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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第97話:砦に残る女たちは、互いの仕事を見る

 ソータたちの背中が森の奥へ消えた後も、ミレイユはしばらく門前に立っていた。


 木々の間に揺れる影は、もう見えない。

 足音も聞こえない。

 ガルドの低い声も、レオンの軽い調子も、カレンの盾が革紐に当たる音も、ソータの少し不安そうな返事も、すべて森の奥へ吸い込まれていった。


 残ったのは、砦の朝の音だった。


 弓弦を弾く乾いた音。

 水桶を置く鈍い音。

 若い女たちの掛け声。

 薪を割る音。

 風が木の葉を擦る音。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


 ソータが今朝、出発前に結び直してくれたものだ。

 結び目は少し硬い。

 彼の緊張が、そのまま指先に残っているようだった。


(行った。)

(私は残った。)

(行きたかった。)

(でも、残ると決めた。)


 胸の奥に、静かな空洞ができていた。


 グランデリアでソータを待つ時とは違う。

 商会には自分の机があり、書類があり、指示を待つ者たちがいる。

 待つことを仕事に変える場所があった。


 ここは砦だ。

 オルドアイの場所。

 ヤンガルドアイの場所。

 ソータが一度、重い選択を迫られた場所。

 そして今、自分が残ることを選んだ場所。


 ミレイユは、森の奥へ向けていた視線をゆっくり戻した。


 隣にはオルドアイが立っていた。


 彼女もまた、ソータたちが消えた方角を見ている。

 左腕には、緑の組み紐。

 朝の光を受け、濃淡のある糸が静かに光っていた。


 オルドアイの横顔は、意外なほど静かだった。


「寂しいの?」


 ミレイユが聞いた。


 オルドアイは少しだけ眉を動かした。


「お前が先に聞くのか。」


「聞かれたら嫌だったから、先に聞いたの。」


「ずるいな。」


「商人ですので。」


「またそれか。」


 オルドアイは小さく笑った。


 それから、森の奥を見たまま言った。


「寂しい。」


 ミレイユは少し驚いた。


 あまりに真っ直ぐな答えだったからだ。


「そう。」


「でも、今回は行かせた。」


「あなたも行けないのね。」


「ああ。」


 オルドアイは腕を組んだ。


「境界までは行ける。だが、男たちの村へは入らない。」


「姫でも?」


「姫だからこそだ。」


 ミレイユは黙った。


「決まりを破る者が長の娘であってはならない。」


 その声には、少しだけ苦みがあった。


 欲しいものへまっすぐ手を伸ばす女。

 ソータへ迷わず近づいてくる女。

 そのオルドアイにも、踏み越えない線がある。


 ミレイユは、それを見た。


(自由そうに見えて、この人にも決まりがある。)

(砦の姫だからこそ、守らなければならない線がある。)


 オルドアイはミレイユへ向き直った。


「来い。」


「どこへ?」


「まずは見回りだ。」


「朝から?」


「朝だからだ。」


「休む時間は?」


「昨日休んだ。」


「昨日は宴だったでしょう。」


「食ったし寝た。」


「あなたの休みの基準は乱暴ね。」


「戦う女たちはそういうものだ。」


「またそれで誤魔化す。」


 オルドアイは笑った。


「ついて来られるか。」


 ミレイユは背筋を伸ばした。


「ついて行くわ。」


「無理なら言え。」


「言います。」


「意外と素直だな。」


「無理を隠して倒れる方が迷惑だからよ。」


 オルドアイは少し感心したように頷いた。


「それはよい考えだ。」


 ミレイユは紅い髪紐に触れ、森の奥を最後に一度だけ見た。


(行ってらっしゃい、ソータ。)

(私はここで見る。)


 そして、オルドアイの後に続いた。


◆◇◆


 砦の朝の見回りは、想像以上に忙しかった。


 最初に向かったのは、外周の木柵だった。


 木柵はただ丸太を並べただけではない。

 自然の太い木を支柱として利用し、その間に削った丸太を組み込み、外側には尖らせた枝を斜めに打ち込んでいる。

 ところどころに蔦が絡み、遠目には森と一体化して見える。


 オルドアイは柵沿いを歩きながら、手で木を叩いた。


「ここ、湿っている。」


 近くにいた若い女戦士が顔を上げる。


「昨日の雨で。」


「言い訳はいらん。昼までに補強。」


「はい!」


 オルドアイは次に、柵の根元に目を向けた。


「獣が掘った跡だ。」


 ミレイユには、ただ土が少し乱れているようにしか見えなかった。


「分かるの?」


「匂いと跡で分かる。」


「どんな獣?」


「小さい。危険ではないが、穴を残すと蛇が入る。」


「なるほど。」


 オルドアイは近くの者に短く指示を出す。

 土を詰める。

 木片を打つ。

 匂い消しの灰を撒く。


 動きに無駄がない。


 姫だから命令しているのではない。

 現場を知っている者の指示だった。


 ミレイユはそれを見ながら、頭の中で分類していく。


(外周点検。)

(防御だけでなく、獣や湿気への対応。)

(人手が必要。)

(補修材の置き場が近いと効率がいい。)


「補修用の木材はどこに置いているの?」


 ミレイユが尋ねると、オルドアイは少し意外そうに振り返った。


「南側の小屋だ。」


「ここからは遠いわね。」


「遠い。」


「外周を四つに分けて、それぞれに小さな補修箱を置いた方がいいわ。」


「箱?」


「木片、縄、簡単な工具、灰、予備の杭。」


 オルドアイは少し考えた。


「雨で湿る。」


「密閉できる箱が必要ね。」


「また箱か。」


「そうよ。」


 ミレイユは少しだけ笑った。


「倉庫の中だけではなく、使う場所に小さく置く。」


「お前、本当に物を置く場所ばかり考えるな。」


「物の置き場は、人の動きを決めるの。」


 オルドアイはその言葉を噛みしめるように黙った。


「なるほど。」


「戦士の動きも同じでしょう。」


「そうだな。」


「矢筒をどこに下げるか、弓をどの手で持つか、足をどこに置くか。」


 オルドアイの目が少し明るくなる。


「それと同じか。」


「ええ。」


「なら分かる。」


 ミレイユは思った。


 言葉を変えれば通じる。

 商会の理屈をそのまま押しつけるのではなく、オルドアイの体に染み込んだ戦いの理屈へ置き換えればいい。


 オルドアイも同じことを感じたのか、緑の組み紐に触れながら言った。


「お前の話は、たまに分かりにくいが、分かると使えそうだ。」


「褒めているの?」


「褒めている。」


「あなたの褒め方も、たまに分かりにくいわ。」


「そうか?」


「ええ。」


 二人は短く笑った。


◆◇◆


 次に向かったのは、射場だった。


 砦の北側にある開けた場所で、木の的がいくつも立てられている。

 遠い的。

 動く的。

 木の枝の間を狙う細い的。

 岩陰から半分だけ見える的。


 若い女戦士たちが弓を引いていた。

 弦の音が連続して響く。

 矢が空気を裂き、的に突き刺さる音が続く。


 エルザもそこにいた。


 彼女は砦の弓を手に取り、弦の張りを確かめている。

 アマゾネスの女たちは、外から来た弓使いに興味津々だった。


 オルドアイが近づくと、若い戦士たちが一斉に姿勢を正した。


「続けろ。」


 その一言で、訓練は再開された。


 ミレイユは、彼女たちの動きを見た。

 弓を引く姿は美しい。

 しかし、訓練は厳しい。

 外した者はすぐに姿勢を直され、遅れた者は足運びをやり直させられる。


 オルドアイは一人の若い戦士の後ろに立った。


「肩が高い。」


「はい。」


「狙いすぎだ。的を殺す前に、自分の息を殺している。」


「はい!」


「息を使え。」


 言い方は厳しい。

 だが、ただ叱っているのではない。

 手を添え、肩の位置を直し、足の角度を示す。


 若い戦士が再び矢を放つ。

 今度は的の中心近くへ刺さった。


「よし。」


 オルドアイが短く言う。


 若い戦士の顔がぱっと明るくなった。


 ミレイユはその表情を見た。


(慕われている。)

(怖がられているだけではない。)

(この人は、教えている。)


 エルザが近づいてきた。


「よく動きますね。」


「砦の弓は、森で使うためのものだ。」


 オルドアイが答える。


「直線だけではない。」


「枝の間、霧の中、動く相手。」


「そうだ。」


 エルザは頷いた。


「学ぶことがあります。」


 オルドアイは少し嬉しそうにした。


「お前も射るか。」


「よろしければ。」


「見せろ。」


 エルザは静かに弓を構えた。


 砦の女たちが見守る。

 彼女は息を整え、遠い的ではなく、あえて枝の間に置かれた細い的を選んだ。


 矢が放たれる。

 風を切り、枝葉の隙間を通り、細い的へ刺さった。


 ざわめきが起こる。


 オルドアイは目を細めた。


「静かな矢だ。」


「派手ではありません。」


「だが、殺せる矢だ。」


「必要なら。」


 エルザは静かに答えた。


 オルドアイは満足そうに頷いた。


「お前も、いい女だな。」


 エルザは少しだけ瞬きした。


「ありがとうございます。」


 ミレイユが横から言う。


「あなたはすぐ女を褒めるのね。」


「良いものは良いと言う。」


「ソータにもそうしたでしょう。」


「した。」


「そこが問題なのよ。」


「でも、お前も褒めるだろう。」


「必要な時に。」


「私は欲しい時に。」


「それが危険だと言っているの。」


 エルザは二人を見て、静かに息を吐いた。


「少しずつ仲良くなっているようで、安心していいのか不安になるわ。」


 ミレイユはすぐに言った。


「仲良くはありません。」


 オルドアイも同時に言った。


「仲良くはない。」


 二人の声が重なった。


 エルザは口元を押さえた。


「そういうところです。」


 ミレイユとオルドアイは顔を見合わせた。

 そして、少しだけ気まずそうに目を逸らした。


◆◇◆


 射場の次は、薬草場だった。


 砦の南東側、日当たりと水はけの良い場所に、小さな畑のような区画が作られている。

 木の柵で囲まれ、薬草が種類ごとに分けて植えられていた。

 吊るして乾かしている束もあり、近くの小屋には乾燥棚が並ぶ。


 ミレイユは入った瞬間、リーナを思い出した。


 村の小さな薬草小屋。

 父の形見を受け取った時のリーナの顔。

 待つと決めた目。

 香り袋を送ってくれた手紙。


(リーナさんにも、いつか見せたい。)

(でも、今はまだ。)


 オルドアイは薬草場に入ると、一人の年配の女に声をかけた。


「薬師長。」


「姫。」


 薬師長と呼ばれた女は、皺の深い顔でこちらを見た。

 目が鋭い。

 年齢を感じさせるが、背筋は曲がっていなかった。


「外の商会女か。」


「ミレイユ・クラウゼンです。」


 ミレイユは丁寧に礼をした。


「薬を扱う取引もしています。」


「薬を売る女か。」


「薬そのものだけでなく、容器、流通、保存も扱います。」


 薬師長の目が少しだけ細くなった。


「保存。」


 食いついた。


 ミレイユはすぐに察した。


「湿気ですか。」


「そうだ。」


 薬師長は乾燥棚を指した。


「霧が出る日は乾きが悪い。乾いたと思っても、奥で湿る。」


「保存容器と乾燥剤が必要ですね。」


「乾燥剤?」


「湿気を吸わせるものです。こちらで用意できるものがあります。」


 薬師長が近づいてくる。


「見せろ。」


「今はソータが男たちの村へ向かっているので、戻った後になります。」


「ソータ。」


「荷を運ぶ者です。」


「前に倉庫を片づけた男か。」


「はい。」


 薬師長は少しだけ鼻を鳴らした。


「あの男、薬草の箱だけは丁寧に戻した。」


 ミレイユは少し笑った。


「リーナさんという薬師の知り合いがいますから。」


「リーナ。」


「村の薬師です。彼女の軟膏を少し持ってきています。」


「見せろ。」


 また即答だった。


 ミレイユは、持参していた試用分の軟膏を取り出した。

 リーナの丁寧な字で小さな札が付いている。


 薬師長は蓋を開け、匂いを嗅ぎ、指先で少し取って確かめた。


「悪くない。」


 それだけだった。

 だが、声の調子からして高評価らしい。


 オルドアイが横で言う。


「薬師長の悪くないは、かなり褒めている。」


「そうなの?」


「そうだ。」


 薬師長はミレイユを見た。


「このリーナという娘、若いのか。」


「若いです。」


「この軟膏は、手が真面目だ。」


 ミレイユの胸が少し温かくなった。


「本人に伝えます。」


「伝えろ。だが、油の配分は季節で変えた方がいい。」


「書き留めます。」


 ミレイユは板を取り出した。


 オルドアイが呆れたように笑う。


「本当にどこでも書くな。」


「忘れるより良いわ。」


 薬師長はその姿を見て、少しだけ頷いた。


「外の商会女にしては、話ができる。」


「恐れ入ります。」


 ミレイユは礼をした。


 薬草場を出る頃、薬師長は軟膏の試用を引き受け、乾燥容器の提案を聞くことに同意した。

 ミレイユはリーナへの報告項目を頭の中で整理した。


(リーナさん。)

(あなたの薬は、砦でも届きそうよ。)


 そのことを早く伝えたかった。


◆◇◆


 昼過ぎには、オルドアイは若い戦士たちの食事場を回った。


 食事の量を確認し、怪我をしている者を見つけ、夜警明けの者に休むよう言い、倉庫の持ち出し箱の試験運用について聞く。


 ミレイユは、そのたびに驚いた。


 オルドアイは細かい。


 豪快で、まっすぐで、欲しいものへ一直線に向かう女。

 その印象は間違っていない。

 だが、砦の中での彼女は、思っていた以上に細部を見ている。


 誰がいつもより食べていないか。

 誰の矢筒が軽いか。

 誰の肩に疲れが残っているか。

 誰が声を張りすぎているか。

 誰が笑っているふりをしているか。


 全部を見ている。


「あなた、よく覚えているわね。」


 ミレイユが言うと、オルドアイは当然のように答えた。


「砦の者だからな。」


「全員?」


「全員ではない。だが、できるだけ見る。」


「大変でしょう。」


「大変だ。」


 また正直だった。


「でも、見ないと死ぬ。」


 ミレイユは黙った。


 オルドアイは続ける。


「戦いで死ぬだけではない。食えなくても死ぬ。薬が遅れても死ぬ。心が折れても、森では死ぬ。」


「……。」


「だから見る。」


 ミレイユは、グランデリアの商会を思い出した。


 使用人たち。

 帳簿係。

 荷運び。

 契約担当。

 厨房。

 馬丁。

 誰かが疲れていないか。

 帳簿に不自然な遅れがないか。

 商談で無理をしていないか。


 自分も見ている。

 見なければ、商会は回らない。

 ただ、見方が違うだけだ。


「同じね。」


 ミレイユが呟いた。


「何がだ。」


「あなたの砦と、私の商会。」


 オルドアイは少し目を丸くした。


「同じか?」


「ええ。」


「お前の商会では、皆弓を持つのか。」


「持ちません。」


「なら違う。」


「表面はね。」


 ミレイユは少し笑った。


「でも、人を見て、物を見て、弱いところを先に塞ぐ。そこは同じ。」


 オルドアイは少し考えた。


「そうか。」


「ええ。」


「なら、お前も姫だな。」


 ミレイユは思わず足を止めた。


「何を言っているの。」


「商会の姫。」


「やめて。」


「違うのか。」


「違います。」


「皆がお前を見て動くのだろう。」


「それは仕事です。」


「砦の者が私を見て動くのも仕事だ。」


「……。」


「なら同じだ。」


 ミレイユは返す言葉を探した。


 なかった。


 オルドアイは満足そうに笑った。


「商会の姫。」


「やめなさい。」


「ミレイユ姫。」


「本当にやめなさい。」


 オルドアイは楽しそうに笑った。


 ミレイユは顔を赤くしながら歩き出す。


 腹立たしい。

 けれど、少しだけ胸が温かい。

 自分の仕事を、別の言葉で認められた気がした。


◆◇◆


 午後、二人は見張り台に上った。


 砦の中で一番高い場所の一つだ。

 木組みの階段は狭く、登るたびに少し揺れる。

 ミレイユは慎重に足を運んだ。


 オルドアイは軽々と登る。

 だが、途中で何度も振り返った。


「足元。」


「分かっているわ。」


「そこ、滑る。」


「ありがとう。」


「無理なら。」


「言うわ。」


 息を少し乱しながらも、ミレイユは上まで登った。


 見張り台からは、砦全体と周囲の森が見渡せた。

 木々の海。

 霧の名残が低い場所に薄く漂っている。

 遠く北側には、ソータたちが向かった道が森の間に細く伸びていた。


 ミレイユは、その方角を見た。


 もう姿はない。

 けれど、あちらにソータがいる。

 男たちの村へ向かっている。


 オルドアイも同じ方角を見る。


「境界までは、もう着く頃だ。」


「そんなに早いの?」


「森を迷わせなければな。」


「あなたが霧を動かしていない場所でも?」


「北の村への道は、霧の森ほどではない。」


「そう。」


 ミレイユは木の手すりを握った。


「あなたは、何度も見送ってきたの?」


「男たちをか。」


「ええ。」


「何度も。」


「寂しくならない?」


「なる。」


 やはり正直だった。


「でも、戻る。」


「戻らないことも?」


「ある。」


 ミレイユは息を止めた。


 オルドアイは遠くを見たまま言う。


「狩りで死ぬ者。境界で争いに巻き込まれる者。病で倒れる者。砦に来る途中で獣に襲われる者。」


「……。」


「だから、戻ると言った者が本当に戻るまでは、安心しない。」


 ミレイユの胸が締めつけられた。


 ソータは戻ると言った。

 当然戻ると思っていた。

 だが、この地では「戻る」は約束であると同時に、祈りなのだ。


 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


「ソータは戻る。」


「ええ。」


「戻らせる。」


「どうやって?」


「道を整え、荷を整え、待つ。」


「……。」


「お前の言う、帰る場所を作るということだろう。」


 ミレイユは驚いてオルドアイを見た。


 オルドアイは少し照れくさそうに顔を背けた。


「昨日から聞いていた。」


「そう。」


「ソータは、帰る場所があると強くなる。」


「ええ。」


「だから、お前がここに残るのは悪くない。」


 ミレイユは胸の奥が熱くなった。


 オルドアイが、それを言う。

 恋敵であり、自分からソータを奪いたいと思っている女が。

 それでも、ソータにとってミレイユが帰る場所であることを認めている。


 それは痛く、そして重かった。


「あなたは。」


 ミレイユは静かに聞いた。


「ソータにとって何になりたいの?」


 オルドアイはすぐには答えなかった。


 風が吹く。

 緑の組み紐が揺れる。


「分からない。」


 やがて、オルドアイは言った。


 その声は、驚くほど素直だった。


「婿にしたかった。」


「ええ。」


「砦に置きたかった。」


「ええ。」


「私だけを見ろとも思った。」


「知っているわ。」


「でも、ソータは戻る男だ。」


 ミレイユは黙った。


「どこかへ帰る男だ。」


「ええ。」


「なら、私は何になればよいのか、まだ分からん。」


 オルドアイは腕の組み紐を見た。


「だから、これを結んだ。」


「自分に戻るため?」


「ああ。」


「少しは役に立っている?」


「重い。」


「そう。」


「でも、外したくない。」


 ミレイユは静かに笑った。


「それなら、渡した意味があったわ。」


 オルドアイはミレイユを見た。


「お前は、ソータの何だ。」


 今度はミレイユが黙った。


 恋人。

 帰る場所。

 いずれ本妻になるかもしれない女。

 彼の仕事を支える商会代表。

 彼を縛りたい女。

 彼に自由でいてほしい女。

 矛盾だらけの答えが胸にある。


「恋人よ。」


 まず、そう答えた。


「それから?」


 オルドアイは逃がさなかった。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「帰る場所。」


「それから?」


「彼が自分を軽く扱わないように、怒る女。」


 オルドアイが笑った。


「合っている。」


「そして。」


 ミレイユは遠く北の道を見た。


「彼が戻ってきた時に、ちゃんと聞く女。」


 オルドアイは黙った。


「それは強いな。」


「そうありたいだけよ。」


「十分だ。」


 二人はしばらく、北の森を見ていた。


 風の中で、紅い髪紐と緑の組み紐がそれぞれ揺れていた。


◆◇◆


 見張り台を降りると、砦では昼過ぎの作業が続いていた。


 倉庫の持ち出し箱は早速試されている。

 夜警用の箱を若い戦士が手に取り、中身を確認していた。

 修繕用の小箱は外周補修の女たちに運ばれている。

 応急箱は薬草場の近くと射場の脇に置かれた。


 ミレイユはその様子を見て、少し満足した。


「動き始めていますね。」


「早いな。」


 オルドアイも感心している。


「昨日決めたばかりだ。」


「使う人が便利だと感じれば、早く広がります。」


「不便なら?」


「崩れます。」


「正直だな。」


「事実です。」


 オルドアイは頷いた。


「なら、便利にし続けねばならんな。」


「ええ。」


 その時、若い女戦士が走ってきた。


「姫!」


「何だ。」


「西側の見回りから戻りました。獣の足跡が多いです。」


「大きさは。」


「中型。群れではないと思いますが、二、三。」


「場所は。」


「西の小沢近くです。」


 オルドアイの顔が変わった。


 砦の姫ではなく、森の戦士の顔。


「弓を二人。罠を見る者一人。私も行く。」


 ミレイユはすぐに言った。


「私は?」


「来るか。」


「邪魔にならないなら。」


「走るぞ。」


「……どのくらい?」


 オルドアイは少し考えた。


「お前には少しきつい。」


「なら、私はここで戻った報告を聞きます。」


 即座に判断した。


 オルドアイは一瞬驚き、それから笑った。


「無理を言えるのはよいことだ。」


「言ったでしょう。」


「そうだったな。」


 ミレイユは代わりに尋ねる。


「必要なものは?」


「罠用の縄、獣避けの灰、短い槍。」


「倉庫から持ち出し箱で出せます。」


「早速か。」


 オルドアイは楽しそうに笑った。


 ミレイユは近くの倉庫担当に声をかけ、狩り用と外周用の箱を持ってこさせた。

 中身がすぐに揃う。

 縄、灰、予備の刃物、簡易包帯。


 オルドアイは中を見て、目を細めた。


「使える。」


「でしょう。」


「お前、少し得意そうだ。」


「得意ですもの。」


 ミレイユは胸を張った。


 オルドアイは声を上げて笑った。


「よい。」


 そして、緑の組み紐を指先で軽く叩いた。


「戻ったら報告する。」


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「待っています。」


「ソータみたいだな。」


「違います。」


「少し似ている。」


「行きなさい。」


 ミレイユが少し赤くなりながら言うと、オルドアイは笑いながら走っていった。


 彼女の動きは速い。

 数人の女戦士を連れ、砦の西側へ消えていく。


 ミレイユはその背中を見送った。


 今朝はソータを見送った。

 今はオルドアイを見送る。


 自分はここで、待ち、記録し、戻った者の話を聞く。


(待つことも仕事。)

(リーナさんのお母様が言っていた。)

(今なら、少し分かる。)


 ミレイユは板を手に取り、持ち出し箱の運用記録を書き始めた。


◆◇◆


 夕方近く、オルドアイたちは戻ってきた。


 怪我人はいない。

 中型の獣が二頭、沢近くをうろついていたらしい。

 一頭は追い払い、一頭は罠を避けて逃げた。

 砦への直接の危険は小さいが、数日注意が必要とのことだった。


 オルドアイは汗をかき、肩に葉をつけたまま戻ってきた。


 ミレイユはすぐに水を差し出した。


「飲んで。」


 オルドアイは一瞬きょとんとした。


「私にか。」


「他に誰がいるの。」


「ありがとう。」


 オルドアイは水を飲んだ。

 喉が動く。

 その姿は、戦いから戻った者のそれだった。


「どうだったの。」


 ミレイユが尋ねる。


 オルドアイは報告した。

 足跡の位置。

 獣の種類。

 罠の状態。

 今後の見回りの増加。

 必要な補修材。


 ミレイユは書き留める。


「外周西側にも、補修箱が必要ね。」


「いる。」


「灰の消費が早い?」


「獣避けにも湿気取りにも使う。」


「では、灰の保管量を増やしましょう。」


「使う場所に小分けだな。」


「覚えたのね。」


 オルドアイは少し得意そうにした。


「物の置き場は、人の動きを決める。」


 ミレイユは驚いて、それから笑った。


「そうよ。」


「使える言葉だ。」


「でしょう。」


 二人は自然に笑っていた。


 それを少し離れたところで見ていたエルザが、静かに目を細めた。


 ミレイユは気づかなかった。

 オルドアイも気づかなかった。


 ただ、砦の夕方の光の中で、二人の距離は朝より少しだけ近くなっていた。


◆◇◆


 夜になると、ミレイユは客室で一日の記録をまとめた。


 外周補修。

 射場。

 薬草場。

 食事場。

 持ち出し箱の運用。

 獣の足跡。

 西側補修箱の必要性。

 灰の保管。

 薬草乾燥用の容器。

 リーナの軟膏への評価。


 書くことは多かった。


 ソータが男たちの村で見ているものは分からない。

 だが、自分もここで十分に見るものがある。


 ミレイユは筆を置き、紅い髪紐に触れた。


(ソータ。)

(あなたは今、何を見ているのかしら。)

(バルクさんには会えた?)

(男たちの村はどんな場所?)

(ちゃんと食べた?)

(甘い干し果実を勝手に食べていないでしょうね。)


 少しだけ笑った。


 その時、扉が叩かれた。


「ミレイユ。」


 オルドアイの声だった。


「入って。」


 扉が開く。


 オルドアイは湯浴みの後らしく、髪が少し湿っていた。

 左腕の緑の組み紐は外していない。

 濡れないように布で軽く覆っている。


「まだ書いているのか。」


「ええ。」


「疲れないか。」


「疲れるわ。」


「なら寝ろ。」


「書いてから寝る。」


「真面目だな。」


「あなたも十分真面目だったわ。」


 オルドアイは少しだけ照れたように目を逸らした。


「そうか。」


「ええ。」


 ミレイユは静かに言った。


「今日は、あなたの仕事を見られてよかった。」


 オルドアイは、少し驚いた顔をした。


「本当に?」


「ええ。」


「退屈ではなかったか。」


「まったく。」


「きつくは?」


「少し。」


「正直だな。」


「あなたに移ったのかもしれないわね。」


 オルドアイは笑った。


 そして、ミレイユの向かいに座った。


「私も、お前がいて面白かった。」


「見世物ではないわよ。」


「違う。」


 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


「お前は、私の仕事を見て逃げなかった。」


「逃げるようなものではなかったわ。」


「外の女は、血や獣や汗を嫌う者もいる。」


「商会にも血と汗はあるわ。」


「そうだったな。商会の姫。」


「それはやめて。」


「嫌だ。」


 オルドアイは楽しそうに笑った。


 ミレイユはため息をついた。

 けれど、そのため息は朝よりもずっと柔らかかった。


 オルドアイは少し静かになり、言った。


「明日も見るか。」


「ええ。」


「薬師長が、お前をまた呼ぶかもしれん。」


「喜んで行くわ。」


「射場も。」


「エルザさんが喜ぶでしょう。」


「倉庫も。」


「それは見なければならないわね。」


「忙しいな。」


「あなたの一日ほどではないわ。」


 オルドアイは少しだけ笑った。


「ミレイユ。」


「何?」


「ソータが戻るまで、退屈はさせない。」


「それは頼もしいような、不安なような言葉ね。」


「両方だ。」


「でしょうね。」


 二人はまた笑った。


 ミレイユは、自分が自然に笑っていることに気づいた。


 朝、ソータを見送った時にできた胸の空洞は、完全に埋まったわけではない。

 けれど、その空洞に、今日見た砦の景色が少しずつ入っている。

 オルドアイの仕事。

 砦の生活。

 薬草の匂い。

 弓の音。

 見張り台から見た北の道。


 知らないままではない。

 今日一日で、また少し知った。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。

 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


 二人の動きが、ほとんど同時だった。


 気づいて、二人は顔を見合わせた。


 少しだけ沈黙。


 そして、どちらからともなく笑った。


 その笑い声は、砦の夜の中へ静かに溶けていった。


 ソータは北の村へ向かっている。

 ミレイユは砦に残った。

 オルドアイは自分の仕事を見せた。


 離れた時間の中で、それぞれが別の荷を持ち始めていた。


 そしてミレイユは、この砦に残ることが、ただ待つだけではないのだと、少しずつ分かり始めていた。

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