第88話:霧の上の姫は、恋敵を見下ろして笑う
霧の中で、時間が一度止まったように感じられた。
木の上に立つ女。
高い枝の上で、まるでそこが自分の広間であるかのように堂々と立っている。
褐色の肌。
風に揺れる長い髪。
背に負った弓。
獣の革と布を組み合わせた、戦士の装い。
露わになった腕や腹には、鍛えられたしなやかな筋肉があり、その立ち姿だけで、ただ美しいだけの女ではないと分かる。
ミレイユは、息を整えた。
(これが、オルドアイ。)
(ソータが会った女。)
(ソータを欲しいと言った女。)
(そして、ソータが綺麗だと思った女。)
胸の奥が、鋭く痛んだ。
想像はしていた。
ソータの話を聞いた時から、きっと強く、美しい女なのだろうと分かっていた。
けれど、実際に見るのと、想像するのとでは違う。
霧の中に立つオルドアイは、森そのものに馴染んでいた。
枝の上にいるのに危うさがない。
霧の向こうから現れたのに、不自然さがない。
まるで北の森が彼女を隠し、彼女のために道を開いているようだった。
ミレイユは、紅い髪紐に触れた。
白石の飾りが、霧の湿った空気の中で小さく冷たく光った。
(怯まない。)
(見上げる形になっているのは気に入らないけれど。)
(今、目を逸らしたら負ける。)
オルドアイは枝の上で片膝を少し曲げ、楽しげにこちらを見下ろしていた。
「クラウゼン商会会頭代理、ミレイユ・クラウゼンです。」
ミレイユは先ほどの名乗りを、もう一度心の中で確かめた。
会頭代理として。
ソータの恋人として。
そして、まだ見ぬ未来を自分で選ぶ女として。
オルドアイは、口元を大きく緩めた。
「ふうん。」
その声には、遠慮がなかった。
値踏みするようで、興味深そうで、少し面白がっている。
「お前が、ソータの女か。」
ソータの肩がわずかに強張った。
ミレイユは、ソータが何か言う前に口を開いた。
「ええ。」
短く。
はっきりと。
「私が、ソータの恋人です。」
森の中の空気が、ほんの少し変わった。
レオンが後ろで息を呑む気配がした。
エルザは弓に手をかけたまま静かに見ている。
ガルドは表情を変えない。
カレンは盾を少しだけ前へ出していた。
アルベールは、まるで最初からその答えを待っていたかのように穏やかだった。
ソータは、ミレイユの隣から動かなかった。
それが、ミレイユには分かった。
彼は、オルドアイの声を聞いても、枝の上の姿を見ても、一歩も前へ出ていない。
ミレイユの隣に立っている。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
オルドアイは、声を出して笑った。
「ははっ。」
森に笑い声が響く。
霧が揺れたように見えた。
「そうか。」
オルドアイは、枝の上で軽く身を乗り出す。
「お前がそうか。」
「私をご存じでしたか。」
「ソータから聞いた。」
ミレイユの胸がまた痛んだ。
ソータが、自分のことをオルドアイに話した。
当然だ。
恋人がいると伝えたのだから。
むしろ伝えなければ問題だ。
それでも、痛い。
(落ち着きなさい。)
(これは当然のこと。)
(当然のことで痛む自分を、責めなくていい。)
(でも、痛みに飲まれない。)
ミレイユは顔を上げたまま言った。
「では、話が早いですね。」
「早いか?」
「ええ。」
ミレイユは、ソータの隣に立ったまま続けた。
「私はソータの恋人として、そしてクラウゼン商会の代表として、あなた方の砦へ伺います。」
「商会の代表。」
オルドアイは目を細めた。
「それも聞いた。」
「そうですか。」
「ソータをただ迎えに来た女ではない、という顔をしている。」
「ただ迎えに来たわけではありません。」
ミレイユは静かに答えた。
「けれど、ソータの隣に立つために来たのは事実です。」
オルドアイの表情が、少し変わった。
笑っている。
だが、その目の奥が鋭くなった。
ミレイユは、その変化を見逃さなかった。
(見ている。)
(この女も、私を見ている。)
(恋敵として。)
(交渉相手として。)
(ソータの隣に立つ女として。)
霧の中で、二人の視線がぶつかった。
◆◇◆
ソータは、息をするのを忘れそうになっていた。
オルドアイが現れた瞬間、胸の奥が跳ねた。
前回の記憶が、一気に戻ってきた。
枝の上からこちらを見ていた姿。
霧の道を開いた時の声。
砦で見せた強さ。
宴の熱。
浴場の湯気。
唇の感触。
門の前で別れ際に見せた笑み。
そのすべてが、霧と一緒に蘇った。
(駄目だ。)
(飲まれるな。)
(見る。)
ソータは、ミレイユの紅い髪紐を見た。
霧の中でも、その赤ははっきり見えた。
白い石が小さく光っている。
今朝、自分が結んだ髪紐。
ミレイユの髪に触れる前に確認し、丁寧に結び、約束を結んだ印。
(ミレイユがいる。)
(俺はミレイユの隣に立っている。)
(隠さない。)
(置いて決めない。)
ソータは小さく息を吸った。
オルドアイは美しい。
それは否定できない。
強い。
鮮やかだ。
霧の森の中で、彼女は確かに目を奪う存在だった。
だが、今、隣にいるのはミレイユだ。
自分の髪を結ばせてくれた人。
傷つきながらも、この森まで来た人。
自分の弱さを見張ると言ってくれた人。
ソータは、ミレイユの横顔を見た。
彼女は背筋を伸ばしている。
顔は落ち着いている。
けれど、髪紐に触れた指先に、ほんの少し力が入っている。
(怖いんだ。)
(それでも立っている。)
ソータは胸が締めつけられた。
今、何か言うべきか。
ミレイユを紹介するべきだ。
練習した。
砦に着いたら、まず紹介するはずだった。
けれど、オルドアイは森で先に現れた。
それでも、今がその時だ。
「オルドアイ。」
ソータは声を出した。
オルドアイの視線が、ぱっとソータへ向いた。
「ソータ。」
その呼び方は明るかった。
まっすぐだった。
前と同じ熱を含んでいた。
ミレイユの指先が、紅い髪紐に触れたままわずかに動いた。
ソータはその動きを視界の端で感じながら、言った。
「こちらが、クラウゼン商会会頭代理のミレイユです。」
練習した言葉。
だが、声は少しだけ震えた。
それでも続ける。
「俺の恋人で、今回の交渉の代表でもあります。」
言い切った。
森が、少し静かになった気がした。
ミレイユは、ソータの方を見なかった。
けれど、隣でほんの少しだけ息を吐いたのが分かった。
オルドアイは、枝の上で目を細めた。
「恋人。」
「ああ。」
ソータは頷いた。
「俺は、そのことを隠さない。」
オルドアイの笑みが少しだけ深くなる。
「前より、少し男の顔をするようになったな。」
ソータは返事に詰まった。
ミレイユの視線が、横から刺さる気配がした。
(今のは、どう答えても危ない。)
レオンが後ろで小さく咳き込んだ。
エルザの気配が少しだけ厳しくなる。
カレンはたぶん、今すぐ割って入れる位置を測っている。
ソータは、紅い髪紐を見た。
そして、余計なことを言わずに答えた。
「そうなら、ミレイユのおかげだ。」
ミレイユの気配が少し変わった。
オルドアイの眉が動く。
それから、彼女は楽しそうに笑った。
「面白い。」
枝の上で、オルドアイは軽く腰に手を当てた。
「本当に面白いぞ、ソータ。」
◆◇◆
ミレイユは、今の一言を胸の中で受け止めていた。
そうなら、ミレイユのおかげだ。
完璧な答えではないかもしれない。
商談としては、少し個人的すぎる。
けれど、今のミレイユには十分だった。
オルドアイの前で、ソータがそう言った。
自分のおかげだと。
自分を隠さずに。
胸の痛みが、完全に消えたわけではない。
だが、少しだけ別の熱が混じった。
(よく言ったわ。)
(本当に、少しずつ覚えているのね。)
ミレイユは、ソータを褒めたい気持ちを一度しまい、オルドアイを見上げた。
「オルドアイ姫。」
「なんだ、ミレイユ。」
名を呼び捨てにされた。
ミレイユの眉がわずかに動く。
だが、ここで礼儀を細かく正すより先に、確認すべきことがある。
「私たちは、あなた方の砦へ向かうために来ました。」
「ああ。」
「フルムーンの件、北の部族村の件、バルクさんの件、そして今後の交易の可能性について、正式に話し合いたいと考えています。」
「堅いな。」
「商会代表ですので。」
「ソータの女でもあるのだろう?」
「ええ。」
ミレイユは一歩も引かずに答えた。
「ですから、なおさら曖昧にはしません。」
オルドアイは、少しだけ目を見開いた。
その反応を見て、ミレイユは思った。
この女は、真っ直ぐに来る相手には真っ直ぐ反応する。
駆け引きはできるだろう。
だが、基本にあるのは獲物を見定めるような率直さだ。
商人としては、分かりやすいところもある。
女としては、厄介すぎる。
「曖昧にしない、か。」
オルドアイは楽しげに言った。
「なら、聞こう。」
「何でしょう。」
「お前は、ソータを渡さないために来たのか。」
空気が張り詰めた。
ソータが息を止めたのが分かった。
ガルドの気配が鋭くなる。
エルザは無言。
レオンはきっと心の中で叫んでいる。
カレンの盾がわずかに動いた。
ミレイユは、すぐには答えなかった。
渡さない。
言いたい。
声を大にして言いたい。
ソータは私の恋人だ。
あなたには渡さない。
そう叫びたい。
だが、それだけでは足りない。
ソータは物ではない。
荷ではない。
誰かの所有物ではない。
そして、オルドアイは単なる恋敵ではない。
彼女の背後には砦があり、民があり、フルムーンがある。
ミレイユは、紅い髪紐に触れた。
(荷札を間違えない。)
(私の嫉妬。)
(ソータの意思。)
(オルドアイの願い。)
(砦との交渉。)
(全部、混ぜない。)
ミレイユは顔を上げた。
「いいえ。」
ソータがわずかにこちらを見た。
オルドアイも目を細める。
ミレイユは続けた。
「私は、ソータを物のように渡す、渡さないと決めるために来たのではありません。」
森の霧が、ゆっくり流れる。
「ソータの意思を私抜きで決めさせないために来ました。」
ソータの表情が変わった。
「そして、私自身の意思を、あなたに直接伝えるために来ました。」
オルドアイは黙って聞いている。
「私はソータの恋人です。」
「……。」
「彼を大切に思っています。」
「……。」
「だから、あなたが彼を求めたことに腹を立てています。」
ソータが固まった。
レオンの気配が跳ねた。
エルザは静かにミレイユを見ている。
アルベールは何も言わない。
ミレイユは、そのまま続けた。
「でも、あなたの想いを軽いものとして扱うつもりもありません。」
オルドアイの目が、ここで初めて明確に変わった。
「ほう。」
「あなたが砦の姫として何を背負っているのかも、女として何を望んでいるのかも、私はまだ知りません。」
「……。」
「だから見に来ました。」
ミレイユは、霧の中でまっすぐに立った。
「あなたを知ったうえで、考え、選ぶために。」
オルドアイは、しばらく何も言わなかった。
木の葉から雫が落ちる音がした。
霧が流れ、オルドアイの顔が少しだけはっきり見えた。
美しい。
悔しいほどに。
そして、その目は笑っているだけではなかった。
オルドアイは、低く笑った。
「いい女だな。」
ミレイユの胸が、別の意味でざわついた。
「それは、褒め言葉として受け取ってよいのでしょうか。」
「褒めている。」
オルドアイは枝の上で、楽しそうに歯を見せた。
「腹を立てていると言いながら、私を見に来たと言う。」
「ええ。」
「ソータを物扱いしないと言いながら、隣に立つと宣言する。」
「ええ。」
「弱そうに見えて、逃げない。」
「弱くないとは言っていません。」
ミレイユは答えた。
「弱くても、逃げないだけです。」
オルドアイは、一瞬だけ黙った。
そして、笑った。
「やはり面白い。」
◆◇◆
オルドアイは、枝から軽やかに飛び降りた。
カレンが即座に盾を前へ出す。
ガルドも一歩動いた。
エルザの指が弓にかかる。
だが、オルドアイは着地した場所からそれ以上近づかなかった。
霧をまといながら、彼女は地面に立つ。
木の上にいた時より、ずっと近い。
その存在感が、さらに強くなる。
ミレイユは初めて、彼女と同じ高さで向き合った。
目の高さは、オルドアイの方が少し高い。
体格も、鍛えられたしなやかさも、圧がある。
だが、見上げるほどではない。
ミレイユは胸の中で小さく息を吐いた。
(同じ地面に降りた。)
(ここからが本当の対面ね。)
オルドアイはソータを見た。
「ソータ。」
その声には、先ほどより柔らかさがあった。
ソータの表情が一瞬揺れる。
ミレイユはそれを見た。
見たうえで、紅い髪紐に触れた。
ソータの視線が、髪紐へ落ちる。
それから、ミレイユへ戻る。
彼は一歩も動かなかった。
オルドアイは、それを見て笑った。
「なるほど。」
「何がですか。」
ミレイユが尋ねる。
「その赤い紐か。」
ミレイユの指が止まった。
オルドアイの視線が、ミレイユの髪紐へ向いている。
「ソータが見ている。」
ミレイユの心臓が跳ねた。
見抜かれた。
この女は、ただ豪快なだけではない。
観察している。
ソータの目の動きも、ミレイユの指先も、全部。
「ええ。」
ミレイユは隠さなかった。
「これは、私とソータの約束の印です。」
ソータの息が小さく動いた。
オルドアイは髪紐を見つめ、そして少しだけ目を細めた。
「綺麗だ。」
「ありがとう。」
「ソータが結んだのか。」
ミレイユの胸がまた鳴った。
「ええ。」
「そうか。」
オルドアイは、少しだけ笑った。
その笑みは、先ほどまでの挑発的なものとは違った。
何かを認めたような。
同時に、悔しさも含んでいるような。
「ソータ。」
「うん。」
ソータの声は少し緊張していた。
「お前、そんなこともするようになったのか。」
「練習した。」
「誰のために。」
ミレイユの指がわずかに強くなる。
ソータは、髪紐を見た。
そして言った。
「ミレイユのために。」
ミレイユの胸が熱くなった。
オルドアイは、一瞬だけ唇を閉じた。
その顔を見て、ミレイユは気づいた。
オルドアイも傷ついている。
それは小さな変化だった。
森の姫としての強さの奥に、ほんの一瞬だけ見えた女の痛み。
胸が痛む。
不思議な痛みだった。
勝ったという喜びではない。
ざまあみろという気持ちでもない。
けれど、自分だけが痛んでいるわけではないのだと知る痛み。
(あなたも、本気なのね。)
それは、ミレイユにとって嬉しくない事実だった。
けれど、見誤ってはいけない事実でもあった。
オルドアイは、すぐに笑みを戻した。
「よし。」
彼女は弓を背負い直した。
「砦へ案内する。」
空気が少し動いた。
ガルドが目を細める。
「条件は。」
「前と同じだ。」
オルドアイは答えた。
「霧の道は私が開く。離れるな。勝手に進むな。森に触れすぎるな。」
レオンが小声で言った。
「森に触れすぎるなって、どういうことっすかね。」
「余計なものを触るなということだろう。」
カレンが淡々と答えた。
「分かりやすいっす。」
オルドアイはレオンの方をちらりと見た。
「お前は前にも見たな。」
「覚えてるんすか。」
「騒がしかった。」
「褒めてないっすね。」
「褒めていない。」
レオンは肩を落とした。
エルザが小さく笑った。
ミレイユは、少しだけ緊張が緩むのを感じた。
だが、まだ終わっていない。
むしろ、始まったばかりだ。
オルドアイはミレイユへ視線を戻した。
「ミレイユ。」
「何でしょう。」
「砦までの道で、ソータを試すようなことはしない。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「それは助かります。」
「ただし。」
オルドアイは笑った。
「砦に着いたら、私も話す。」
「当然です。」
「ソータとも。」
ミレイユの胸が痛む。
だが、ここで逃げるわけにはいかない。
「私も同席します。」
「二人きりでは駄目か。」
「駄目です。」
即答だった。
オルドアイは楽しそうに笑った。
「早いな。」
「練習してきましたので。」
ソータが横で少し顔を赤くした。
オルドアイはソータを見る。
「お前もか、ソータ。」
「うん。」
「二人きりで話したいと言ったら?」
「今はできない。」
ソータは答えた。
「理由は。」
「隠し事をしないと決めたから。」
ミレイユは息を止めた。
練習した言葉。
けれど、今、本番で言った。
オルドアイの前で。
オルドアイはソータを見つめた。
霧の中で、彼女の目が少しだけ揺れた。
「そうか。」
声は、先ほどより静かだった。
「なら、今はそうしてやる。」
今は。
その言葉に、ミレイユは警戒を強める。
オルドアイはそれに気づいたのか、にやりと笑った。
「怖い顔をするな、ミレイユ。」
「元からこういう顔です。」
「嘘だな。」
「失礼ですね。」
「でも、嫌いではない。」
ミレイユは返事に困った。
オルドアイは、敵意だけを向けてくるわけではない。
そこが厄介だった。
豪快で、真っ直ぐで、こちらを試しながらも面白がっている。
そして時々、相手を認める。
嫌な女なら、もっと楽だった。
(本当に厄介。)
(美しくて、強くて、正直で、こちらを見てくる。)
(ソータが揺れた理由が、少しだけ分かってしまうのが嫌。)
ミレイユは、胸の中の痛みを押し殺さず、ただ受け止めた。
◆◇◆
オルドアイが先頭に立つと、霧の様子が変わった。
先ほどまで漂うだけだった白い霧が、彼女の歩みに合わせて左右へ流れていく。
完全に晴れるわけではない。
だが、道筋だけが薄く開く。
まるで森が、彼女を知っているようだった。
ミレイユは、その光景に息を呑んだ。
「これが、霧の道。」
思わず呟いた。
ソータが隣で頷く。
「前も、こうやって開いた。」
「彼女が?」
「うん。」
「そう。」
ミレイユはオルドアイの背中を見た。
強い背中だ。
迷いがない。
森の中で、彼女は完全に自分の場所にいる。
ミレイユは商会なら迷わない。
帳簿と契約の中なら、自分の足場がある。
だが、この森では違う。
ここはオルドアイの場所だ。
その事実を認めるのは悔しい。
だが、認めなければ進めない。
(ここでは、彼女が上手。)
(なら、私は見て学ぶ。)
(商人としても。)
(女としても。)
オルドアイが振り返った。
「ミレイユ。」
「何でしょう。」
「歩きにくくはないか。」
意外な問いだった。
「大丈夫です。」
「その靴なら、しばらくは行ける。」
「見ただけで分かるのですか。」
「森を歩く足かどうかは分かる。」
「なるほど。」
オルドアイは少し笑った。
「転びそうなら言え。」
「お気遣いなく。」
「ソータの女が霧で転んだら、ソータがうるさそうだ。」
ソータが慌てた。
「いや、うるさくは。」
ミレイユは横目で見る。
「心配はするでしょう。」
「します。」
「なら黙っていなさい。」
「はい。」
オルドアイがまた笑った。
「本当に、面白い二人だ。」
ミレイユは少しだけ眉を寄せた。
「見世物ではありません。」
「そう怒るな。」
「怒っていません。」
「怒っている。」
「少しだけです。」
オルドアイは楽しそうに前を向いた。
「正直だな。」
ミレイユは返事をしなかった。
後ろでレオンが小声で言う。
「なんか、もう会話の圧がすごいっす。」
エルザが静かに返した。
「黙って歩きなさい。」
「はいっす。」
カレンが淡々と付け加える。
「余計なことを言うと巻き込まれる。」
「それは嫌っす。」
ガルドは黙って歩いていたが、警戒は解いていない。
アルベールはミレイユの少し後ろにいる。
その気配が、ミレイユには心強かった。
霧は深くなっていく。
オルドアイの背だけが、道標のように前を進む。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
そして隣のソータを見た。
ソータもこちらを見ていた。
目が合う。
ミレイユは小さく頷いた。
ソータも頷き返した。
言葉はなかった。
だが、それで十分だった。
今日、オルドアイと会った。
想像していた通り強く、美しく、厄介な女だった。
そして、想像以上に本気だった。
痛い。
怖い。
腹も立つ。
でも、ミレイユはもう知らないままではない。
霧の中で、彼女は確かにオルドアイを見た。
ソータがオルドアイの前で自分を紹介する声も聞いた。
二人きりでは話さないと宣言する声も聞いた。
胸の中の不安は、形を変え始めていた。
(これが、始まり。)
(私はまだ何も許していない。)
(何も決めていない。)
(でも、見た。)
(彼女を見た。)
(ソータを見た。)
(自分の痛みも見た。)
ミレイユは、霧の奥へ続く道を見つめた。
この先に砦がある。
ヤンガルドアイがいる。
バルクの消息がある。
フルムーンの約束がある。
そして、もっと深い話し合いが待っている。
紅い髪紐が、湿った風の中で揺れた。
オルドアイの背中が、その揺れに気づいたように一度だけ振り返る。
ミレイユは視線を逸らさなかった。
オルドアイは笑った。
ミレイユも、ほんの少しだけ口元を引き締めた。
霧は深い。
道はまだ遠い。
けれど、ミレイユはもう、森の入口で立ちすくむ女ではなかった。
ソータの隣で、彼女は自分の足で霧の道を進んでいた。




