第98話:北の男たちの村で、バルクはすでに頼られている
ソータたちが砦を出てから、道はすぐに森の奥へ入り込んだ。
霧の森とは違う。
白い壁のような霧が視界を奪うことはない。
だが、こちらの森には別の緊張があった。
木々の間隔はやや広く、足元には古い獣道がいくつも交差している。
湿った土に靴底が沈み、時折、苔むした石が滑りそうになる。
枝は低く、葉は厚く、朝の光を受けても森の底は薄暗い。
砦から男たちの村へ向かう道は、霧に惑わされる道ではない。
だが、外の者が勝手に歩いてよい道でもなかった。
先頭を歩くのは、フルムーンを前に男たちの村から砦へ迎えに来ていた二人の男だった。
一人は、三十代半ばほどの男で、名をダンといった。
日焼けした肌に、短く刈った髪。
背は高くないが、足取りが軽く、腰には鉈と短い槍を下げている。
目がよく動き、枝の揺れや土の乱れを見逃さない。
もう一人は、オルム。
年配で無口な男だった。
背負った弓は使い込まれており、歩き方に無駄がない。
彼はほとんど喋らないが、時折立ち止まり、森の音を聞いている。
二人は普段、砦にいるわけではない。
男たちの村に暮らし、フルムーンが近づいた時だけ、村と砦の間を行き来する。
今回も、砦へ迎えの言葉を運び、必要な荷を受け取り、ソータたちを男たちの村へ案内するために来ていた。
ソータたちの一行は、ソータ、ガルド、レオン。
そして案内役のダンとオルム。
朝、砦を出る時、ソータは何度も振り返りそうになった。
ミレイユの紅い髪紐。
オルドアイの緑の組み紐。
エルザの静かな目。
カレンの淡々とした忠告。
全部が砦の門前に残っている。
(ちゃんと見て、聞いて、覚えて、戻る。)
(ミレイユに報告する。)
(オルドアイにも。)
(ヤンガルドアイさんにも。)
(バルクさんのことも。)
ソータは胸元に入れた小さな板を確認した。
炭筆もある。
字は綺麗ではないが、読めるように書く。
出発前、カレンが一言だけ言った。
「字は読めるように。」
それがなぜか妙に重かった。
レオンが背後から小声で言う。
「なんか、こっちはこっちで落ち着かないっすね。」
ダンが振り返った。
「森は落ち着く場所じゃない。」
「深いっすね。」
「深くはない。止まるなという意味だ。」
「あ、はいっす。」
オルムが低く付け加えた。
「止まる時は、理由がある時だけだ。」
レオンは少し真顔になった。
「了解っす。」
ガルドは先頭の少し後ろを歩き、森全体を見ていた。
ダンたちに任せてはいるが、警戒は緩めない。
ソータもいつもより足元へ意識を向けた。
転ばない。
遅れない。
勝手に枝へ触れない。
分からない時は止まる。
自分ができることは、派手ではない。
けれど、できることを怠れば皆に迷惑をかける。
そう思うと、自然と背筋が伸びた。
◆◇◆
一方その頃、砦ではミレイユがオルドアイに連れられ、外周の見回りへ向かっていた。
エルザも弓を背にして同行している。
さらに、大盾を背負ったカレンがいつの間にか隣に立っていた。
「同行する。」
短い一言だった。
ミレイユは少し驚いた。
「あなたも?」
「契約上、ミレイユの護衛も仕事だ。」
カレンはそう言い、次にオルドアイを見た。
「邪魔なら言え。」
オルドアイは腕を組み、カレンを上から下まで見た。
「邪魔には見えない。」
「なら行く。」
「ただし、砦の仕事は私の指示だ。」
「了解した。」
ミレイユは三人を見た。
オルドアイ。
エルザ。
カレン。
弓の女。
盾の女。
砦の姫。
そして自分は、商会の女。
ソータが男たちの村へ向かった一方で、砦には砦で濃い女たちが残っている。
「……ずいぶん強い顔ぶれね。」
ミレイユが呟く。
カレンは淡々と答えた。
「守るには足りる。」
オルドアイが笑う。
「面白い女だな。」
「面白さは契約外だ。」
「ますます面白い。」
エルザが小さく息を吐いた。
「今日はソータさんがいなくても、別の意味で気が抜けませんね。」
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
「そうね。」
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「では、まずは外周だ。」
カレンは盾の位置を整え、ミレイユの少し後ろに立った。
「走るなら先に言え。」
オルドアイが振り返る。
「走るかもしれん。」
ミレイユは即座に言った。
「走るなら私は置いていって。」
カレンが頷く。
「正しい。」
オルドアイは笑った。
「無理をしない女は使いやすい。」
「物扱いしないで。」
「褒めている。」
「褒め方が雑なのよ。」
エルザが二人を見て、どこか安心したように微笑んだ。
カレンは無表情のまま言った。
「仲が良いな。」
ミレイユとオルドアイが同時に振り返る。
「良くありません。」
「良くない。」
声が重なった。
カレンは少しだけ目を細めた。
「そうか。」
エルザは口元を押さえた。
◆◇◆
ソータたちの道は、緩やかに下り、それから小さな沢沿いに伸びた。
水は澄んでいて、岩の間を細く流れている。
沢の周囲は空気が少し冷たく、苔の匂いが濃い。
ダンはそこで一度足を止めた。
「ここで水を補給する。」
全員が短い休憩を取ることになった。
ソータは水筒を出し、沢の水を汲んだ。
ガルドは岩の上に立ち、道の先を確認している。
レオンは水を口に含み、ほっとしたように息を吐いた。
「森の水、うまいっすね。」
「そのまま飲むな。」
オルムが言った。
レオンの動きが止まる。
「え。」
「上流で獣が死んでいることもある。」
「もう飲んだっす。」
「少しなら死なない。」
「安心していいんすか、それ。」
ダンが笑った。
「この沢は大丈夫だ。オルムは脅しただけだ。」
「脅しっすか!」
オルムは無表情で言った。
「油断を減らした。」
「言い方!」
少し笑いが起きた。
緊張がわずかにほぐれる。
ソータは水筒を満たしながら、小さな板を取り出した。
濡れないように布で拭き、炭筆で書く。
北の道。
霧は少ない。
沢あり。
水場として使える。
案内役確認必要。
ダン、オルム。
男たちの村から来た迎え役。
書き終えて、ソータは字を見た。
少し曲がっている。
だが読める。
レオンが覗き込んだ。
「お、ちゃんと記録してるっすね。」
「ミレイユに全部報告するって言ったから。」
「偉いっす。」
「レオンも覚えておいてね。」
「俺っすか。」
「うん。俺だけだと抜けるかもしれない。」
レオンは一瞬きょとんとした。
それから、少し嬉しそうに胸を張った。
「任せてくださいっす。斥候として、見たことは覚えるっす。」
ガルドが横から低く言った。
「余計な脚色はするな。」
「しないっすよ!」
「する顔だ。」
「ひどいっす!」
ソータは少し笑った。
◆◇◆
沢を越えてから、ソータたちの周囲の森は少しずつ変わっていった。
木々の間に、人工の気配が混じり始める。
切り株。
枝を払った跡。
小さな祠のように石を積んだ場所。
古い縄が木に巻かれた目印。
ダンが言った。
「境界が近い。」
ソータは足元に気をつけながら尋ねた。
「ここから先が男たちの村の領域ですか。」
「まだ少し先だ。」
「境界石があるんですよね。」
「そうだ。」
「女の人はそこから先へ入らない。」
「フルムーン前は特にな。」
ダンは少し真面目な顔になった。
「フルムーンの時、男は砦へ向かう。女は砦で迎える。村で女を迎えるのではない。」
オルムが続けた。
「古い誓いだ。」
「女神への誓い、ですか。」
ソータが言うと、オルムは少しだけ目を動かした。
「聞いているのか。」
「ヤンガルドアイさんたちから少しだけ。」
「なら覚えておけ。」
「はい。」
ソータは板へ書いた。
フルムーン前。
男は砦へ向かう。
女は砦で迎える。
村で女を迎えない。
女神への古い誓い。
レオンが横から覗いた。
「字、さっきより丁寧っすね。」
「ミレイユに読ませるから。」
「愛っすね。」
「急にからかわないで。」
ガルドが短く言った。
「集中しろ。」
「はい。」
しばらく進むと、大きな石が見えた。
高さはソータの胸ほど。
丸みのある黒い石で、表面には古い模様が刻まれている。
月の形。
水の波紋。
槍。
手を重ねるような印。
石の周りには、白い小石が円を描くように置かれていた。
ダンとオルムは石の前で足を止め、軽く頭を下げた。
ガルドもそれに倣う。
ソータとレオンも続いた。
石の前に立った瞬間、ソータはミレイユの顔を思い出した。
彼女はここを見たかったはずだ。
この石を見て、模様を記録し、意味を尋ね、次の交渉のために必ず覚えたはずだ。
(ちゃんと伝えよう。)
(形も。)
(模様も。)
(ここで感じた空気も。)
境界石を越える。
その先の道は、少し開けていた。
足元には踏み固められた土。
左右の枝は払われ、荷を運びやすい幅がある。
時折、丸太を組んだ簡単な橋もかかっていた。
そして、木々の向こうに煙が見えた。
男たちの村だった。
◆◇◆
北の男たちの村は、想像していたより大きかった。
砦とは違う。
アマゾネスの砦が森と一体化するように築かれているのに対し、こちらの村は低く、広く、地に根を張るような造りだった。
丸太の家が円を描くように並び、中央には広場がある。
広場の端には大きな炉。
別の一角には鍛冶場らしき小屋があり、鉄を打つ音が響いている。
村の周囲には低い防壁と堀があり、門の両側には見張り台があった。
男たちがこちらを見ている。
屈強な者が多い。
髭を生やした者。
若い者。
老人に近い者。
弓を持つ者。
斧を肩に担ぐ者。
子どもたちもいる。
視線には好奇心と警戒が混じっていた。
ダンが門の前で声を上げた。
「砦より荷が来た!」
門の内側から、太い声が返った。
「通せ!」
門が開く。
村の中へ入ると、すぐに一人の大柄な男が近づいてきた。
年齢は五十前後だろうか。
広い肩。
太い腕。
髪と髭には白いものが混じっている。
だが、目は鋭い。
彼が村長だと、説明される前に分かった。
ヤンガルドアイと同じ種類の圧がある。
ただし、彼女のような炎の圧ではなく、岩のような圧だった。
「お前がソータか。」
男が言った。
「はい。」
ソータは頭を下げた。
「グランデリアから来ました。ソータです。」
「荷を運ぶ男。」
「はい。」
「ヤンガルとオルドアイから聞いている。」
ヤンガル。
その呼び方に、ソータは少し反応した。
この男は、やはりヤンガルドアイの夫なのだ。
「村長の、メバドスだ。」
「よろしくお願いします。」
メバドスはソータをじっと見た。
「思ったより細いな。」
「よく言われます。」
「だが、目は逃げていない。」
ソータは少し驚いた。
「ありがとうございます。」
「褒めたつもりだ。」
「はい。」
ガルドが前に出た。
「護衛のガルドです。」
「剣の男か。」
「はい。」
レオンも名乗る。
「斥候のレオンっす。」
「軽そうだな。」
「よく言われるっす。」
「足が軽いならよい。」
「褒められたっすか?」
「たぶんな。」
レオンは少し困ったように笑った。
メバドスは一行を見回し、短く頷く。
「決まりを守って来たな。」
ソータは真面目に答えた。
「はい。守らなければ、話も始まらないと思いました。」
「その通りだ。」
その一言で、少しだけ空気が緩んだ。
ソータは胸の中でほっとした。
守るべき決まりを守る。
その上で話を始める。
それが、今日の最初の荷だったのだ。
◆◇◆
中央広場に、男たちが集まった。
ソータはミレイユと確認した荷札を思い出しながら、一つずつ荷を取り出した。
青布。
赤布。
緑と黄の布。
小分けにした塩。
生活用刃物。
針。
補修金具。
丈夫な縄。
保存容器。
薬。
香辛料。
油。
甘い干し果実。
荷が現れるたび、村の男たちが声を上げる。
「おお。」
「本当に何もないところから出るぞ。」
「腹からか?」
「腹じゃないです。」
ソータは何度目かの訂正をした。
レオンは横で肩を震わせている。
メバドスは荷を一つずつ確認した。
布は手触りを確かめ、塩は色を見て、刃物は重さを確認する。
保存容器には特に興味を示した。
「これは密閉できるのか。」
「はい。湿気に強いです。」
「粉を入れられるか。」
「入れられます。」
「薬にも使えるか。」
「使えます。」
メバドスは頷いた。
「よい。」
甘い干し果実が出た時、子どもたちが一気に近寄ってきた。
「甘いのか!」
「食べていいのか!」
「砦からか!」
ソータは思わず笑った。
「村長さんに聞いてから。」
子どもたちが一斉にメバドスを見る。
メバドスは重々しく頷いた。
「一人一つだ。」
歓声が上がった。
レオンが小声で言った。
「ミレイユさん、やっぱすごいっすね。」
「うん。」
ソータも頷いた。
「子ども用を入れて正解だった。」
「戻ったら褒められるっすよ。」
「報告を忘れなければね。」
「そこ大事っす。」
ソータは板に書いた。
干し果実、子どもに好評。
分配は村長確認後。
今後も有効。
書きながら、カレンの声を思い出す。
字。
ソータは少し丁寧に文字を整えた。
◆◇◆
荷の受け渡しが一段落した後、メバドスはソータたちを村長の家へ案内した。
家は大きく、質素で、壁には古い槍と弓が掛けられている。
炉には火が入り、干した肉と根菜の匂いが漂っていた。
そこで、ようやくバルクの名前が出た。
「バルクに会いたいのだろう。」
メバドスが言う。
ソータはすぐに頷いた。
「はい。」
「元気だ。」
「よかった。」
「元気すぎるほどだ。」
メバドスの口元が少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「どういう意味ですか。」
レオンが聞く。
「来て早々、狩りについてきた。」
「バルクさんが?」
「ああ。」
メバドスは炉の火を見ながら言った。
「村の男たちは、時々まとまって狩りに出る。肉も皮も骨もいるからな。」
「はい。」
「その時、あの大男は、初めての森だというのに一歩も引かなかった。」
ガルドの目が少し動いた。
「盾を使ったのか。」
「使った。」
メバドスは頷いた。
「大角猪が出た。若い者なら逃げ腰になる大きさだ。」
「大角猪。」
ソータが呟く。
「こちらの森にいる大型の獣だ。正面から受けるものではない。」
メバドスは少しだけ目を細めた。
「だが、バルクは受けた。」
ソータは息を呑んだ。
「受けたんですか。」
「ああ。盾で角をそらし、足を止めた。そこへ村の男たちが槍を入れた。」
レオンが目を丸くする。
「バルクさんらしいっすね。」
「らしいな。」
ガルドが低く言った。
メバドスは続けた。
「仕留めた獲物は大きかった。肉は村で分けた。皮も良い。あれで、村の男たちはバルクを見る目を変えた。」
ソータの胸が少し熱くなった。
バルクは、ただガルナに惚れてここに残っているだけではない。
もう、この村で自分の強さを示している。
必要とされている。
頼られている。
メバドスは言った。
「あの男は強い。」
その声には、はっきりとした信頼があった。
「食う量も強いがな。」
レオンが吹き出した。
「そこも強いっす。」
「村の食料が減るかと思った。」
「すみません。」
なぜかソータが謝った。
メバドスは低く笑う。
「だが、よく働く。よく食う男は嫌いではない。」
ガルドが頷いた。
「働かないで食うなら殴る。」
「お前も厳しいな。」
「仲間なので。」
その言葉に、ソータは少しだけガルドを見た。
だった、ではない。
仲間なので。
その言い方が、胸に温かく残った。
メバドスは立ち上がった。
「呼ばせる。」
◆◇◆
しばらくして、外から大きな足音が近づいてきた。
戸が開く。
現れたのは、まぎれもなくバルクだった。
大きな体。
広い胸。
見慣れた盾役の雰囲気。
だが、服装は少し変わっていた。
北の男たちの村の厚手の衣服を着て、腰には補修した革帯を巻いている。
肩には新しい傷跡があり、腕には狩りの時についたらしい薄い擦り傷があった。
顔色は良い。
むしろ、以前より健康そうに見える。
バルクはソータたちを見た。
目が大きく開く。
「おお!」
次の瞬間、彼は大股で近づき、ソータの肩をがっしり掴んだ。
「ソータ! ガルド! レオン! 来たか!」
「バルクさん!」
ソータは笑った。
「元気そうでよかった。」
「元気だ!」
バルクは豪快に笑った。
だが、すぐに周囲を見回した。
「ガルナは?」
全員が一瞬黙った。
レオンが小さく呟いた。
「第一声に近いっすね。」
ガルドが低く言った。
「締めるか。」
「待て!」
バルクが慌てた。
「皆に会えて嬉しい! 嬉しいぞ! だが、ガルナにも会いたい!」
あまりにも正直だった。
ソータは思わず笑ってしまった。
「ガルナさんは砦で待ってます。」
「本当か!」
「オルドアイが、ガルナが待っていると言えって。」
バルクの顔が一気に緩んだ。
「そうか。」
その表情を見て、レオンが笑いを堪えきれなくなった。
「バルクさん、顔がやばいっす。」
「何がだ!」
「恋する顔っす。」
「そうだ!」
バルクは胸を張った。
否定しなかった。
ガルドがため息をつく。
「重症だな。」
「治す気はない!」
「だろうな。」
メバドスが低く笑った。
「村でも毎日あの調子だ。」
「すみません。」
またソータが謝った。
「謝るな。」
メバドスは言った。
「浮かれてはいるが、役に立つ。」
バルクは少しだけ真面目な顔になった。
「村長。」
「事実だ。」
メバドスはバルクを見た。
「大角猪を受けた時から、お前を信じている者は多い。」
バルクは照れたように頭をかいた。
「あれは、皆が槍を入れてくれたからだ。」
「足を止めた者がいなければ逃げられた。」
「俺の役目だ。」
「そうだな。」
ソータは、そのやり取りを見て胸が熱くなった。
バルクは、ここでただ客として扱われているのではない。
もう、役目を得ている。
村の男たちに認められ、メバドスにも信頼されている。
それは、嬉しい。
だが、同時に少し寂しい。
(バルクさんは、本当にここで生き始めているんだ。)
ソータはそれを受け止めた。
◆◇◆
その日の夜、男たちの村では小さな宴が開かれた。
フルムーンの前夜。
翌朝には砦へ向かう男たちが出発する。
そのための景気づけであり、砦から届いた荷への礼であり、ソータたちを迎えるための宴でもあった。
中央広場の炉には大きな火が入った。
炎が赤く伸び、夜の村を照らす。
丸太の椅子が並べられ、干し肉、焼いた根菜、香草をまぶした肉、厚いパンのようなものが次々に運ばれてくる。
そして、宴の中心に置かれたのは、大角猪の肉だった。
バルクが狩りで受け止めたという獲物の肉。
大きな塊を串に刺し、時間をかけて焼いたものだ。
脂が火に落ちるたび、香ばしい煙が立ち上る。
レオンが目を輝かせた。
「これ、絶対うまいやつっす。」
バルクは得意そうに胸を張った。
「俺が止めた猪だ!」
「何回言うんすか。」
「何回でも言う!」
ガルドが肉を見ながら短く言った。
「良い肉だ。」
「ガルドさんが褒めたっす。」
「肉をな。」
「バルクさんは?」
「動きは悪くなかったのだろう。」
バルクは嬉しそうに笑った。
「それで十分だ!」
ソータは差し出された肉を受け取った。
噛むと、強い弾力があった。
だが硬いだけではない。
噛むほどに濃い旨味が出てくる。
脂には野性味があり、香草の苦みがそれをうまく整えていた。
「うまい。」
思わず声が出た。
バルクが笑う。
「だろう!」
「バルクさんが仕留めたと思うと、余計に。」
「俺だけではない。皆で仕留めた。」
その言葉を聞いて、近くの村の男たちが笑った。
「言うようになったな、バルク!」
「最初は盾を構えて突っ立っていたくせに!」
「突っ立っていたんじゃない! 受け止めていたんだ!」
「同じだ!」
「違う!」
笑いが広がる。
バルクは完全に村に溶け込んでいた。
雑にからかわれ、雑に言い返し、雑に笑う。
その様子は、見ているだけで安心するほど自然だった。
ソータはその光景を見ながら、また胸の奥に小さな寂しさを感じた。
(でも、これは良い寂しさなんだと思う。)
(たぶん。)
(バルクさんが居場所を見つけたから感じる寂しさだ。)
それなら、ちゃんと持って帰ろう。
隠さずに。
ソータは板を取り出そうとした。
レオンがそれを見て笑った。
「宴中にも書くっすか。」
「忘れそうだから。」
「真面目っすね。」
「ミレイユに怒られたくない。」
「それが一番の理由っすか。」
「大きい。」
ガルドが低く言った。
「正しい。」
ソータは小さく笑い、板に書いた。
大角猪の肉。
バルクが狩りで盾役として信頼を得た。
村の男たちにからかわれるほど馴染んでいる。
肉はうまい。
最後の一文を書いてから、少し迷った。
ミレイユに肉の味まで必要だろうか。
しかし、リストを見たミレイユの顔を想像した。
たぶん、必要かどうかではなく、現地の食文化として聞くだろう。
ソータはそのまま残した。
◆◇◆
宴が進むと、火の周りの空気は少しずつ重さを帯びてきた。
笑い声はまだある。
肉も酒も回っている。
若い男たちは明日の砦行きを前に浮かれている。
しかし、村長メバドスの周囲だけは、どこか静かだった。
メバドスは大きな杯を手にしていたが、酒の量は控えめだった。
彼の後ろには、数人の男たちがいる。
皆、鍛えられた体つきで、視線が鋭い。
宴に加わってはいるが、どこか心が外を向いているようだった。
ソータはそれに気づいた。
ミレイユなら、きっとすぐに理由を尋ねる。
だが、自分が聞いていいのか迷った。
メバドスの方から声がかかった。
「ソータ。」
「はい。」
「少し来い。」
ソータはガルドを見た。
ガルドが小さく頷く。
レオンも静かについてくる。
宴の輪から少し離れた場所で、メバドスは火の明かりを背に立った。
村の外側、北東の森の方角が暗く沈んでいる。
「今夜、話しておく。」
メバドスは言った。
「隣国の辺境の民のことだ。」
ソータの背筋が伸びた。
「隣国、ですか。」
「ああ。」
メバドスは低い声で続けた。
「この森の北東には、隣国の辺境に生きる民がいる。定住と移動を繰り返す者たちだ。昔から境界で揉めることはあった。」
「最近、不穏な動きがあると聞きました。」
「そうだ。」
メバドスは遠くを見た。
「狩場の獣が追われている。境界近くに足跡が増えた。夜に火が見える。交易路を探るような者もいる。」
「攻めてくる可能性があるんですか。」
「まだ分からん。」
メバドスは正直に言った。
「飢えているだけかもしれん。何かから逃げているのかもしれん。こちらを狙っているのかもしれん。」
「分からない。」
「だから厄介だ。」
ソータは息を呑んだ。
宴の火の明るさが、急に遠く感じた。
背後では笑い声がある。
明日、砦へ向かう男たちの浮かれた声が聞こえる。
だが、その外側には不穏な影がある。
メバドスは続けた。
「本当なら、俺も明日、砦へ向かう日だ。」
ソータはヤンガルドアイの顔を思い出した。
豪快で、強く、そしてアルベールに向ける時だけ妙に柔らかい顔になる砦の長。
彼女の夫であるこの男が来ないことを、彼女はどう受け止めるだろう。
「ヤンガルドアイさんには。」
「伝えてある。」
「そうですか。」
「だが、直接顔を見せられんことは、あまり良くない。」
メバドスの声に、少しだけ苦みが混じった。
「それでも、村を空けるわけにはいかん。」
彼の背後にいた精鋭たちが、無言で姿勢を正した。
「俺は明日、村に残る。こいつらも残す。」
「精鋭の方たちですか。」
「そうだ。」
ソータは頷いた。
「バルクさんは。」
言いかけて、ソータは少し躊躇した。
バルクは強い。
村で大角猪を止め、信頼されている。
なら、本当なら残ってほしい戦力のはずだ。
メバドスはソータの迷いを読んだように低く笑った。
「本当は、バルクにも残ってほしい。」
「やっぱり。」
「あの盾は役に立つ。あの力もな。」
「はい。」
「だが。」
メバドスは宴の方を見た。
バルクは火の近くで、村の男たちに何かを言われている。
どうやらまたガルナのことでからかわれているらしく、顔を赤くしながらも堂々と笑っていた。
「毎日毎日、ガルナのことばかり言う。」
メバドスの声に、呆れと、少しの優しさが混じった。
「朝起きればガルナ。飯を食えばガルナ。狩りに出てもガルナ。獲物を仕留めればガルナに食わせたい。寝る前もガルナ。」
レオンが吹き出した。
「重症っすね。」
「重症だ。」
メバドスは頷いた。
「あれに残れとは言えん。」
ソータは少し黙った。
メバドスは続ける。
「言えば残るだろう。バルクはそういう男だ。」
「はい。」
「村のために残れと言えば、たぶん歯を食いしばって残る。」
「……。」
「だが、今それを言うのはかわいそうだ。」
その言葉は、想像よりもずっと温かかった。
メバドスはバルクを戦力として見ている。
信頼している。
必要としている。
それでも、彼がガルナに会いたくて仕方ないことを知っているから、あえて言わない。
村長としては冷静ではない判断かもしれない。
だが、人を見る長の判断でもあった。
ソータはメバドスを見た。
「バルクさんを、大事にしてくれているんですね。」
「強い男は大事にする。」
「それだけですか。」
メバドスは少しだけ目を細めた。
「うるさい男でも、悪い男ではない。」
レオンが小さく笑った。
「それ、バルクさんに言ったら喜ぶっすよ。」
「言うな。」
「言わないっす。」
ソータは胸の中が少し温かくなった。
バルクはこの村で必要とされている。
そして、ただ便利に使われているわけではない。
彼の気持ちも見られている。
それをミレイユに伝えよう。
ガルドにも、レオンにも聞いてもらった。
この言葉は、きちんと持って帰れる。
ソータは板を取り出し、書こうとした。
メバドスが少し笑う。
「宴の最中にも書くか。」
「忘れたくないので。」
「よい。」
ソータは書いた。
メバドス、村に残る。
隣国辺境の民、不穏。
精鋭数人も残留。
本当はバルクにも残ってほしい。
だが、毎日ガルナの話ばかりでかわいそうで言えない。
バルクを信頼している。
大事にしている。
書きながら、少しだけ笑ってしまった。
最後の一行は、本人に見せたら怒られるかもしれない。
だが、ミレイユには必要だ。
きっと。
ソータは板をしまい、まっすぐメバドスを見た。
「もし何かあれば、俺も助太刀します。」
メバドスの目が鋭くなる。
「お前がか。」
「はい。」
「剣は振れないのだろう。」
「振れません。」
「なら、何をする。」
ソータは少しだけ息を吸った。
「荷を運びます。」
迷わず答えた。
「必要な食料、薬、矢、縄、避難に必要なもの。村から砦へ。砦から村へ。必要なら、もっと遠くからも。」
「……。」
「俺は戦う力はありません。でも、必要なものを必要な場所へ運ぶことならできます。」
メバドスは黙ってソータを見た。
炎が揺れる。
その光がメバドスの顔に影を作る。
「それは、戦いではないと思うか。」
メバドスが聞いた。
ソータは少し考えた。
少し前の自分なら、そうだと言ったかもしれない。
自分はただの荷運びだと。
戦う者たちの後ろで、荷を渡すだけだと。
でも、今は違う。
ミレイユが何度も怒ってくれた。
オルドアイが、自分を軽く見るなと言った。
リーナが、気持ちも運ぶと言った。
カレンが、守れと言った。
ガルドが、逃げるなと言った。
「戦いの一部だと思います。」
ソータは答えた。
「少しは。」
メバドスの口元が動いた。
「少しか。」
「まだ、胸を張って全部とは言えません。」
「正直だな。」
「よく言われます。」
「なら、その少しを頼む時が来るかもしれん。」
「はい。」
「その時は逃げるな。」
「逃げません。」
メバドスは大きな手を差し出した。
ソータは一瞬驚き、それからその手を握った。
分厚い手だった。
木と鉄と獣に触れてきた手。
村を守る男の手。
「約束だ。」
「はい。」
その握手は、宴の喧騒の外側で交わされた小さな約束だった。
だが、ソータにはとても重く感じられた。
◆◇◆
宴に戻ると、バルクがすぐにこちらを見た。
「何を話していた!」
レオンがにやりとした。
「バルクさんの話っす。」
「俺の?」
「毎日毎日ガルナさんの話ばっかりって。」
「レオン。」
ガルドが低く止めた。
レオンは口を押さえた。
「危ないっす。」
バルクは目を泳がせた。
「そんなには言っていない。」
周囲の村の男たちが一斉に笑った。
「言っている!」
「朝から言っている!」
「狩りの最中にも言っていたぞ!」
「大角猪の肉を見て、ガルナに食わせたいと言っていた!」
バルクの顔が真っ赤になる。
「うるさい!」
「本当のことだ!」
笑い声がさらに大きくなる。
ソータも笑った。
バルクは恥ずかしそうにしながらも、どこか幸せそうだった。
ガルナの名を出されるたび、表情が緩む。
彼の心がどこへ向かっているのか、誰の目にも明らかだった。
ソータはその光景を見ながら、メバドスの言葉を思い出した。
残れと言えば残る。
だが、かわいそうで言えない。
バルクは強い。
だからこそ、頼られる。
だが、強いからといって、いつでも気持ちを後回しにしてよいわけではない。
それを、この村長は分かっている。
ソータはまた少し、この村のことを好きになった。
◆◇◆
宴は夜遅くまで続いた。
歌は砦のものとは違った。
低く、足踏みが多く、地面へ響くような歌だった。
男たちが輪になり、手を叩き、時折笑いながら誰かを中央へ押し出す。
バルクも押し出された。
「踊れ!」
「俺は踊れん!」
「ガルナに見せる練習だ!」
「ならやる!」
「やるのか!」
村中が笑った。
バルクは不器用に足を踏み鳴らした。
動きは大きく、重く、決して上手いとは言えない。
だが、妙に力強い。
彼が一歩踏むたび、地面が少し揺れるようだった。
レオンは腹を抱えて笑った。
「バルクさん、踊りも盾役っす!」
「どういう意味だ!」
「全部受け止めてるっす!」
ガルドでさえ、少しだけ口元を緩めた。
ソータも笑った。
笑いながら、胸の奥が少し熱くなった。
遠い場所へ来た。
知らない村で、知らない歌を聞き、仲間だった男が新しい人々と笑っている。
自分はそれを見ている。
そして、持って帰る。
ミレイユへ。
オルドアイへ。
砦へ。
月は高く昇っていた。
フルムーンは近い。
丸くなりつつある月が、村の屋根と防壁を淡く照らしている。
ソータは月を見上げた。
(ミレイユも、同じ月を見てるかな。)
(オルドアイも。)
(たぶん、砦で何か言い合ってるんだろうな。)
少し笑う。
それから、胸の中で小さく言った。
(戻るよ。)
(明日の朝。)
(ちゃんと全部持って帰る。)
◆◇◆
翌朝、男たちの村は早かった。
まだ朝霧が低く残る頃には、砦へ向かう男たちが準備を始めていた。
荷を背負う者。
贈り物を確かめる者。
髪を結い直す者。
昨夜飲みすぎたらしい若者を叩き起こす者。
広場の炉には、まだ昨夜の火の名残が赤く残っていた。
その上で温められた粥のような朝食が配られる。
ソータはそれを食べながら、眠気をこらえて板の確認をした。
北の道。
沢。
境界石。
男たちの村の構造。
荷の反応。
干し果実。
バルクの狩り。
大角猪。
メバドスの信頼。
宴。
隣国辺境の民。
メバドスと精鋭の残留。
バルクを残せない理由。
助太刀の約束。
多い。
(ミレイユに報告したら、絶対いろいろ聞かれる。)
(でも、今回はちゃんと書いた。)
(たぶん読める。)
レオンが横から覗いた。
「おお、ぎっしりっすね。」
「読める?」
「読めるっす。ところどころ怪しいっすけど。」
「怪しいんだ。」
「でも気持ちは伝わるっす。」
「報告書でそれは駄目な気がする。」
ガルドが低く言った。
「戻ったら口で補え。」
「はい。」
バルクは朝からそわそわしていた。
昨夜よりさらに落ち着かない。
砦へ向かう道を何度も見ている。
メバドスがその背中へ声をかけた。
「バルク。」
「はい!」
「浮かれるな。」
「分かっています!」
「分かっていない声だ。」
周囲が笑う。
メバドスは少しだけ表情を和らげた。
「行ってこい。」
バルクは一瞬、真面目な顔になった。
「村長。」
「何だ。」
「何かあれば、必ず呼んでくれ。」
メバドスは静かに頷いた。
「ああ。」
「俺は。」
バルクは少し言葉に詰まった。
「ここにも、砦にも、恩がある。」
「分かっている。」
「だから。」
「今は行け。」
メバドスは言った。
「ガルナが待っている。」
バルクの顔が一気に緩みかけた。
だが、必死に引き締めた。
「はい!」
レオンが小声で言った。
「今、顔が戻りかけたっす。」
「見ていた。」
ガルドが答える。
ソータは笑いをこらえた。
メバドスはソータへ向き直った。
「ソータ。」
「はい。」
「昨夜の約束、忘れるな。」
「忘れません。」
「ヤンガルには、余計な心配はするなと伝えろ。」
「怒ると思います。」
「怒るだろうな。」
「でも、伝えます。」
「それでよい。」
ソータは頭を下げた。
メバドスの背後には、村に残る精鋭たちが立っている。
彼らは宴の名残を見せず、すでに警戒の目をしていた。
村を守る者たちの顔だった。
ソータはその顔も覚えた。
全部、持って帰るために。
◆◇◆
門が開いた。
砦へ向かう男たちの一団が動き始める。
ダンとオルムが再び先導に立つ。
ガルド、レオン、ソータも続く。
バルクはその中で、何度も前を見ている。
村の男たちが声をかける。
「ガルナによろしくな!」
「骨を抜かれてこい!」
「抜かれるか!」
「もう半分抜けてるぞ!」
「抜けていない!」
笑い声が朝の村に響いた。
ソータは最後に振り返った。
メバドスが門前に立っている。
腕を組み、岩のように動かない。
その背後には村。
さらにその奥には、北東の不穏な影。
フルムーンの熱の後、きっとまた向き合うことになる。
ソータは胸の中で言った。
(俺も助太刀する。)
(剣ではなくても。)
(荷で。)
(道で。)
(必要なものを運ぶことで。)
そして前を向いた。
森の朝は冷たかった。
葉の先に残った露が光り、足元の土はまだ夜の湿り気を含んでいる。
昨日越えた境界石へ向かって、一行は進む。
バルクはすでに、砦の方角を見ていた。
その顔は、どう取り繕っても恋に浮かれた男の顔だった。
レオンがまた笑う。
ガルドがため息をつく。
ダンが呆れたように肩をすくめる。
オルムが「歩け」と短く言う。
ソータは、その全部を胸にしまいながら、北の村を後にした。




