第89話:霧の道で、二人の女はソータを挟む
霧は、オルドアイの歩みに合わせて動いていた。
白い流れが枝の間を滑り、足元を這い、時に薄く開き、時に背後を閉ざす。
まるで森が勝手に道を譲っているようにも見える。
けれど、ミレイユはすぐに気づいた。
これは、森が勝手に助けているのではない。
霧が偶然、一行を受け入れているのでもない。
オルドアイが動かしている。
霧は彼女の意思に従い、道を示し、余計な方向を隠し、外からの視線を遮っている。
だから、助けられているというより、通行を許されているのだ。
案内されているのではなく、管理されている。
ミレイユはその違いを、商人として敏感に受け取った。
(なるほど。)
(これは親切ではないわ。)
(通行権を握られている。)
(今、私たちは彼女の手の中を歩いている。)
胸の奥が冷静になる。
オルドアイをただ恋敵として見ているだけでは足りない。
この女は、霧の道そのものを動かす権限を持っている。
森の出入り口を握る者。
砦への門を持つ者。
もし交易を考えるなら、彼女の存在は避けて通れない。
そして、その女が今、ソータの方を振り返った。
「ソータ。」
声は明るい。
霧の中でもよく通る。
ソータの肩が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに紅い髪紐を見た。
そして、ミレイユを見た。
ミレイユは小さく頷いた。
「何?」
ソータはそう答えた。
オルドアイは笑った。
「そこでは遠い。」
次の瞬間、彼女は歩く速度を落とした。
そして、当然のようにソータの横へ並んだ。
ミレイユの眉が動いた。
カレンの盾が、ほんのわずかに前へ出る。
エルザの視線が鋭くなる。
ガルドは何も言わないが、歩幅が少し変わった。
レオンは口を開きかけて、エルザに肘で止められた。
アルベールは、いつの間にかミレイユの背後から少し横へずれている。
隊列の空気が、明らかに変わった。
オルドアイはそれを分かったうえで、楽しそうに笑っていた。
「怖い顔をするな。」
「誰に言っているのかしら。」
ミレイユは静かに返した。
「お前だ、ミレイユ。」
「私は普通の顔です。」
「さっきもそれを言ったな。」
「事実ですので。」
「ソータ、今のは普通の顔か?」
急に振られたソータが、完全に固まった。
ミレイユの視線が横から刺さる。
オルドアイの視線が反対側から刺さる。
霧の森の中で、ソータはこの世で最も歩きにくい場所に立たされたような顔をした。
「えっと。」
「答えなさい、ソータ。」
ミレイユが言った。
「答えろ、ソータ。」
オルドアイも言った。
レオンが背後で小さく震えている。
笑いを堪えているのか、恐怖で震えているのかは分からない。
ソータは紅い髪紐を見た。
そして、慎重に答えた。
「普通より少し、警戒している顔だと思う。」
ミレイユは目を細めた。
「そう。」
オルドアイは声を上げて笑った。
「ははっ。正直だな。」
「正直に答えろと言われたから。」
「気に入った。」
オルドアイがソータの肩を軽く叩こうとする。
その瞬間、ソータは半歩下がった。
訓練通りだった。
カレンの盾がすぐに位置を取る。
エルザの指が弓弦に触れた。
オルドアイは手を止め、目を丸くした。
それから、面白そうに笑った。
「避けたな。」
「うん。」
「前は、そんなに早く逃げなかった。」
ミレイユの胸が痛んだ。
前は。
その二文字が、霧より冷たく胸に入り込む。
けれど、ソータはすぐに言った。
「練習した。」
「誰と。」
「みんなと。」
「何のために。」
オルドアイの声は楽しげだった。
だが、目は鋭い。
ソータは、ミレイユの髪紐を見た。
それから言った。
「流されないために。」
ミレイユの指が紅い髪紐に触れた。
オルドアイの笑みが少しだけ薄くなる。
「私にか。」
「オルドアイにも。」
ソータは正直に言った。
「俺自身にも。」
霧の中の空気が、一瞬静かになった。
オルドアイはソータを見つめる。
その目には、からかいだけではないものがあった。
「そうか。」
短い言葉だった。
ミレイユはその横顔を見た。
オルドアイは傷ついているのかもしれない。
けれど、同時に嬉しそうでもある。
ソータが逃げずに答えたことを、女として、戦士として、認めたようにも見える。
(本当に厄介ね。)
(ここで怒ってくれた方が楽なのに。)
(この女は、正面から受け止める。)
ミレイユは胸の痛みを抱えたまま、歩き続けた。
◆◇◆
オルドアイは結局、ソータの横を離れなかった。
ミレイユは当然のように、ソータの反対側へ並んだ。
結果として、ソータは二人の女に挟まれる形になった。
霧の道。
森の中。
視界の悪い通路。
普通なら周囲への警戒が最優先になる場所で、なぜか一行の中心だけ、別の種類の緊張で満ちていた。
エルザは後方からその様子を見て、浅く息を吐いた。
(これは、魔物より神経を使うわね。)
彼女は口に出さなかった。
だが、隣を歩くレオンには伝わったらしい。
「エルザさん。」
「何。」
「今、絶対に面倒だと思ったっすよね。」
「思ったわ。」
「正直っすね。」
「否定する余裕がないもの。」
レオンは乾いた笑いを漏らした。
カレンは、ミレイユの少し前を歩きながら、盾を持つ手を緩めなかった。
彼女にとって、目の前の状況は戦闘ではない。
だが、危険ではある。
剣も弓も飛んでこない。
しかし、言葉が飛ぶ。
視線が刺さる。
ソータが一歩間違えれば、場が荒れる。
場が荒れれば、霧の道を握るオルドアイの機嫌が問題になる。
(護衛対象が、物理的に傷つく前に精神的に倒れる可能性がある。)
カレンはそう判断した。
そして、少しだけソータを見た。
(持つのか、あの男。)
ソータは持ちこたえていた。
少なくとも、今のところは。
オルドアイが霧を動かしながら、横目でミレイユを見た。
「その髪紐、赤だな。」
「ええ。」
「私への布も赤か。」
ミレイユの足が一瞬だけ止まりかけた。
だが、止めなかった。
「なぜそう思うのですか。」
「お前の目がそう言っている。」
「目で贈り物の色まで分かるのですか。」
「だいたい分かる。」
「便利な目ですね。」
「森で生きるには必要だ。」
オルドアイは笑った。
「ソータ。」
「何?」
「私に赤は似合うか。」
ソータの顔が、見事に引きつった。
ミレイユは前を向いたまま、声だけを冷静にした。
「ソータ。」
「はい。」
「答え方を間違えないように。」
「はい。」
オルドアイは楽しそうに笑っている。
完全に試している。
ソータは紅い髪紐を見た。
それから、慎重に言った。
「赤い布は、砦への贈り物としてミレイユが選んだ。」
「ほう。」
「俺が似合うかどうかを今ここで言うものじゃないと思う。」
ミレイユは、心の中で大きく頷いた。
(よく言ったわ。)
オルドアイは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「つまらない答えだ。」
「でも、今の俺には必要な答えだと思う。」
オルドアイはソータを見た。
「成長したな。」
ミレイユがすぐに言った。
「私のおかげです。」
ソータが横で小さくむせた。
オルドアイが声を上げて笑う。
「お前は本当に逃げないな、ミレイユ。」
「逃げるために来たわけではありません。」
「では、張り合うためか。」
「必要なら。」
「必要だと思うぞ。」
「そうでしょうね。」
霧の道が少し明るくなった。
オルドアイが歩きながら軽く手を動かすと、白い霧が右側へ流れ、足元に隠れていた根が見えた。
「そこ、踏むな。」
彼女が言う。
ソータがすぐに足を避ける。
ミレイユも避けた。
「ありがとうございます。」
ミレイユは礼を言った。
オルドアイは少し意外そうにした。
「礼を言うのか。」
「助言には礼を言います。」
「助けられたとは思っていない顔だ。」
「ええ。」
ミレイユは静かに答えた。
「あなたは霧を動かしている。道を開いている。けれど、それは私たちをただ助けているのではなく、通しているのだと理解しています。」
オルドアイの目が細くなる。
「分かるのか。」
「商人ですから。」
「商人は霧も読むのか。」
「権限の匂いは読みます。」
レオンが後ろで小さく呟いた。
「権限の匂いってすごいっすね。」
エルザがまた肘で止めた。
「黙って。」
「はいっす。」
オルドアイは、ミレイユを見て楽しげに笑った。
「気に入った。」
「気に入られるために言ったわけではありません。」
「それでも気に入った。」
「困りますね。」
「困る顔をしていない。」
「しています。」
「嘘だ。」
「少しはしています。」
ソータは二人の間で、まるで左右から違う風を受ける旗のようになっていた。
(これ、俺が真ん中にいる意味あるか?)
(いや、あるんだろうな。)
(たぶん、すごくある。)
(でも胃が痛い。)
彼は自分の香り袋を思い出した。
リーナからもらったものだ。
今夜は使おう。
そう心の中で強く決めた。
◆◇◆
霧の道は、迷うことなく進んでいた。
前回、ソータたちが同じような場所を何度も回らされた場所も、今回はまったく違って見えた。
オルドアイが軽く手を上げると、霧が左右へ分かれ、似たような木々の中に一本だけ細い道が浮かぶ。
彼女が足を止めれば、霧も止まる。
彼女が進めば、霧も流れる。
助かったのではない。
迷わなかったのだ。
オルドアイが迷わせなかったから。
その事実が、一行全員に伝わっていた。
ガルドは低く言った。
「霧導きの石か。」
オルドアイは前を向いたまま答えた。
「石だけではない。」
「術か。」
「血と、役目と、森との約束だ。」
ミレイユはその言葉を聞き逃さなかった。
血。
役目。
森との約束。
交易路として簡単に買えるものではない。
契約書に署名させれば済む話ではない。
この霧の道は、アマゾネスたちの文化と支配の中心に近いものだ。
(重要情報ね。)
(フルムーンだけでなく、血筋や役目も関わる。)
(オルドアイがこの道を動かせることには、政治的意味がある。)
ミレイユの商人としての目が動く。
オルドアイは横目でそれに気づいた。
「また考えているな。」
「仕事ですので。」
「ソータのことではないのか。」
「今は霧の道についてです。」
「つまらない。」
「あなたにとってはそうでしょう。」
「いや。」
オルドアイは笑った。
「ソータの横で仕事の顔をする女は、少し面白い。」
「少しですか。」
「かなりだ。」
「それは光栄です。」
ミレイユの声は丁寧だった。
だが、甘くはない。
ソータはその横で、少しだけほっとしていた。
二人の会話が、恋のさや当てから商談に寄った気がしたからだ。
しかし、オルドアイはすぐに戻してきた。
「ソータは、その顔も好きなのか。」
ソータの足が危うく根に引っかかりかけた。
カレンが即座に低く言った。
「足元。」
「はい。」
ソータは姿勢を直した。
ミレイユは前を見たまま言った。
「答えなくていいわ。」
オルドアイが楽しそうに言う。
「逃がすのか。」
「違います。」
「では?」
「私が聞く時は、私が聞きます。」
ソータが小さく息を呑んだ。
オルドアイはしばらくミレイユを見て、それから笑った。
「そうか。」
彼女はソータへ目を向けた。
「大事にされているな、ソータ。」
「うん。」
ソータは答えた。
「大事にされている。」
ミレイユの胸が、ふっと熱くなる。
オルドアイは少しだけ目を細めた。
「その自覚があるならいい。」
「前よりは。」
「前はなかったのか。」
「足りなかったと思う。」
オルドアイは何かを言いかけ、少しだけ黙った。
それから、前を向いた。
「そうか。」
短い返事。
その背中に、ほんのわずかな寂しさが見えた気がした。
ミレイユは、それを見たくなかった。
見れば、彼女をただ憎むことが難しくなる。
だが、もう見てしまった。
(この女も、ソータの変化を見ている。)
(そして、その変化の中に自分がいないことを感じている。)
(……嫌ね。)
(分かりたくないのに、分かってしまう。)
ミレイユは唇を引き結んだ。
◆◇◆
エルザは、後方から三人の配置を見ていた。
ソータを中央に、左にミレイユ、右にオルドアイ。
見事なほど危うい並びだった。
霧の道を進むうえでは、オルドアイが近くにいるのは合理的だ。
道を開いているのは彼女なのだから。
ソータの位置を把握しておく必要もあるのだろう。
だが、心情的にはまったく合理的ではない。
ミレイユの背筋は伸びている。
紅い髪紐が揺れるたびに、ソータの視線が戻る。
オルドアイはそれを分かっていて、時折あえてソータへ話しかける。
ミレイユは言葉で線を引く。
ソータは必死にその線を踏まないよう歩いている。
エルザは静かに息を吐いた。
(矢より難しいわね。)
レオンがまた小声で寄ってくる。
「エルザさん。」
「何。」
「俺、今なら魔物十匹の方が気楽っす。」
「同感よ。」
「同感なんすか。」
「ええ。」
カレンが前方から低く言った。
「口を動かすな。耳を使え。」
「はいっす。」
レオンは慌てて口を閉じた。
カレンは三人を見ながら、ミレイユの動きを確認している。
感情が動いても、歩幅は乱れていない。
足元への注意もできている。
ソータも危ういが、訓練の成果は出ている。
オルドアイは近いが、まだ手を出していない。
(今のところ、盾を入れる必要はない。)
そう判断する。
だが、油断はしない。
恋の場であっても、身体は勝手に動くことがある。
抱きつく。
腕を取る。
引き寄せる。
そうなれば、ミレイユの表情がどうなるか分からない。
(面倒な仕事だ。)
カレンは心の中でそう思った。
だが、不思議と嫌ではなかった。
この一行には、妙な真剣さがある。
馬鹿げた三角関係に見える瞬間もある。
けれど、誰も軽く扱っていない。
ソータも、ミレイユも、オルドアイも。
だからこそ、余計に厄介なのだ。
◆◇◆
霧の中ほどに差しかかった時、オルドアイがふいにソータへ近づいた。
ほんの半歩。
だが、ミレイユには大きな半歩だった。
ソータはすぐに気づき、距離を保とうとする。
しかし、右はオルドアイ。
左はミレイユ。
後ろにはカレン。
前は霧の道。
逃げ場が少ない。
オルドアイは笑った。
「そんなに逃げるな。」
「逃げる練習をしてきたから。」
「私からか。」
「流される自分から。」
ソータはそう答えた。
オルドアイの足が止まった。
霧も少し止まる。
ガルドがすぐに周囲を見る。
エルザも警戒を強める。
オルドアイはソータを見た。
その顔から、からかいが少し消えていた。
「ソータ。」
「うん。」
「私といた時、お前は流されていたのか。」
重い問いだった。
ミレイユの胸が締めつけられる。
聞きたくない。
けれど、聞かなければならない。
ソータは、紅い髪紐を見た。
それから、オルドアイを見た。
「全部が流されていたわけじゃない。」
ミレイユの指が少し震えた。
ソータは続ける。
「オルドアイが強くて、真っ直ぐで、綺麗だと思った。」
痛い。
それでも、ミレイユは目を逸らさなかった。
「でも、どう答えるべきか、自分でちゃんと立てていなかった。」
「……。」
「ミレイユがいるのに、オルドアイの気持ちにもちゃんと線を引けなかった。」
「……。」
「だから、今は流されないようにしている。」
オルドアイは黙っていた。
霧の中で、彼女の表情は少し読みにくい。
だが、笑ってはいなかった。
「私の気持ちは、迷惑だったか。」
オルドアイが静かに聞いた。
ソータは苦しそうにした。
「迷惑だけじゃない。」
ミレイユの胸が、また痛んだ。
「嬉しかった部分もある。」
その言葉に、ミレイユは息を吸った。
エルザの視線が一瞬ミレイユへ向く。
カレンの足が半歩動く。
だが、ミレイユは声を出さなかった。
(聞くと決めた。)
(隠さないでと言った。)
(今、逃げたら私が負ける。)
ソータは、ミレイユの方を向いた。
「ミレイユ。」
「……何?」
「今の言葉は、傷つけると思う。」
「ええ。」
「でも、隠したくない。」
「続けなさい。」
声は少し硬かった。
だが、言えた。
ソータは頷いた。
「オルドアイに求められて、嬉しかった気持ちはあった。」
「……。」
「でも、それをそのまま受け取っていい立場じゃなかった。」
「……。」
「だから、今はミレイユの隣に立って、オルドアイにもちゃんと向き合いたい。」
ミレイユは、胸の痛みの中でその言葉を受け止めた。
痛い。
とても痛い。
けれど、これは隠されるよりましだった。
少なくとも、ソータは今、逃げなかった。
オルドアイは、長く息を吐いた。
「そうか。」
彼女は少しだけ笑った。
寂しそうで、悔しそうで、それでもどこか満足げな笑みだった。
「なら、今のソータは前より面白い。」
ミレイユはオルドアイを見た。
「面白い、で済ませるのですか。」
「済ませない。」
オルドアイはミレイユを見る。
「だが、今ここで奪うとも言わない。」
ミレイユの目が鋭くなる。
「今ここでは、ですか。」
「そうだ。」
「正直ですね。」
「お前もだろう。」
「ええ。」
ミレイユは一歩も引かなかった。
「では、私も正直に言います。」
「聞こう。」
「今の話は、痛かったです。」
「……。」
「でも、ソータが隠さず言ったことは評価します。」
ソータの顔が苦しそうに緩む。
「そして、あなたが今ここで無理に奪わないと言ったことも、一応は受け取ります。」
「一応か。」
「当然です。」
オルドアイは笑った。
「いい。」
彼女は再び前を向いた。
「やはり、お前と話すのは面白い。」
「私は疲れます。」
「私も少し疲れる。」
「そうは見えません。」
「見せていない。」
その一言に、ミレイユは少しだけ黙った。
オルドアイにも、見せていない疲れがある。
強い女だからこそ、表に出さないものがある。
それを理解してしまうのが、悔しかった。
◆◇◆
そこから先、霧の道はさらに深くなった。
けれど、迷いはなかった。
オルドアイが手を上げる。
霧が開く。
彼女が一歩進む。
道が現れる。
後ろはすぐに白く閉じる。
この道は、許された者しか通れない。
そして今、自分たちは許されている。
だが、それは決して自由ではない。
ミレイユはその感覚を、はっきり理解した。
「オルドアイ姫。」
「なんだ。」
「この霧の道を、商会の者だけで通ることは可能ですか。」
「無理だ。」
即答だった。
「霧導きの石があっても?」
「石だけでは足りない。」
「先ほど、血と役目と森との約束と言いましたね。」
「聞いていたか。」
「当然です。」
「なら、その通りだ。」
オルドアイは歩きながら続けた。
「石は鍵の一つだ。だが、鍵だけ持っていても扉は開かない。」
「扉を開ける者が必要。」
「そうだ。」
「それがあなた。」
「今はな。」
今は。
ミレイユはその言葉を覚えた。
「継承されるのですね。」
「質問が多い女だ。」
「商会代表ですので。」
「砦で母上にも聞け。」
「聞きます。」
「母上は、お前を気に入るかもしれない。」
「それは良いことですか。」
「さあな。」
オルドアイは笑った。
ソータが小声で言った。
「ヤンガルドアイさんは、迫力あるよ。」
「あなたから聞いています。」
「ミレイユなら大丈夫だと思うけど。」
「当然です。」
ミレイユは即答した。
オルドアイが横から言う。
「強がりか。」
「準備です。」
「似ているな。」
「違います。」
「そうか。」
オルドアイはまた笑った。
レオンが後ろで小声で呟く。
「なんか、仲悪いのに会話のテンポが合ってるっす。」
エルザが低く言った。
「それが一番危険なのよ。」
「そうなんすか。」
「距離が近くなる。」
カレンが淡々と付け加えた。
「距離が近い相手ほど、ぶつかった時に痛い。」
レオンは少し真顔になった。
「なるほどっす。」
エルザはミレイユの背中を見た。
紅い髪紐が揺れている。
その揺れが、今やソータだけでなく、同行者全員の目印のようになっていた。
ミレイユが立っている。
ソータが戻る場所を見失っていない。
その証のように。
◆◇◆
やがて、霧の色が変わり始めた。
白いだけだった視界の奥に、淡い明るさが混じる。
木々の影が薄くなり、湿った空気の向こうから、別の風が流れてきた。
土の匂いに、煙の匂いが混じった。
遠くで、水の流れる音もする。
森の奥深くに入ったはずなのに、不思議と空が近くなったように感じられた。
オルドアイが言った。
「もうすぐ抜ける。」
ミレイユは前を見た。
「早いのですね。」
「迷わせていないからな。」
オルドアイは当然のように言った。
「前回は、こちらがお前たちを見極める必要があった。」
ソータが少し顔を引きつらせる。
「やっぱり、わざと迷わせてたのか。」
「そうだ。」
「結構大変だったんだけど。」
「知っている。」
「見てたのか。」
「見ていた。」
ソータは肩を落とした。
ミレイユはそのやり取りを聞き、少し目を細めた。
助けられたのではない。
試されていた。
見極められていた。
そして今は、迷わせずに通している。
オルドアイが霧を動かすということは、そういうことだ。
「今回は、なぜ迷わせないのですか。」
ミレイユが尋ねた。
オルドアイは少しだけ振り返った。
「ソータはもう見た。」
「……。」
「お前も、今見ている。」
「私を?」
「そうだ。」
オルドアイはミレイユを見た。
「森の中で足を止める女か、進む女か。」
「結果は?」
「まだ途中だ。」
「厳しいですね。」
「当然だ。」
オルドアイは笑った。
「ソータの隣に立つと言った女を、簡単には認めない。」
ミレイユの胸が熱くなった。
怒りにも似ている。
闘志にも似ている。
「それはこちらの台詞でもあります。」
「私を認めないのか。」
「簡単には。」
オルドアイは楽しそうに笑った。
「いい。」
その笑いと同時に、霧が大きく開いた。
白い幕が左右へ流れる。
木々の密度が薄くなり、視界が一気に広がった。
朝の光より少し高くなった陽が、霧の向こうから差し込む。
湿った葉が光り、苔むした岩が銀色に輝く。
そして、その先に、森の内側とは思えない広がりがあった。
霧の森を抜けたのだ。
ミレイユは足を止めた。
背後には白い霧。
前方には開けた道。
遠くには、木々の間に隠れるように築かれた砦の影が見える。
前回ソータがたどり着いた場所。
オルドアイの砦へ続く道。
ミレイユは深く息を吸った。
霧の中とは違う空気。
湿り気はあるが、少し温かい。
人の気配がある。
遠くで木を叩く音。
鳥の声。
そして、かすかな煙の匂い。
(抜けた。)
(迷わずに。)
(彼女が、迷わせなかったから。)
(そして私は、その間ずっと見ていた。)
ソータが隣に立っている。
オルドアイも、反対側に立っている。
三人の影が、霧を背にして並んだ。
エルザが静かに息を吐いた。
カレンも盾の位置を少し下げる。
レオンが小さく呟いた。
「霧より、会話の方で迷いそうだったっす。」
ガルドが低く言った。
「まだ始まったばかりだ。」
「ですよね。」
アルベールは、穏やかに微笑んだ。
「まずは無事に森を抜けられました。」
「無事と言っていいのかしら。」
エルザが小さく言う。
「身体は無事ね。」
カレンが答える。
「心は知らない。」
レオンが苦笑した。
ミレイユはその会話を聞きながら、紅い髪紐に触れた。
ほどけていない。
ソータが結んだまま、霧を抜けた。
ソータがそれを見て、少しだけ安心したように笑った。
オルドアイもそれに気づき、肩をすくめた。
「よく結ばれているな。」
「ソータが結びましたので。」
ミレイユは即座に答えた。
ソータが顔を赤くする。
オルドアイは笑った。
「なら、ほどくのは難しそうだ。」
ミレイユはオルドアイを見た。
「簡単にはほどかせません。」
「だろうな。」
オルドアイは前を向き、砦の方へ歩き出した。
「来い。」
彼女の声が、霧を抜けた空気に響いた。
「母上が待っている。」
ヤンガルドアイ。
砦の長。
前回、ソータに重い選択を突きつけた女。
ミレイユは背筋を伸ばした。
霧の道は終わった。
だが、本当の交渉はこれからだ。
恋のさや当ても、きっとまだ終わらない。
むしろ、砦に着けばさらに深くなる。
ミレイユはソータを見た。
「行きましょう。」
「うん。」
ソータは頷いた。
彼の視線は、紅い髪紐を一度見てから、ミレイユへ戻った。
ミレイユはそれを確認し、前を向いた。
霧の森は背後で静かに閉じていく。
白い幕が、今来た道を隠していく。
もう戻る道は見えない。
けれど、進む道は見えている。
ミレイユは、ソータの隣で一歩を踏み出した。
オルドアイはその少し先で、こちらを振り返って笑っている。
霧を抜けた先で、三人の物語はさらに厄介な形へ進み始めていた。




