第94話:目覚めの部屋で、緑の組み紐が結ばれる
朝の光は、木の隙間から細く差し込んでいた。
グランデリアの朝のように、白いカーテン越しの柔らかな光ではない。
村の朝のように、薄い靄をまとった静かな光でもない。
ここにあるのは、森の砦の朝だった。
湿った木の匂い。
干した獣皮の匂い。
遠くで誰かが水を汲む音。
鳥の声。
そして、まだ宴の余韻を残した、かすかな酒と煙の匂い。
ソータは、最初に温かさを感じた。
右側に、誰かの体温。
左側にも、誰かの体温。
柔らかい髪が頬に触れている。
反対側では、しなやかな腕が自分の腰に軽く回っている。
(……ん?)
まだ意識が霧の中にいるようだった。
頭が重い。
昨夜、どこまで起きていたのか思い出せない。
ワイバーン肉が美味しかったこと。
ミレイユとオルドアイが妙に盛り上がっていたこと。
アルベールがヤンガルドアイに呼ばれ続けていたこと。
自分がリーナの香り袋を握りしめながら、どこかで安心してしまったこと。
そこから先が、ぼんやりしている。
(寝床に戻ったんだっけ。)
(いや、ここは。)
ソータはゆっくり目を開けた。
天井が違う。
客人用の小屋の天井ではない。
梁には狩りの飾りが吊るされ、壁には弓と短剣、羽根飾り、獣の牙で作られた首飾りが並んでいる。
部屋の奥には大きな毛皮が敷かれ、窓辺には緑色の布と木彫りの飾りが置かれていた。
明らかに、客室ではない。
そして、左右を見る。
左側にはミレイユがいた。
紅い髪紐は少し緩み、白石の飾りが朝の光を受けて淡く光っている。
旅装の上着は脱いでいるが、きちんと寝られるよう毛皮をかけられていた。
眉間に少しだけ皺が寄っている。
寝ているのに、どこか怒っているようにも見える。
右側にはオルドアイがいた。
長い髪が広がり、褐色の肩に朝の光が落ちている。
彼女も寝台の毛皮に包まれ、ソータの方へ体を寄せていた。
呼吸は静かで、顔は普段よりずっと幼く見える。
ソータは完全に固まった。
(……終わった。)
(いや、何が。)
(何もしてない。)
(何もしてないはず。)
(記憶がない。)
(それが一番まずい。)
心臓が一気に跳ねた。
動けない。
右に動けばオルドアイに触れる。
左に動けばミレイユに触れる。
起き上がるにも、二人を起こす。
叫べば確実に状況が悪化する。
(どうする。)
(まず確認。)
(服は。)
(着てる。)
(よし。)
(よしじゃない。)
(場所は。)
(たぶんオルドアイの部屋。)
(なぜ。)
その時、右側の気配がわずかに動いた。
オルドアイだった。
彼女は、ソータより少し早く目覚めていたらしい。
まぶたを半分開き、じっとソータの顔を見ている。
寝起きのぼんやりした目ではない。
すでに意識がある。
ただし、悪戯を思いついた子どものような光があった。
ソータは声を出そうとした。
その前に、オルドアイがそっと唇に指を当てた。
「静かに。」
囁き声だった。
左側でミレイユはまだ眠っている。
ソータは固まったまま、小さく頷くしかなかった。
オルドアイは、楽しそうに目を細める。
そして、音を立てないように身を寄せた。
ソータの心臓がさらに跳ねた。
(待って。)
(この距離はまずい。)
(ミレイユがいる。)
(いや、いなくてもまずい。)
オルドアイは、ソータの唇へ軽く口づけた。
ほんの一瞬。
触れるだけ。
それでも、ソータの体はびくりと震えた。
オルドアイは満足そうに笑う。
そして、流れるように顔を下げ、ソータの頬から首筋の近くへ唇を寄せた。
吐息が肌をくすぐる。
昨夜の酒と森の香りが混じったような匂いがした。
唇が首元に触れた瞬間、くすぐったさがぞわりと走った。
「ひゃっ。」
ソータは思わず変な声を出した。
その声で、ミレイユの眉間の皺が深くなった。
「……何?」
低い声だった。
ソータは凍りついた。
オルドアイは一瞬だけ、しまったという顔をした。
しかし、すぐに楽しそうな顔へ戻った。
ミレイユの目が開く。
最初はぼんやりしていた。
だが、次の瞬間、状況を理解し始める。
自分の隣にソータ。
その反対側にオルドアイ。
ここは客室ではない。
オルドアイの部屋らしい。
そして、ソータの首元に顔を寄せているオルドアイ。
沈黙。
朝の鳥の声だけが聞こえた。
ミレイユは、ゆっくりと起き上がった。
「説明。」
声は静かだった。
静かすぎて怖かった。
ソータは必死に首を振った。
「俺も分からない。」
「ソータ。」
「本当に。」
「オルドアイ。」
ミレイユの視線が右へ向く。
オルドアイは、悪びれた様子と楽しげな様子を半分ずつ混ぜた顔をした。
「私も、起きたらこうだった。」
「今、何をしていたの。」
「キスをした。」
正直だった。
正直すぎた。
ミレイユのこめかみが小さく動いた。
「なぜ。」
「目が覚めたら、ソータが隣にいた。」
「それで?」
「したくなった。」
「あなたは本当に。」
ミレイユは言葉を探すように目を閉じた。
ソータは急いで言った。
「ミレイユ、俺は寝てた。さっき起きたばかりで、本当に。」
「分かっているわ。」
ミレイユは目を開けた。
「あなたの慌て方で分かる。」
ソータは少しだけ救われた気がした。
だが、その直後にミレイユが続けた。
「ただし、状況としては最悪よ。」
「はい。」
「オルドアイ。」
「なんだ。」
「私が寝ている横で、勝手にキスをするのは反則。」
オルドアイは少し考えた。
「反則か。」
「反則です。」
「なるほど。」
「納得するのね。」
「お前が起きていたら、たぶん止めただろう。」
「当然です。」
「だから、反則なのだな。」
「分かったなら、次はしないで。」
「次は起こしてからにする。」
「そういう意味ではないわ。」
ミレイユは額に手を当てた。
ソータは、心の中で何度も謝っていた。
(ごめんなさい。)
(何に対してか分からないけどごめんなさい。)
(でも、俺は寝てた。)
(本当に寝てた。)
◆◇◆
三人がようやく寝台から離れ、状況確認を始めた頃、部屋の外から軽い足音が近づいてきた。
扉が叩かれる。
「お嬢様。お目覚めでしょうか。」
アルベールの声だった。
ミレイユの目が鋭くなる。
「入って。」
扉が開いた。
アルベールは、いつも通り完璧な姿で入ってきた。
昨夜、どれだけ酒を飲んだのか分からないほど、顔色も髪も服装も整っている。
手には温かい薬草茶の入った盆を持っていた。
室内を見ても、まったく驚かない。
ミレイユは即座に言った。
「説明。」
「はい。」
アルベールは静かに盆を置いた。
「昨夜、お嬢様、ソータ様、オルドアイ姫は宴の途中でお休みになられました。」
「記憶がないわ。」
「ワインそのものは強いものでございましたが、危険なものは入っておりません。」
「その言い方がもう怖いのよ。」
「ご安心ください。」
「安心できる情報がまだないわ。」
アルベールは穏やかに続けた。
「お三方とも、同じ卓でお話しされているうちに、少々お疲れが出たご様子でした。」
「それで?」
「オルドアイ姫が、ご自身の部屋なら近くて安全だと仰いまして。」
ミレイユの視線がオルドアイへ向く。
オルドアイは少し目を逸らした。
「言ったような気はする。」
「そして、お嬢様が『ソータを一人にしない』と仰いました。」
ミレイユが固まる。
「私が?」
「はい。」
「本当に?」
「はい。」
「それで?」
「ソータ様は『みんなで安全な場所ならいい』と仰いました。」
ソータも固まった。
「俺が?」
「はい。」
「記憶がない。」
「お疲れでしたので。」
アルベールはさらに続けた。
「そのため、私が責任をもってお三方をこちらへお運びし、毛皮をおかけし、扉の外で見張りを置きました。」
ミレイユは深く息を吸った。
「つまり、あなたが運んだのね。」
「はい。」
「三人まとめて?」
「順番に。」
「なぜ、私とソータだけを客室に戻さなかったの。」
「お嬢様が、寝ぼけながらソータ様の袖を掴んでおいででした。」
ミレイユの顔が赤くなった。
「……それは。」
「さらに、オルドアイ姫がソータ様の反対側の袖を掴んでおいででした。」
オルドアイの顔も少し赤くなる。
「それは覚えていない。」
「お二人とも、なかなか離してくださらず。」
ソータは完全に沈黙した。
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「無理に引き離すと、かえってお目覚めになるかと存じまして。」
「だから三人同じ寝台に?」
「寝台は広く、衣服も乱れぬよう整え、毛皮で区切りもいたしました。」
「その区切りは今朝どこにあったの。」
「寝相により、多少移動したものと思われます。」
ミレイユは頭を抱えた。
「あなた、なぜそんなに冷静なの。」
「執事でございますので。」
「万能すぎる言い訳にしないで。」
ソータは小さく言った。
「アルベールさん、俺、何もしてないですよね。」
「はい。」
即答だった。
「ソータ様は、非常にお行儀よくお休みでございました。」
「よかった。」
「ただし、朝方にオルドアイ姫が先にお目覚めになった後のことは、室内のことゆえ存じません。」
ミレイユの視線が再びオルドアイへ刺さる。
オルドアイは堂々と言った。
「キスはした。」
「堂々と言わない。」
「隠すなと言ったのはお前だ。」
「それとこれとは別。」
「難しいな。」
「難しくないわ。」
アルベールは静かに薬草茶を差し出した。
「まずは、皆様こちらを。」
「変なものは入っていないでしょうね。」
ミレイユが睨む。
「入っておりません。」
「効能は?」
「軽い頭痛、胃の重さ、緊張、朝の冷えに対応しております。」
「それを変なものと言うかどうか、後で話し合いましょう。」
「かしこまりました。」
アルベールは少しだけ満足そうだった。
◆◇◆
朝の騒動が落ち着くまで、しばらくかかった。
ミレイユは一度客室へ戻り、髪を整え直した。
紅い髪紐はほどけかけていたため、ソータが改めて結ぶことになった。
この朝ほど、髪紐を結ぶ空気が複雑だったことはない。
ミレイユは鏡の前に座り、腕を組んでいた。
ソータは背後で、明らかに緊張している。
「触るよ。」
「ええ。」
「その。」
「何?」
「本当にごめん。」
「あなたが寝ていたことは分かっているわ。」
「でも。」
「でも、状況は最悪だった。」
「はい。」
「だから、今日はいつも以上に約束を守りなさい。」
「守る。」
「オルドアイが距離を詰めたら?」
「下がる。」
「ただし、失礼にならないように。」
「難しい。」
「難しくても。」
「頑張る。」
「よろしい。」
ソータの指が髪に触れた。
昨夜の焚き火の匂いが少し髪に残っている。
ミレイユはそれを感じながら、目を閉じた。
(怒っている。)
(でも、少し安心もしている。)
(ソータが寝ていたことは本当。)
(オルドアイが正直に言ったのも本当。)
(アルベールが運んだのも本当。)
(……アルベールには後で文句を言う。)
髪紐が結ばれる。
紅い結び目は少しだけ昨日より硬くなった。
ソータの緊張がそのまま出ているようだった。
「痛くない?」
「大丈夫。」
「きつくない?」
「少しきついけれど、今日はそのくらいでいいわ。」
「うん。」
ミレイユは鏡の中でソータを見た。
「ソータ。」
「うん。」
「今朝のこと、忘れたふりはしない。」
「うん。」
「でも、必要以上に自分だけを責めない。」
「うん。」
「その代わり、今日からさらに気をつける。」
「うん。」
「私も、気をつける。」
「ミレイユも?」
「寝ぼけて袖を掴まないように。」
ソータは言葉に詰まった。
そして、少しだけ笑いそうになって、必死に堪えた。
「笑ってもいいわ。」
「いや。」
「笑ったら怒るけれど。」
「じゃあ笑わない。」
ミレイユは少しだけ口元を緩めた。
怒りはある。
恥ずかしさもある。
でも、笑える程度にはなっている。
それが救いだった。
◆◇◆
その後、三人は砦の倉庫を見に行くことになった。
ミレイユの希望だった。
商会代表として、砦の物資管理を確認したかった。
オルドアイも、砦の内部を見せることに前向きだった。
「倉庫を見れば、砦の弱いところが分かるのだろう。」
オルドアイが言った。
「ええ。」
「なら見ろ。」
「よろしいの?」
「隠しても、いずれ取引で困る。」
その言葉に、ミレイユは少し感心した。
「あなた、やはり商売の素質があるわ。」
「帳簿は嫌いだと言った。」
「帳簿以外にも商売はあるわ。」
「なら、帳簿はお前がやれ。」
「それは元から私の仕事よ。」
ソータは二人の会話を聞きながら、慎重に距離を保っていた。
今朝のことがあるため、いつも以上に姿勢が硬い。
オルドアイはそれに気づいた。
「ソータ。」
「何?」
「そんなに警戒するな。」
「警戒はしてる。」
「正直だな。」
「今朝のことがあるから。」
オルドアイは少しだけ笑みを薄めた。
「悪かった。」
ミレイユもソータも、少し驚いた。
「え?」
ソータが聞き返す。
「寝起きとはいえ、お前がまだ起ききっていない時にした。」
オルドアイは真っ直ぐ言った。
「次はしない。」
ミレイユは黙った。
「次は、ちゃんと目を見て言う。」
「そこまでで止めなさい。」
ミレイユが即座に言った。
オルドアイは笑った。
「分かっている。」
「本当に?」
「たぶん。」
「たぶんでは困るわ。」
ソータは苦笑した。
「でも、謝ってくれてありがとう。」
オルドアイは少しだけ目を逸らした。
「礼を言うな。」
「うん。」
「調子が狂う。」
ミレイユはその横顔を見た。
オルドアイは、強引で、危うくて、油断ならない。
けれど、まったく聞く耳がないわけではない。
線を引けば、理解しようとする。
理解したうえで、また別の角度から踏み込んでくるのが厄介なのだが。
倉庫へ向かう道の途中、ミレイユはふと足を止めた。
「オルドアイ。」
「何だ。」
「渡したいものがあります。」
オルドアイの眉が動く。
「私に?」
「ええ。」
ミレイユは腰の小さな袋から、丁寧に包まれたものを取り出した。
深い緑の組み紐だった。
森の葉のような緑。
ただ一色ではなく、濃淡の違う糸が複雑に編み込まれている。
細い金糸がほんの少しだけ混ざり、光を受けるとささやかに輝く。
派手ではない。
だが、強く、美しい。
オルドアイは目を見開いた。
「これは。」
「あなたに。」
「なぜ。」
ミレイユは組み紐を両手で持ったまま、まっすぐオルドアイを見た。
「私は、認めた相手ならこれを渡すつもりで持ってきました。」
ソータが驚いた顔でミレイユを見る。
「持ってきてたの?」
「ええ。」
「いつから?」
「グランデリアを出る前から。」
「知らなかった。」
「言っていませんもの。」
オルドアイは組み紐を見つめていた。
先ほどまでの軽い笑みは消えている。
彼女の目は、真剣だった。
「私は、お前の恋敵だぞ。」
「ええ。」
「ソータを諦めたわけではない。」
「分かっています。」
「今朝も、勝手をした。」
「それは怒っています。」
「なら、なぜ渡す。」
ミレイユは少しだけ息を吸った。
「私は、あなたを簡単には許しません。」
「……。」
「でも、あなたをただ嫌うだけでもいられなくなりました。」
オルドアイの目が揺れる。
「あなたは強く、美しく、正直で、砦を背負っている。」
「……。」
「ソータを軽く見ていない。」
「……。」
「私にとっては厄介で腹立たしい相手だけれど、見ないふりをしてよい相手ではない。」
ミレイユは、緑の組み紐を差し出した。
「だから、これは私からの印です。」
「何の印だ。」
「あなたを、話すに値する相手として認めた印。」
ソータは息を呑んだ。
オルドアイは、すぐには受け取らなかった。
彼女の顔に、驚きと喜びと戸惑いが同時に浮かんでいる。
いつも真っ直ぐに欲しいものへ手を伸ばす彼女が、今だけは手を伸ばすことをためらっていた。
「ミレイユ。」
「何?」
「これは、私がソータを求めることを許す印か。」
「違います。」
即答だった。
「それは絶対に違います。」
オルドアイは少し笑った。
「そうか。」
「あなた自身が忘れないための印よ。」
「私自身が?」
「あなたが何を望み、何を守り、どこまで踏み込んでよいのか。」
「……。」
「それを、あなた自身で考えるためのもの。」
ミレイユは少しだけ紅い髪紐に触れた。
「私の紅い髪紐が、私とソータの約束なら。」
それから、緑の組み紐を見た。
「これは、あなたがあなた自身と結ぶ約束にして。」
オルドアイは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくり手を伸ばした。
緑の組み紐を受け取る。
その手は、弓を引く時より少し慎重だった。
「……綺麗だ。」
「あなたに似合うと思ったわ。」
言ってから、ミレイユは少しだけ気まずくなった。
オルドアイは目を丸くした。
そして、ぱっと笑った。
「今、似合うと言ったな。」
「言いました。」
「ソータには言わせなかったのに。」
「私が言う分にはいいのよ。」
「ずるいな。」
「商人ですので。」
オルドアイは声を上げて笑った。
その笑いには、昨夜の宴のような豪快さと、少しだけ泣きそうな響きが混じっていた。
◆◇◆
オルドアイは、組み紐をしばらく手の中で眺めた。
腕に巻くか。
髪に結ぶか。
腰に下げるか。
彼女は少し考え、そしてソータを見た。
「ソータ。」
ミレイユの眉が動いた。
ソータも身構えた。
「何?」
「結んでくれ。」
空気が止まった。
ミレイユの視線が、ソータへ向く。
次に、オルドアイへ向く。
そして、緑の組み紐へ戻る。
「どこに。」
ミレイユが聞いた。
オルドアイは少し考えた。
「腕だ。」
「髪ではなく?」
「髪は、まだ違う。」
その答えに、ミレイユは少しだけ目を見開いた。
オルドアイは続けた。
「お前の髪紐は、ソータとの約束だろう。」
「ええ。」
「なら、私がソータに髪を結ばせるのは、今は違う。」
ミレイユは、黙ってオルドアイを見た。
この女は分かっている。
そして、線を見ようとしている。
「腕なら?」
「戦う時も見る。」
オルドアイは緑の組み紐を握った。
「弓を引く時、自分で見える。」
「そう。」
「私自身との約束なら、腕でよい。」
ミレイユは少しだけ息を吐いた。
「分かったわ。」
ソータはミレイユを見た。
「結んでいい?」
その一言に、ミレイユの胸が熱くなった。
聞いた。
勝手に動かなかった。
ミレイユを置いて決めなかった。
「ええ。」
ミレイユは頷いた。
「ただし、丁寧に。」
「うん。」
「そして、必要以上に触らない。」
「うん。」
オルドアイが楽しそうに言う。
「注文が多いな。」
「当然です。」
ソータは緑の組み紐を受け取った。
オルドアイが左腕を差し出す。
鍛えられた腕。
弓を引き、森を走り、砦を守る腕。
ソータは一瞬手を止めた。
「触るよ。」
オルドアイが目を丸くする。
それから、少しだけ柔らかく笑った。
「ああ。」
ソータは慎重に組み紐を腕へ回した。
ミレイユの髪を結ぶ時とは違う。
髪ではなく、腕。
相手もミレイユではない。
それでも、確認し、丁寧に、強すぎないように結ぶ。
オルドアイは黙って見ていた。
彼女の目が、少しだけ嬉しそうだった。
けれど、その嬉しさはただソータに触れられた喜びだけではないように見えた。
ミレイユから受け取った印を、ソータが結ぶ。
それは複雑な形の約束だった。
ミレイユは胸の痛みを感じた。
だが、その痛みは昨夜までとは少し違う。
これは自分が渡したものだ。
自分が認め、自分が線を引いたものだ。
だから、見ていられる。
痛いけれど、見ていられる。
ソータは結び目を整えた。
「できた。」
オルドアイは腕を上げ、緑の組み紐を見た。
森の色が、彼女の褐色の肌によく映えた。
強さの中に、少しだけ静けさが加わる。
オルドアイは、子どものように嬉しそうに笑った。
「いい。」
ミレイユは素直に言った。
「似合っているわ。」
「二回目だ。」
「数えないで。」
「嬉しいから数える。」
オルドアイは緑の組み紐を見ながら、何度も腕を動かした。
「ソータ。」
「何?」
「きつくない。」
「よかった。」
「ほどけにくい。」
「ミレイユの髪紐で練習したから。」
ミレイユは少しだけ胸を張った。
「私のおかげね。」
「うん。」
ソータは素直に頷いた。
オルドアイは二人を見て、少し悔しそうに笑った。
「そういうところで、すぐお前に戻るのだな。」
「戻るための練習ですもの。」
ミレイユは答えた。
オルドアイは緑の組み紐に触れた。
「なら、私はこれで戻る。」
「どこへ?」
「私自身へ。」
その答えに、ミレイユは静かに頷いた。
「ええ。」
「そして、まだ諦めぬ。」
「そこは言わなくていいわ。」
「言う。」
「本当にあなたは。」
「厄介か。」
「ええ。」
オルドアイは嬉しそうに笑った。
「なら、よい。」
◆◇◆
倉庫の入口に着く頃には、朝の空気はすっかり明るくなっていた。
砦の女たちがこちらを見て、オルドアイの腕にある緑の組み紐に気づく。
何人かが目を丸くした。
すぐに視線がミレイユへ向き、ソータへ向き、またオルドアイへ戻る。
噂になるだろう。
間違いなく。
だが、ミレイユはもうそれを恐れなかった。
紅い髪紐は自分の髪にある。
緑の組み紐はオルドアイの腕にある。
どちらも、意味がある。
どちらも、簡単な飾りではない。
ソータはその二つを見比べ、少しだけ不思議そうな顔をした。
「ソータ。」
ミレイユが言う。
「何?」
「顔。」
「また出てた?」
「出ていたわ。」
「ごめん。」
「今の顔は、悪くないわ。」
「そう?」
「ええ。」
ミレイユは倉庫の扉を見た。
「でも、ここからは仕事よ。」
オルドアイも腕の組み紐を見てから、扉へ向き直る。
「そうだな。」
「倉庫を見せてもらいます。」
「ああ。」
「遠慮はしません。」
「しなくていい。」
「改善点も言います。」
「言え。」
「怒らない?」
「内容による。」
「正直ね。」
「お前もだろう。」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
ソータはその横で、胸の中が少し温かくなるのを感じた。
朝は最悪の状況から始まった。
記憶のない目覚め。
オルドアイの不意打ち。
ミレイユの静かな怒り。
アルベールの謎めいた説明。
だが、今、三人は倉庫の前に立っている。
ミレイユの紅い髪紐。
オルドアイの緑の組み紐。
その両方を、ソータが結んだ。
意味は違う。
重さも違う。
けれど、どちらも今ここにある。
(俺は、ちゃんと見ないと。)
(どちらの結び目も。)
(何を意味しているのか。)
(何を守るためのものなのか。)
ソータは静かに息を吸った。
倉庫の扉が開く。
中から、乾いた木と保存食、革袋、薬草、古い荷札の匂いが流れてきた。
ミレイユの目が、一瞬で商会代表の目になる。
オルドアイも、砦の姫の顔になる。
ソータは、その間に立った。
今度は、ただ挟まれているだけではない。
二人の結び目を見届ける者として。
そして、これから始まる砦の倉庫改善という、別の意味で重い荷を運ぶ者として。
朝の騒動の余韻を残したまま、三人は倉庫の中へ足を踏み入れた。




