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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第102話:月の寝台で、三人は言葉の先へ進む

 三人のこの夜を少しだけ巻き戻してみよう。



 オルドアイの部屋に入った時、ソータの胸はもう落ち着いていなかった。


 薬草水のせいだけではない。

 むしろ、それがどれほど体を温めているのか、ソータにはまだ分からなかった。


 ただ、胸の内側で鼓動が強く鳴っている。

 指先が熱い。

 呼吸が少し浅い。

 目の前にいる二人の女の気配が、いつもより近く、濃く、逃れようのないものとして迫ってくる。


 ミレイユ。


 紅い髪紐を揺らし、緊張と覚悟を隠せない顔で立っている。

 唇は少し固く結ばれているのに、その瞳は逃げていない。

 怖がっている。

 妬いている。

 それでも、自分の意思でここにいる。


 オルドアイ。


 左腕の緑の組み紐に触れながら、真っ直ぐこちらを見ている。

 いつもの強引さは影を潜め、代わりに、どうしたらいいのか分からない者の不器用な熱がある。

 欲しいという気持ちだけは隠せない。

 だが、その手をどこまで伸ばしていいのか、彼女は本当に分かっていない。


 ソータは息を吸った。


(逃げない。)

(でも、流されない。)

(ちゃんと、見る。)

(ちゃんと、聞く。)


 そう思った瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。

 鼓動が速くなりすぎて、少し立っているのが苦しくなる。


「ソータ?」


 ミレイユがすぐに気づいた。


「顔色が。」


「大丈夫。」


 そう答えたが、声が少し震えた。


 オルドアイも近づく。


「無理をするな。」


「無理じゃない。」


「今の顔は無理だ。」


 ミレイユが即座に言った。


「横になりなさい。」


 反論しようとしたが、二人の視線を見て、ソータは諦めた。


「……うん。」


 寝台へ腰を下ろす。

 そのまま、少しだけ横になった。


 天井の木目が見えた。

 窓から入る月明かりが、部屋の中を白く染めている。

 外ではまだ宴の音が聞こえる。

 遠く、笑い声。

 歌。

 杯の音。


 だが、この部屋の中だけは、別の時間になっていた。


 ソータは目を閉じかけた。

 その時、衣擦れの音がした。


 目を開ける。


 オルドアイが、身につけていた装いを静かにほどいていた。


 月明かりの中で、その姿は戦士ではなく、一人の女だった。

 強い肩。

 鍛えられた腕。

 森を走り、弓を引き、砦を守ってきた体。

 それが今、誰かを押さえつけるためではなく、誰かのそばに寄り添うために近づいてくる。


 ソータは息を呑んだ。


「オルドアイ。」


「嫌か。」


 彼女はすぐに聞いた。


 その声に、以前の強引さはなかった。


 ソータは首を振った。


「嫌じゃない。」


「怖いか。」


「少し。」


「私もだ。」


 その答えに、ソータは驚いた。


 オルドアイは寝台の端に膝をつき、ソータの隣に身を寄せた。

 肌の温かさが近い。

 森の匂いと、薬草水のかすかな香りと、彼女自身の熱が混ざる。


「ソータ。」


「うん。」


「触れていいか。」


 ソータは一瞬、胸が詰まった。


 オルドアイが聞いている。

 自分の強さをそのまま押しつけず、止まっている。


「いい。」


 短く答えると、オルドアイはゆっくり手を伸ばした。


 頬に触れる。

 指先は熱いのに、動きは慎重だった。


 そして、唇が重なった。


 最初は短く。

 確かめるように。

 次は少し長く。

 互いの息を知るように。


 ソータは目を閉じた。


 オルドアイの口づけは、不器用で、熱く、まっすぐだった。

 奪うようでいて、途中で何度も止まる。

 ソータの反応を待つ。

 怖くないかを確かめる。


 その不器用さが、胸に深く入ってきた。


 やがて、オルドアイの手がソータの服に触れた。

 だが、すぐに止まる。


 紐の結び目。

 留め具。

 旅装の重ね方。


 彼女はしばらく格闘した。


「……分からん。」


 ミレイユが小さく息を吐いた。


「何が?」


「ソータの服が脱がせられん。」


 ソータは顔を赤くした。


「自分で。」


「待って。」


 ミレイユが言った。


 声が震えていた。

 けれど、逃げる声ではない。


 オルドアイはソータ越しにミレイユを見た。


「ミレイユ。」


「何?」


「助けろ。」


 あまりにも堂々とした言い方だった。


 ミレイユは固まった。

 それから、深く深くため息をついた。


「まったく。」


 顔は赤い。

 耳まで赤い。

 それでも、彼女はソータの反対側へ回った。


「あなたらしいわね。」


 ミレイユはそう言いながら、ソータの服の留め具へ手を伸ばした。


 彼女の指は、オルドアイの手よりずっと慣れていた。

 旅装の重なりを知っている。

 ソータが普段どこを雑に結ぶかも知っている。

 どの紐を先に解けばいいかも知っている。


 そのことが、なぜかひどく恥ずかしく、同時に胸を締めつけた。


「ミレイユ。」


「何?」


「恥ずかしい。」


「私もよ。」


 即答だった。


「でも、あなたが逃げないなら、私も逃げない。」


 その言葉で、ソータは黙った。


 ミレイユの手が、服をほどいていく。

 その間、オルドアイはもう一度ソータに口づけた。


 ソータは、その熱に応えながら、ミレイユの指先の震えも感じていた。


 紅い髪紐が視界の端で揺れる。

 緑の組み紐が月明かりの中で沈んだ色に見える。


 二つの結び目。

 二つの手。

 二つの息。


 その間に、自分がいる。


(軽く扱わない。)

(どちらも。)

(俺自身も。)


 服がほどけ、夜気が肌に触れた。

 ソータは息を吸った。


 次の瞬間、自分の手が自然にミレイユへ伸びていた。


 ミレイユが少し驚く。


「ソータ?」


「触れていい?」


 彼女は一瞬、目を伏せた。

 そして、小さく頷いた。


「いいわ。」


 ソータの指が、彼女の服の端に触れる。

 何度も見慣れた服。

 商会で、旅で、宿で、いつも彼女を包んでいた布。


 それを今、自分の手でほどいていく。


 ミレイユは恥ずかしさに唇を噛んだ。

 だが、逃げない。

 ソータを見ている。

 見られることからも、見せることからも逃げない。


 オルドアイはその様子をじっと見ていた。


「綺麗だな。」


 彼女が素直に言った。


 ミレイユの顔が真っ赤になる。


「こういう時に、急に言わないで。」


「思った。」


「本当にあなたは。」


「厄介か。」


「ええ。」


 声は怒っているようで、どこか柔らかかった。


 ソータはミレイユの髪紐に触れた。


「外していい?」


 ミレイユは少しだけ目を揺らした。


 紅い髪紐。

 約束の印。

 ソータが結んだもの。


「外さないで。」


 彼女は言った。


「ほどけかけてもいい。でも、今夜は残して。」


「うん。」


 ソータは髪紐をそのままにした。


 オルドアイも左腕を見た。


「私も外さない。」


「ええ。」


 ミレイユが頷く。


「それは、あなたの約束だから。」


 オルドアイは静かに笑った。


 そこから、三人の距離は少しずつ消えていった。


 誰か一人が進みすぎれば、誰かが止めた。

 恥ずかしさに言葉を失えば、別の誰かが名を呼んだ。

 怖いと感じれば、手が止まった。

 大丈夫だと答えれば、また少し近づいた。


 口づけは、何度も交わされた。

 頬に。

 額に。

 唇に。

 指先に。


 それらは、奪うためではなく、確かめるための印だった。


 ミレイユは最初、ずっと緊張していた。

 自分の嫉妬が消えたわけではない。

 オルドアイがソータに触れるたび、胸が痛む。

 それでも、その痛みを見ないふりはしなかった。


 痛みの奥に、別のものもあった。


 ソータが自分を見る。

 自分を求める。

 オルドアイに向ける熱とは違う形で、自分を確かめる。


 それが分かるたび、ミレイユの胸は少しずつほどけた。


 オルドアイは、何度も迷った。

 強く抱きしめそうになり、途中で止まる。

 ミレイユを見る。

 ソータを見る。

 そして、素直に聞く。


「これで、いいのか?」


 ミレイユはそのたびに顔を赤くしながら、時に頷き、時に止めた。


「ゆっくり。」


「ソータの顔を見る。」


「自分だけで決めない。」


「今のは強い。」


「それは大丈夫。」


「それは駄目。」


 オルドアイは、不器用に全部を覚えようとした。


 そしてソータは、二人の間で何度も息を詰まらせた。

 嬉しさと怖さと、信じられないほどの温かさに胸を揺らしながら、それでも目を逸らさなかった。


 ミレイユが自分を見る。

 オルドアイが自分を見る。

 自分も二人を見る。


 視線が重なり、手が重なり、言葉が少しずつ減っていく。


 やがて、三人は月明かりの中で、言葉の先へ進んだ。


 外の宴の音は、いつしか遠くなっていた。

 部屋の中にあるのは、息遣いと、名前を呼ぶ声と、何度も確かめ合う小さな返事だけだった。


 詳しく語るには、あまりにも三人だけの夜だった。


 ただ、その夜、ソータはミレイユだけを忘れず、オルドアイだけに流されず、自分自身も置き去りにしなかった。

 ミレイユは嫉妬を抱えたまま、それでも自分の手でソータとオルドアイをつなぎ止めた。

 オルドアイは欲しがることをやめず、けれど初めて、欲しいものを壊さないために待つことを覚えた。


 月は高く昇り、やがて傾き始めた。


 長い時間が過ぎた。

 何度も、夜は終わりかけた。

 そのたび、誰かが名前を呼び、誰かが応え、また三人は互いの温もりへ戻っていった。


 薬草水の熱なのか。

 心の熱なのか。

 それとも、三人で選んだ夜そのものの熱なのか。


 ソータには、もう分からなかった。


 ただ、朝が近づく頃には、ミレイユもオルドアイも、すっかり力を使い果たしたようにソータの両隣で息を落ち着けていた。

 二人とも疲れ切っている。

 それでも、顔には不思議な安らぎがあった。


 ソータもまた、深い疲労の底にいながら、胸の奥だけは妙に満たされていた。


 紅い髪紐は、ほどけかけながらも残っていた。

 緑の組み紐も、左腕に残っていた。


 二つの結び目は、夜を越えても消えていなかった。


◆◇◆


 朝の光が差し込んだ時、最初に目を覚ましたのはソータだった。


 体は重い。

 だが、不思議と芯には力が残っている。


 右側ではミレイユが眠っている。

 髪は乱れ、紅い髪紐は少し緩んでいる。

 それでも、その結び目は残っている。


 左側ではオルドアイが眠っている。

 いつもの凛々しさはなく、ひどく無防備な寝顔だった。

 左腕の緑の組み紐が、朝の光に沈んだ色で光っている。


 ソータはしばらく動けなかった。


 昨夜は夢ではない。

 記憶はある。

 言葉も、手の温度も、二人の声も、全部残っている。


 逃げなかった。

 流されるだけでもなかった。

 三人で選んだ。


 その事実が、朝の静けさの中で重く胸に落ちた。


(これは、なかったことにはできない。)

(しない。)

(軽くしない。)


 そう思った時、ミレイユが小さく動いた。


 まつ毛が震え、ゆっくり目が開く。


 彼女はしばらくぼんやりしていた。

 やがてソータの顔を見て、昨夜を思い出したのだろう。

 頬が一気に赤くなる。


「……おはよう。」


「おはよう。」


 声を交わしただけで、胸が温かくなった。


 ミレイユは少し恥ずかしそうに目を伏せた。

 それから、ゆっくり身を寄せる。


 ソータは待った。


 ミレイユは、そっと口づけた。


 短く、柔らかく、朝の光のようなキスだった。


 離れた後、彼女は小さく息を吐いた。


「……昨日の夜を、なかったことにはしないわ。」


「うん。」


「後悔も、しない。」


「うん。」


「ただし。」


 ミレイユの目が少し鋭くなる。


「アルベールは尋問する。」


 ソータは思わず苦笑した。


「そこはやっぱり。」


「当然よ。」


 その声で、オルドアイも目を覚ました。


 彼女は少しぼんやりと天井を見て、それからソータとミレイユを見た。

 昨夜を思い出した瞬間、顔が赤くなった。


 だが、すぐに彼女らしく笑った。


「よい朝だ。」


 ミレイユが呆れたように言う。


「あなた、朝から本当に堂々としているわね。」


「照れている。」


「それで?」


「かなり。」


「見えないわよ。」


「なら、助かる。」


 オルドアイはそう言って、ソータへ身を寄せた。


 一瞬止まる。

 それから、きちんと聞いた。


「キスしていいか。」


 ソータは胸が熱くなった。


「うん。」


 オルドアイは短く口づけた。


 昨夜より少し慣れた、けれどまだ不器用なキスだった。


 離れた後、彼女はうっとりと目を細めた。


「やはり、よい朝だ。」


 ミレイユは顔を赤くしながらため息をついた。


「まったく、あなたらしいわね。」


 ソータは二人を見た。


 胸がいっぱいだった。

 幸せで、怖くて、重くて、温かい。


 その全部が、今の自分の荷になった。


 だが、これは一人で背負う荷ではない。


 三人で持つ荷だ。


 ソータは二人の手を取った。


「俺も、なかったことにしない。」


 ミレイユが頷く。


 オルドアイも頷く。


 朝の光の中で、三人の手が重なった。


 紅い髪紐。

 緑の組み紐。

 そして、まだ名前のない新しい結び目。


 満月の夜は終わった。

 けれど、三人の関係は、その夜から始まってしまったのだと、ソータは静かに理解した。

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