第92話:ワイバーンの宴は、思わぬところで女たちを近づける
夜が砦に落ちる頃、中央の広場には大きな火が焚かれていた。
赤い炎が高く上がり、太い薪が爆ぜるたびに火の粉が夜空へ舞った。
森の奥にある砦の夜は暗い。
グランデリアの街灯のような灯りはなく、商会の窓から漏れる明かりもない。
だからこそ、焚き火の光は強く、濃く、集まった者たちの顔を生き生きと照らしていた。
その火の周りに、長い木の卓がいくつも並べられている。
皿には、アルベールが仕上げたワイバーン肉が盛られていた。
厚く切られた肉。
香草をまとった焼き目。
果実の酸味を効かせた濃いソース。
砦の山菜を和えた付け合わせ。
肉汁を受け止めるための焼き固めたパン。
どれも、砦の荒々しい食材を使っているのに、妙に整っている。
上品すぎず、砦の女たちの舌にも合うよう力強さを残している。
けれど、野性味だけで押し切る料理ではなかった。
最初の一口を食べたアマゾネスの女たちは、しばらく黙った。
そして、次の瞬間、一斉に声が上がった。
「うまい!」
「何だこれは!」
「ワイバーンがこんな味になるのか!」
「香草が違うのか!」
「いや、焼き方だ!」
「肉をもっと持ってこい!」
広場が一気に騒がしくなる。
レオンは皿を両手で持ち、目を輝かせていた。
「これ、やばいっす。」
「語彙が消えているわ。」
エルザが静かに言いながら、自分の皿から一切れを口に運んだ。
そして、ほんの少しだけ目を見開く。
「……でも、分かるわ。」
「ですよね!」
レオンは嬉しそうに言った。
カレンは黙々と食べていた。
無表情に見えるが、皿の減り方が明らかに早い。
ソータが横から見て言った。
「カレンさん、美味しいんですね。」
「美味い。」
即答だった。
「表情は変わらないのに。」
「食えば分かる。」
「確かに。」
ガルドも静かに肉を食べていた。
彼は大げさな反応をしない。
だが、一口食べたあと、わずかに頷いた。
「良い。」
それだけだった。
だが、ガルドの中ではかなり高い評価なのだろう。
ミレイユも皿の肉をゆっくり食べた。
美味しい。
悔しいほどに。
砦の味を尊重しながら、自分にも食べやすいように整えられている。
アルベールは、やはり完璧だった。
問題は、完璧すぎて何者か分からなくなっていることだけである。
(調理場に入っただけで、砦中の空気を変えてしまったわ。)
(料理の腕だけではない。)
(人を動かす力がある。)
(それも、とても自然に。)
ミレイユは焚き火の向こうを見る。
アルベールは、あちこちの卓を回っていた。
料理を出した者として、味の具合を確かめ、皿の減りを見て、足りないものを整えている。
砦の女たちから何度も杯を差し出され、そのたびに丁寧に受け取って飲んでいた。
ワイン。
濃い果実酒。
薬草酒に近いもの。
砦の酒は強そうだった。
それなのに、アルベールはまったく顔色を変えなかった。
杯を受ける。
飲む。
礼を言う。
次の卓でまた注がれる。
飲む。
また礼を言う。
それを何度も繰り返している。
ワインの樽は、すでに一つ空になりかけていた。
砦の女たちは豪快に飲む。
木の杯がぶつかり合い、笑い声が上がり、歌のような掛け声が飛び交う。
その中心の一つに、なぜかアルベールがいる。
ミレイユは、さすがに不安になった。
「アルベール。」
「はい、お嬢様。」
アルベールはすぐにこちらへ来た。
足取りはまったく乱れていない。
「あなた、大丈夫なの?」
「何がでございましょう。」
「お酒よ。」
ミレイユは眉を寄せた。
「もう何杯も飲んでいるでしょう。」
「そうでございますね。」
「顔色が変わらないのは、それはそれで怖いわ。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「ご心配には及びません。」
「なぜ?」
「わたくしの体は、アルコールなどの全ての毒は効かないようになってございます。」
あまりにも淡々と言われた。
ミレイユは固まった。
ソータも固まった。
エルザは手にしていた杯を少し下げた。
レオンは口を半開きにした。
カレンは肉を噛む動きを一瞬止めた。
ガルドですら、わずかにアルベールを見た。
「……全ての毒?」
ミレイユが聞き返す。
「はい。」
「アルコールなどの?」
「はい。」
「効かないようになっている?」
「はい。」
「どういうこと?」
「そのように調整されております。」
「調整?」
「昔、少々。」
「昔、少々で済む話ではないわ。」
アルベールは微笑んだままだった。
「長い人生には、いろいろございますので。」
「あなたの長い人生、どれくらい長いの。」
「さて。」
「またごまかしたわね。」
「執事でございますので。」
ミレイユは額に手を当てた。
「それで通すのはもう限界よ。」
「お嬢様がお望みでしたら、いずれお話しできる範囲で。」
「できる範囲が狭そうね。」
「心外でございます。」
まったく心外そうではない。
ソータは小声で言った。
「アルベールさん、毒が効かないって、もう完全に普通じゃないですよね。」
「今さらだわ。」
ミレイユは低く答えた。
レオンが恐る恐る尋ねた。
「アルベールさん、もしかして毒味とか必要ないんすか。」
「必要な場合もございます。」
「効かないんすよね?」
「効かないからこそ、味や匂いで判断する必要がございます。」
「強すぎる理屈っす。」
エルザが静かに言った。
「毒が効かない体にするには、普通ではない魔法か儀式が必要でしょうね。」
「さて、どうでしょう。」
アルベールはまた曖昧に微笑んだ。
カレンが低く言った。
「ただの執事ではない。」
「ただの執事でございます。」
「毒が効かないただの執事はいない。」
「稀にはいるかもしれません。」
「いない。」
カレンの即答に、レオンが吹き出した。
ミレイユは、もはや笑うべきか問い詰めるべきか分からなくなっていた。
その時、広場の向こうから大きな声が響いた。
「アルベール殿はどこじゃ!」
ヤンガルドアイの声だった。
かなり酔っている。
いつもの威厳は残っているが、声に酒の熱が混じっていた。
それでも、周囲の女たちは楽しそうに笑っているだけで、誰も恐れていない。
「アルベール殿!」
また呼ぶ。
ミレイユは振り返った。
ヤンガルドアイは大きな杯を片手に、焚き火の向こうで立っていた。
頬が少し赤い。
目は普段より柔らかく、楽しげに輝いている。
そして、間違いなくアルベールを探している。
ミレイユは目を細めた。
(殿?)
(さっきより呼び方がさらに柔らかくなっているわ。)
(本人、気づいていないわね。)
アルベールは、何事もないように礼をした。
「少し行ってまいります。」
「待ちなさい。」
ミレイユは思わず言った。
「はい。」
「何を話すつもり?」
「宴の礼と、料理の感想などを。」
「それだけ?」
「もちろんでございます。」
「本当に?」
「今回は穏便に。」
アルベールは小さく言った。
その言い方に、ミレイユは引っかかった。
ヤンガルドアイに向けた時と同じ言葉。
「アルベール。」
「はい。」
「後で話を聞くわ。」
「お嬢様のお耳を煩わせぬ程度に。」
「煩わせなさい。」
アルベールは少しだけ困ったように微笑んだ。
「努力いたします。」
まったく期待できない返事だった。
それでも、アルベールはヤンガルドアイの方へ向かった。
歩き方は静かで、酒を何杯飲んだ後とは思えないほど整っている。
ヤンガルドアイは彼を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
「おお、ここにおったか、アルベール殿!」
「こちらにございます、長。」
「長など堅い。今は宴じゃ。」
「では、ヤンガルドアイ様。」
「まだ堅い。」
「では、どのようにお呼びすれば。」
「……ヤンガルでよい。」
周囲のアマゾネスたちが一瞬静かになった。
オルドアイも、別の場所から母を見て目を丸くした。
ミレイユは完全に固まった。
(今、何と言ったの。)
(ヤンガルでよい?)
(それは、かなり親しい呼び方ではないの?)
アルベールは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
それから、微笑んだ。
「では、宴の間だけ、ヤンガル様と。」
「うむ。」
ヤンガルドアイは満足そうに頷いた。
そして、アルベールのために杯を差し出した。
「飲め。」
「ありがたく。」
アルベールは杯を受け、静かに飲んだ。
ヤンガルドアイは嬉しそうに笑った。
普段の砦の長ではなく、久しぶりに再会した相手と語らう女の顔だった。
アルベールも、楽しそうに何かを話し始めた。
声は遠くてはっきり聞こえない。
だが、ヤンガルドアイは時折大きく笑い、時折真剣に頷き、また杯を注いでいる。
一行は唖然としていた。
ソータがぽつりと言った。
「アルベールさん、すごいな。」
ミレイユは頭を抱えた。
「すごいで済ませていいのか分からないわ。」
レオンが小声で言う。
「なんか、俺たちが知らない物語が向こうで始まってるっす。」
エルザも珍しく困った顔をしていた。
「始まっているというより、昔の物語が再開しているように見えるわ。」
カレンは肉を食べながら言った。
「飯は美味い。」
「カレンさん、今そこっすか。」
「今そこだ。」
ガルドは遠くのアルベールを見て、短く言った。
「やはり只者ではない。」
全員が頷いた。
◆◇◆
唖然とする一行のところへ、オルドアイがやって来た。
彼女は皿を片手に持ち、もう片方の手には杯を持っている。
頬はほんの少し赤いが、酔っているというより宴を楽しんでいる程度だった。
「母上があんな顔をするのは珍しい。」
オルドアイはそう言って、ミレイユの隣に腰を下ろした。
当然のように近い。
ミレイユの眉が動く。
だが、今回はソータとの間ではない。
オルドアイはミレイユの隣に座った。
ソータは少し離れた位置にいる。
カレンが微妙に位置を調整した。
エルザも見ている。
オルドアイは気にしない。
「ミレイユ。」
「何でしょう。」
「お前の執事は何者だ。」
「私が聞きたいくらいです。」
ミレイユは即答した。
オルドアイは目を丸くして、それから笑った。
「知らないのか。」
「昔から家にいる執事です。」
「それだけではないだろう。」
「それだけではないと、今日何度も思い知らされているところです。」
「面白いな。」
「こちらは頭が痛いわ。」
ミレイユはつい、少し砕けた口調になった。
オルドアイがそれに気づき、にやりとする。
「今、少し口調が崩れたな。」
「宴ですので。」
「商人の仮面も少し緩むか。」
「緩ませたつもりはありません。」
「緩んでいる。」
「あなたこそ、母親を見て面白がっている顔を隠せていないわ。」
オルドアイは一瞬固まり、それから声を上げて笑った。
「確かに。」
その笑い声に、ソータが少しこちらを見た。
ミレイユとオルドアイが並んで笑っているのを見て、驚いた顔をする。
ミレイユも、自分で少し驚いた。
オルドアイと隣に座っている。
しかも、会話が成り立っている。
腹立たしさはある。
警戒もある。
けれど、先ほどまでの張り詰めた空気とは違うものがある。
宴の熱。
美味しい料理。
ワインの香り。
アルベールとヤンガルドアイという予想外の光景。
それらが、二人の間にあった鋭すぎる刃を少しだけ鈍らせていた。
オルドアイは肉を一口食べた。
「うまいな。」
「ええ。」
「ソータにも食わせたか。」
「食べています。」
「もっと食わせろ。」
「なぜあなたが言うの。」
「細い。」
「ソータが?」
「以前より少し鍛えたようだが、まだ細い。」
ミレイユは思わず頷きかけた。
「……それは、少し分かります。」
オルドアイの目が輝いた。
「分かるか。」
「ええ。」
「もっと肉を食わせねばならん。」
「ただし、食べ過ぎて動けなくなるのは困ります。」
「鍛えればよい。」
「鍛える時間の確保が必要です。」
「朝に走らせろ。」
「商会では朝も仕事があります。」
「なら荷運びの合間に。」
「本人の体力を考えて段階的に。」
オルドアイは身を乗り出した。
「お前、ソータを鍛える気はあるのだな。」
「あります。」
ミレイユは即答した。
「ただし、戦士にする気はありません。」
「なぜだ。」
「彼の本分は戦うことではなく、運ぶことです。」
「だが、逃げる足は必要だ。」
「それは同意します。」
オルドアイは嬉しそうに頷いた。
「森での足運びもまだ甘い。」
「そこも見ていたのね。」
「もちろんだ。」
「具体的には?」
「根を避ける時に、視線が足元へ落ちすぎる。」
「なるほど。」
「肩に力が入る。」
「それは分かるわ。」
「緊張すると息を止める。」
「それも分かるわ。」
「あと、女に迫られると固まる。」
ミレイユは即座に頷いた。
「それは非常に分かります。」
ソータが遠くから目を丸くした。
「何の話?」
ミレイユとオルドアイは、同時にソータを見た。
「あなたの弱点の話。」
「お前の弱点の話だ。」
二人の声が重なった。
ソータは固まった。
レオンが吹き出した。
「意見合ってるっす!」
エルザが口元を押さえた。
カレンも、珍しく少しだけ肩を揺らした。
ガルドは無表情だが、目元がわずかに緩んでいた。
ミレイユとオルドアイは顔を見合わせた。
一瞬の沈黙。
そして、二人とも少しだけ笑った。
ミレイユは驚いた。
オルドアイも、どこか意外そうだった。
「……意見が合ってしまったわね。」
ミレイユが言う。
「不本意か。」
「少し。」
「私も少し。」
オルドアイは笑った。
「だが、ソータの弱点については話せそうだ。」
「ええ。」
「では、話すか。」
「話しましょう。」
ソータが遠くで青ざめた。
「何でそうなるの?」
レオンが笑いながら言った。
「ソータさん、諦めるっす。」
エルザが静かに続ける。
「二人が同じ方向を向いた時が、一番逃げ場がないわね。」
カレンも頷く。
「挟撃だ。」
ソータは本気でリーナの香り袋を取り出したくなった。
◆◇◆
ミレイユとオルドアイは、焚き火の横でソータについて語り始めた。
最初は、身体のことだった。
「ソータは、自分が疲れていることに気づくのが遅い。」
ミレイユが言う。
「分かる。」
オルドアイが頷く。
「砦でも、倉庫を片づけた後に平気な顔をしていたが、目が少し落ちていた。」
「そういう時は休ませるべきよ。」
「休めと言うだけでは休まない。」
「ええ。」
「飯を出せば座る。」
「確かに。」
「では、休ませたい時は食わせるとよい。」
「ただ、食べさせすぎると眠くなるわ。」
「なら、肉と汁を分ける。」
「あなた、意外と細かいわね。」
「戦士の体調管理は大事だ。」
「ソータは戦士ではありません。」
「逃げる戦士だ。」
「それは少し違うわ。」
「では、逃げる荷運びか。」
「それは合っているかもしれないわ。」
二人は少し笑った。
ソータは遠くで複雑な顔をしていた。
次に、性格の話になった。
「ソータはすぐ謝る。」
ミレイユが言った。
「ああ。」
オルドアイは深く頷いた。
「謝ればよいと思っている時がある。」
「そうなの。」
「悪気はない。」
「それが厄介なのよ。」
「分かる。」
「謝る前に、自分が何を考えたか言わせる必要があるわ。」
「そうだな。」
「黙って抱え込まれると、余計に腹が立つ。」
「それも分かる。」
「あなたにも分かるの?」
ミレイユが少し意外そうに聞く。
オルドアイは杯を揺らしながら言った。
「ソータは、私を傷つけたくない顔をする。」
「……。」
「だが、その顔で黙られる方が傷つく。」
ミレイユは黙った。
胸が少し痛む。
同じだ。
自分も、そう感じていた。
ソータが傷つけたくないと思っていることは分かる。
でも、黙られると余計に苦しい。
優しさで隠されると、こちらは想像で傷つく。
「それは、分かるわ。」
ミレイユは静かに言った。
オルドアイはミレイユを見た。
「そうか。」
「ええ。」
「なら、そこは同じだな。」
「認めたくはないけれど。」
「私もだ。」
二人はまた少し笑った。
今度の笑いは、先ほどより小さかった。
だが、深かった。
ソータはその様子を見て、胸の奥が妙な感じになった。
安心。
不安。
恥ずかしさ。
罪悪感。
そして、少しだけ嬉しさ。
(ミレイユとオルドアイが話してる。)
(俺のことで。)
(悪口っぽいけど。)
(でも、ちゃんと話してる。)
彼は紅い髪紐を見た。
ミレイユはまだそこにいる。
オルドアイもそこにいる。
二人とも強い。
そして、どちらも自分を軽く扱っていない。
それが嬉しくもあり、重くもあった。
◆◇◆
話題は、さらに具体的になっていった。
「ソータは、褒められると弱い。」
オルドアイが言った。
「ええ。」
ミレイユは即答した。
「すぐ照れる。」
「それで判断が鈍ることがある。」
「分かる。」
「だから、褒める時は場所を選ぶべきね。」
「いや、私は褒めたい時に褒める。」
「それで彼が動揺したら?」
「動揺も見たい。」
ミレイユは目を細めた。
「あなた、危険ね。」
「お前も後で褒めると言っていたではないか。」
ミレイユは一瞬言葉に詰まった。
「あれは別よ。」
「何が別だ。」
「私が褒めるのは、必要な時です。」
「私は欲しい時だ。」
「それが危険なのよ。」
「欲しいものを欲しいと言って何が悪い。」
「状況を見なさい。」
「見ている。」
「見たうえでやるのでしょう。」
「そうだ。」
「なお悪いわ。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
「お前は、ソータをどう褒める。」
「教えません。」
「なぜ。」
「あなたが真似するかもしれないから。」
「真似はせぬ。」
「信用できません。」
「では、私が先に教える。」
「聞きません。」
「ソータは、真っ直ぐ目を見て強いと言うと固まる。」
「聞いていないと言ったのに。」
「それから、手を取って頼もしいと言うと耳まで赤くなる。」
ミレイユの目が鋭くなった。
「試したのね。」
「少し。」
「少しではなさそう。」
「かなり。」
オルドアイは悪びれずに笑った。
ミレイユの胸が痛む。
だが、同時に、妙に悔しい情報でもあった。
(手を取って頼もしい。)
(耳まで赤くなる。)
(なるほど。)
考えてしまった自分に、ミレイユは内心で顔を覆いたくなった。
オルドアイがすぐに気づく。
「今、覚えたな。」
「覚えていません。」
「嘘だ。」
「覚えていません。」
「絶対に覚えた。」
「商人は有益な情報を忘れないだけです。」
「覚えたのだな。」
オルドアイが笑う。
ミレイユは少し頬を赤くしながら、杯を手に取った。
「あなたは本当に嫌な女ね。」
「褒め言葉か。」
「違います。」
「だが、楽しそうだぞ。」
「気のせいよ。」
オルドアイは、さらに楽しそうに笑った。
その笑顔が、悔しいほどまぶしい。
ミレイユはそう思った。
嫌いではない。
そう思いかけて、慌てて心の中で否定する。
(違う。)
(まだ好きではない。)
(でも、話せる相手ではある。)
(それが一番厄介なのよ。)
ソータは遠くで、二人が何を話しているのか気になって仕方ない様子だった。
しかし、近づく勇気はない。
レオンが肩を叩いた。
「ソータさん。」
「何?」
「今、行ったらたぶん死ぬっす。」
「分かってる。」
カレンが淡々と言った。
「待機。」
「はい。」
ソータは素直に待機した。
◆◇◆
宴はさらに盛り上がっていった。
ワインの樽は二つ目に入っていた。
砦の女たちは歌い、笑い、肉を食べ、杯を掲げる。
グランデリアの上品な宴とはまるで違う。
だが、そこには生活と誇りと、仲間を迎える熱があった。
ミレイユは少しずつ、その空気に馴染み始めていた。
最初は、視線が痛かった。
ソータの恋人として見られること。
外の商会女として値踏みされること。
オルドアイと並んで座ること。
すべてに緊張していた。
けれど、料理の香りと酒の熱と、オルドアイとの思わぬ会話が、その緊張を少しずつほどいていった。
「ミレイユ。」
オルドアイが言う。
「何?」
「ソータのどこが一番腹立たしい。」
いきなりだった。
ミレイユは少し考えた。
不思議と、すぐには怒らなかった。
「自分の価値を軽く見るところ。」
オルドアイは強く頷いた。
「分かる。」
「あなたも?」
「ああ。」
「力があるのに、ただの荷運びだと言う。」
「そうだ。」
「自分がいることで、どれだけ人が助かっているか分かっていない。」
「分かる。」
「それなのに、誰かに求められると困った顔をする。」
「そこも分かる。」
「困るくらいなら、自分の価値を把握しなさいと言いたい。」
「言ったか。」
「何度も。」
「効いたか。」
「少しずつ。」
「なら、もっと言え。」
「言うわ。」
二人は同時にソータを見た。
ソータは遠くで皿を持ったまま固まった。
「何?」
「何でもないわ。」
「何でもない。」
二人が同時に答えた。
ソータはさらに不安そうになった。
レオンが腹を抱えて笑っている。
エルザも肩を震わせていた。
カレンは肉を食べながら短く言った。
「包囲が完成している。」
ガルドは静かに杯を置いた。
「悪くない。」
「ガルドさん、それ何が悪くないんすか。」
レオンが聞く。
「ソータが逃げにくい。」
「そこっすか。」
「必要だ。」
ガルドの言葉に、ソータは反論できなかった。
◆◇◆
少し離れた場所では、アルベールとヤンガルドアイがまだ話していた。
ヤンガルドアイは大きな杯を手に、楽しそうに笑っている。
アルベールは相変わらず顔色一つ変えず、静かに相槌を打っていた。
時折、何か短い言葉を返す。
すると、ヤンガルドアイが声を上げて笑う。
その様子を、オルドアイが横目で見た。
「母上が、あんなに柔らかく話すのは珍しい。」
ミレイユも見る。
「あなたにもあまり見せない顔?」
「ああ。」
「そう。」
「お前の執事、昔母上を助けたのか。」
ミレイユはすぐに答えなかった。
「たぶん、そうなのでしょうね。」
「知らないのか。」
「知らないことが多すぎるわ。」
「問い詰めないのか。」
「問い詰めるわ。」
「答えると思うか。」
「答えさせるわ。」
オルドアイは笑った。
「お前なら、少しは答えさせられるかもしれない。」
「あなたの母上なら、もっと聞き出せるのでは?」
「母上は今、聞き出す顔をしていない。」
ミレイユはヤンガルドアイを見た。
確かにそうだった。
あれは追及する顔ではない。
昔話を聞きたい女の顔。
礼を伝えたい女の顔。
そして、本人が気づいていない恋のような柔らかさを含む顔。
「……そうね。」
ミレイユは言った。
「今は聞き出せないわね。」
「母上があの顔をしていると、誰も止めにくい。」
「あなたは止めないの?」
「面白いから止めない。」
「親子ね。」
「何がだ。」
「面白いものを放っておかないところ。」
オルドアイは一瞬黙り、それから笑った。
「お前もだろう。」
「私は仕事で見ているだけよ。」
「嘘だ。」
「少しは面白いと思っているわ。」
「やはり。」
二人はまた笑った。
ミレイユは、自分がオルドアイとこんなふうに笑うとは思っていなかった。
笑っていいのか、少し戸惑う。
けれど、無理に止めるほどでもなかった。
(私は、彼女を許したわけではない。)
(でも、笑った。)
(それは裏切りではないわよね。)
(ソータへの。)
(私自身への。)
紅い髪紐に触れる。
ソータはその動きに気づいたのか、遠くからこちらを見た。
ミレイユは小さく頷いた。
ソータも少しだけ頷いた。
オルドアイは、そのやり取りを見逃さなかった。
「その赤い紐、本当に合図になっているのだな。」
「ええ。」
「妬ける。」
ミレイユの胸が少し痛んだ。
オルドアイの声は、冗談のようで、少しだけ本気だった。
「あなたも、何か結べばいいのでは。」
ミレイユは言ってから、自分で驚いた。
なぜそんなことを言ったのか。
オルドアイも少し驚いた顔をした。
「私が?」
「ええ。」
「ソータにか。」
「それは困るわ。」
即答だった。
オルドアイは声を上げて笑った。
「では、何に結ぶ。」
「あなた自身に。」
「自分に?」
「ええ。」
ミレイユは少し考えながら言った。
「あなたが何を望むのか。何を譲れないのか。何を守るのか。」
「……。」
「そういうものを、あなた自身が忘れないために。」
オルドアイは黙った。
焚き火の音が間に入る。
「お前は、本当に変な女だ。」
「あなたに言われたくないわ。」
「恋敵に、自分の印を持てと言うのか。」
「今、自分でも少し後悔しているわ。」
オルドアイは笑った。
けれど、その笑みは少し静かだった。
「考えておく。」
「ええ。」
「だが、ソータへの印を結ぶなら、お前に先に言う。」
「結ばせないわ。」
「言うだけだ。」
「駄目です。」
「厳しい。」
「当然です。」
二人はまた、同時にソータを見た。
ソータは遠くで完全に身構えた。
「今度は何?」
「何でもないわ。」
「何でもないぞ。」
また同時だった。
今度はミレイユもオルドアイも、互いに顔を見合わせて笑ってしまった。
◆◇◆
宴の熱が深まるにつれ、砦の夜は不思議なまとまりを見せ始めた。
グランデリアから来た者たち。
北の森の砦に住む女たち。
商会代表。
運送屋。
護衛たち。
アマゾネスの姫。
謎多き執事。
酔って妙に柔らかくなった砦の長。
本来なら簡単に混ざらない者たちが、ワイバーン肉とワインと焚き火を挟んで、同じ夜を過ごしている。
ミレイユはその光景を見た。
これが交易の始まりになるのかもしれない。
契約書より先に、同じ卓で食べること。
相手の味を知り、笑い声を聞き、酔った顔を見ること。
そういうものが、道を開くこともある。
(アルベールは、それを分かっていたのかしら。)
(料理で場をほどく。)
(恐怖や警戒を、食事で少しだけ溶かす。)
(昔も、そうしたのかもしれない。)
ヤンガルドアイがアルベールに向ける柔らかい顔を見て、ミレイユはそう思った。
アルベールはただ料理をしたわけではない。
この砦の空気を変えた。
自分たちが客として受け入れられるための場を作った。
それが意図的なのか、執事として当然なのか、昔からの癖なのかは分からない。
ただ、やはりただ者ではない。
オルドアイが杯を掲げた。
「ミレイユ。」
「何?」
「飲むか。」
「少しだけ。」
「弱いのか。」
「弱くはないけれど、明日も話があります。」
「真面目だな。」
「あなたは飲みすぎないの?」
「私は強い。」
「ソータは?」
二人の視線が、またソータへ向く。
ソータは少し困った顔で杯を見た。
「俺はほどほどにする。」
「正解。」
ミレイユが言った。
「つまらん。」
オルドアイが言った。
「酔ったあなたを相手にするのは私よ。」
「私も見たい。」
「見なくていいわ。」
「酔ったソータはどうなる。」
「知らないわ。」
ミレイユは言ってから、少し気づいた。
知らない。
そういえば、自分はまだ酔ったソータをあまり知らない。
オルドアイがにやりとする。
「知らないのか。」
「……ええ。」
「では、知る必要があるな。」
「今ではありません。」
「いつだ。」
「グランデリアに戻ってから。」
「私も行くか。」
「来なくていいわ。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
「やはり、お前と話すのは面白い。」
「私は疲れるわ。」
「でも、少し楽しそうだ。」
ミレイユは黙った。
否定しようと思った。
しかし、完全には否定できなかった。
「少しだけよ。」
そう答えると、オルドアイは満足そうに頷いた。
「それでいい。」
焚き火が大きく爆ぜた。
火の粉が夜空へ上がる。
ミレイユは杯を口元へ運んだ。
ワインは濃く、少し野性味があり、グランデリアのものより荒い。
だが、今夜の料理にはよく合っていた。
隣でオルドアイが肉を食べている。
遠くでソータがこちらを見ている。
さらに向こうで、アルベールとヤンガルドアイが楽しそうに語っている。
何も解決していない。
恋の問題も。
フルムーンの交渉も。
バルクの件も。
アルベールの謎も。
けれど、今夜だけは、砦の火がそのすべてを少しだけ温めていた。
(不思議な夜ね。)
(こんなふうに笑うとは思わなかった。)
(オルドアイと。)
(この砦で。)
(ソータを挟んでではなく、ソータの話で。)
紅い髪紐が、夜風に揺れた。
ミレイユはそれに触れた。
結び目は、まだほどけていない。
そのことに安心しながら、彼女は隣のオルドアイの笑い声を聞いた。
そして、ほんの少しだけ、自分の中の霧も薄くなっていくのを感じていた。




