表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
93/147

第93話:宴の夜に、ほどけるものと結ばれるもの

 宴の熱は、夜が深まってもなかなか冷めなかった。


 焚き火は何度も薪を足され、赤く膨らんだ炭の上で火の粉が踊っている。

 その周囲では、アマゾネスの女たちが肩を組み、杯を掲げ、時折低い声で歌を響かせていた。

 旋律はグランデリアの宴で聞くものとはまるで違った。

 整えられた楽団の音ではない。

 森の奥で生きる者たちが、呼吸と足踏みと手拍子で作る歌だった。


 胸に響く。

 地面から伝わる。

 炎の揺れと一緒に、体の奥へ入ってくる。


 ミレイユは杯を両手で持ちながら、その歌を聞いていた。


 隣にはオルドアイがいる。

 少し前までなら、その事実だけで全身に力が入っていたはずだった。

 今も警戒が消えたわけではない。

 彼女がソータへ視線を向けるたび、胸の奥は小さく痛む。

 彼女が笑うたび、その強さと美しさが目に入って、悔しさが湧く。


 それでも、今のミレイユは逃げたいとは思っていなかった。


 オルドアイは、肉の骨を片手に持ち、満足そうにかじっている。

 姫らしい優雅さとは違うが、不思議と下品ではない。

 豪快で、自然で、自分の場所にいる女の食べ方だった。


「この焼き加減はすごいな。」


 オルドアイが言った。


「ワイバーンは硬くなりやすいのに、柔らかい。」


「あなたも料理をするの?」


 ミレイユが尋ねると、オルドアイは少し目を丸くした。


「するぞ。」


「意外ね。」


「なぜだ。」


「あなたは狩る側の印象が強いから。」


「狩ったものを食えなければ、狩りは終わらない。」


 オルドアイは当然のように言った。


「戦士は食う。食うために捌く。捌くために刃を知る。刃を知る者は獲物を粗末にしない。」


 ミレイユは少し黙った。


「そういう考え方なのね。」


「お前たちは違うのか。」


「商会では、食材は主に仕入れるものよ。」


「誰かが狩ったものか。」


「ええ。」


「なら、その誰かへの礼も必要だな。」


 ミレイユは、少し驚いてオルドアイを見た。


 この女は本当に真っ直ぐだ。

 野生的に見えて、ただ乱暴なわけではない。

 物事の根にあるものを掴む。


「あなた、商売の素質もあるかもしれないわね。」


 ミレイユが言うと、オルドアイは露骨に嫌そうな顔をした。


「帳簿は嫌いだ。」


「まだ何も言っていないわ。」


「お前の商売は、絶対に帳簿がついてくる顔をしている。」


「当然でしょう。」


「なら、私は森でよい。」


「逃げたわね。」


「逃げていない。向かないものを知っているだけだ。」


 ミレイユは思わず笑った。


「それは少し羨ましいわ。」


「何がだ。」


「向かないものを、はっきり言えるところ。」


 オルドアイは肉を置き、少しだけミレイユを見た。


「お前は言えないのか。」


「言えないこともあるわ。」


「なぜ。」


「商会のため、家のため、取引のため、相手の顔を立てるため。」


「面倒だな。」


「ええ。面倒よ。」


 ミレイユは杯の中のワインを見た。

 焚き火の赤が映って揺れている。


「でも、それが私の場所だから。」


 オルドアイはしばらく黙っていた。


「そうか。」


「あなたにとっての森や砦と同じ。」


「なるほど。」


 オルドアイは腕を組み、少し考えた。


「なら、お前は商会で戦っているのだな。」


 ミレイユはその言葉に、胸を突かれた。


「戦っている、というほど格好よくはないわ。」


「では、何だ。」


「計算して、我慢して、笑って、時々怒って、それでも次の荷を動かす。」


「それを戦いと言わないのか。」


 ミレイユは、すぐに答えられなかった。


 オルドアイは続けた。


「私は剣や弓を持つ戦いしか知らぬわけではない。母上を見ていれば分かる。砦を守るには、肉を数え、矢を数え、人の不満を数え、夜に泣く女の数まで知っていなければならない。」


「……。」


「それも戦いだ。」


 ミレイユは、紅い髪紐にそっと触れた。


(この女は。)

(本当に厄介。)

(こういう言葉を、真っ直ぐ言う。)


「ありがとう。」


 ミレイユは静かに言った。


 オルドアイは少し驚いた顔をした。


「礼を言うのか。」


「あなたの言葉は、悪くなかったから。」


「悪くなかった、か。」


「褒めています。」


「商人の褒め方は分かりにくい。」


「姫の褒め方は大雑把すぎるわ。」


 オルドアイは声を上げて笑った。


◆◇◆


 ソータは、少し離れた場所でその二人を見ていた。


 ミレイユとオルドアイが、並んで話している。

 しかも、先ほどよりずっと自然に。


 胸の奥が落ち着かない。


 自分が原因で張り合っているはずの二人が、今は自分抜きで話している。

 それは良いことのはずだ。

 たぶん、良いことだ。

 ミレイユが一人で苦しむよりずっといい。

 オルドアイがただ奪うと叫ぶだけでなく、ミレイユを見て話しているのもいい。


 だが、ソータはなぜか落ち着かなかった。


(俺の話、どこまでしてるんだろう。)

(さっき弱点の話をしてたよな。)

(今は違う話っぽいけど。)

(でも二人が仲良くなったら、それはそれで俺が一番逃げられないのでは。)


 そんなことを考えていると、レオンが隣へ座った。


「ソータさん。」


「何?」


「今、複雑な顔してるっす。」


「してると思う。」


「嬉しいんすか。怖いんすか。」


「両方。」


「正直っすね。」


「最近、正直でいないと後が怖いって学んだから。」


 レオンは大きく頷いた。


「それ、かなり大事っす。」


 エルザも近くに座り、杯を静かに置いた。


「二人が話せているのは、悪くないわ。」


「うん。」


「でも、安心しすぎないこと。」


「なぜ?」


「意見が合った時、あなたへの要求も合うから。」


 ソータは黙った。


 カレンが肉の皿を持ったまま言った。


「逃げ場が減る。」


「やっぱりそうですよね。」


「だが、悪いことではない。」


「本当に?」


「曖昧に逃げるより、はっきり捕まる方が安全な時もある。」


「捕まる前提なんですか。」


 カレンは淡々と肉を食べた。


「比喩だ。」


「比喩に聞こえない。」


 ガルドが低く言った。


「自業自得だ。」


「ぐうの音も出ないです。」


 ソータは肩を落とした。


 だが、目は自然とミレイユへ向く。

 紅い髪紐が焚き火の光を受けて、深い赤に見えた。

 その隣で、オルドアイの髪も炎に照らされて揺れている。


 二人とも強い。

 違う強さ。

 違う場所で育った女たち。


 自分は、その間に立っている。

 逃げることはできない。

 逃げたくもない。

 けれど、怖い。


(ちゃんとしないと。)

(本当に。)

(どっちも軽く扱ったら駄目だ。)

(ミレイユも。)

(オルドアイも。)


 ソータは、自分の胸元に入れていたリーナの香り袋に触れた。

 優しい薬草の匂いが、少しだけ指先に移る。


 村で待つリーナ。

 形見を届けた時の涙。

 待つと決めた強さ。


 自分の周りには、いろいろな女たちがいる。

 それぞれが、違う形で強く、違う形で傷ついている。


 だからこそ、自分は鈍いままではいられない。


◆◇◆


 一方、広場の向こうでは、ヤンガルドアイとアルベールの会話が奇妙な熱を帯びていた。


 アルベールは何杯飲んでも酔わない。

 ヤンガルドアイは明らかに酔っている。

 それでも、彼女の目は濁っていなかった。

 むしろ、酒によって普段押し込めている感情の蓋が少し緩んでいるように見えた。


「アルベール殿。」


「はい、ヤンガル様。」


 その呼び方に、周囲の女戦士たちがまたざわつく。

 しかし、ヤンガルドアイは気づかない。


「あの肉の火の通し方、昔も見た気がする。」


「さて。」


「またそれか。」


「記憶とは曖昧なものでございます。」


「お主は曖昧にするのがうまい。」


「お褒めにあずかり光栄でございます。」


「褒めてはおらぬ。」


 ヤンガルドアイは杯を置き、じっとアルベールを見た。


「だが、礼は言う。」


 アルベールの表情がわずかに静かになった。


「今夜の料理への礼なら、砦の食材と調理場の皆様のお力でございます。」


「そうではない。」


 ヤンガルドアイの声が、少し低くなった。


 周囲の喧騒の中でも、その言葉だけは重く響いた。


「昔の礼だ。」


 アルベールは沈黙した。


 焚き火の音が間に入る。


「口をふさぐと言った。」


 ヤンガルドアイは続けた。


「だから名は出さぬ。何をしたとも言わぬ。」


「賢明なお心遣い、痛み入ります。」


「だが、忘れていない。」


「……。」


「森も、砦も、私も。」


 アルベールは、ゆっくりと杯を置いた。


「過去のことです。」


「過去は消えぬ。」


「今は、私はミレイユお嬢様に仕える執事でございます。」


「それは見れば分かる。」


 ヤンガルドアイは少し笑った。


「よく叱られておったな。」


「お嬢様は聡明でいらっしゃいますので。」


「変なものを入れるなと言われて、しょんぼりしておった。」


「あれは少々、心外でございました。」


「入れる気だったのだろう。」


「お嬢様の健康を思えばこそ。」


「やはり入れる気だったのだな。」


 ヤンガルドアイは楽しそうに笑った。


 アルベールも、小さく笑った。


 その笑いを見て、ヤンガルドアイは不意に黙った。


 昔の大魔法使いも、戦いの後にそんなふうに笑った。

 まるで、世界を救ったことより、焦がさずに肉を焼けたことの方が大事だと言わんばかりに。


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


「アルベール殿。」


「はい。」


「お主は、今、幸せか。」


 アルベールは、すぐには答えなかった。


 ヤンガルドアイの声は柔らかかった。

 砦の長としてではなく、一人の女としての問いだった。


 アルベールは少しだけ視線をミレイユへ向けた。

 紅い髪紐の少女。

 いいや、もう少女ではない。

 自分が幼い頃から見てきたお嬢様が、今は砦の姫と並び、恋と商売の間で自分の足で立っている。


 その隣にはソータがいる。

 不器用で、優しく、妙な荷を背負う青年。


 アルベールは穏やかに答えた。


「ええ。」


「そうか。」


「退屈はいたしません。」


 ヤンガルドアイは声を上げて笑った。


「それは見れば分かる。」


「毎日、なかなかに荷が多うございます。」


「お主がそれを楽しんでいる顔だ。」


「否定はいたしません。」


 ヤンガルドアイは、柔らかく目を細めた。


「なら、よい。」


 その言い方は、あまりに優しかった。


 遠くから見ていたオルドアイが、またにやりとした。

 ミレイユも同じ方向を見て、眉間に皺を寄せた。


「あれは、どう見ても普通ではないわね。」


 ミレイユが言う。


 オルドアイは楽しそうに頷いた。


「母上があんな声を出すのは初めて見た。」


「あなた、止めなくていいの?」


「止める理由がない。」


「長でしょう。」


「母でもある。」


「それはそうだけれど。」


「それに、母上が女の顔をするのは、少し見てみたい。」


 ミレイユは言葉に詰まった。


 オルドアイは本当に正直だ。

 母をからかうようでいて、どこか温かい目をしている。


「あなた、意外と家族思いなのね。」


「意外か。」


「少し。」


「失礼だな。」


「あなたも私に散々失礼なことを言っているわ。」


「そうだったか。」


「そうよ。」


 二人はまた小さく笑った。


◆◇◆


 宴の途中で、砦の若い女戦士たちが輪になって踊り始めた。


 足を踏み鳴らし、手を打ち、腰の飾りを鳴らす。

 激しい動きだが、乱れていない。

 戦いの訓練にも似た踊りだった。


 オルドアイはそれを見て立ち上がった。


「ミレイユ。」


「何?」


「踊るか。」


「踊りません。」


 即答だった。


「早いな。」


「見れば分かるでしょう。私はこの踊りを知らないわ。」


「教える。」


「今ではありません。」


「ソータは踊れるか。」


「ソータを巻き込まないで。」


 ソータが遠くでびくっとした。


「呼ばれた?」


「呼んでいないわ。」


 ミレイユが言う。


「呼んだぞ。」


 オルドアイが言う。


「呼ばないで。」


「なぜだ。」


「あなたが踊りに誘うと、何か別の意味が混じりそうだから。」


「混じるかもしれん。」


「ほら。」


 オルドアイは笑った。


 しかし、意外にも無理に誘いはしなかった。

 代わりに、自分だけ輪へ入っていく。


 彼女が入った瞬間、踊りの熱が一段上がった。


 オルドアイの動きは美しかった。

 弓を引く時のしなやかさ。

 枝から飛び降りた時の軽やかさ。

 戦士としての足運び。

 すべてが踊りに溶け込んでいる。


 焚き火の光が褐色の肌を照らし、髪が揺れ、足元の飾りが鳴る。


 ソータは見てしまった。

 見とれた、とまでは言いたくない。

 けれど、目を奪われたのは事実だった。


 その瞬間、彼は紅い髪紐を見た。


 ミレイユも気づいた。


 胸が痛んだ。

 だが、ソータがすぐに髪紐へ戻ったことも見た。


 ミレイユは息を吐いた。


(見た。)

(でも、戻った。)

(今は、それでいい。)


 オルドアイも踊りながら、その視線の動きに気づいたようだった。

 一瞬だけ、笑みを深める。

 挑発か。

 悔しさか。

 それとも、認めたのか。


 ミレイユには分からなかった。


 けれど、逃げなかった。

 踊るオルドアイを見た。

 強く、美しく、自分とはまるで違う女を見た。


 そして、隣に戻ってきたソータの視線も見た。


 しばらくして踊りが終わると、オルドアイは少し息を弾ませながら戻ってきた。


「どうだった。」


 ミレイユは少し考えた。


「見事だったわ。」


 正直に答えた。


 オルドアイは目を丸くした。


「褒めるのか。」


「褒めるべきものは褒めるわ。」


「妬かなかったか。」


「妬いたわ。」


 ソータがむせた。


 オルドアイも一瞬固まった。


 ミレイユは続けた。


「でも、妬いたことと、見事だと思ったことは別。」


 オルドアイの表情が、ゆっくり変わった。


 楽しげに。

 だが、少しだけ真剣に。


「お前は、本当に面白い。」


「それは今日何度も聞いたわ。」


「何度でも言う。」


「ほどほどにして。」


「嫌だ。」


 ミレイユは呆れたように息を吐いた。

 しかし、口元はわずかに緩んでいた。


◆◇◆


 宴も終盤に近づくと、酔いつぶれる者も出てきた。


 アマゾネスの女たちは強いが、飲む量も豪快だ。

 倒れるように寝る者。

 歌いながら肩を貸される者。

 まだ飲むと叫んで杯を取り上げられる者。


 レオンは早めに水へ切り替えていた。


「俺、学習したっす。」


「何を。」


 ソータが聞く。


「こういう宴で最後まで飲むと、だいたい翌朝死ぬっす。」


「賢い。」


 エルザも水を飲みながら頷いた。


「明日は大事な話がありますから。」


 カレンはまだ食べていた。


「カレンさん、まだ入るんですか。」


 ソータが驚いて聞く。


「動くには食う。」


「今日はもう動かないのでは。」


「明日動く。」


「なるほど。」


 ガルドは静かに全体を見ていた。

 宴の中でも警戒は完全には解いていない。

 だが、表情は少し穏やかだった。


 ミレイユは少し疲れを感じ始めていた。


 森を抜け、砦に入り、ヤンガルドアイと対面し、アルベールの謎に頭を抱え、宴でオルドアイと話した。

 心の動きが多すぎる一日だった。


 それでも、不思議と悪い疲れではない。


 オルドアイが隣で杯を置いた。


「ミレイユ。」


「何?」


「今日は、お前と話せてよかった。」


 唐突に言われ、ミレイユは少しだけ目を見開いた。


「……そう。」


「まだ、お前が邪魔なのは変わらん。」


「台無しね。」


「だが、知らない女ではなくなった。」


 その言葉に、ミレイユは黙った。


 知らない女ではなくなった。


 それは、ミレイユが望んだことでもあった。

 知らないまま憎むのではなく、見て、知って、考える。

 そのために来た。


 オルドアイにとっても、自分は知らない恋人ではなくなったのか。


「私も。」


 ミレイユは言った。


「あなたを知らないままではなくなったわ。」


「嫌いか。」


 オルドアイがまっすぐ聞く。


 ミレイユは少し考えた。


「腹は立つ。」


「ああ。」


「妬く。」


「そうだろうな。」


「警戒もしている。」


「当然だ。」


「でも。」


 ミレイユは焚き火を見た。


「ただ嫌いと言うには、少し知りすぎたわ。」


 オルドアイは静かに笑った。


「それでいい。」


「よくないわ。」


「いや、いい。」


「なぜ。」


「私も同じだからだ。」


 オルドアイはそう言って、ソータの方を見た。


「お前がいなければ、ソータを奪うだけ考えればよかった。」


 ミレイユの胸が痛む。


「でも、お前を知った。」


「……。」


「だから、簡単ではなくなった。」


「それを喜べと言うの?」


「喜ばなくていい。」


 オルドアイは笑った。


「だが、私は少し嬉しい。」


「なぜ?」


「簡単な獲物より、難しい相手の方が燃える。」


 ミレイユはじっとオルドアイを見た。


「本当に、あなたは。」


「何だ。」


「厄介。」


 オルドアイは嬉しそうに笑った。


「褒め言葉として受け取る。」


「違うと言っているでしょう。」


 二人の声は、もう最初ほど刺々しくなかった。


 ソータは遠くでそれを見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 同時に、背筋が寒くもなった。


(仲良くなってる。)

(でも、絶対に俺への要求は増える。)

(頑張ろう。)


 彼は静かにそう決めた。


◆◇◆


 やがて、アルベールがミレイユのもとへ戻ってきた。


 相変わらず顔色一つ変わっていない。

 ただ、どこか満足そうだった。


「お嬢様。」


「お帰りなさい。」


「今夜のお食事は、いかがでしたでしょうか。」


「とても美味しかったわ。」


「恐れ入ります。」


「それから。」


 ミレイユは目を細めた。


「あなたの謎は増えたわ。」


「それは困りました。」


「困っていない顔ね。」


「執事たるもの、常に平静を保つものでございます。」


「毒が効かない体になっている執事が、平静を語らないで。」


 オルドアイが横で吹き出した。


「毒が効かないのか。」


「今、聞いたの。」


 ミレイユが言う。


 オルドアイはアルベールを見た。


「本当に何者だ。」


「お嬢様に仕える執事でございます。」


「それはもう聞いた。」


「では、改めて。」


「同じ答えを繰り返すな。」


 アルベールは微笑んだ。


 その時、遠くでヤンガルドアイがまた声を上げた。


「アルベール殿!」


 アルベールは静かに振り返った。


 ヤンガルドアイはまだ杯を持っている。

 しかし、先ほどより少し眠そうだった。

 それでも、アルベールを呼ぶ声は柔らかい。


 ミレイユはため息をついた。


「行ってあげなさい。」


「よろしいのですか。」


「放っておくと、もっと大声で呼びそうだもの。」


「では、少しだけ。」


「少しだけよ。」


「はい。」


 アルベールは礼をして、またヤンガルドアイの方へ向かった。


 オルドアイはその背を見ながら言った。


「母上があんなふうになるとはな。」


「あなたの母上、気づいているのかしら。」


「気づいていないな。」


「でしょうね。」


「面白い。」


「あなた、母親に対しても容赦ないわね。」


「お前も見る目が笑っているぞ。」


「笑っていません。」


「笑っている。」


 ミレイユは反論しようとしたが、できなかった。


 確かに、少し笑っていた。


 今日は一日で、あまりにも多くのことが起きた。

 緊張し、傷つき、驚き、腹を立て、笑った。


 そのすべてが、焚き火の前でゆっくり混ざっている。


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


 結び目はまだある。

 少し湿気を含み、焚き火の匂いも移っているかもしれない。

 けれど、ほどけていない。


(今日、私はオルドアイを知った。)

(少しだけ。)

(ヤンガルドアイ様も。)

(アルベールの知らない顔も。)

(ソータの困った顔も、誠実でいようとする顔も。)


 そして、自分の中にも、新しい感情が生まれている。


 嫉妬だけではない。

 敵意だけでもない。

 理解と警戒と、ほんの少しの親しみ。

 それらが複雑に絡まり、簡単にはほどけない形になっていた。


 でも、きっとそれでいい。


 人の心は、帳簿のように一行ずつ整理できない。

 荷札をつけても、中身が揺れることはある。

 それでも、見て、触れて、確認しながら運ぶしかない。


 ミレイユはソータを見た。


 ソータもこちらを見ていた。

 目が合う。


 彼は、紅い髪紐を見て、それからミレイユの目を見た。


 約束は、まだここにある。


 ミレイユは小さく頷いた。


 ソータも頷いた。


 その横で、オルドアイが二人を見て、少し悔しそうに、けれど楽しそうに笑った。


「強いな、その紐は。」


「ええ。」


 ミレイユは答えた。


「簡単にはほどけないわ。」


「なら、私は別の結び目を探す。」


「あなた自身の?」


「そうだな。」


 オルドアイは夜空を見上げた。


 焚き火の火の粉が、星へ向かって昇っていく。


「少し、考えてみる。」


 その声は、珍しく静かだった。


 ミレイユは何も言わなかった。

 ただ、隣に座ったまま、同じ夜空を見上げた。


 宴の夜は、まだ続いていた。

 けれど、何かが少しだけ変わり始めている。


 霧の森を抜けた時とは違う形で。

 焚き火の熱と、ワイバーン肉の香りと、女たちの笑い声の中で。


 ほどけるものがあり。

 結ばれるものがあり。


 ソータを中心に絡まった縁は、また一つ、思いがけない形へ姿を変えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ