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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第96話:フルムーンの荷は、男たちの村へ向かう

 砦の倉庫を出た時、昼の光は森の葉に細かく砕かれていた。


 木々の隙間から降る光は、グランデリアの石畳に落ちるものとは違う。

 まっすぐではなく、揺れながら、斑に、地面の苔や木組みの通路を照らしている。

 砦の中には昼の音があった。


 弓の弦を弾く音。

 水桶を運ぶ音。

 干し肉を吊るし直す女たちの声。

 子どもらしき笑い声。

 遠くで斧が薪を割る乾いた音。


 朝の騒動が嘘のように、砦はいつもの生活へ戻っていた。


 だが、ミレイユの胸の中は、まだ昨夜から今朝にかけての出来事で落ち着いていなかった。


 宴。

 ワイバーン肉。

 ヤンガルドアイとアルベールの妙な距離。

 オルドアイの部屋で目覚めた朝。

 ソータへの不意の口づけ。

 そして、自分がオルドアイへ渡した緑の組み紐。


 その組み紐は今、オルドアイの左腕に結ばれている。

 森の色をした紐が、彼女の褐色の肌によく映えていた。

 弓を引く腕。

 砦を守る腕。

 欲しいものへまっすぐ伸びる腕。


 そこに、ミレイユが渡した印がある。


(本当に渡したのね、私は。)

(自分で持ってきたものだけれど。)

(自分で認めると決めたものだけれど。)

(実際に結ばれているのを見ると、やっぱり胸が妙にざわつくわ。)


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


 こちらはソータが結んだもの。

 自分とソータの約束の印。

 緑の組み紐とは意味が違う。

 違うはずだ。

 違わせなければならない。


 それでも、二つの紐が並ぶ光景は、否応なく関係の変化を示していた。


 ソータはミレイユの隣を歩いていた。

 時々、紅い髪紐を見る。

 それから、オルドアイの腕の緑の組み紐も見る。

 見てしまって、少し困った顔になる。


 ミレイユはそれに気づいていた。


「ソータ。」


「はい。」


「顔。」


「また出てた?」


「出ていたわ。」


「ごめん。」


「謝るより、考えなさい。」


「うん。」


 オルドアイが横から笑う。


「ソータは本当に顔に出るな。」


「オルドアイも結構出るわよ。」


 ミレイユが言うと、オルドアイは目を丸くした。


「私が?」


「ええ。」


「どんな顔だ。」


「嬉しい時に、隠す気がない顔。」


 オルドアイは一瞬黙り、自分の緑の組み紐を見た。


 そして、少しだけ口元を緩めた。


「これは嬉しいからな。」


 その素直さに、ミレイユは少し言葉を失った。


(こういうところが厄介なのよ。)


 腹立たしい。

 でも、嫌ではない。

 その感情の置き場所にまだ慣れない。


◆◇◆


 昼食の後、集会小屋で正式な確認の場が設けられた。


 ヤンガルドアイは奥の席に座っていた。

 昨夜は相当飲んでいたはずだが、顔色は思ったより悪くない。

 ただし、少しだけ目元が眠たそうだった。


 その隣に控えるように座っているアルベールは、いつも通り完璧だった。

 昨夜どれだけ飲まされても、顔色一つ変わらず、朝も薬草茶を出し、今も何事もなかったように立っている。


 ミレイユはその姿を見るたびに、問い詰めたい気持ちが湧いた。


(毒が効かない体。)

(昔、この地に来たかもしれない大魔法使い。)

(ヤンガルドアイ様のあの柔らかい目。)

(あなた、荷が多すぎるのよ、アルベール。)


 しかし、今はフルムーンの荷の確認が先だ。


 ミレイユは板にまとめたリストを持ち、ヤンガルドアイの前に進んだ。


「ヤンガルドアイ様。」


「うむ。」


「砦の倉庫確認、およびフルムーン時に男たちの村へ持参する荷について、整理しました。」


「聞こう。」


 ヤンガルドアイの声は低く、場を引き締める力があった。

 昨夜の柔らかな顔とは違う。

 今は砦の長の顔だった。


 ミレイユはまず、砦の日常物資から説明した。


 塩。

 金属小物。

 矢尻ではなく生活用の刃物。

 針。

 補修用金具。

 丈夫な布。

 湿気対策用の容器。

 薬。

 リーナの軟膏の試用分。

 油紙と樹脂加工布。

 持ち出し箱の運用案。


 ヤンガルドアイは黙って聞いていた。

 時々、オルドアイへ視線を向ける。

 オルドアイは腕の緑の組み紐に触れながら、必要な補足を入れた。


「夜警用の箱は、弓弦と火種を分けた方がよい。」


「湿気が問題ですね。」


 ミレイユが頷く。


「応急箱は二つ必要だ。外の見回り用と砦内用。」


「では、同じ中身の小型箱を二つ。」


「狩り用には縄を多めに。」


「分かりました。」


 ソータは横で聞きながら、自分の《神速積載庫》の中でどう分けるかを考えていた。


(砦用。)

(男たちの村用。)

(バルクさん用。)

(リーナの薬。)

(贈答品。)

(予備。)

(間違えたら大変だ。)


 彼は小さく息を吸った。


「ミレイユ。」


「何?」


「俺の中でも、区画を分ける。荷札もつける。」


「ええ。後で一緒に確認しましょう。」


「うん。」


 ヤンガルドアイがソータを見た。


「以前より慎重になったな。」


「はい。」


「よいことだ。」


 ソータは頭を下げた。


 オルドアイが少し嬉しそうに見ている。

 ミレイユも、それに気づいた。


 胸が少し痛む。

 だが、今は飲み込める痛みだった。


◆◇◆


 次に、男たちの村へ持っていく荷の確認に移った。


 場の空気が、少しだけ変わった。


 砦の日常物資は、改善と補充の話だった。

 しかし、男たちの村への荷は、ただの物資ではない。

 フルムーンの行事。

 女たちと男たちの間にある古い決まり。

 婚姻、子、血筋、交流、交易。

 それらが絡む荷だった。


 ミレイユはリストを読み上げる。


「布。赤、緑、黄、青。」


 ヤンガルドアイが頷く。


「青は男たちの村で喜ばれる。」


「はい。水と夜の色と伺いました。」


「そうだ。」


「塩は小分けにし、村長、共同倉庫、各家への贈り分を分けます。」


「よい。」


「生活用刃物、針、補修金具、丈夫な縄、保存容器、薬、香辛料、油、甘い干し果実。」


 甘い干し果実のところで、ヤンガルドアイの眉が少し動いた。


「子ども用か。」


「はい。」


「細かいな。」


「村全体へ渡す荷ですので。」


 ミレイユは落ち着いて答えた。


「大人だけでなく、子どもが喜ぶものも必要です。」


 ヤンガルドアイは低く笑った。


「商人の目だな。」


「商人ですので。」


 オルドアイが横で小さく笑う。


「母上、それはミレイユの決まり文句だ。」


「便利な言葉だ。」


「ええ。」


 ミレイユも否定しなかった。


 ヤンガルドアイは、リストを見ながら少し考えた。


「武器は入れぬのだな。」


「入れません。」


 ミレイユは即答した。


「生活用の刃物に留めます。」


「理由は。」


「武器は意味が重くなりすぎます。友好、同盟、挑発、従属、いずれにも解釈され得ます。」


 ヤンガルドアイの目が少し細くなる。


「分かっているな。」


「オルドアイ姫に教えていただきました。」


 オルドアイが少しだけ誇らしげに胸を張った。


「私が言った。」


「ええ。助かりました。」


 ミレイユは素直に言った。


 ヤンガルドアイは娘の腕にある緑の組み紐を見る。


「その紐を渡しただけではないようだな。」


 ミレイユは静かに答えた。


「私も、教わっています。」


 オルドアイが少しだけ驚いた顔をした。

 それから、嬉しそうに笑った。


 ミレイユはその笑顔を見て、胸の中が少しだけ複雑になった。


(また喜ばせてしまった。)

(でも、事実だから仕方ないわ。)


◆◇◆


 バルクへの荷の話になると、場にいた護衛たちの空気が少し変わった。


 ガルドは無言のまま背筋を伸ばした。

 レオンは軽い表情を引っ込めた。

 エルザも静かに手元を見た。

 カレンは直接の面識は薄いが、仲間たちの雰囲気を見て口を閉じた。


 ミレイユは読み上げる。


「バルクさん個人への品。保存食、酒、丈夫な衣服、簡易防寒具、そして手紙。」


「手紙。」


 ヤンガルドアイが繰り返す。


「はい。」


「荷に手紙を入れるのか。」


「入れます。」


「なぜ。」


 ミレイユはソータを見る。


 ソータは頷いた。


「バルクさんは仲間です。」


「今は北にいる。」


「それでも、仲間だったことは変わりません。」


 ガルドが静かに言った。


「確認が必要だ。」


 ミレイユは頷く。


「彼が残る意思を持つなら、それを尊重するためにも、まず本人の言葉を聞く必要があります。」


 レオンが続ける。


「でも、いきなり契約とか今後とか言われても、硬いっすからね。」


 エルザも言う。


「手紙があれば、こちらが彼を責めに行くのではないと伝えられます。」


 カレンが短く言った。


「言葉も荷だ。」


 ソータはその言葉に少し驚いた。

 それから、嬉しそうに頷いた。


「うん。」


 ヤンガルドアイは一行を見回した。


「外の者たちは、妙な荷を運ぶ。」


「よく言われます。」


 ソータが苦笑する。


「だが、悪くない。」


 ヤンガルドアイは言った。


「バルクは、今のところ元気だ。」


 ソータの顔が少し明るくなる。


「よかった。」


「ガルナのそばにいる。」


 レオンが小声で言った。


「あの人、絶対帰ってきたら顔が緩んでるっすね。」


 ガルドが短く言う。


「締める。」


「物理的にっすか?」


「必要なら。」


 ソータは少し笑った。

 ミレイユも、少しだけ口元を緩めた。


◆◇◆


 確認が一段落したところで、ヤンガルドアイは重い声で告げた。


「男たちの村へ行く者を決める。」


 ミレイユの背筋が伸びる。


 当然、自分も行くつもりでいた。

 北の男たちの村。

 バルクのいる場所。

 フルムーンの荷の届け先。

 交易相手になるかもしれない村。


 商会代表として、自分の目で見るべき場所だ。


 しかし、ヤンガルドアイは先に言った。


「女は行けぬ。」


 集会小屋の空気が止まった。


 ミレイユは一瞬、言葉を失った。


「……私も、ですか。」


「そうだ。」


「私は外の商会代表です。」


「女であることに変わりはない。」


 ミレイユの目が鋭くなる。


「理由をお聞かせください。」


 声は冷静だった。

 だが、胸の中では明確な反発が起きていた。


 ソータも驚いていた。


「ミレイユは行けないんですか。」


 ヤンガルドアイは頷いた。


「男たちの村には、フルムーン前に女が入らぬ決まりがある。」


「なぜですか。」


 ミレイユが聞く。


 オルドアイが少し表情を引き締めた。


「古い決まりだ。」


「決まりだけでは納得できません。」


 ミレイユは言った。


 ヤンガルドアイは、ミレイユをしばらく見た。


「よかろう。」


 彼女はゆっくり語り始めた。


「我らと男たちの村は、近くて遠い。」


「……。」


「フルムーンの時、男たちは砦へ来る。女たちは迎える。だが、その前の準備には、それぞれの場所で整える意味がある。」


「儀礼ですか。」


「儀礼でもあり、境界でもある。」


 ヤンガルドアイの声は重かった。


「男たちの村に、外の女が入れば、村の女神への誓いに触れるとされている。」


「女神。」


「古い信仰だ。今でも村は守っている。」


 オルドアイが続ける。


「男たちの村は、フルムーンまで女を迎えない。迎える時は、砦へ来る。」


「こちらが訪ねるのではなく、向こうが来る。」


「そうだ。」


 ミレイユは唇を引き結んだ。


 商会の常識では納得しにくい。

 けれど、相手の土地の信仰と儀礼を無視すれば、交易は始まる前に壊れる。


(見たい。)

(自分の目で見たい。)

(でも、ここで無理を通せば、商会代表として失格。)

(ソータの隣に立つために来たのに、ここで交渉を壊してどうするの。)


 胸が苦しい。


 ソータはミレイユを見た。


「ミレイユ。」


「黙って。」


「うん。」


 ソータは口を閉じた。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。

 指先に結び目の感触がある。


 自分は知らないままでいたくない。

 そのためにここまで来た。

 だが、すべてを自分の目で見ることだけが、知る方法ではないのかもしれない。


 待つ。

 任せる。

 戻ってきたソータから聞く。

 砦に残って別のものを見る。


 それもまた、知ることの一つなのか。


 ミレイユは深く息を吸った。


「分かりました。」


 ソータの目が少し揺れた。


 オルドアイも、ミレイユを見た。


「従います。」


 ミレイユは言った。


「ただし、条件があります。」


 ヤンガルドアイの目が面白そうに細くなった。


「言え。」


「ソータが戻った後、村の状況、バルクさんの意思、必要物資、村長の言葉をすべて報告してもらいます。」


「当然だ。」


「可能であれば、村側から正式な使者を後日砦へ招いてください。」


「考えよう。」


「そして、次の機会には、女が直接話せる場を作る余地があるか検討していただきたい。」


 ヤンガルドアイは少し黙った。


「古い決まりは軽く動かせぬ。」


「分かっています。」


「だが、検討はできる。」


「ありがとうございます。」


 ミレイユは礼をした。


 悔しさは残っている。

 だが、引くべきところで引いた。

 そのうえで、次の交渉の種を置いた。


 オルドアイが少しだけ感心した顔をしていた。


「お前、怒っているのに譲れるのだな。」


「譲ったのではありません。」


「では?」


「次の道を残したの。」


 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


「なるほど。」


◆◇◆


 男たちの村へ向かう者は、すぐに決められた。


 ソータ。

 ガルド。

 レオン。

 カレン。

 砦側からは、道と儀礼を知る男村への使い役が二人。

 必要に応じて、途中までオルドアイの配下が案内するが、村の境界から先は女は入らない。


 エルザは砦に残ることになった。

 弓の確認や砦の訓練を見る役目もある。

 ミレイユの近くにいてくれることになり、ソータは少し安心した。


「エルザさん、ミレイユをお願いします。」


 ソータが言うと、エルザは静かに頷いた。


「任せて。」


 ミレイユは少し眉を上げた。


「私が守られるだけの女のように言わないで。」


「そういう意味じゃなくて。」


「分かっているわ。」


 ミレイユは少しだけ笑った。


「でも、ありがとう。」


 ソータはほっとした。


 オルドアイが言う。


「ミレイユは私が連れ回す。」


 ソータの顔が少し引きつった。


「連れ回す?」


「砦の仕事を見せる。」


 ミレイユはオルドアイを見た。


「私に?」


「そうだ。」


「なぜ。」


「お前は、知らないままが嫌なのだろう。」


 ミレイユは言葉に詰まった。


 オルドアイは続けた。


「男たちの村へは行けない。なら、砦を見ろ。」


「……。」


「私が何をしているか。砦が何を守っているか。フルムーンが何を意味しているか。」


「……。」


「それを見れば、男たちの村のことも少しは分かる。」


 ミレイユは、しばらくオルドアイを見た。


 この女は、ただ自分を困らせようとしているのではない。

 少なくとも今は。


 ミレイユが「知りたい」と言ったことを覚えている。

 なら、見せる。

 自分の場所を。

 自分の仕事を。

 砦の本音を。


 そう言っている。


「分かったわ。」


 ミレイユは答えた。


「あなたの仕事を見せてもらいます。」


「ついて来られるか。」


「無理なら言います。」


「意外だな。」


「無理を無理と言うのも仕事です。」


 オルドアイは楽しそうに笑った。


「よい。」


 ソータは二人を見て、少し複雑な顔をした。


「ミレイユ。」


「何?」


「大丈夫?」


「大丈夫ではないわ。」


「うん。」


「でも、ここで見る。」


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「あなたが戻る場所が、今回は砦にあるだけよ。」


 ソータは息を呑んだ。


 その言葉は、胸に深く入ってきた。


 帰る場所。

 いつもはグランデリア。

 商会。

 ミレイユのいる部屋。


 今回は、ミレイユが砦に残る。

 自分は男たちの村へ行き、戻ってくる。

 帰る場所が、旅の途中にも作られる。


「戻る。」


 ソータは言った。


「必ず。」


「当然よ。」


「報告する。」


「全部。」


「うん。」


「隠さない。」


「隠さない。」


 ミレイユは頷いた。


 オルドアイはそのやり取りを見て、少しだけ静かな顔をした。


 そして、緑の組み紐に触れる。


「ソータ。」


「何?」


「私の砦に、ミレイユを残す。」


「うん。」


「傷つけぬようにする。」


 ミレイユが少し驚いた顔をする。


 ソータも驚いた。


 オルドアイは少しだけ目を逸らした。


「ただし、甘やかしはしない。」


 ミレイユは小さく笑った。


「望むところよ。」


「そう言うと思った。」


 二人の間に、また少しだけ何かが結ばれたように見えた。


◆◇◆


 夕方までに、男たちの村へ向かう荷の準備が整えられた。


 ソータの《神速積載庫》の中に、区分ごとに荷を収めていく。

 ミレイユが荷札を読み上げ、ソータが確認し、オルドアイが砦側の意味を補足する。


「青布、男たちの村贈答用。」


「入れた。」


「赤布、砦側予備および交換用。」


「入れた。」


「塩、小分け三種。村長用、共同倉庫用、家族分配用。」


「入れた。」


「生活刃物、針、金具。」


「入れた。」


「甘い干し果実。」


「入れた。」


「ソータ用ではないわよ。」


「分かってる。」


 オルドアイが笑う。


「少しは食ってもよい。」


「駄目です。」


 ミレイユが即座に言う。


「余りが出たら。」


 ソータが小さく言う。


「余りが出たら考えます。」


「はい。」


 レオンが横で笑った。


「完全に管理されてるっす。」


「共同運用よ。」


 ミレイユが訂正する。


 カレンが淡々と言う。


「食料管理は重要だ。」


「そういう真面目な話にしないでくださいっす。」


 エルザが小さく笑った。


 バルクへの荷は、最後に入れた。


 保存食。

 酒。

 丈夫な衣服。

 簡易防寒具。

 仲間からの手紙を入れるための防水袋。


 手紙はまだ書いていない。

 今夜、それぞれが書くことになっている。


 ソータは防水袋を手に取り、少しだけ黙った。


「バルクさん、何て言うかな。」


 ガルドが言った。


「会えば分かる。」


「それはそうですけど。」


「逃げるな。」


 短い言葉だった。


 ソータは頷いた。


「はい。」


 ミレイユはその横顔を見た。

 ソータはまた一つ、重い荷を持とうとしている。

 仲間の選択を聞く荷。

 残る者と戻る者の間をつなぐ荷。


 自分はそれを一緒に見届けられない。

 それが悔しい。


 だが、待つ。

 今回は待つ。


 ただ待つのではなく、砦を見る。

 オルドアイを見る。

 自分が見られるものを見て、ソータが持ち帰る言葉と合わせる。


 それが、今回の自分の仕事だ。


◆◇◆


 夜、出発前の小さな確認が終わると、ソータとミレイユは砦の端にある見張り台の下で二人きりになった。


 完全な二人きりではない。

 少し離れたところにカレンがいて、さらに遠くに砦の見張りがいる。

 だが、話すには十分な距離だった。


 空には、丸くなりつつある月が浮かんでいた。

 フルムーンまで、もう間近だ。

 月光は森の葉にかかり、砦の木組みを白く照らしている。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「明日、行くのね。」


「うん。」


「私は残る。」


「うん。」


「不満はあるわ。」


「うん。」


「でも、納得はした。」


「うん。」


「あなたは?」


「不安。」


「私を置いていくことが?」


「それもある。」


「男たちの村へ行くことは?」


「それもある。」


「バルクさんに会うことは?」


「それも。」


 ミレイユは少しだけ笑った。


「全部ね。」


「うん。」


「よろしい。」


「よろしいの?」


「正直だから。」


 ソータは月を見た。


「ミレイユがいないところで、ちゃんと見て、聞いて、覚えて、戻って報告する。」


「ええ。」


「でも、全部正確に言えるか不安だ。」


「なら、メモを取りなさい。」


「そうする。」


「レオンさんにも記録を頼んで。」


「うん。」


「ガルドさんには重要な判断を確認して。」


「うん。」


「カレンさんには安全面を見てもらって。」


「うん。」


「あなた一人で全部背負わない。」


「分かった。」


 ソータはミレイユを見た。


「ミレイユは、オルドアイと大丈夫?」


 ミレイユは少し考えた。


「大丈夫ではないわ。」


「うん。」


「でも、彼女を見る。」


「うん。」


「彼女も、たぶん私を見る。」


「うん。」


「腹は立つでしょうね。」


「うん。」


「でも、知りたい。」


 ミレイユは月を見上げた。


「知らないままでは、もういられないから。」


 ソータは静かに頷いた。


「戻るよ。」


「ええ。」


「ミレイユのところへ。」


 その言葉に、ミレイユの胸が熱くなった。


「当然よ。」


 声は少しだけ震えた。


 ソータはそれに気づいたが、何も言わなかった。

 代わりに、そっと手を差し出した。


「触っていい?」


 ミレイユは小さく笑った。


「手を取るのにも聞くの?」


「聞く。」


「よろしい。」


 ミレイユは手を重ねた。


 ソータの手は温かかった。

 少し緊張しているのか、指先が硬い。


「ソータ。」


「うん。」


「私のことを少しでも忘れたら許さないわ。」


 いつもの言葉。

 だが、今夜は少し意味が違った。


 グランデリアで待つのではない。

 同じ砦にいながら、別の場所へ向かう彼を見送る。

 自分もまた、彼の知らないオルドアイの仕事を見る。


 互いに違う場所で、違うものを見る。

 それでも、忘れない。


「忘れない。」


 ソータは答えた。


「紅い髪紐を見る。」


「私は?」


「ミレイユを見る。」


「戻ったら?」


「全部話す。」


「よろしい。」


 ミレイユは頷いた。


 少しだけ、手に力を込める。


「行ってらっしゃい。」


 その言葉を言うのは、まだ早い。

 出発は明朝だ。


 けれど、ミレイユは今言いたかった。


 ソータはその言葉を受け止めた。


「行ってきます。」


 月明かりの下で、二人はしばらく手をつないでいた。


◆◇◆


 翌朝、砦の門前には出発する一行と見送る者たちが集まった。


 ソータは荷をすべて確認し終えていた。

 ガルドは剣を背負い、レオンは軽装で周囲を見回している。

 カレンは盾と槍を確認し、無駄のない動きで立っていた。

 砦側の案内役の男たちも、すでに準備を終えている。


 エルザはミレイユの近くにいた。


「こちらは任せて。」


「頼りにしているわ。」


 ミレイユが答える。


 オルドアイは門の横に立っていた。

 左腕の緑の組み紐が、朝の光に映えている。


 彼女はソータを見た。


「ソータ。」


「うん。」


「男たちの村では、勝手にうろつくな。」


「うん。」


「村長の言葉をよく聞け。」


「うん。」


「バルクに会ったら、ガルナが待っていると言え。」


「それは言っていいの?」


「言え。」


「分かった。」


 オルドアイは少しだけ笑った。


「そして、戻れ。」


「戻る。」


 ソータは答えた。


「ミレイユがここにいるから。」


 オルドアイの目が少し揺れた。

 だが、すぐに笑みを作った。


「そうだな。」


 ミレイユはそのやり取りを見て、胸の痛みを感じた。

 けれど、逃げなかった。


 ソータはミレイユの前に立つ。


「行ってきます。」


「行ってらっしゃい。」


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「忘れないで。」


「忘れない。」


「報告を省略しない。」


「しない。」


「無理をしない。」


「しない。」


「甘い干し果実を勝手に食べない。」


「食べない。」


 レオンが後ろで吹き出した。


 カレンが淡々と言う。


「見張る。」


「お願いします。」


 ソータは少し笑った。


 その笑顔を見て、ミレイユの胸が少し痛くなる。

 行ってほしくない。

 でも、行かなければならない。


 だから、見送る。


 ただ泣いて待つのではなく、ここで自分の仕事をするために。


 ヤンガルドアイが門の上から声をかけた。


「行け。」


 短い号令。


 ガルドが先頭に立ち、案内役が続く。

 ソータが一歩踏み出す。

 レオン、カレンが続く。


 ソータは一度振り返った。


 ミレイユがいる。

 紅い髪紐が朝の風に揺れている。

 その隣にオルドアイがいる。

 緑の組み紐が腕で光っている。


 二つの結び目。

 二人の女。

 どちらも、今のソータにとって軽く扱えないもの。


 ソータは胸の中で言った。


(戻る。)

(必ず。)

(荷も。)

(言葉も。)

(約束も。)


 そして、前を向いた。


 男たちの村へ続く道は、砦の北側へ伸びている。

 霧の森とは違う、さらに奥の道。


 ソータたちは、その道へ足を踏み出した。


 ミレイユは門前に立ち、彼らの背中が木々の向こうへ消えていくまで見送った。


 隣でオルドアイが言った。


「行ったな。」


「ええ。」


「寂しいか。」


「寂しいわ。」


 ミレイユは正直に答えた。


「でも、私はここで見る。」


 オルドアイは緑の組み紐に触れた。


「なら、来い。」


「どこへ?」


「砦の仕事だ。」


 オルドアイは少しだけ笑った。


「お前に、私の一日を見せてやる。」


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


 ソータが戻る場所が、今回は砦にある。

 なら、自分はこの砦で見て、考え、知る。


「ええ。」


 ミレイユは頷いた。


「見せてもらうわ。」


 こうして、ソータは男たちの村へ向かい、ミレイユはオルドアイの砦に残った。


 フルムーンの荷は北へ進み、砦に残った女たちの時間もまた、静かに動き始めた。

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