第101話:月の奥で、三人は逃げずに手を重ねる
焚き火の輪から離れると、砦の音は少しずつ遠くなっていった。
笑い声。
歌。
杯の触れ合う音。
肉の焼ける匂い。
男たちと女たちが互いの名を呼ぶ声。
それらは背後でまだ熱を持っている。
だが、三人が歩く砦の奥の道には、別の静けさがあった。
満月の光が木組みの通路に白く落ちている。
足元には細い影が伸び、木の壁には揺れる枝の影が映る。
風が通るたび、吊るされた布飾りがかすかに鳴った。
ソータの右側にミレイユが歩いていた。 左側にはオルドアイが歩いている。
少し歩いて、オルドアイはミレイユの手を取っていた。 ミレイユはソータの手も取っているので、三人は、一本の線のように繋がった。
ソータはその事実を、まだうまく飲み込めずにいた。
(手が温かい。)
(ミレイユの手。)
(オルドアイの手も、ミレイユ越しに繋がっている。)
(これから話す。)
(ちゃんと話す。)
(逃げない。)
だが、胸は落ち着かない。
満月の夜。
オルドアイの部屋。
三人で話す。
言葉にすれば、それだけだ。
しかし、そこに含まれる意味は軽くなかった。
ミレイユはいつもより無口だった。
手に少し力が入っている。
それだけで、彼女も怖いのだと分かる。
オルドアイも、普段のように軽口を飛ばさない。
左腕の緑の組み紐に、何度も視線を落としていた。
その組み紐は、ミレイユが渡したものだ。
自分に戻るための印。
踏み込みすぎないための結び目。
それをソータが結んだ。
紅い髪紐と、緑の組み紐。
今夜、その二つの意味が、また少し変わろうとしている。
オルドアイの部屋が近づいてきた。
その少し手前、木の柱の影から、静かに人影が現れた。
ソータは思わず足を止める。
「アルベールさん。」
そこにいたのは、やはりアルベールだった。
銀盆を片手に、何事もない顔で立っている。
宴の喧騒から離れたこの場所に、まるで最初からそのために配置されていたかのように。
ミレイユの目が一気に鋭くなった。
「アルベール。」
「はい、お嬢様。」
「なぜここにいるの。」
「皆様、これから少し長いお話になるのでございましょう。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「一度、気を休めた方がよろしいかと存じまして。」
盆の上には、小さな杯が三つ置かれていた。
透明に近い、淡い琥珀色の飲み物が入っている。
香りは強くない。
水に薬草をわずかに落としたような匂いだった。
ソータは、それを見てほっとした。
宴の酒の熱が、まだ少し体に残っている。
酔っているほどではないが、頭の奥が少し浮いている気がしていた。
おそらく、酔い覚ましか、気持ちを落ち着ける水だろう。
「ありがとうございます。」
ソータが杯へ手を伸ばそうとした瞬間、ミレイユがその手首を掴んだ。
「待ちなさい。」
「え?」
「アルベール。」
ミレイユは杯を見たまま言った。
「中身。」
「疲労を和らげ、体の冷えを避け、気を落ち着ける薬草水でございます。」
「それだけ?」
「それだけでございます。」
ミレイユはじっとアルベールを見た。
「本当に?」
「はい。」
「変なものは?」
「お嬢様の定義によります。」
「それが一番信用ならないのよ。」
アルベールは少しだけ困ったように眉を下げた。
「では、正確に申し上げます。」
その声に、ソータもオルドアイも自然と姿勢を正した。
「こちらは、酔い覚ましではございません。」
「違うんですか。」
ソータは思わず言った。
「はい。」
「じゃあ何ですか。」
「心身を整えるための滋養水でございます。」
「滋養水。」
「少々、体力を補う効能がございます。」
ミレイユの目がさらに細くなる。
「少々?」
「少々でございます。」
「アルベールの少々は信用ならないわ。」
「お嬢様。」
「はっきり言いなさい。」
アルベールは静かに礼をした。
「今宵は、皆様にとって大切なお話となるでしょう。」
「ええ。」
「緊張、疲労、酒気、感情の高ぶり。これらが混ざりますと、本来言うべきことを言えず、あるいは無用に心が折れることがございます。」
「それは分かるわ。」
「ですので、体を温め、疲労を和らげ、気を整えるものを用意いたしました。」
「それで?」
「ただし、体質によっては、血の巡りが良くなり、少々元気になりすぎる可能性もございます。」
沈黙が落ちた。
ソータは意味を理解するまで少し時間がかかった。
オルドアイは先に理解したらしく、目を丸くした。
ミレイユは額に手を当てた。
「アルベール。」
「はい。」
「それを黙って飲ませるつもりだったの?」
「いいえ。」
アルベールは即答した。
「お嬢様が必ずお尋ねになると存じておりました。」
「私が止めなかったら?」
「その場合は、わたくしからご説明いたしました。」
「本当に?」
「はい。」
「……。」
ミレイユは疑いの目を向け続けた。
アルベールは穏やかなままだ。
「なお、飲まない選択も当然ございます。」
その言葉で、空気が少しだけ変わった。
アルベールは続けた。
「お話に必要なのは薬ではなく、意思でございます。こちらは補助にすぎません。」
ソータは杯を見た。
小さな飲み物。
ただの薬草水のように見える。
しかし、少々元気になりすぎる可能性。
その言葉が頭に残る。
(危ない。)
(前の煙の時と同じにしてはいけない。)
(知らないまま飲むのは駄目だ。)
(でも、説明はされた。)
(飲まない選択もある。)
ソータはミレイユを見た。
「ミレイユ。」
「何?」
「飲んでいいか、俺だけで決めない方がいい気がする。」
ミレイユの目が少し揺れた。
以前のソータなら、ありがとうございますと言って飲んでいたかもしれない。
あるいは、場を壊さないために受け取っていたかもしれない。
今、彼は止まった。
ミレイユは深く息を吐いた。
「正しいわ。」
オルドアイも頷く。
「私も、聞かずに飲ませるのは嫌だ。」
アルベールは微笑んだ。
「そのための確認でございます。」
ミレイユは杯を一つ取り、香りを確かめた。
「強いものではないのね。」
「はい。」
「危険は?」
「通常量ではございません。」
「通常量って何。」
「この一杯でございます。」
「十杯飲んだら?」
「おすすめいたしません。」
「当然よ。」
オルドアイが少し笑った。
「私は飲む。」
ミレイユがオルドアイを見る。
「即決ね。」
「知った上なら問題ない。」
「あなたは本当に。」
「怖いなら飲まなくてもよい。」
「怖くないわよ。」
「では?」
「慎重なの。」
ミレイユはソータを見た。
「ソータ。」
「うん。」
「あなたはどうしたい?」
ソータは杯を見た。
それから、二人を見た。
体を整えるもの。
少し元気になりすぎるかもしれないもの。
この先の話が、長く重くなることは分かっている。
逃げたくない。
でも、流されたくもない。
「飲むなら、三人とも同じだけ。」
ソータは言った。
「俺だけじゃなくて。」
ミレイユは一瞬驚いた顔をした。
それから、柔らかく頷いた。
「いい答えね。」
オルドアイも満足そうに笑った。
「三人で、同じだけか。」
「うん。」
「よい。」
アルベールは静かに三つの杯を差し出した。
「では、皆様。同量でございます。」
ミレイユはまだ疑いを捨てていない目でアルベールを見た。
「あとで成分を書き出してもらうわ。」
「かしこまりました。」
「隠したら?」
「お嬢様に叱られます。」
「叱るだけで済むと思う?」
「済まないかもしれません。」
「分かっているならよろしい。」
ソータは杯を持った。
薬草の香りが近づく。
少し苦く、少し甘い。
飲み込むと、喉を通る時にふわりと温かさが残った。
酒ではない。
強い刺激もない。
ただ、腹の奥に小さな火種が落ちたような感覚があった。
ミレイユも飲む。
オルドアイも飲む。
三人が杯を返すと、アルベールは深く礼をした。
「よきお話になりますように。」
「アルベール。」
ソータが声をかけた。
「はい。」
「ありがとうございます。」
アルベールは少しだけ目を細めた。
「どういたしまして。」
ミレイユが横から言う。
「感謝はするけれど、後で尋問はするわ。」
「承知しております。」
アルベールはそのまま静かに影へ下がった。
足音はほとんどしない。
気づけば、彼はもう夜の中へ溶けていた。
ソータは自分の胸に手を当てた。
体が少し温かい。
だが、頭はむしろ澄んできた。
ミレイユが言う。
「大丈夫?」
「うん。」
「変な感じは?」
「少し温かい。」
「それは私も。」
オルドアイが自分の腕を軽く回した。
「悪くない。」
「あなたはすぐそう言う。」
「体が動く。」
「話すために飲んだのよ。」
「分かっている。」
オルドアイは少しだけ真面目な顔になった。
「話す。」
ソータは頷いた。
三人は再び歩き出した。
オルドアイの部屋は、もうすぐそこだった。
◆◇◆
扉が閉まる音は、思ったより静かだった。
オルドアイの部屋には、昨朝の記憶が少し残っている。
木の壁。
低い寝台。
獣皮の敷物。
弓と矢筒。
窓辺に吊るされた小さな骨飾り。
月明かりが差し込み、床に白い四角を作っている。
しかし、今朝とは違う。
今日は三人とも、自分の足で入った。
何が起きるか分からないまま運ばれたわけではない。
酔って眠っていたわけでもない。
記憶のない朝を迎えるためではない。
話すために来た。
ソータはそれを強く意識した。
オルドアイは部屋の中央で立ち止まり、少しぎこちなく言った。
「座るか。」
ミレイユが頷く。
「ええ。」
三人は床の敷物の上に腰を下ろした。
距離は近い。
だが、触れすぎてはいない。
しばらく誰も喋らなかった。
外から宴の音がかすかに聞こえる。
満月の光が部屋に満ちている。
薬草水の温かさが、体の奥でじんわり広がっている。
ソータは口を開いた。
「先に、俺から話していい?」
ミレイユが頷いた。
「ええ。」
オルドアイも言う。
「聞く。」
ソータは、北の村で感じたことを話した。
境界石を見た時、ミレイユが見たかっただろうと思ったこと。
男たちの村の子どもたちが干し果実を喜んだこと。
バルクが大角猪を受け止め、村で信頼されていたこと。
その姿を見て嬉しかったこと。
けれど、少し寂しかったこと。
話しながら、自分でも驚いた。
寂しいと言えた。
悲しいではない。
引き止めたいでもない。
ただ、仲間が新しい場所を見つけたことが嬉しくて、同じくらい寂しかった。
ミレイユは黙って聞いていた。
オルドアイも黙っていた。
「メバドスさんが、バルクさんにも残ってほしいって言った。」
ソータは続けた。
「でも、毎日ガルナさんのことばかり言うから、かわいそうで言えないって。」
ミレイユの口元が少し緩む。
オルドアイも小さく笑った。
「それで俺、思ったんだ。」
「何を?」
ミレイユが聞く。
「強い人でも、気持ちを後回しにされていいわけじゃないんだって。」
ミレイユの目が少し揺れた。
「うん。」
ソータは自分の手を見る。
「俺、自分のことをよく後回しにするって、みんなに言われる。」
「ええ。」
「今日、メバドスさんがバルクさんを見てるのを見て、俺も少し分かった。」
ソータは二人を見る。
「俺が自分を後回しにすると、俺だけじゃなくて、俺を見てくれてる人の気持ちも後回しにしてるんだと思った。」
ミレイユは息を呑んだ。
オルドアイも、緑の組み紐を握る。
「だから。」
ソータの声は少し震えた。
「今夜は、俺の気持ちも言う。」
ミレイユが静かに言う。
「聞くわ。」
オルドアイも言う。
「聞く。」
ソータは二人を見た。
「ミレイユが好きだ。」
ミレイユの目が潤んだ。
何度も聞いた言葉かもしれない。
でも、今夜のそれは、少し違った。
「帰る場所だと思っている。」
「……ええ。」
「でも、オルドアイのことも、見ている。」
空気が静かになる。
オルドアイは息を止めたようだった。
ミレイユは目を伏せたが、逃げなかった。
「強くて、まっすぐで、怖くて、綺麗で。」
ソータは言葉を選びながら続けた。
「俺を求めてくれたことが、嬉しかった。」
オルドアイの肩がわずかに震えた。
「でも、怖かった。」
「私がか。」
「うん。」
「……そうか。」
「オルドアイが怖いだけじゃなくて、俺自身が流されるのも怖かった。」
ソータは胸に手を当てた。
「自分が何を選んでるのか分からないまま、誰かを傷つけるのが怖かった。」
ミレイユが静かに頷く。
「でも今は?」
オルドアイが聞いた。
ソータは少し黙った。
薬草水の温かさが、腹の奥でゆっくり広がっている。
だが、それに流されているわけではない。
むしろ、頭は澄んでいた。
「今も怖い。」
ソータは正直に答えた。
「でも、逃げたくない。」
ミレイユの手が、そっとソータの手に触れた。
「私も怖いわ。」
彼女は言った。
「あなたがオルドアイを見るのを見るのは、怖い。」
オルドアイは黙って聞いている。
「でも、見ないふりをする方が、もっと怖い。」
ミレイユはソータを見た。
「あなたの一部を、私が勝手に隠したくない。」
「ミレイユ。」
「でも、私はあなたの恋人よ。」
「うん。」
「それは譲らない。」
「うん。」
「私を置いていかないこと。」
「置いていかない。」
「隠さないこと。」
「隠さない。」
「自分を道具にしないこと。」
「しない。」
ミレイユは頷いた。
そして、オルドアイへ視線を向けた。
「あなたも。」
オルドアイは背筋を伸ばした。
「分かっている。」
「本当に?」
「たぶん。」
「たぶんではなく。」
「分かっている。」
オルドアイは深く息を吸った。
「私はソータが欲しい。」
その言葉は、まっすぐだった。
ミレイユの胸が痛む。
ソータの胸も震える。
しかし、オルドアイは続けた。
「だが、奪いたいだけではなくなった。」
ミレイユは黙って彼女を見る。
「ミレイユを知った。」
「……。」
「お前がソータの帰る場所だと知った。」
「……。」
「それを壊せば、ソータも壊れる。」
オルドアイの声は低かった。
「私はソータを欲しい。だが、壊したいわけではない。」
ソータは息を呑んだ。
オルドアイは緑の組み紐に触れる。
「だから、分からなくなる。」
「何が?」
ミレイユが聞いた。
「どこまで求めていいのか。」
その声は、ほんの少しだけ幼く聞こえた。
堂々とした姫ではなく、恋を知らずに強い手だけを持っていた女の声。
「抱きしめたい。」
「……。」
「触れたい。」
「……。」
「ソータに、私を見てほしい。」
「……。」
「でも、押しすぎると倒れる。」
ミレイユは思わず小さく笑った。
言い方は乱暴だが、正しい。
「ええ。倒れるわ。」
ソータは反論できなかった。
「だから。」
オルドアイはミレイユを見た。
「助けろ。」
ミレイユは額に手を当てた。
「本当に、あなたは。」
「何だ。」
「まったく、あなたらしいわね。」
その声は呆れていた。
けれど、突き放すものではなかった。
オルドアイは少しだけ安心したように笑った。
◆◇◆
その後の会話は、途切れ途切れで、何度も確認しながら進んだ。
誰か一人が言えば、他の二人が聞く。
怖いと言えば、そこで止まる。
嫌なら嫌と言う。
分からないなら分からないと言う。
ミレイユは何度もソータに確認した。
オルドアイにも確認した。
自分自身にも確認した。
オルドアイは、驚くほど素直だった。
分からないことは分からないと言った。
欲しいことは欲しいと言った。
怖いと言われれば手を止めた。
ミレイユに睨まれれば、少し不満そうにしながらも従った。
ソータは、何度も言葉に詰まった。
それでも逃げなかった。
自分がどう感じているかを、拙い言葉で伝えた。
月明かりは部屋の中を白く染めていた。
外の宴の音は、いつしか遠くなっている。
薬草水の温かさは、三人の体にじんわりと残っていた。
だが、それ以上に、互いの言葉が心を熱くしていた。
やがて、言葉だけでは届かない距離に、三人は立っていた。
ミレイユはソータの頬に触れた。
「ソータ。」
「うん。」
「私はここにいるわ。」
「うん。」
「見て。」
「うん。」
ソータは彼女を見た。
紅い髪紐が月明かりに揺れている。
次に、オルドアイが静かに言った。
「ソータ。」
「うん。」
「私も、ここにいる。」
「うん。」
「見ろ。」
ソータは彼女を見た。
緑の組み紐が、左腕に結ばれている。
その二つを見た時、ソータの中で何かが決まった。
流されるのではない。
逃げるのでもない。
誰かを選ばないことで、誰かを傷つけないふりをするのでもない。
今ここで、向き合う。
ソータは、二人の手を取った。
「俺は、二人を軽く扱わない。」
声は小さかった。
けれど、三人には十分だった。
ミレイユが静かに頷く。
オルドアイも頷く。
そこから先の夜を、誰かに詳しく語る必要はなかった。
三人は何度も言葉を交わした。
何度も確認した。
何度も止まり、何度も笑い、時にはミレイユが呆れ、オルドアイが素直に助けを求め、ソータが顔を赤くしながらも逃げなかった。
月は高く、長い夜だった。
紅い髪紐と緑の組み紐が、同じ月明かりの中で揺れていた。
それぞれの意味を失うことなく、けれど互いの意味を少しずつ近づけながら。
夜は、静かに深くなっていった。




