないものがある。


「男たちの村はいかがでございましたか。」


「いろいろありました。」


「そのようで。」


「メバドスさんが、アルベールさんのことは何も言ってませんでした。」


「それは何より。」


「何よりなんですか。」


「ええ。」


 ソータはじっとアルベールを見た。


「アルベールさん。」


「はい。」


「本当に昔、このあたりに来たことがあるんですか。」


 アルベールは笑みを崩さなかった。


「さて、どうでございましょう。」


「それ、だいたいありますよね。」


「ソータ様も、鋭くなられましたな。」


「ミレイユのおかげです。」


「よろしいお答えです。」


 アルベールは満足そうに頷いた。


 ソータは少し困った顔をする。


「ヤンガルドアイさん、寂しそうでした。」


「ええ。」


 その返事は、すぐだった。


「やっぱり分かってるんですね。」


「長であっても、人でございますので。」


 アルベールは焚き火の向こうにいるヤンガルドアイを見た。


「待つというのは、なかなか難しいものです。」


「アルベールさんも、待ったことがあるんですか。」


「ございますよ。」


「誰を?」


 アルベールは少しだけ目を細めた。


「さて。」


「またそれですか。」


「執事にも、胸にしまう荷がございます。」


 ソータは黙った。


 その言葉は、今の自分には少し分かる気がした。


 荷。

 物だけではない。

 言葉も、記憶も、約束も、寂しさも。


「ソータ様。」


「はい。」


「今宵は、よく見て、よく聞き、そしてご自身の心も軽く扱われませぬよう。」


 ソータはアルベールを見た。


「俺の心も?」


「ええ。」


「ミレイユやオルドアイのことじゃなくて?」


「もちろん、それも大切にございます。」


 アルベールは静かに言った。


「ですが、ご自身を荷台の板のように扱ってはなりませぬ。」


「荷台の板。」


「重いものを載せるためだけにあると思い込めば、いつか割れます。」


 ソータは息を呑んだ。


「ソータ様は、運ぶ方であると同時に、生きておられる方でございます。」


「……。」


「今宵の月は、少々人の心を近づけすぎるかもしれません。」


 アルベールは微笑んだ。


「だからこそ、流されるだけではなく、選ばれませ。」


「選ぶ。」


「はい。」


 アルベールは礼をし、ヤンガルドアイの方へ戻っていった。


 ソータはその背中を見送った。


 胸の奥に、静かな重みが残った。


(流されるだけじゃなくて、選ぶ。)

(俺も。)


 ソータはミレイユとオルドアイを見た。


 二人はまだ話している。

 紅い髪紐と緑の組み紐が、月明かりの下で揺れていた。


◆◇◆


 宴の歌が一段落した頃、オルドアイはミレイユを連れて広場の端へ移動した。


 そこは少し静かだった。

 焚き火の熱は届くが、声は少し遠い。

 森の気配と月明かりが濃くなる場所だった。


 ミレイユは何となく、これから大事な話をされるのだと分かった。


 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


「ミレイユ。」


「何?」


「私は今夜、ソータと話す。」


 ミレイユの胸が跳ねた。


「そう。」


「逃げずに話す。」


「ええ。」


「お前も来るか。」


 ミレイユはすぐには答えられなかった。


 予想していたようで、していなかった。

 オルドアイがソータと話す。

 それは当然だ。

 むしろ避け続ける方が不自然だ。


 だが、自分も来るか、と聞かれるとは思わなかった。


「私も?」


「ああ。」


「なぜ。」


「隠し事をしないと決めたのだろう。」


 オルドアイの言葉は真っ直ぐだった。


「私は、ソータと話したい。だが、お前を外して話すのは違う気がする。」


「……。」


「前なら、二人きりで話そうとした。」


「そうね。」


「今も、したい気持ちはある。」


「正直ね。」


「だが、それをするとソータが困る。」


「ええ。」


「お前も傷つく。」


「ええ。」


「私も、この紐を見ると、少し止まる。」


 オルドアイは緑の組み紐を見た。


「重いのだ、これ。」


 ミレイユは静かに息を吐いた。


「外したい?」


「いや。」


 即答だった。


「外したくない。」


「なら、役に立っているわ。」


「ああ。」


 二人はしばらく沈黙した。


 焚き火の音が聞こえる。

 遠くでバルクの大きな笑い声が響く。

 ガルナが何か言い、周囲がまた笑う。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「私も、話すべきだと思っているわ。」


「なら。」


「でも、怖い。」


 オルドアイはミレイユを見た。


 ミレイユは続けた。


「あなたとソータが向き合うところを見るのは、怖い。」


「……。」


「あなたが彼を求める言葉を聞くのも、怖い。」


「……。」


「私が何を選ぶのかも、怖い。」


 オルドアイは、珍しく何も急かさなかった。


 ミレイユは少しだけ笑った。


「でも、行くわ。」


「いいのか。」


「よくはないわ。」


「そうか。」


「でも、行く。」


「なぜ。」


 ミレイユは、少し遠くにいるソータを見た。


 彼はアルベールに何か言われたのか、難しい顔をして月を見上げている。

 不器用で、優しくて、すぐ自分を後回しにする男。

 だが、少しずつ変わろうとしている男。


「私は、彼の恋人だから。」


 ミレイユは言った。


「そして、あなたをもう、知らない女には戻せないから。」


 オルドアイは少しだけ目を見開いた。


 その後、静かに笑った。


「お前は本当に厄介だな。」


「あなたにだけは言われたくないわ。」


「では、似ているのか。」


「違います。」


「そうか。」


 オルドアイは楽しそうに笑った。


 それから、少しだけ真面目な顔に戻る。


「今夜、私はたぶん下手をする。」


「自覚はあるのね。」


「ああ。」


「それなら少し安心したわ。」


「助けろ。」


 ミレイユは固まった。


「今、何て?」


「助けろ。」


「私に?」


「ああ。」


「あなたが、私に?」


「そうだ。」


 あまりに堂々と言うので、ミレイユは一瞬言葉を失った。


 それから、呆れたように息を吐いた。


「まったく。」


 自然に、その言葉が出た。


「あなたらしいわね。」


 オルドアイは少しだけ嬉しそうにした。


「助けてくれるのか。」


「まだ分からないわ。」


「なぜ。」


「内容によるからよ。」


「ソータを困らせそうになったら止めろ。」


「それは止めるわ。」


「私が分からなくなったら、言え。」


「何を?」


「それは違う、と。」


 ミレイユはオルドアイを見た。


 この女は、本当に分からないのだ。

 どう求めればいいのか。

 どこまで踏み込んでいいのか。

 自分の強さが、ソータを押し潰さない距離。

 ミレイユを壊さない距離。


 分からないから、助けを求めている。

 恋敵である自分に。


 あまりにも図々しい。

 あまりにも正直。

 そして、あまりにもオルドアイらしい。


 ミレイユは深く息を吐いた。


「分かったわ。」


 オルドアイの顔が明るくなる。


「本当か。」


「ただし。」


「何だ。」


「私はあなたの味方だけをするわけではありません。」


「ああ。」


「ソータの味方でもあるし、私自身の味方でもある。」


「分かっている。」


「本当に?」


「たぶん。」


「そこは断言しなさい。」


「分かっている。」


 ミレイユは小さく笑った。


 怖さは消えない。

 胸は痛む。

 それでも、少しだけ覚悟が形になった。


 オルドアイは緑の組み紐を指で撫でた。


「これをくれたのが、お前でよかった。」


 ミレイユは頬が熱くなるのを感じた。


「そういうことを急に言わないで。」


「思ったから言った。」


「本当にあなたは。」


「厄介か。」


「ええ。」


 二人は、月明かりの下で小さく笑った。


◆◇◆


 その頃、ヤンガルドアイはついにアルベールへ強く絡み始めていた。


「アルベール殿。」


「はい、ヤンガル様。」


「メバドスは馬鹿だと思わぬか。」


「ご立派なご判断かと。」


「村を守るのは立派だ。」


「はい。」


「だが、心配するなというのは馬鹿だ。」


「そちらにつきましては、少々言葉が足りなかったのかもしれません。」


「足りぬにも程がある。」


「お手紙にて、丁寧にお伝えになるのがよろしいかと。」


「丁寧に書けぬ。」


「では、わたくしが下書きを。」


「お主が?」


「はい。」


「どのように書く。」


 アルベールは少し考え、穏やかに言った。


「ご無事を祈っております。砦はつつがなく迎えの夜を過ごしております。ですが、次に顔を見せぬ時は、わたくし自ら迎えに参ります、と。」


 ヤンガルドアイはしばらく黙った。


「最後が脅しではないか。」


「愛情表現かと。」


「お主、分かって言っておるな。」


「さて。」


 ヤンガルドアイは声を上げて笑った。


「よい。」


「では、そのように。」


「いや、少し変える。」


「どのように?」


「次に顔を見せぬ時は、私が首根っこを掴んで連れて帰る。」


「大変分かりやすくございます。」


「そうだろう。」


「ただ、文面としては少々強うございます。」


「構わぬ。」


「では、少し柔らかく整えましょう。」


「柔らかくしても首根っこは入れろ。」


「かしこまりました。」


 ミレイユは少し離れた場所でそれを聞き、頭を抱えそうになった。


 オルドアイは腹を抱えて笑っている。


「あの二人、何なの。」


 ミレイユが呟く。


「母上が楽しそうで何よりだ。」


「あなた、本当に止めないのね。」


「止める理由がない。」


「アルベールが相手よ。」


「だから面白い。」


「面白がっている場合かしら。」


 オルドアイは笑いながら言った。


「お前も笑っているぞ。」


「笑っていません。」


「口元。」


 ミレイユは慌てて口元を押さえた。

 確かに、少し笑っていた。


 その時、アルベールがこちらを振り返った。


 なぜか、全部聞こえていたような顔だった。


「お嬢様。」


「何かしら。」


「文面は後ほどご確認いただけますか。」


「私に?」


「商会のご令嬢として、角が立たず、しかし十分に首根っこ感のある表現を。」


「そんな表現、商会でも扱わないわよ。」


「お嬢様ならば。」


「無茶を言わないで。」


 ヤンガルドアイが楽しそうに笑った。


「ミレイユ、頼む。」


「ヤンガルドアイ様まで。」


「メバドスに効く文が必要だ。」


 ミレイユはため息をついた。


「後で見ます。」


 アルベールは優雅に礼をした。


「ありがとうございます。」


 オルドアイが横で言う。


「商会の姫は忙しいな。」


「それはやめて。」


 ミレイユは疲れたように言った。


 だが、嫌ではなかった。


 ヤンガルドアイがメバドスを心配している。

 アルベールがそれを受け止めている。

 オルドアイがそれを笑って見守っている。

 自分がそこに少し巻き込まれている。


 この砦の輪の中に、自分の足が少しずつ入っている。


 そう感じた。


◆◇◆


 夜が深まるにつれ、宴の熱は少しずつ形を変えていった。


 大きな笑い声は続いている。

 歌もある。

 踊りもある。

 だが、男たちと女たちは少しずつ、それぞれの相手と並び、あるいは静かな場所へ移っていく。


 フルムーンの夜。

 迎える夜。

 言葉を交わす夜。

 心と体の距離が近づく夜。


 その意味を、ソータも次第に肌で感じ始めていた。


 ミレイユとオルドアイが戻ってきた。


 二人とも、さっきより少し静かな顔をしている。

 ミレイユは紅い髪紐に触れ、オルドアイは緑の組み紐に触れている。


 ソータは胸が鳴るのを感じた。


「ソータ。」


 ミレイユが言った。


「うん。」


「さっき言った感想の話、今夜中に聞くわ。」


「うん。」


「それから。」


 ミレイユは一瞬、言葉を選ぶように息を吸った。


「オルドアイも、話があるそうよ。」


 ソータはオルドアイを見た。


 オルドアイはまっすぐこちらを見ている。

 逃げない目だった。

 欲しがる目でもある。

 だが、それだけではない。


 迷いと、覚悟があった。


「ソータ。」


 オルドアイは言った。


「私は、お前と話したい。」


「うん。」


「ミレイユも一緒に。」


 ソータの胸がさらに強く鳴った。


 ミレイユを見る。

 彼女は小さく頷いた。


「隠し事をしないためよ。」


「うん。」


「でも、無理に急ぐためではないわ。」


「うん。」


「あなたも、嫌なら嫌と言うこと。」


 ミレイユの声は真剣だった。


 ソータはアルベールの言葉を思い出した。


 流されるだけではなく、選べ。

 自分を荷台の板のように扱うな。


 ソータはゆっくり息を吸った。


「話す。」


 二人がソータを見る。


「俺も、話したい。」


 ミレイユの目が少し柔らかくなる。

 オルドアイの表情も、少しだけほどけた。


「ただ。」


 ソータは続けた。


「俺、うまく言えるか分からない。」


 ミレイユが言う。


「それはいつものことね。」


「ひどい。」


「事実よ。」


 オルドアイも頷いた。


「ソータは、よく詰まる。」


「二人で言わないで。」


 だが、そのやり取りで少しだけ空気が柔らかくなった。


 ソータは二人を見た。


「でも、逃げない。」


 その言葉に、二人の表情が変わった。


「俺が何を見たかも、何を感じたかも、ミレイユに話す。オルドアイにも話す。」


「……。」


「それから、オルドアイの話も聞く。」


「……。」


「ミレイユの話も聞く。」


 ソータは胸の奥の震えを押さえながら言った。


「俺も、自分のことを軽く扱わないようにする。」


 ミレイユは目を伏せた。

 少しだけ、安心したように。


 オルドアイは緑の組み紐を強く握った。


「よい。」


 声が少し震えていた。


「それでよい。」


 ミレイユはソータへ手を差し出した。


「行きましょう。」


 ソータはその手を見た。


「どこへ?」


 ミレイユが少しだけ顔を赤くした。


「静かに話せる場所よ。」


 オルドアイが言う。


「私の部屋が近い。」


 ソータの体が一瞬固まった。


 今朝のことが頭をよぎる。

 オルドアイの部屋で目覚めた朝。

 左右に二人。

 記憶のない混乱。

 不意打ちのキス。


 ミレイユも同じことを思い出したのか、目を細めた。


「今朝のようなことはなし。」


 オルドアイは真面目に頷いた。


「なしだ。」


「本当に?」


「本当に。」


「反則は?」


「しない。」


「よろしい。」


 ソータは少しだけ笑ってしまった。


 緊張はある。

 怖さもある。

 だが、二人がこうして言葉にしてくれることで、少しだけ息ができる。


 ソータはミレイユの手を取った。


 オルドアイがそれを見て、少しだけ羨ましそうな顔をした。


 ミレイユはその顔に気づく。

 胸が少し痛む。

 それでも、彼女はオルドアイへ視線を向けた。


「オルドアイ。」


「何だ。」


「あなたも、置いていかれる顔をしない。」


 オルドアイは驚いた。


 ミレイユは少しだけ頬を赤くしながら、空いている手を差し出した。


「話すのでしょう。」


 オルドアイは、しばらくその手を見つめた。


 それから、ゆっくり手を伸ばした。


 緑の組み紐のある腕が、月明かりの中で動く。


 彼女の手が、ミレイユの手を取った。


 ソータはその光景を見て、息を呑んだ。


 紅い髪紐。

 緑の組み紐。

 そして、つながれた手。


 宴の熱は背後にある。

 満月は頭上にある。

 森は静かに息づいている。


 三人は、焚き火の輪から少しずつ離れた。


 バルクとガルナの笑い声が遠くなる。

 ヤンガルドアイがアルベールを呼ぶ声も遠くなる。

 レオンのからかい声も、ガルドの低い注意も、エルザの静かな笑いも、カレンの淡々とした一言も、少しずつ夜の後ろへ下がっていく。


 ソータは二人の手の温かさを感じながら、胸の中で思った。


(逃げない。)

(流されるだけじゃなくて。)

(選ぶ。)


 満月の光が、三人の影を長く伸ばしていた。


 その夜、砦の奥へ向かう道は、いつもより静かで、いつもより重く、そしてどこか優しかった。

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