第97話:砦に残る女たちは、互いの仕事を見る
ソータたちの背中が森の奥へ消えた後も、ミレイユはしばらく門前に立っていた。
木々の間に揺れる影は、もう見えない。
足音も聞こえない。
ガルドの低い声も、レオンの軽い調子も、カレンの盾が革紐に当たる音も、ソータの少し不安そうな返事も、すべて森の奥へ吸い込まれていった。
残ったのは、砦の朝の音だった。
弓弦を弾く乾いた音。
水桶を置く鈍い音。
若い女たちの掛け声。
薪を割る音。
風が木の葉を擦る音。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
ソータが今朝、出発前に結び直してくれたものだ。
結び目は少し硬い。
彼の緊張が、そのまま指先に残っているようだった。
(行った。)
(私は残った。)
(行きたかった。)
(でも、残ると決めた。)
胸の奥に、静かな空洞ができていた。
グランデリアでソータを待つ時とは違う。
商会には自分の机があり、書類があり、指示を待つ者たちがいる。
待つことを仕事に変える場所があった。
ここは砦だ。
オルドアイの場所。
ヤンガルドアイの場所。
ソータが一度、重い選択を迫られた場所。
そして今、自分が残ることを選んだ場所。
ミレイユは、森の奥へ向けていた視線をゆっくり戻した。
隣にはオルドアイが立っていた。
彼女もまた、ソータたちが消えた方角を見ている。
左腕には、緑の組み紐。
朝の光を受け、濃淡のある糸が静かに光っていた。
オルドアイの横顔は、意外なほど静かだった。
「寂しいの?」
ミレイユが聞いた。
オルドアイは少しだけ眉を動かした。
「お前が先に聞くのか。」
「聞かれたら嫌だったから、先に聞いたの。」
「ずるいな。」
「商人ですので。」
「またそれか。」
オルドアイは小さく笑った。
それから、森の奥を見たまま言った。
「寂しい。」
ミレイユは少し驚いた。
あまりに真っ直ぐな答えだったからだ。
「そう。」
「でも、今回は行かせた。」
「あなたも行けないのね。」
「ああ。」
オルドアイは腕を組んだ。
「境界までは行ける。だが、男たちの村へは入らない。」
「姫でも?」
「姫だからこそだ。」
ミレイユは黙った。
「決まりを破る者が長の娘であってはならない。」
その声には、少しだけ苦みがあった。
欲しいものへまっすぐ手を伸ばす女。
ソータへ迷わず近づいてくる女。
そのオルドアイにも、踏み越えない線がある。
ミレイユは、それを見た。
(自由そうに見えて、この人にも決まりがある。)
(砦の姫だからこそ、守らなければならない線がある。)
オルドアイはミレイユへ向き直った。
「来い。」
「どこへ?」
「まずは見回りだ。」
「朝から?」
「朝だからだ。」
「休む時間は?」
「昨日休んだ。」
「昨日は宴だったでしょう。」
「食ったし寝た。」
「あなたの休みの基準は乱暴ね。」
「戦う女たちはそういうものだ。」
「またそれで誤魔化す。」
オルドアイは笑った。
「ついて来られるか。」
ミレイユは背筋を伸ばした。
「ついて行くわ。」
「無理なら言え。」
「言います。」
「意外と素直だな。」
「無理を隠して倒れる方が迷惑だからよ。」
オルドアイは少し感心したように頷いた。
「それはよい考えだ。」
ミレイユは紅い髪紐に触れ、森の奥を最後に一度だけ見た。
(行ってらっしゃい、ソータ。)
(私はここで見る。)
そして、オルドアイの後に続いた。
◆◇◆
砦の朝の見回りは、想像以上に忙しかった。
最初に向かったのは、外周の木柵だった。
木柵はただ丸太を並べただけではない。
自然の太い木を支柱として利用し、その間に削った丸太を組み込み、外側には尖らせた枝を斜めに打ち込んでいる。
ところどころに蔦が絡み、遠目には森と一体化して見える。
オルドアイは柵沿いを歩きながら、手で木を叩いた。
「ここ、湿っている。」
近くにいた若い女戦士が顔を上げる。
「昨日の雨で。」
「言い訳はいらん。昼までに補強。」
「はい!」
オルドアイは次に、柵の根元に目を向けた。
「獣が掘った跡だ。」
ミレイユには、ただ土が少し乱れているようにしか見えなかった。
「分かるの?」
「匂いと跡で分かる。」
「どんな獣?」
「小さい。危険ではないが、穴を残すと蛇が入る。」
「なるほど。」
オルドアイは近くの者に短く指示を出す。
土を詰める。
木片を打つ。
匂い消しの灰を撒く。
動きに無駄がない。
姫だから命令しているのではない。
現場を知っている者の指示だった。
ミレイユはそれを見ながら、頭の中で分類していく。
(外周点検。)
(防御だけでなく、獣や湿気への対応。)
(人手が必要。)
(補修材の置き場が近いと効率がいい。)
「補修用の木材はどこに置いているの?」
ミレイユが尋ねると、オルドアイは少し意外そうに振り返った。
「南側の小屋だ。」
「ここからは遠いわね。」
「遠い。」
「外周を四つに分けて、それぞれに小さな補修箱を置いた方がいいわ。」
「箱?」
「木片、縄、簡単な工具、灰、予備の杭。」
オルドアイは少し考えた。
「雨で湿る。」
「密閉できる箱が必要ね。」
「また箱か。」
「そうよ。」
ミレイユは少しだけ笑った。
「倉庫の中だけではなく、使う場所に小さく置く。」
「お前、本当に物を置く場所ばかり考えるな。」
「物の置き場は、人の動きを決めるの。」
オルドアイはその言葉を噛みしめるように黙った。
「なるほど。」
「戦士の動きも同じでしょう。」
「そうだな。」
「矢筒をどこに下げるか、弓をどの手で持つか、足をどこに置くか。」
オルドアイの目が少し明るくなる。
「それと同じか。」
「ええ。」
「なら分かる。」
ミレイユは思った。
言葉を変えれば通じる。
商会の理屈をそのまま押しつけるのではなく、オルドアイの体に染み込んだ戦いの理屈へ置き換えればいい。
オルドアイも同じことを感じたのか、緑の組み紐に触れながら言った。
「お前の話は、たまに分かりにくいが、分かると使えそうだ。」
「褒めているの?」
「褒めている。」
「あなたの褒め方も、たまに分かりにくいわ。」
「そうか?」
「ええ。」
二人は短く笑った。
◆◇◆
次に向かったのは、射場だった。
砦の北側にある開けた場所で、木の的がいくつも立てられている。
遠い的。
動く的。
木の枝の間を狙う細い的。
岩陰から半分だけ見える的。
若い女戦士たちが弓を引いていた。
弦の音が連続して響く。
矢が空気を裂き、的に突き刺さる音が続く。
エルザもそこにいた。
彼女は砦の弓を手に取り、弦の張りを確かめている。
アマゾネスの女たちは、外から来た弓使いに興味津々だった。
オルドアイが近づくと、若い戦士たちが一斉に姿勢を正した。
「続けろ。」
その一言で、訓練は再開された。
ミレイユは、彼女たちの動きを見た。
弓を引く姿は美しい。
しかし、訓練は厳しい。
外した者はすぐに姿勢を直され、遅れた者は足運びをやり直させられる。
オルドアイは一人の若い戦士の後ろに立った。
「肩が高い。」
「はい。」
「狙いすぎだ。的を殺す前に、自分の息を殺している。」
「はい!」
「息を使え。」
言い方は厳しい。
だが、ただ叱っているのではない。
手を添え、肩の位置を直し、足の角度を示す。
若い戦士が再び矢を放つ。
今度は的の中心近くへ刺さった。
「よし。」
オルドアイが短く言う。
若い戦士の顔がぱっと明るくなった。
ミレイユはその表情を見た。
(慕われている。)
(怖がられているだけではない。)
(この人は、教えている。)
エルザが近づいてきた。
「よく動きますね。」
「砦の弓は、森で使うためのものだ。」
オルドアイが答える。
「直線だけではない。」
「枝の間、霧の中、動く相手。」
「そうだ。」
エルザは頷いた。
「学ぶことがあります。」
オルドアイは少し嬉しそうにした。
「お前も射るか。」
「よろしければ。」
「見せろ。」
エルザは静かに弓を構えた。
砦の女たちが見守る。
彼女は息を整え、遠い的ではなく、あえて枝の間に置かれた細い的を選んだ。
矢が放たれる。
風を切り、枝葉の隙間を通り、細い的へ刺さった。
ざわめきが起こる。
オルドアイは目を細めた。
「静かな矢だ。」
「派手ではありません。」
「だが、殺せる矢だ。」
「必要なら。」
エルザは静かに答えた。
オルドアイは満足そうに頷いた。
「お前も、いい女だな。」
エルザは少しだけ瞬きした。
「ありがとうございます。」
ミレイユが横から言う。
「あなたはすぐ女を褒めるのね。」
「良いものは良いと言う。」
「ソータにもそうしたでしょう。」
「した。」
「そこが問題なのよ。」
「でも、お前も褒めるだろう。」
「必要な時に。」
「私は欲しい時に。」
「それが危険だと言っているの。」
エルザは二人を見て、静かに息を吐いた。
「少しずつ仲良くなっているようで、安心していいのか不安になるわ。」
ミレイユはすぐに言った。
「仲良くはありません。」
オルドアイも同時に言った。
「仲良くはない。」
二人の声が重なった。
エルザは口元を押さえた。
「そういうところです。」
ミレイユとオルドアイは顔を見合わせた。
そして、少しだけ気まずそうに目を逸らした。
◆◇◆
射場の次は、薬草場だった。
砦の南東側、日当たりと水はけの良い場所に、小さな畑のような区画が作られている。
木の柵で囲まれ、薬草が種類ごとに分けて植えられていた。
吊るして乾かしている束もあり、近くの小屋には乾燥棚が並ぶ。
ミレイユは入った瞬間、リーナを思い出した。
村の小さな薬草小屋。
父の形見を受け取った時のリーナの顔。
待つと決めた目。
香り袋を送ってくれた手紙。
(リーナさんにも、いつか見せたい。)
(でも、今はまだ。)
オルドアイは薬草場に入ると、一人の年配の女に声をかけた。
「薬師長。」
「姫。」
薬師長と呼ばれた女は、皺の深い顔でこちらを見た。
目が鋭い。
年齢を感じさせるが、背筋は曲がっていなかった。
「外の商会女か。」
「ミレイユ・クラウゼンです。」
ミレイユは丁寧に礼をした。
「薬を扱う取引もしています。」
「薬を売る女か。」
「薬そのものだけでなく、容器、流通、保存も扱います。」
薬師長の目が少しだけ細くなった。
「保存。」
食いついた。
ミレイユはすぐに察した。
「湿気ですか。」
「そうだ。」
薬師長は乾燥棚を指した。
「霧が出る日は乾きが悪い。乾いたと思っても、奥で湿る。」
「保存容器と乾燥剤が必要ですね。」
「乾燥剤?」
「湿気を吸わせるものです。こちらで用意できるものがあります。」
薬師長が近づいてくる。
「見せろ。」
「今はソータが男たちの村へ向かっているので、戻った後になります。」
「ソータ。」
「荷を運ぶ者です。」
「前に倉庫を片づけた男か。」
「はい。」
薬師長は少しだけ鼻を鳴らした。
「あの男、薬草の箱だけは丁寧に戻した。」
ミレイユは少し笑った。
「リーナさんという薬師の知り合いがいますから。」
「リーナ。」
「村の薬師です。彼女の軟膏を少し持ってきています。」
「見せろ。」
また即答だった。
ミレイユは、持参していた試用分の軟膏を取り出した。
リーナの丁寧な字で小さな札が付いている。
薬師長は蓋を開け、匂いを嗅ぎ、指先で少し取って確かめた。
「悪くない。」
それだけだった。
だが、声の調子からして高評価らしい。
オルドアイが横で言う。
「薬師長の悪くないは、かなり褒めている。」
「そうなの?」
「そうだ。」
薬師長はミレイユを見た。
「このリーナという娘、若いのか。」
「若いです。」
「この軟膏は、手が真面目だ。」
ミレイユの胸が少し温かくなった。
「本人に伝えます。」
「伝えろ。だが、油の配分は季節で変えた方がいい。」
「書き留めます。」
ミレイユは板を取り出した。
オルドアイが呆れたように笑う。
「本当にどこでも書くな。」
「忘れるより良いわ。」
薬師長はその姿を見て、少しだけ頷いた。
「外の商会女にしては、話ができる。」
「恐れ入ります。」
ミレイユは礼をした。
薬草場を出る頃、薬師長は軟膏の試用を引き受け、乾燥容器の提案を聞くことに同意した。
ミレイユはリーナへの報告項目を頭の中で整理した。
(リーナさん。)
(あなたの薬は、砦でも届きそうよ。)
そのことを早く伝えたかった。
◆◇◆
昼過ぎには、オルドアイは若い戦士たちの食事場を回った。
食事の量を確認し、怪我をしている者を見つけ、夜警明けの者に休むよう言い、倉庫の持ち出し箱の試験運用について聞く。
ミレイユは、そのたびに驚いた。
オルドアイは細かい。
豪快で、まっすぐで、欲しいものへ一直線に向かう女。
その印象は間違っていない。
だが、砦の中での彼女は、思っていた以上に細部を見ている。
誰がいつもより食べていないか。
誰の矢筒が軽いか。
誰の肩に疲れが残っているか。
誰が声を張りすぎているか。
誰が笑っているふりをしているか。
全部を見ている。
「あなた、よく覚えているわね。」
ミレイユが言うと、オルドアイは当然のように答えた。
「砦の者だからな。」
「全員?」
「全員ではない。だが、できるだけ見る。」
「大変でしょう。」
「大変だ。」
また正直だった。
「でも、見ないと死ぬ。」
ミレイユは黙った。
オルドアイは続ける。
「戦いで死ぬだけではない。食えなくても死ぬ。薬が遅れても死ぬ。心が折れても、森では死ぬ。」
「……。」
「だから見る。」
ミレイユは、グランデリアの商会を思い出した。
使用人たち。
帳簿係。
荷運び。
契約担当。
厨房。
馬丁。
誰かが疲れていないか。
帳簿に不自然な遅れがないか。
商談で無理をしていないか。
自分も見ている。
見なければ、商会は回らない。
ただ、見方が違うだけだ。
「同じね。」
ミレイユが呟いた。
「何がだ。」
「あなたの砦と、私の商会。」
オルドアイは少し目を丸くした。
「同じか?」
「ええ。」
「お前の商会では、皆弓を持つのか。」
「持ちません。」
「なら違う。」
「表面はね。」
ミレイユは少し笑った。
「でも、人を見て、物を見て、弱いところを先に塞ぐ。そこは同じ。」
オルドアイは少し考えた。
「そうか。」
「ええ。」
「なら、お前も姫だな。」
ミレイユは思わず足を止めた。
「何を言っているの。」
「商会の姫。」
「やめて。」
「違うのか。」
「違います。」
「皆がお前を見て動くのだろう。」
「それは仕事です。」
「砦の者が私を見て動くのも仕事だ。」
「……。」
「なら同じだ。」
ミレイユは返す言葉を探した。
なかった。
オルドアイは満足そうに笑った。
「商会の姫。」
「やめなさい。」
「ミレイユ姫。」
「本当にやめなさい。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
ミレイユは顔を赤くしながら歩き出す。
腹立たしい。
けれど、少しだけ胸が温かい。
自分の仕事を、別の言葉で認められた気がした。
◆◇◆
午後、二人は見張り台に上った。
砦の中で一番高い場所の一つだ。
木組みの階段は狭く、登るたびに少し揺れる。
ミレイユは慎重に足を運んだ。
オルドアイは軽々と登る。
だが、途中で何度も振り返った。
「足元。」
「分かっているわ。」
「そこ、滑る。」
「ありがとう。」
「無理なら。」
「言うわ。」
息を少し乱しながらも、ミレイユは上まで登った。
見張り台からは、砦全体と周囲の森が見渡せた。
木々の海。
霧の名残が低い場所に薄く漂っている。
遠く北側には、ソータたちが向かった道が森の間に細く伸びていた。
ミレイユは、その方角を見た。
もう姿はない。
けれど、あちらにソータがいる。
男たちの村へ向かっている。
オルドアイも同じ方角を見る。
「境界までは、もう着く頃だ。」
「そんなに早いの?」
「森を迷わせなければな。」
「あなたが霧を動かしていない場所でも?」
「北の村への道は、霧の森ほどではない。」
「そう。」
ミレイユは木の手すりを握った。
「あなたは、何度も見送ってきたの?」
「男たちをか。」
「ええ。」
「何度も。」
「寂しくならない?」
「なる。」
やはり正直だった。
「でも、戻る。」
「戻らないことも?」
「ある。」
ミレイユは息を止めた。
オルドアイは遠くを見たまま言う。
「狩りで死ぬ者。境界で争いに巻き込まれる者。病で倒れる者。砦に来る途中で獣に襲われる者。」
「……。」
「だから、戻ると言った者が本当に戻るまでは、安心しない。」
ミレイユの胸が締めつけられた。
ソータは戻ると言った。
当然戻ると思っていた。
だが、この地では「戻る」は約束であると同時に、祈りなのだ。
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「ソータは戻る。」
「ええ。」
「戻らせる。」
「どうやって?」
「道を整え、荷を整え、待つ。」
「……。」
「お前の言う、帰る場所を作るということだろう。」
ミレイユは驚いてオルドアイを見た。
オルドアイは少し照れくさそうに顔を背けた。
「昨日から聞いていた。」
「そう。」
「ソータは、帰る場所があると強くなる。」
「ええ。」
「だから、お前がここに残るのは悪くない。」
ミレイユは胸の奥が熱くなった。
オルドアイが、それを言う。
恋敵であり、自分からソータを奪いたいと思っている女が。
それでも、ソータにとってミレイユが帰る場所であることを認めている。
それは痛く、そして重かった。
「あなたは。」
ミレイユは静かに聞いた。
「ソータにとって何になりたいの?」
オルドアイはすぐには答えなかった。
風が吹く。
緑の組み紐が揺れる。
「分からない。」
やがて、オルドアイは言った。
その声は、驚くほど素直だった。
「婿にしたかった。」
「ええ。」
「砦に置きたかった。」
「ええ。」
「私だけを見ろとも思った。」
「知っているわ。」
「でも、ソータは戻る男だ。」
ミレイユは黙った。
「どこかへ帰る男だ。」
「ええ。」
「なら、私は何になればよいのか、まだ分からん。」
オルドアイは腕の組み紐を見た。
「だから、これを結んだ。」
「自分に戻るため?」
「ああ。」
「少しは役に立っている?」
「重い。」
「そう。」
「でも、外したくない。」
ミレイユは静かに笑った。
「それなら、渡した意味があったわ。」
オルドアイはミレイユを見た。
「お前は、ソータの何だ。」
今度はミレイユが黙った。
恋人。
帰る場所。
いずれ本妻になるかもしれない女。
彼の仕事を支える商会代表。
彼を縛りたい女。
彼に自由でいてほしい女。
矛盾だらけの答えが胸にある。
「恋人よ。」
まず、そう答えた。
「それから?」
オルドアイは逃がさなかった。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
「帰る場所。」
「それから?」
「彼が自分を軽く扱わないように、怒る女。」
オルドアイが笑った。
「合っている。」
「そして。」
ミレイユは遠く北の道を見た。
「彼が戻ってきた時に、ちゃんと聞く女。」
オルドアイは黙った。
「それは強いな。」
「そうありたいだけよ。」
「十分だ。」
二人はしばらく、北の森を見ていた。
風の中で、紅い髪紐と緑の組み紐がそれぞれ揺れていた。
◆◇◆
見張り台を降りると、砦では昼過ぎの作業が続いていた。
倉庫の持ち出し箱は早速試されている。
夜警用の箱を若い戦士が手に取り、中身を確認していた。
修繕用の小箱は外周補修の女たちに運ばれている。
応急箱は薬草場の近くと射場の脇に置かれた。
ミレイユはその様子を見て、少し満足した。
「動き始めていますね。」
「早いな。」
オルドアイも感心している。
「昨日決めたばかりだ。」
「使う人が便利だと感じれば、早く広がります。」
「不便なら?」
「崩れます。」
「正直だな。」
「事実です。」
オルドアイは頷いた。
「なら、便利にし続けねばならんな。」
「ええ。」
その時、若い女戦士が走ってきた。
「姫!」
「何だ。」
「西側の見回りから戻りました。獣の足跡が多いです。」
「大きさは。」
「中型。群れではないと思いますが、二、三。」
「場所は。」
「西の小沢近くです。」
オルドアイの顔が変わった。
砦の姫ではなく、森の戦士の顔。
「弓を二人。罠を見る者一人。私も行く。」
ミレイユはすぐに言った。
「私は?」
「来るか。」
「邪魔にならないなら。」
「走るぞ。」
「……どのくらい?」
オルドアイは少し考えた。
「お前には少しきつい。」
「なら、私はここで戻った報告を聞きます。」
即座に判断した。
オルドアイは一瞬驚き、それから笑った。
「無理を言えるのはよいことだ。」
「言ったでしょう。」
「そうだったな。」
ミレイユは代わりに尋ねる。
「必要なものは?」
「罠用の縄、獣避けの灰、短い槍。」
「倉庫から持ち出し箱で出せます。」
「早速か。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
ミレイユは近くの倉庫担当に声をかけ、狩り用と外周用の箱を持ってこさせた。
中身がすぐに揃う。
縄、灰、予備の刃物、簡易包帯。
オルドアイは中を見て、目を細めた。
「使える。」
「でしょう。」
「お前、少し得意そうだ。」
「得意ですもの。」
ミレイユは胸を張った。
オルドアイは声を上げて笑った。
「よい。」
そして、緑の組み紐を指先で軽く叩いた。
「戻ったら報告する。」
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
「待っています。」
「ソータみたいだな。」
「違います。」
「少し似ている。」
「行きなさい。」
ミレイユが少し赤くなりながら言うと、オルドアイは笑いながら走っていった。
彼女の動きは速い。
数人の女戦士を連れ、砦の西側へ消えていく。
ミレイユはその背中を見送った。
今朝はソータを見送った。
今はオルドアイを見送る。
自分はここで、待ち、記録し、戻った者の話を聞く。
(待つことも仕事。)
(リーナさんのお母様が言っていた。)
(今なら、少し分かる。)
ミレイユは板を手に取り、持ち出し箱の運用記録を書き始めた。
◆◇◆
夕方近く、オルドアイたちは戻ってきた。
怪我人はいない。
中型の獣が二頭、沢近くをうろついていたらしい。
一頭は追い払い、一頭は罠を避けて逃げた。
砦への直接の危険は小さいが、数日注意が必要とのことだった。
オルドアイは汗をかき、肩に葉をつけたまま戻ってきた。
ミレイユはすぐに水を差し出した。
「飲んで。」
オルドアイは一瞬きょとんとした。
「私にか。」
「他に誰がいるの。」
「ありがとう。」
オルドアイは水を飲んだ。
喉が動く。
その姿は、戦いから戻った者のそれだった。
「どうだったの。」
ミレイユが尋ねる。
オルドアイは報告した。
足跡の位置。
獣の種類。
罠の状態。
今後の見回りの増加。
必要な補修材。
ミレイユは書き留める。
「外周西側にも、補修箱が必要ね。」
「いる。」
「灰の消費が早い?」
「獣避けにも湿気取りにも使う。」
「では、灰の保管量を増やしましょう。」
「使う場所に小分けだな。」
「覚えたのね。」
オルドアイは少し得意そうにした。
「物の置き場は、人の動きを決める。」
ミレイユは驚いて、それから笑った。
「そうよ。」
「使える言葉だ。」
「でしょう。」
二人は自然に笑っていた。
それを少し離れたところで見ていたエルザが、静かに目を細めた。
ミレイユは気づかなかった。
オルドアイも気づかなかった。
ただ、砦の夕方の光の中で、二人の距離は朝より少しだけ近くなっていた。
◆◇◆
夜になると、ミレイユは客室で一日の記録をまとめた。
外周補修。
射場。
薬草場。
食事場。
持ち出し箱の運用。
獣の足跡。
西側補修箱の必要性。
灰の保管。
薬草乾燥用の容器。
リーナの軟膏への評価。
書くことは多かった。
ソータが男たちの村で見ているものは分からない。
だが、自分もここで十分に見るものがある。
ミレイユは筆を置き、紅い髪紐に触れた。
(ソータ。)
(あなたは今、何を見ているのかしら。)
(バルクさんには会えた?)
(男たちの村はどんな場所?)
(ちゃんと食べた?)
(甘い干し果実を勝手に食べていないでしょうね。)
少しだけ笑った。
その時、扉が叩かれた。
「ミレイユ。」
オルドアイの声だった。
「入って。」
扉が開く。
オルドアイは湯浴みの後らしく、髪が少し湿っていた。
左腕の緑の組み紐は外していない。
濡れないように布で軽く覆っている。
「まだ書いているのか。」
「ええ。」
「疲れないか。」
「疲れるわ。」
「なら寝ろ。」
「書いてから寝る。」
「真面目だな。」
「あなたも十分真面目だったわ。」
オルドアイは少しだけ照れたように目を逸らした。
「そうか。」
「ええ。」
ミレイユは静かに言った。
「今日は、あなたの仕事を見られてよかった。」
オルドアイは、少し驚いた顔をした。
「本当に?」
「ええ。」
「退屈ではなかったか。」
「まったく。」
「きつくは?」
「少し。」
「正直だな。」
「あなたに移ったのかもしれないわね。」
オルドアイは笑った。
そして、ミレイユの向かいに座った。
「私も、お前がいて面白かった。」
「見世物ではないわよ。」
「違う。」
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「お前は、私の仕事を見て逃げなかった。」
「逃げるようなものではなかったわ。」
「外の女は、血や獣や汗を嫌う者もいる。」
「商会にも血と汗はあるわ。」
「そうだったな。商会の姫。」
「それはやめて。」
「嫌だ。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
ミレイユはため息をついた。
けれど、そのため息は朝よりもずっと柔らかかった。
オルドアイは少し静かになり、言った。
「明日も見るか。」
「ええ。」
「薬師長が、お前をまた呼ぶかもしれん。」
「喜んで行くわ。」
「射場も。」
「エルザさんが喜ぶでしょう。」
「倉庫も。」
「それは見なければならないわね。」
「忙しいな。」
「あなたの一日ほどではないわ。」
オルドアイは少しだけ笑った。
「ミレイユ。」
「何?」
「ソータが戻るまで、退屈はさせない。」
「それは頼もしいような、不安なような言葉ね。」
「両方だ。」
「でしょうね。」
二人はまた笑った。
ミレイユは、自分が自然に笑っていることに気づいた。
朝、ソータを見送った時にできた胸の空洞は、完全に埋まったわけではない。
けれど、その空洞に、今日見た砦の景色が少しずつ入っている。
オルドアイの仕事。
砦の生活。
薬草の匂い。
弓の音。
見張り台から見た北の道。
知らないままではない。
今日一日で、また少し知った。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
二人の動きが、ほとんど同時だった。
気づいて、二人は顔を見合わせた。
少しだけ沈黙。
そして、どちらからともなく笑った。
その笑い声は、砦の夜の中へ静かに溶けていった。
ソータは北の村へ向かっている。
ミレイユは砦に残った。
オルドアイは自分の仕事を見せた。
離れた時間の中で、それぞれが別の荷を持ち始めていた。
そしてミレイユは、この砦に残ることが、ただ待つだけではないのだと、少しずつ分かり始めていた。




