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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第91話:執事は竈の前で、古い名を煙に巻く

 砦の奥へ案内された一行は、まず客人用の小屋に荷を置くことになった。


 小屋といっても、粗末ではない。

 太い丸太を組み、隙間には乾いた苔と粘土が詰められ、床には獣皮が敷かれている。

 窓は小さいが、風通しは悪くない。

 壁には弓矢を掛けるための木釘があり、入口の近くには水桶も用意されていた。


 グランデリアの商会や、ミレイユの実家に比べれば質素だ。

 だが、森の砦で客を迎える場としては十分に整っている。


 ミレイユは部屋に入るなり、壁、床、寝具、出入口、窓の位置を素早く見た。


 商会代表としての確認。

 護衛対象としての確認。

 そして、ソータをどこに置けばよいかという、少し個人的すぎる確認。


 カレンも同じように部屋を見ていた。


「入口は一つ。」


「ええ。」


「窓は小さいが、子どもなら入れる。」


「この砦で子どもが忍び込む心配をすべきかしら。」


「忍び込むのが子どもとは限らない。」


「そうね。」


 ミレイユは頷いた。


 エルザは窓の外を見ている。


「見張り台から少し見える位置です。」


「監視されているということ?」


「守られているとも言えます。」


「言い方次第ね。」


「はい。」


 レオンは部屋の隅を覗き込み、少し困ったように笑った。


「まあ、前回よりは歓迎されてる感じっすね。」


 ソータが苦笑した。


「前回は、歓迎というより拘束に近かったから。」


「それ言っちゃうんすね。」


「事実だから。」


 その言葉に、ミレイユの胸が少し痛んだ。


 前回、ソータはこの砦で重い選択を迫られた。

 オルドアイとの関係だけではない。

 命と秘密と、帰れるかどうかを天秤にかけられた。


 今は客として迎えられている。

 しかし、場所そのものに過去の重みがある。


(私は、ここで彼が何を感じたのか、まだ少ししか知らない。)

(でも、同じ空気を吸っている。)

(それだけでも、知らないままよりはいい。)


 ミレイユは紅い髪紐に触れた。


 朝、ソータが結んだまま、まだほどけていない。

 霧を抜け、砦へ入り、ヤンガルドアイと向き合っても、結び目は保たれている。


 ソータがそれに気づき、少しだけ表情を和らげた。


 その時、外からオルドアイの声が聞こえた。


「夕餉までは少しある。」


 小屋の入口から、彼女が顔を出す。

 まるで自分の家の廊下を覗くような気軽さだった。


「休むなら休め。見て回るなら案内する。」


 ミレイユは即座に言った。


「まずは配置と安全確認をします。」


「相変わらず堅い。」


「必要です。」


「ソータは?」


 オルドアイの視線がソータへ向く。


 ミレイユの目が鋭くなる。


 ソータは紅い髪紐を見た。

 そして答えた。


「ミレイユたちと確認する。」


 オルドアイは少しだけ唇を尖らせた。


「つまらん。」


「つまらなくても、そうする。」


 ソータは言った。


 ミレイユは内心で大きく頷いた。


(よろしい。)


 オルドアイはすぐに笑った。


「では、後で来い。」


「一人では行かないわ。」


 ミレイユが言う。


「分かっている。」


 オルドアイは肩をすくめた。


「今は、な。」


「その一言をつけない。」


「つけたい。」


「やめなさい。」


「命令か?」


「お願いです。」


「商人のお願いは命令に似ているな。」


「姫の冗談も脅しに似ています。」


 オルドアイは目を丸くし、それから楽しそうに笑った。


「やはり、お前は面白い。」


 そう言って、彼女は去っていった。


 レオンが小声で言った。


「もう完全に楽しんでるっすね、あの姫様。」


 エルザが静かに答えた。


「楽しませすぎると危険ね。」


 カレンが頷いた。


「距離を測っている。」


 ミレイユは息を吐いた。


「分かっているわ。」


 ソータが申し訳なさそうに言った。


「ごめん。」


「あなたが今謝るところではないわ。」


「でも。」


「謝るより、約束を守りなさい。」


「うん。」


 ソータは真面目に頷いた。


◆◇◆


 夕餉の準備が始まる頃、砦の中央にある大きな調理場から、煙と香ばしい匂いが漂い始めた。


 調理場は屋外に近い造りで、屋根だけが高く組まれ、中央には大きな竈がいくつも並んでいる。

 吊るされた鍋。

 獣肉を焼くための太い串。

 乾燥させた薬草と香草。

 山菜の束。

 大きな桶に入った水。

 岩塩の塊。


 砦の女たちが手際よく動いていた。

 大きな肉を切る者。

 鍋に根菜を入れる者。

 香草を潰す者。

 火加減を見る者。


 ミレイユはそれを見て、意外なほど整っていると思った。


 商会の厨房とは違う。

 だが、動線は悪くない。

 役割も明確だ。

 ただ、保存と分類については改善できる余地が大きい。


(調理場は砦の生活の中心ね。)

(ここを見れば、物資の流れがかなり分かる。)


 ミレイユが観察している横で、アルベールが静かに歩み出た。


「お嬢様。」


「何?」


「私、調理のお手伝いを申し出てもよろしいでしょうか。」


 ミレイユは瞬きした。


「あなたが?」


「はい。」


「なぜ?」


 アルベールは、ごく当然のことのように胸に手を当てた。


「執事たるもの、お嬢様の口に合わぬものを出しては、末代までの恥でございます。」


「ここはあなたの厨房ではないわ。」


「承知しております。」


「砦の方々のもてなしを疑っているように受け取られない?」


「そこは丁寧にお手伝いとして入り、砦の味を尊重しつつ、お嬢様にも召し上がりやすいよう整える所存でございます。」


「言い方は立派だけれど。」


 ミレイユはじっとアルベールを見た。


 この執事は料理もできる。

 それは知っている。

 しかも、ただ家庭料理ができる程度ではない。

 客の体調、気分、仕事の予定、翌日の疲労まで考えて食事を整える。


 だが、今のアルベールには、何か別の目的もありそうだった。

 ヤンガルドアイに顔を見られ、古い知り合いかもしれないと疑われた直後である。

 普通なら目立たないようにするはずだ。

 それなのに、調理場へ出る。


(怪しい。)

(でも、アルベールなら本当に私の食事を心配している可能性もある。)

(そこが余計に厄介なのよ。)


 ミレイユは、鋭い目で釘を刺した。


「絶対に変なものは入れないで!」


 調理場の空気が一瞬止まった。


 ソータが目を丸くする。

 レオンが吹き出しそうになり、エルザが無言で止める。

 カレンは少しだけ眉を動かした。

 オルドアイは興味深そうにこちらを見た。


 アルベールは、はっきりとしょんぼりした顔をした。


「はい……。」


 その声は、普段の完璧な執事からは少し想像しにくいほど、残念そうだった。


 ミレイユはさらに目を細めた。


「なぜそんなに残念そうなの。」


「いえ、お嬢様のお身体に良い薬草を少々。」


「少々、何をするつもりだったの。」


「疲労回復、胃腸の調整、睡眠の質の向上、精神安定、森の湿気対策を兼ねたものを。」


「それを一度に入れないで。」


「配合は心得ております。」


「そういう問題ではないわ。」


 ソータが小声で言った。


「アルベールさんの料理、ちょっと怖いですね。」


 レオンが頷く。


「効能が先に来る料理っす。」


 エルザが静かに言う。


「でも、美味しそうではあるわね。」


 カレンが淡々と答えた。


「効く飯は悪くない。」


 ミレイユは頭が痛くなった。


「とにかく、変なものは禁止。」


「承知いたしました。」


「隠し味も禁止。」


「隠さなければよろしいでしょうか。」


「そういう話ではないわ。」


「かしこまりました。」


 アルベールは深く礼をした。

 まだ少しだけ肩が落ちている。


 その様子を、ヤンガルドアイが少し離れたところから見ていた。


 楽しそうに。

 それはもう、実に楽しそうに。


 彼女は低く笑った。


「お主、叱られるのだな。」


 アルベールは顔を上げ、穏やかに答えた。


「執事とは、お嬢様に叱られてこそ磨かれるものにございます。」


「そんなものか。」


「はい。」


「妙な男だ。」


「よく言われます。」


 ヤンガルドアイはまた笑った。


 その笑いは、先ほどまでミレイユやソータに向けていたものとは少し違った。

 懐かしいものを見つけた時のような、遠い響きがあった。


◆◇◆


 アルベールは、砦の調理場へ入ると、驚くほど自然に馴染んだ。


 最初、アマゾネスの女たちは明らかに警戒していた。

 外の男。

 執事。

 しかも、長が妙に気にしている男。


 だが、アルベールは相手の仕事を奪わなかった。

 まず火加減を見て、使ってよい香草を確認し、肉の切り方を尋ね、竈の癖を聞いた。


 その聞き方が巧みだった。

 指示ではなく、尊重。

 外の技を押しつけるのではなく、この砦の味を教えてほしいという姿勢。


 女たちは少しずつ警戒を解いた。


「この香草は、強い香りですね。」


「ああ。獣肉の臭みを消す。」


「なるほど。では、焼きの最初ではなく、脂が落ち始めた頃に合わせると香りが立ちすぎず、肉の甘みも残りますな。」


「そんな使い方をするのか。」


「お試しになりますか。」


「やってみろ。」


「では、失礼して。」


 アルベールは流れるような手つきで香草を潰し、塩と合わせ、肉の表面へ擦り込んだ。

 手元が美しい。

 無駄がない。

 包丁を持つ指の角度まで、どこか訓練されたものに見える。


 ソータは少し離れて見ながら呟いた。


「料理してるだけなのに、強そう。」


 レオンが頷く。


「分かるっす。」


 カレンも真顔で言った。


「刃物の扱いが戦える者のそれだ。」


 エルザは静かにアルベールを見つめる。


「やっぱり、ただの執事ではないわね。」


 ミレイユは腕を組んだ。


「知っているわ。」


「でも、どこまでご存じですか。」


「ほとんど知らないことを、今思い知らされているところよ。」


 エルザは少しだけ口元を緩めた。


 その頃、ヤンガルドアイは調理場の入口に立ち、アルベールの動きをじっと見ていた。


 火の前に立つ男。

 白髪混じりの落ち着いた横顔。

 穏やかな物腰。

 だが、手元に宿る異様な正確さ。

 場を乱さず、気づけば中心にいる在り方。


 ヤンガルドアイの記憶の底で、古い何かが動いた。


 ずっと昔。

 この地に、空が裂けるほどの翼音が響いた日があった。


 ドラゴンの群れ。


 北の空を渡るだけならよかった。

 だが、その群れは傷つき、狂い、森と砦の上を低く飛んだ。

 炎が木々を焼き、若い戦士たちが恐怖で弓を落とし、霧の道すら乱れた。


 その時、外から来た者たちがいた。


 勇者一行。


 名を聞いても、当時のヤンガルドアイには遠いものだった。

 王国の歌に出るような英雄たち。

 だが、その中に一人、妙な男がいた。


 派手な鎧を着た勇者ではない。

 大剣を振る戦士でもない。

 祈りを捧げる聖女でもない。


 長い杖を持ち、静かな顔で、空を見上げていた大魔法使い。


 炎の雨を、風で裂いた。

 竜の咆哮を、光の壁で受けた。

 森へ落ちるはずだった火球を、夜空へ弾いた。

 そして、最後には砦の上空に巨大な魔法陣を広げ、ドラゴンの群れの進路そのものを変えた。


 その男は、戦いのあと、笑って言った。


 竈を貸していただけますかな。

 魔力を使いすぎると、どうにも腹が減りまして。


 ヤンガルドアイは、その時の若い自分が唖然としたことを覚えている。


 英雄が、戦いの直後に料理を始めた。

 しかも、信じられないほど美味い肉を焼いた。

 焦げた森の匂いの中で、砦中の者がその香りに救われた。


 大魔法使い。

 名は。


 ヤンガルドアイの記憶が、火花のように繋がる。


 アル。

 いや。

 アルベ。

 アルベール。


 彼女の目が、大きく見開かれた。


 その瞬間、調理場で香草を刻んでいたアルベールの手が、ぴたりと止まった。


 彼は振り返らない。

 だが、気づいた。


 ヤンガルドアイが思い出したことに。


 アルベールは、ほんのわずかに目を細めた。

 そして、肉に香草をまぶしながら、低い声で言った。


「今回は穏便に行きましょう。」


 その声は、周囲にはただの独り言に聞こえたかもしれない。

 だが、ヤンガルドアイにははっきり届いた。


 釘を刺された。


 思い出しても言うな。

 今は騒ぐな。

 英雄だの大魔法使いだの、余計な名を出すな。


 そういう意味だ。


 ヤンガルドアイは、思わず笑いそうになった。

 だが、笑わなかった。


 代わりに、口元だけを緩めた。


「そうか。」


 小さく呟く。


「そういうことか。」


 アルベールは、ようやくこちらを向いた。

 その顔は、いつもの穏やかな執事の顔だった。


 しかし、目だけが言っていた。


 お静かに。


 ヤンガルドアイは、喉の奥で低く笑った。


(老いたな。)

(いや、姿は老いたが、目は変わらぬ。)

(あの時の大魔法使いが、今は娘に叱られる執事か。)


 不意に、胸の奥が温かくなった。


 礼を言いたかった。

 あの時、砦を救ったこと。

 森を焼かせなかったこと。

 戦士たちを守ったこと。

 そして、戦いの後に、食事で恐怖をほどいたこと。


 だが、口はふさげと言われた。


 ならば、別の形で礼をする。


 ヤンガルドアイは、近くの女戦士へ顎で合図した。


「奥の冷所から、あれを出せ。」


 女戦士が目を丸くした。


「あれ、ですか。」


「あれだ。」


「長、本気ですか。」


「出せ。」


 女戦士は慌てて走っていった。


 ミレイユはその様子を見て、眉を寄せた。


「何かしら。」


 ソータも首を傾げる。


 オルドアイも母を見た。


「母上、あれを出すのか。」


「出す。」


「普段、絶対に出さないではないか。」


「今日は出す。」


「なぜ。」


「礼だ。」


 ヤンガルドアイは短く言った。


 アルベールは、わずかに目を閉じた。


「長。」


「口はふさぐ。」


 ヤンガルドアイは、低く、しかしどこか柔らかい声で言った。


「だが、礼はさせてもらう。」


 アルベールは、ほんの少しだけ困ったように微笑んだ。


「それは、困りましたな。」


「困れ。」


 ヤンガルドアイは言った。


「こちらも、ずっと困っていた礼だ。」


 その声に、ミレイユは違和感を覚えた。


 ヤンガルドアイの声が、先ほどまでより柔らかい。

 強さは変わらない。

 威厳もある。

 けれど、アルベールに向ける口調だけ、妙に角が丸い。


(何?)

(今の声。)

(まるで……。)


 ミレイユは、そこまで考えて目を細めた。


(まさかね。)


◆◇◆


 しばらくして、女戦士たちが大きな肉の塊を運んできた。


 それは、普通の獣肉ではなかった。

 色が濃い。

 脂の入り方が独特で、表面には薄く青みがかった光沢がある。

 骨付きのまま切り出された塊は、一人では抱えられないほど大きい。


 調理場にいた者たちがざわめいた。


「ワイバーン……。」


 誰かが呟いた。


 ソータが目を丸くする。


「ワイバーンの肉?」


 オルドアイが腕を組んで言った。


「普段は絶対に出さない。」


「そんなに貴重なの?」


「貴重だ。」


 カレンが肉を見て低く言った。


「高く売れる。」


 レオンが目を輝かせた。


「食えるんすか、あれ。」


 エルザが静かに言う。


「食べたことはないわね。」


 ガルドも少しだけ興味を示していた。


 ミレイユはヤンガルドアイを見る。


「よろしいのですか。」


「構わぬ。」


 ヤンガルドアイはアルベールを見た。


「この男なら、無駄にはせぬ。」


 その言い方が、また柔らかかった。


 ミレイユの疑念が強くなる。


(この男なら?)

(初めて会ったかもしれない相手に向ける言葉ではないわ。)

(やはり、何かある。)


 アルベールは肉の塊の前に立った。


 普段の穏やかな顔が、少しだけ変わった。

 目に、明らかな興奮が灯る。


 料理人の興奮。

 職人の興奮。

 そして、もしかすると、昔を思い出した者の興奮。


「これは……。」


 アルベールが低く呟いた。


「見事なワイバーン肉でございますな。」


「分かるか。」


 ヤンガルドアイが聞く。


「ええ。」


 アルベールは肉の表面を見て、脂の入り方を確認し、香りを確かめた。


「若すぎず、老いすぎず。筋は強いが、火を通しすぎなければ旨味が残る。脂には癖がありますが、酸味のある果実と森の香草で整えれば、非常に良い馳走になります。」


 言葉が早い。

 いつもの執事口調ではあるが、明らかに熱が入っている。


 ミレイユは目を細めた。


「アルベール。」


「はい、お嬢様。」


「興奮しているわね。」


「食材への敬意でございます。」


「変なものは。」


「入れません。」


「本当に?」


「本当に。」


「薬草を入れすぎない。」


「料理として必要な範囲に留めます。」


「効能を増やそうとしない。」


「……はい。」


 少し間があった。


「今、間があったわ。」


「料理人としての葛藤でございます。」


「執事でしょう。」


「今は少々、料理人でもございます。」


 ヤンガルドアイが楽しそうに笑った。


「好きにやれ、アルベール。」


 その声がまた柔らかい。


 ミレイユはヤンガルドアイを見た。


(やっぱり、柔らかい。)

(何なの、この空気。)


 アルベールは深く礼をした。


「では、今夜の馳走は任せていただこう。」


 その口調が、一瞬だけ変わった。


 普段の「お任せくださいませ」ではない。

 もっと古く、もっと堂々とした響き。

 まるで、王の前で大魔法を引き受ける者のような声だった。


 ソータは思わず背筋を伸ばした。


(今の、何か違った。)


 ミレイユも気づいた。

 エルザも。

 ガルドも。

 カレンも。


 レオンだけが小声で言った。


「今のアルベールさん、なんかラスボス感あったっす。」


「違うわ。」


 エルザがすぐに否定した。


「ラスボスというより、昔の英雄側ね。」


「え。」


「たぶん。」


 レオンは口を開けた。


「それ、もっと怖くないっすか。」


 カレンが淡々と言う。


「強い者は敵でも味方でも怖い。」


「深いっす。」


 アルベールは、調理場の女たちへ次々に指示を出し始めた。


 だが、その指示は不思議と誰の反発も招かなかった。

 肉を扱う者には敬意を払い、火を見る者には砦の竈の癖を尋ね、香草を持つ者には香りを褒める。

 そのうえで、最適な役割を与える。


 気づけば、調理場の中心は完全にアルベールになっていた。


 ヤンガルドアイは、それを見ていた。


 目を細め、少しだけ懐かしそうに。

 そして、本人はまったく気づいていないが、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。


 オルドアイが母を見た。


「母上。」


「何だ。」


「楽しそうだな。」


「ワイバーン肉を出したからな。」


「そういう顔ではない。」


「どういう顔だ。」


「……いや。」


 オルドアイは少し考えた。

 そして、面白そうに笑った。


「まあいい。」


 ミレイユも同じものを見ていた。


 ヤンガルドアイが、アルベールに向ける声。

 視線。

 柔らかさ。

 本人が気づいていない変化。


(恋する女のよう……。)


 そこまで考えて、ミレイユは自分で目を見開いた。


(いや、待って。)

(ヤンガルドアイ様が?)

(アルベールに?)

(まさか。)

(でも、今の目は。)


 ミレイユは頭を抱えたくなった。


 ソータの周りだけで十分厄介なのに、ここへ来てアルベールまで妙な中心になり始めている。


 しかも相手はアマゾネスの長。


(どういう荷を増やしてくれるのよ、アルベール。)


 当のアルベールは、ワイバーン肉を前に、非常に楽しそうだった。


 普段は抑えた微笑みの奥に隠している熱が、今だけは少し表に出ている。


「火は強すぎてはなりません。」


 アルベールが言う。


「ワイバーンの筋は、力で焼けば硬くなります。まずは表面を締め、脂を起こし、それからゆっくり中へ熱を通す。」


 砦の女たちは真剣に聞いていた。


「香草は三段階で使います。最初に臭みを抑えるもの。途中で脂に香りを移すもの。最後に鼻へ抜けるもの。」


 レオンが小声で呟く。


「聞いてるだけで腹減るっす。」


 ソータも頷いた。


「すごいな。」


 ミレイユはアルベールを見つめた。


 この執事は、本当に何者なのか。


 ヤンガルドアイは、何を思い出したのか。

 ワイバーン肉を出すほどの礼とは何なのか。

 なぜアルベールは「今回は穏便に」と釘を刺したのか。


 謎は深まるばかりだった。


 けれど、今は一つだけ確かなことがある。


 今夜の夕餉は、ただの食事では終わらない。


 ワイバーン肉。

 砦の長の秘めた礼。

 執事の隠された過去。

 そして、本人が気づかぬまま柔らかくなったヤンガルドアイの視線。


 それらが、竈の火と共にゆっくりと熱を帯びていく。


◆◇◆


 夕暮れが近づくにつれ、砦中に香りが広がっていった。


 最初は獣肉の強い匂い。

 次に、焼けた脂の甘い香り。

 そこへ森の香草の清涼感が重なり、さらに果実の酸味がわずかに混じる。

 重く、野性的で、それでいて不思議と上品な香りだった。


 アマゾネスの女たちが、調理場の周りに少しずつ集まってくる。

 誰も露骨に邪魔はしない。

 だが、皆、匂いに引き寄せられていた。


 ヤンガルドアイもそこにいた。

 普段なら長の席で待つはずの彼女が、なぜか調理場の近くに立っている。


 アルベールが肉の焼き加減を確かめる。


「長。」


「何だ。」


 ヤンガルドアイの声が、また少し柔らかい。


「こちらの香草を、もう少しだけいただけますかな。」


「ああ。」


 彼女は自ら香草の束を取って渡した。


 周囲の女戦士たちが、わずかにざわついた。

 長が自分で動いた。

 それも、外の男に香草を渡すために。


 ヤンガルドアイは気づいていない。


 アルベールは受け取りながら、穏やかに言った。


「ありがとうございます。」


「足りるか。」


「十分にございます。」


「他に必要なものは。」


 ミレイユは目を細めた。


(口調が優しい。)

(やっぱり優しい。)

(本人、気づいていないの?)


 オルドアイは母を見て、口元を押さえていた。

 明らかに面白がっている。


 ソータは状況が分からず、ただ不思議そうに見ている。


「ミレイユ。」


「何?」


「ヤンガルドアイさん、なんか雰囲気違わない?」


「気づいたのね。」


「うん。」


「でも、今は言わない方がいいわ。」


「なんで?」


「たぶん、言ったら面倒なことになる。」


「もう十分面倒じゃない?」


「まだ増やせる余地があるのが怖いのよ。」


 ソータは黙った。

 確かに、と顔に出ていた。


 カレンが横で淡々と言った。


「今は飯を待つべきだ。」


「カレンさん、ぶれないわね。」


 ミレイユが言うと、カレンは短く答えた。


「腹が減っている。」


 レオンが深く頷いた。


「同意っす。」


 エルザも小さく笑った。


 その間にも、アルベールは肉を切り分け始めた。

 刃が入ると、肉汁がゆっくり滲む。

 中は鮮やかな色を残しつつ、火はしっかり通っている。

 表面は香ばしく焼かれ、香草の膜が薄くついていた。


 砦の女たちが息を呑む。


 アルベールは、切り分けた最初の一切れを小皿に乗せた。

 そして、当然のようにミレイユの前へ持ってくる。


「お嬢様。」


「毒味?」


「味見でございます。」


「変なものは。」


「入っておりません。」


「本当に?」


「本当に。」


 ミレイユはじっとアルベールを見た。

 アルベールは穏やかに微笑む。


 その背後で、ヤンガルドアイがなぜか少しだけ緊張しているように見えた。


 ミレイユはそれにも気づいた。


(長が、私の反応を気にしている?)

(アルベールの料理だから?)

(やっぱり何かあるわね。)


 ミレイユは肉を一口食べた。


 目を見開いた。


 強い旨味。

 獣肉の力強さ。

 だが臭くない。

 脂は濃いのに、果実の酸味と香草で重さが切れている。

 噛むほどに深い味が広がり、後味には森の香りが残る。


 野性味がある。

 けれど粗くない。

 砦の味を壊さず、むしろ引き立てている。


「……美味しいわ。」


 ミレイユは素直に言った。


 アルベールは満足げに頭を下げた。


「恐れ入ります。」


 ヤンガルドアイが、なぜかほっとしたように息を吐いた。


 オルドアイがそれを見て、ますます笑いを堪えている。


 ソータも肉を受け取り、一口食べた。


「うまっ。」


 思わず素直な声が出た。


 レオンは目を輝かせた。


「早く俺も食いたいっす。」


 カレンはすでに皿を持って待っていた。


「大きめで。」


「承知いたしました。」


 アルベールは楽しそうに肉を切り分けた。


 砦中に、温かなざわめきが広がっていく。

 ワイバーンの肉は次々と皿へ盛られ、女戦士たちの顔に驚きと喜びが浮かぶ。


 ヤンガルドアイは、その中心にいるアルベールを見ていた。


 厳しい長の顔ではない。

 遠い昔、砦を救われた若い戦士が、再び恩人の姿を見るような顔。

 そして、自分でも気づかぬほど柔らかい、恋する女のような顔。


 ミレイユは、それを見てしまった。


(見てしまったわ。)

(これは、見なかったことにできるかしら。)

(無理ね。)


 紅い髪紐に触れる。


 ソータの周りの恋だけで手一杯だというのに、砦の長と謎多き執事の間に、過去と礼と妙な熱が立ち上がっている。


 ミレイユは静かに息を吐いた。


(本当に、荷が増える一方。)

(でも、この荷も見極めなければならないのね。)


 竈の火が赤く揺れた。

 ワイバーン肉の香りが、砦の夜へ広がっていく。


 そしてアルベールは、まるで何事もなかったかのように、完璧な手つきで次の皿を仕上げていた。

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