第90話:砦の長は、執事の顔に古い影を見る
霧の森を抜けた先の道は、前回ソータが見た時よりも近く感じられた。
いや、道が短くなったわけではない。
迷わずに抜けたからだ。
ぐるぐると同じ景色を見せられ、方角の感覚を奪われ、森に試されるような時間がなかった。
オルドアイが霧を動かし、道を閉じ、道を開き、一行を通した。
それだけで、北の森はまるで別の顔を見せた。
ミレイユは歩きながら、背後の霧を一度だけ振り返った。
白い幕は、もうすでに道を隠し始めている。
今戻れと言われても、同じ道を辿れる自信はない。
自分たちは通された。
だが、自由に通れるわけではない。
(この道の価値は、思っていた以上に大きい。)
(交易路として見れば魅力的。)
(でも、相手に握られすぎている。)
(こちら側が一方的に使える道ではない。)
(つまり、信頼と取り決めが必要になる。)
商人としての頭が動く。
その横で、女としての心は別のものを見ていた。
ソータの右側を、オルドアイが歩いている。
霧を抜けた後も、彼女は当然のようにその位置を保っていた。
ミレイユは左側を歩く。
結果として、ソータはまだ二人に挟まれている。
ソータは前を向いている。
時々、ミレイユの紅い髪紐を見る。
そのたびに、ミレイユの胸は少し落ち着き、少しだけ痛む。
落ち着くのは、約束を思い出してくれているから。
痛むのは、思い出さなければならない状況そのものが、まだ続いているから。
オルドアイが横からソータを見た。
「砦が見えてきたぞ。」
「うん。」
「懐かしいか。」
ミレイユの指がわずかに動く。
ソータは慎重に答えた。
「いろいろ思い出す。」
「私のこともか。」
真正面から来た。
エルザの視線が後ろで鋭くなる。
カレンの盾が一寸も揺れない。
レオンは口を開きかけて、今回は自分で閉じた。
ソータは紅い髪紐を見た。
それから、オルドアイを見た。
「思い出す。」
ミレイユの胸が痛む。
だが、ソータはすぐに続けた。
「でも、今はミレイユと一緒に来ている。」
痛みの上に、熱が重なった。
オルドアイは少しだけ目を細める。
「いちいち戻るな、その赤い紐に。」
「戻るためのものだから。」
ソータは言った。
オルドアイは一瞬黙った。
それから、笑った。
「なら、よく結んでおくことだな。」
「今朝、結んだ。」
「お前がか。」
「うん。」
「そうか。」
オルドアイはミレイユの髪紐を見た。
「本当にほどけないな。」
ミレイユは静かに答えた。
「ほどけないように結んでもらいましたから。」
「自慢か。」
「確認です。」
「似たようなものだ。」
オルドアイは笑った。
ミレイユは前を向いたまま、ほんの少しだけ口元を引き締めた。
笑い返すほど余裕はない。
だが、言い負けたとも思わなかった。
ソータはその間で、また少し胃の辺りを押さえたくなっていた。
(リーナの香り袋、今使いたい。)
(歩きながら使えるかな。)
(いや、今そんなことをしたら絶対に突っ込まれる。)
彼は黙って歩いた。
◆◇◆
砦は、森の奥に溶け込むように築かれていた。
高い木々を切り倒してむき出しにするのではなく、太い幹や岩の起伏を生かし、木柵と見張り台が絡み合うように立っている。
遠目には森の一部に見える。
近づくほど、人の手が入った構造だと分かる。
見張り台には、アマゾネスの女たちが立っていた。
弓を手にし、こちらを見下ろしている。
前回と同じように、警戒と興味が混じった目。
ただし、今回は視線の多くがソータだけでなく、ミレイユにも向いていた。
ソータの隣に立つ紅い髪紐の女。
商会代表。
恋人。
彼女たちの中にも、すでに何か噂が届いているのだろう。
ミレイユは、その視線を正面から受けた。
(見られている。)
(なら、見せる。)
(私は隠れて来た女ではない。)
(ソータの後ろに隠れる女でもない。)
背筋を伸ばす。
旅の疲れはある。
足も少し重い。
だが、ここで疲れた顔をするわけにはいかない。
オルドアイが門の前で立ち止まった。
見張り台へ片手を上げる。
合図は短かった。
それだけで、門の内側が慌ただしく動き始めた。
木の扉が軋む音を立てて開く。
砦の中から、複数の女戦士たちが姿を現した。
その中央に、一際大きな存在感を持つ女がいた。
ヤンガルドアイ。
前回ソータが会ったアマゾネスの長。
オルドアイの母。
広い肩。
鍛え上げられた腕。
年齢を重ねた強さと威厳。
立っているだけで、場の主導権を握る女。
ミレイユは、思わず息を整えた。
(この人が。)
(ソータに選択を迫った長。)
(砦を率いる女。)
(オルドアイの母。)
ヤンガルドアイの視線が、まずソータに向いた。
「戻ったか、ソータ。」
声は低く、森の幹のように太かった。
ソータは一歩前へ出ようとして、すぐに止まった。
隣のミレイユを見た。
そして、ミレイユと並んだまま頭を下げた。
「戻りました。」
その動きに、ヤンガルドアイの眉がわずかに上がった。
「ほう。」
次に、彼女の視線がミレイユへ向く。
圧があった。
商会の重鎮や貴族と向き合った時とは違う種類の圧。
こちらの言葉だけでなく、立ち方、呼吸、目の動きまで見られているようだった。
ミレイユは一歩も引かず、丁寧に礼をした。
「初めまして、ヤンガルドアイ様。」
声は落ち着いていた。
「クラウゼン商会会頭代理、ミレイユ・クラウゼンです。」
ヤンガルドアイは、ミレイユを上から下まで見た。
紅い髪紐で一度、視線が止まる。
白石の飾りにも気づいたようだった。
「お主が、ソータの女か。」
また、その言い方。
ミレイユは心の中で小さく息を吐いた。
「はい。」
はっきり答える。
「ソータの恋人です。」
砦の女たちの間に、低いざわめきが走った。
オルドアイは横で腕を組み、楽しそうに見ている。
ソータは少し顔を赤くしているが、逃げない。
ヤンガルドアイはミレイユをしばらく見つめた後、低く笑った。
「逃げずに来たか。」
「逃げる理由はありません。」
「理由ならあるだろう。」
「怖さはあります。」
ミレイユは正直に言った。
「腹立たしさもあります。」
ソータが微妙に縮こまった。
「ですが、知らないままにする方が私には耐え難い。」
ヤンガルドアイの目が、少し鋭くなる。
「だから来たか。」
「はい。」
「面白い。」
その言葉は、娘とよく似ていた。
ミレイユは内心で思った。
(親子ね。)
だが、口には出さなかった。
◆◇◆
ヤンガルドアイの視線は、一行を順に見ていった。
ガルド。
エルザ。
レオン。
カレン。
そして、アルベール。
その時だった。
ヤンガルドアイの目が、アルベールのところで止まった。
明らかに。
長く。
アルベールは、いつもの穏やかな表情で立っていた。
旅装でありながら、どこか執事服の時と変わらない落ち着きがある。
森の砦の前にいても、まるで貴族の応接室に控えているかのようだった。
ヤンガルドアイは目を細めた。
「お主。」
「はい。」
アルベールは恭しく頭を下げた。
「ミレイユお嬢様に仕えております、アルベールと申します。」
「アルベール。」
ヤンガルドアイはその名を口の中で転がすように言った。
「妙だな。」
ミレイユの眉がわずかに動く。
ソータもアルベールを見た。
オルドアイも母の反応に興味を示した。
ヤンガルドアイは、アルベールをじっと見たまま言った。
「お主は、ずっと以前に会った気がするな。」
空気が変わった。
レオンが目を丸くする。
エルザの視線が静かにアルベールへ向く。
カレンもわずかに顔を動かした。
ガルドでさえ、ほんの少しだけ眉を寄せた。
ミレイユは、胸の中で小さな疑問が膨らむのを感じた。
アルベール。
父に仕える執事。
昔から家にいる。
だが、そういえば彼の過去を詳しく知らない。
戦えるのかと問われれば、多少はと答える。
北の森の噂にも妙に詳しい。
霧導きの石についても知っていた。
ヤンガルドアイと、ずっと以前に会った。
それは、どういうことなのか。
アルベールは、少しも慌てなかった。
ほんのわずか、目元に笑みを深めただけだった。
「さて、どうですかな。」
分かりやすいほど、答えになっていなかった。
ヤンガルドアイの目がさらに細くなる。
「ごまかすか。」
「人違いということもございましょう。」
「この森で、私が人の顔を間違えると思うか。」
「長く生きておりますと、似た顔に出会うこともございます。」
「お主、私を老いぼれ扱いしているのか。」
「滅相もございません。」
アルベールは深々と頭を下げた。
完璧に礼儀正しい。
だが、完全に煙に巻いている。
ソータは内心で呟いた。
(アルベールさん、絶対何かある。)
(絶対に知ってる顔だ。)
(そして絶対に話す気がない。)
ミレイユも同じことを思っていた。
(この人、本当に何者なの。)
オルドアイが面白そうに母とアルベールを見比べる。
「母上が覚えているということは、ただ者ではないな。」
「お嬢様に仕える、ただの執事でございます。」
アルベールが即答する。
レオンが小声で呟いた。
「ただの執事は、そういう場面で即答しないっす。」
エルザが小さく頷く。
「同感ね。」
カレンも淡々と付け加えた。
「ただの執事は、森の長に既視感を持たれない。」
アルベールは、聞こえているはずなのに微笑んでいるだけだった。
ヤンガルドアイはしばらくアルベールを見ていたが、やがて低く笑った。
「まあよい。」
「恐れ入ります。」
「後で話を聞く。」
「さて、私にお話しできることがあれば。」
「まだごまかすか。」
「執事でございますので。」
ミレイユは思わず頭を抱えたくなった。
アルベールは何でも執事で済ませる。
しかも今回ばかりは、済んでいない。
まったく済んでいない。
ヤンガルドアイは、そんなアルベールを見て、むしろ愉快そうにしていた。
「よい。」
彼女は視線を一行へ戻した。
「入れ。」
門の奥へ顎をしゃくる。
「話は中で聞く。」
◆◇◆
砦の中は、前回より少し落ち着いて見えた。
いや、ソータにとっては見覚えがあるからかもしれない。
木組みの通路。
高い見張り台。
武器を手入れする女たち。
干された獣肉。
薬草を吊るした小屋。
広場の中央にある大きな焚き火の跡。
ミレイユは、そのすべてを目で追っていた。
商会の倉庫とは違う。
王都の市場とも違う。
だが、物資の流れはある。
食料の保存場所。
武器の置き方。
薬草の乾燥方法。
女たちの動線。
砦は、戦う場所であると同時に、生活の場所だった。
(倉庫整理の余地はある。)
(保存容器も役立つ。)
(分類札はかなり効果が出るはず。)
(ただし、こちらのやり方を押しつければ反発される。)
(彼女たちの生活に合わせて提案する必要がある。)
ミレイユがそう考えていると、オルドアイが横から覗き込むように言った。
「また仕事の顔だ。」
「仕事ですので。」
「砦を見て何を考えた。」
「今はまだ言いません。」
「なぜ。」
「観察の途中です。」
「慎重だな。」
「商人ですから。」
「その言葉、便利だな。」
「ええ。」
オルドアイは笑った。
「ソータは、こういう女が好きなのか。」
ソータはまた一瞬固まった。
ミレイユはすぐに言った。
「答えなくていいわ。」
オルドアイもすぐ言った。
「答えろ。」
ソータは、紅い髪紐を見た。
そして、腹をくくったように言った。
「好きだよ。」
ミレイユの足が止まりかけた。
オルドアイも、少しだけ目を見開いた。
ソータは顔を赤くしながら続けた。
「ミレイユが仕事の顔をしているところも、好きだ。」
ミレイユの胸が大きく跳ねた。
「ソータ。」
「何?」
「そういうことを、こういう場所で言わないで。」
「駄目だった?」
「駄目ではないけれど。」
「けれど?」
「……後で褒めるわ。」
ソータは驚いた顔をした。
オルドアイが大声で笑った。
「ははっ。後で褒めるのか。」
「何か問題でも?」
「いや。」
オルドアイは楽しそうだった。
「問題ない。むしろ見たい。」
「見せません。」
「残念だ。」
ミレイユは顔が熱くなるのを感じながら、前を向いた。
周囲のアマゾネスたちが興味津々で見ている。
(まずいわ。)
(これは砦中に広まる。)
(でも、悪くない。)
(悪くないと思ってしまっている自分がいる。)
紅い髪紐が揺れた。
ソータがそれを見て、少しほっとしたように笑う。
その笑顔に、ミレイユはまた胸を揺らされた。
◆◇◆
案内されたのは、砦の中央にある大きな集会小屋だった。
丸太を組んだ頑丈な建物で、天井は高く、中央には火を焚くための炉がある。
壁には弓、槍、獣の皮、古い飾りが掛けられていた。
族長の場であり、会議の場であり、儀式の場でもあるのだろう。
ヤンガルドアイは奥の大きな席に座った。
オルドアイはその隣ではなく、少し横に立つ。
あえて座らない。
姫であり、道を開いた者であり、今回の当事者でもあるという立場を示しているようだった。
ミレイユは、それを見て理解した。
(彼女は母の後ろに隠れない。)
(自分の位置を自分で示す。)
(なるほど。)
こちらも負けてはいられない。
ミレイユはソータの隣に立った。
少し前。
商会代表として発言する位置。
恋人としても、ソータを後ろに隠すのではなく、隣に置く位置。
アルベールはミレイユのやや後ろに控える。
その姿だけ見ると、本当にただの執事のようだ。
だが、先ほどのやり取りのせいで、もう誰もそうは見ていない。
ヤンガルドアイも時折、アルベールへ視線を向けている。
ソータはそれに気づき、小声でミレイユへ囁いた。
「アルベールさん、何かありそうだよね。」
「ありそうではなく、あるわ。」
「だよね。」
「後で聞くわ。」
「答えてくれるかな。」
「答えさせるわ。」
ソータは少し安心したような、同情するような顔をした。
アルベールは背後で穏やかに微笑んでいる。
聞こえているはずだった。
ヤンガルドアイが口を開いた。
「さて。」
場が静まる。
「よく来た、ソータ。そして、ミレイユ・クラウゼン。」
「お招きいただき、ありがとうございます。」
ミレイユは礼をした。
「招いた覚えはない。」
ヤンガルドアイは淡々と言った。
「フルムーンに来ることを許しただけだ。」
ミレイユは一瞬で言葉を組み替えた。
「では、通行をお許しいただき、感謝いたします。」
ヤンガルドアイの目が少しだけ楽しげになる。
「言い直しが早い。」
「商人ですので。」
オルドアイが横で小さく笑った。
「またそれだ。」
ヤンガルドアイは娘を見る。
「気に入ったのか。」
「面白い。」
「そうか。」
ヤンガルドアイはミレイユへ視線を戻した。
「娘が面白いと言う女は珍しい。」
「光栄です、と申し上げるべきでしょうか。」
「まだ分からぬな。」
「同感です。」
砦の女たちの間に、わずかなざわめきが走る。
ヤンガルドアイに対して、ここまで落ち着いて返す外の女は珍しいのだろう。
ヤンガルドアイは低く笑った。
「では、話を聞こう。」
ミレイユは一歩前に出た。
「今回、私たちはいくつかの目的で参りました。」
「言え。」
「まず、バルクさんの所在と意思の確認。」
ヤンガルドアイは頷いた。
「あの大きな男か。」
「はい。」
「生きている。」
ソータの表情が少し緩む。
ガルドもわずかに目を動かした。
「今は北の男たちの村にいる。」
「本人の意思ですか。」
ミレイユが尋ねる。
「そうだ。」
「可能であれば、直接確認したいと考えています。」
「フルムーンで道が開けば会える。」
「ありがとうございます。」
「次は。」
「北の部族村との接触、および今後の交易可能性の確認。」
ヤンガルドアイの視線が鋭くなる。
「交易か。」
「はい。」
「何を持ってきた。」
「実用品、保存容器、分類箱、香辛料、布、薬関係の品、その他いくつか。」
「ソータの中か。」
「はい。」
ヤンガルドアイはソータを見る。
「相変わらず、便利な男だ。」
ミレイユの胸が少しざわついた。
便利な男。
その言葉は事実でもある。
しかし、それだけで扱われたくない。
ソータが何か言う前に、ミレイユは静かに言った。
「便利であることは事実です。」
ソータがミレイユを見る。
「ですが、ソータは道具ではありません。」
ヤンガルドアイの目がミレイユへ戻る。
「ほう。」
「彼の能力を使う以上、彼の意思と安全を前提にします。」
「それを言いに来たか。」
「その一つでもあります。」
ヤンガルドアイは、しばらくミレイユを見た。
「娘と似たことを言う。」
ミレイユは少しだけ目を動かした。
オルドアイを見る。
オルドアイは、どこか誇らしげに笑っていた。
「私も言ったぞ、母上。」
「ああ。」
ヤンガルドアイは頷く。
「ソータは腹も心も空でなければ価値が出ぬ、と言ったな。」
「少し違う。」
オルドアイが不満そうに言った。
「ちゃんと食わせて、ちゃんと休ませねばならぬと言った。」
「同じだ。」
「違う。」
母娘のやり取りに、ソータは少し驚いた。
ミレイユも意外だった。
オルドアイは、ソータをただ欲しがっているだけではない。
彼の能力を使うなら彼自身を保たなければならないと、母に言ったのだろう。
(本当に、厄介。)
(こういうところまで見ている。)
ミレイユは内心で苦く思った。
そして、同時に少しだけ認めざるを得なかった。
オルドアイは軽くない。
◆◇◆
話が一段落したところで、ヤンガルドアイの視線が再びアルベールへ向いた。
「ところで、アルベール。」
「はい。」
アルベールは微笑んだまま応じる。
「やはり、気になる。」
「何がでございましょう。」
「その立ち方だ。」
ヤンガルドアイは言った。
「執事の立ち方ではある。だが、それだけではない。」
「長くお嬢様に仕えておりますので、自然と身についたものでございます。」
「違うな。」
ヤンガルドアイは即座に否定した。
「お主は、いつでも逃げ道と死角を見ている。」
場が静かになる。
アルベールは微笑みを崩さない。
「旅の供でございますので。」
「手の位置もだ。」
「礼儀でございます。」
「武器を持っていないようで、持っている者の手だ。」
「年を取りますと、杖が恋しくなるものでございます。」
「杖など持っておらぬ。」
「心の杖でございます。」
レオンが小さく吹き出しかけた。
エルザが無言で睨む。
レオンは必死に口を閉じた。
ミレイユは頭が痛くなってきた。
「アルベール。」
「はい、お嬢様。」
「ごまかしているわね。」
「滅相もございません。」
「今のはさすがに分かりやすいわ。」
「分かりやすいごまかしは、時に相手への礼儀でございます。」
「そんな礼儀は聞いたことがないわ。」
「では、今お聞きになりました。」
ソータは思った。
(強い。)
(違う意味で強い。)
ヤンガルドアイはしばらくアルベールを睨んでいたが、やがて腹の底から笑った。
「よい。今は詮索せぬ。」
「寛大なお心に感謝いたします。」
「だが、お主が何者か、いずれ思い出す。」
「その時は、ぜひ私にもお教えください。」
「白々しい。」
「よく言われます。」
アルベールは恭しく礼をした。
その姿は完璧な執事だった。
だからこそ、余計に怪しかった。
ミレイユは心の中で決めた。
(グランデリアに戻ったら、絶対に問い詰める。)
(いいえ、戻る前でも隙があれば聞く。)
(この人の過去、知らなすぎるわ。)
アルベールは、まるでその決意まで読んだように、穏やかに微笑んでいた。
◆◇◆
再び場が落ち着くと、ヤンガルドアイはソータを見た。
「ソータ。」
「はい。」
「お主は、前より少し顔が変わった。」
「そうですか。」
「迷いが消えたわけではない。」
「はい。」
「だが、迷いを隠す顔ではなくなった。」
ソータは一瞬、ミレイユを見た。
紅い髪紐を見て、またヤンガルドアイへ向き直る。
「ミレイユと、みんなのおかげです。」
ヤンガルドアイは低く笑った。
「娘だけのせいではなくなったか。」
ミレイユの胸が痛む。
だが、ソータは逃げなかった。
「オルドアイに会ったことも、俺にとって大きかったです。」
ミレイユの指が髪紐に触れる。
「でも、今はミレイユと一緒に来ています。」
ソータは言った。
「だから、前と同じようには答えません。」
オルドアイが、静かにソータを見た。
ヤンガルドアイも目を細めた。
「ほう。」
「フルムーンのことも、砦のことも、交易のことも、オルドアイのことも。」
ソータの声は少し震えた。
けれど、止まらなかった。
「ミレイユを置いて決めません。」
ミレイユは、胸の奥が熱くなるのを感じた。
練習した言葉。
何度も確認した約束。
それを、今この砦の長の前で言った。
ヤンガルドアイはしばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「よい。」
その一言に、場の空気が変わった。
「前に来た時よりは、話を聞く価値がある。」
ソータは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。」
オルドアイは少しだけ不満そうでもあり、嬉しそうでもある顔をしていた。
ミレイユはそれを見た。
複雑な感情が胸を過ぎる。
ソータが成長したことを、オルドアイも喜んでいる。
それは嫌だ。
けれど、彼女にもその変化を喜ぶ理由がある。
それも分かってしまう。
(本当に、簡単にはいかない。)
ミレイユは静かに息を吐いた。
◆◇◆
ヤンガルドアイは手を上げた。
「今日は休め。」
「まだ正式な話は。」
ミレイユが言いかけると、ヤンガルドアイは首を振った。
「フルムーンまではまだ日がある。」
「はい。」
「森を抜け、ここまで来た。まずは客として迎える。」
「ありがとうございます。」
「話は夜に少し、明日から本格的にする。」
「承知しました。」
ミレイユは礼をした。
ヤンガルドアイはオルドアイへ視線を向ける。
「オルドアイ。」
「はい、母上。」
「客を案内しろ。」
「分かった。」
「ただし。」
ヤンガルドアイの目が少し鋭くなる。
「勝手にソータを連れ回すな。」
オルドアイが不満そうな顔をした。
「子どもではない。」
「子どもの方がまだ分別がある時もある。」
砦の女たちが小さく笑った。
オルドアイは唇を尖らせる。
ミレイユは思わず少しだけ目を丸くした。
この砦の姫も、母の前ではこういう顔をするのか。
ソータも驚いていた。
オルドアイはそれに気づき、少し頬を赤くした。
「見るな、ソータ。」
「ごめん。」
ミレイユが横から静かに言う。
「可愛らしい一面ですね。」
オルドアイの視線がミレイユへ刺さる。
「言ったな。」
「事実を申し上げました。」
「お前もなかなか性格が悪い。」
「商人ですので。」
「それで全部通すな。」
オルドアイは悔しそうに言った。
ヤンガルドアイが低く笑う。
「本当に面白い女だ。」
ミレイユは丁寧に礼をした。
「恐れ入ります。」
ソータは心の中で呟いた。
(ミレイユ、強い。)
(オルドアイも強い。)
(ヤンガルドアイさんも強い。)
(アルベールさんは怪しい。)
(俺、大丈夫かな。)
その不安を悟ったのか、ミレイユがちらりとこちらを見た。
「ソータ。」
「はい。」
「顔。」
「出てた?」
「出ていたわ。」
「すみません。」
オルドアイが笑う。
「相変わらず分かりやすいな。」
カレンが淡々と言った。
「訓練継続だ。」
レオンが小声で呟く。
「砦でも訓練っすね。」
エルザが静かに答えた。
「むしろここからが本番よ。」
その言葉に、ソータは少しだけ肩を落とした。
◆◇◆
集会小屋を出ると、砦の空気が改めて一行を包んだ。
女戦士たちの視線。
森の奥の湿った風。
干し肉の匂い。
薬草の香り。
遠くで響く弓の弦の音。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
ここまで来た。
霧を抜け、オルドアイと並んで歩き、ヤンガルドアイの前に立った。
ソータは約束を口にした。
そして、アルベールには新たな謎が増えた。
疲れていないはずがない。
心はかなり削られている。
だが、倒れるほどではない。
むしろ、少しだけ足元が見えてきた。
オルドアイは前を歩きながら振り返った。
「ミレイユ。」
「何でしょう。」
「お前の寝床は、私の近くに用意させる。」
ミレイユの眉が動いた。
「なぜですか。」
「話しやすい。」
「監視しやすい、の間違いでは?」
「それもある。」
「正直ですね。」
「お前もだろう。」
「ええ。」
ミレイユは少し考えた。
オルドアイの近くにいるのは危険でもある。
だが、彼女を見る機会が増える。
情報も得られる。
ソータを別にされるなら困るが。
「ソータは。」
「もちろん近くに。」
オルドアイが言った瞬間、ミレイユの目が鋭くなった。
オルドアイは笑った。
「冗談だ。」
「冗談に聞こえません。」
「半分だ。」
「なお悪いです。」
カレンが低く言った。
「配置は護衛側も確認する。」
エルザも頷く。
「安全上、勝手な割り振りは困ります。」
オルドアイは二人を見た。
「お前たちも怖い顔をするな。」
「仕事です。」
カレンが答える。
「同じく。」
エルザも言った。
オルドアイは楽しそうに笑った。
「ソータの周りの女は、皆強いな。」
ミレイユの胸がまた少しざわついた。
だが、今はその言葉を受け流した。
「だから、勝手はさせません。」
ミレイユが言うと、オルドアイは満足げに頷いた。
「そうでなくてはな。」
霧の森を抜けても、霧のような駆け引きは晴れない。
むしろ、砦の中で濃くなっていく。
ミレイユはそれを感じながら、ソータの隣を歩いた。
ソータは紅い髪紐を一度見て、小さく息を吐いた。
その様子を見て、ミレイユはほんの少しだけ口元を緩めた。
(まだ大丈夫。)
(ほどけていない。)
(約束も。)
(私の心も。)
(たぶん、まだ。)
背後では、アルベールが静かに歩いている。
ヤンガルドアイの言葉が、ミレイユの耳に残っていた。
お主は、ずっと以前に会った気がするな。
アルベールは何も語らない。
ただ、いつも通りの微笑みを浮かべている。
砦に来て、恋の問題だけでなく、執事の謎まで深くなってしまった。
ミレイユは心の中でため息をついた。
(本当に、荷が増える一方ね。)
それでも、彼女は足を止めなかった。
砦の奥へ。
フルムーンの交渉へ。
ソータをめぐる答えへ。
そして、アルベールの隠された過去の影へ。
一行は、また一歩進んでいった。




