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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第87話:北の森へ入る朝、霧はまだ彼女を知らない

翌朝、村はまだ薄い朝靄の中にあった。


グランデリアの朝とは違う。

石畳の冷たさも、商会の紙とインクの匂いもない。

ここにあるのは、湿った土の匂いと、薪の煙の匂いと、まだ眠りから覚めきらない草の匂いだった。


鶏の声が遠くで響き、家々の戸が少しずつ開いていく。

畑へ向かう者が足を止め、村の広場へ視線を向ける。

今日、北の森へ入る一行が出発することを、村の者たちは知っていた。


ミレイユは、宿代わりに使わせてもらった村長の家の一室で、鏡の前に座っていた。


鏡は商会のものほど大きくない。

少し曇りがあり、映る輪郭も柔らかい。

それでも、髪を結ぶには十分だった。


紅い髪紐と白石の飾りは、布の上に置かれている。

昨夜、眠る前に丁寧に外したものだ。

村の夜気を吸ったのか、どこか商会にいた時より静かな色に見えた。


(今日、北の森へ入る。)

(ソータが前に入った森。)

(リーナさんのお父様が帰れなかった森。)

(バルクさんが残る道へ続く森。)

(オルドアイがいる砦へ続く森。)


考えるほど、胸の奥が重くなる。

だが、昨日の夜ほど揺れてはいなかった。


村へ来た。

リーナに会った。

北の森の影を見た。

その一つ一つが、ミレイユの中で想像を現実へ変えていく。


怖いものは、近づけば近づくほど大きくなる。

しかし、同時に形も見えてくる。

形が見えれば、向き合い方を考えられる。


(霧。)

(迷いの霧。)

(ソータを迷わせた森。)

(でも、今日は私も行く。)

(霧はまだ、私を知らない。)


扉が控えめに叩かれた。


「ミレイユ、起きてる?」


ソータの声だった。


この声が扉の向こうから聞こえることにも、少し慣れてきた。

けれど、場所が商会ではなく村であるだけで、胸の響き方が違う。


「起きているわ。」


「入っていい?」


「ええ。」


扉が開き、ソータが入ってきた。


彼はすでに旅支度を整えている。

昨日より顔が引き締まっていた。

北の森へ入るという事実が、彼の中にも重くあるのだろう。


手には、いつもの櫛と布。

それから、紅い髪紐を結ぶ時に使う小さな留め具を入れた袋。


ミレイユは鏡越しに彼を見た。


「準備は?」


「荷は大丈夫。」


「心は?」


ソータは少しだけ苦笑した。


「大丈夫ではない。」


「正直でよろしい。」


「でも、行く。」


「ええ。」


ソータはミレイユの後ろに立った。

そして、いつものように一度だけ手を止める。


「触るよ。」


「ええ。」


彼の指が髪に触れた。

朝の村の空気で少し冷えた指先が、ミレイユの髪をゆっくり梳いていく。


商会の部屋で練習した時より、部屋は狭い。

鏡も小さい。

椅子も少し低い。

それでも、ソータの手つきは乱れなかった。


むしろ、昨日までよりさらに丁寧だった。


(この人は、場所が変わっても覚えている。)

(触れる前に聞くこと。)

(引っ張りすぎないこと。)

(途中で焦らないこと。)

(約束を結ぶこと。)


ミレイユは目を閉じた。


外では、村の生活音が少しずつ増えている。

鍋を置く音。

子どもの声。

誰かが馬に水をやる音。

遠くから聞こえるリーナの声らしきもの。


そのすべてが、これから森へ向かう現実を際立たせていた。


紅い髪紐が通される。

白石の飾りが結び目の下で小さく揺れる。

ソータは少しだけ位置を直し、結び目を指先で整えた。


「できた。」


ミレイユは鏡を見た。


小さく曇った鏡の中で、紅い髪紐は思ったより鮮やかに映っていた。

村の素朴な部屋の中だからこそ、その色が強く見える。

白石の飾りは朝靄のような淡い光を受け、静かに輝いていた。


「今日も合格。」


ミレイユが言うと、ソータは少し安心したように息を吐いた。


「よかった。」


「森の中でほどけたら、あなたの責任よ。」


「結び直す。」


「その時も触る前に聞きなさい。」


「分かってる。」


ミレイユは立ち上がった。

ソータと向き合う。


昨日まで何度も交わした言葉を、今日も交わす必要があった。

儀式のように。

荷札を確認するように。


「迷ったら?」


「見る。」


「何を見るの?」


「髪紐を見る。」


「それから?」


「ミレイユを見る。」


「隠したくなったら?」


「見る。」


「オルドアイ姫を前にして揺れたら?」


少しだけ胸が痛む。

だが、もうこの問いを避けない。


「見る。」


ソータは答えた。


「ミレイユを置いて決めない。」


ミレイユは頷いた。


「よろしい。」


声は落ち着いていた。

落ち着いている自分に、少しだけ驚いた。


ソータは少し考え、逆に尋ねた。


「ミレイユは?」


「私?」


「怖くなったら?」


ミレイユは一瞬だけ黙った。

そう聞かれるとは思っていなかった。


いつも自分がソータに確認していた。

ソータが迷わないように。

ソータが隠さないように。

ソータが逃げないように。


だが、自分にも必要だ。

怖くなった時、何を見るのか。

何に戻るのか。


ミレイユは紅い髪紐に触れた。


「私も、これに触れるわ。」


「うん。」


「それから、あなたを見る。」


ソータの目が少し揺れた。


「俺を?」


「ええ。」


「俺で大丈夫?」


ミレイユは少しだけ眉を上げた。


「そういうことを言うところが、まだ駄目ね。」


「ごめん。」


「でも。」


ミレイユはソータの胸元へ手を伸ばし、旅装の襟を少し整えた。


「大丈夫かどうかは、あなたが決めるのではないわ。」


「……。」


「私が見ると決めたの。」


「うん。」


「だから、ちゃんとそこにいなさい。」


ソータは、ゆっくり頷いた。


「いる。」


「よろしい。」


ミレイユは手を離した。

その指先に、ソータの体温が少し残った。


◆◇◆


村の広場には、一行と見送りの人々が集まっていた。


ガルドは朝早くから森の方角を確認していたらしく、すでに出発の準備ができている。

エルザは弓の弦を確かめ、矢筒の位置を直していた。

レオンは周囲を見回しながら、村人たちへ軽く手を振っている。

カレンは大型盾を背負い、いつでも動けるように立っていた。

アルベールは村の朝の中でも相変わらず整っている。


村長、トム、マルタ、リーナが見送りに来ていた。

他の村人たちも少し離れて見ている。


リーナは、手に小さな布袋を持っていた。

昨日渡した薬とは別のものらしい。


ミレイユが近づくと、リーナは少し緊張した顔でそれを差し出した。


「ミレイユさん。」


「何かしら。」


「これ、追加で持っていってください。」


ミレイユは布袋を受け取った。

中には、いくつかの小さな薬包が入っている。


「昨日も十分もらったわ。」


「これは、森の湿気で身体が冷えた時用です。」


「ありがとう。」


「あと、眠れない時の香り袋も、もう一つ。」


リーナは少し恥ずかしそうに言った。


「ソータさんにも。」


ソータが驚いた顔をした。


「俺にも?」


「はい。」


「俺、寝つきはいい方だけど。」


マルタが横から言った。


「こういう時ほど眠れなくなる男もいるんだよ。」


「そういうものですか。」


「そういうものさ。」


リーナはソータへ小さな香り袋を渡した。


「ソータさんは、たくさん考えてしまう人だと思うので。」


ソータは少し黙った。


「ありがとう。」


「無理しないでください。」


「うん。」


「でも、ちゃんと帰ってきてください。」


「帰ってくる。」


リーナの目が揺れた。


「バルクさんにも会えたら、村の皆が心配していたと伝えてください。」


「伝える。」


「それから。」


リーナは少し言葉を詰まらせた。


「お父さんの墓のことは、急ぎません。」


その言葉に、ソータとミレイユは同時にリーナを見た。


リーナは涙をこらえながら、それでもまっすぐ立っていた。


「行きたいです。」


「……。」


「今すぐでも、行けるなら行きたいです。」


「……。」


「でも、昨日ミレイユさんが言ってくれたこと、分かりました。」


リーナはミレイユを見た。


「今回は、そのための旅じゃないんですよね。」


「ええ。」


「だから、待ちます。」


声は震えていた。

けれど、折れてはいなかった。


「待って、薬を作ります。」


マルタが娘の肩に手を置いた。


「そうだ。」


トムは少し顔を伏せていた。

村長も静かに頷いた。


ミレイユはリーナの前に立ち、深く頭を下げた。


「ありがとう、リーナさん。」


「ミレイユさんが頭を下げることじゃ。」


「いいえ。」


ミレイユは顔を上げた。


「待つことを選んでくれたあなたに、私は敬意を払います。」


リーナの目に涙が浮かんだ。


「必ず、別の機会を作るよう交渉します。」


「はい。」


「それまで、あなたの薬を育てておいて。」


「はい。」


リーナは強く頷いた。


ソータはその隣で、静かに拳を握っていた。

ミレイユはそれに気づいた。


彼は今、リーナを助けたい気持ちと、今回連れて行けない判断との間に立っている。

だが、昨日より揺れていない。

荷札を間違えないようにしている。


ミレイユは紅い髪紐に触れた。


(少しずつ。)

(私も。)

(ソータも。)

(少しずつ、運び方を覚えている。)


◆◇◆


出発前、村長が一行に向かって短く言葉を述べた。


「北の森は、村にとって長く恐れの場所でした。」


村人たちが静かに聞いている。


「しかし、前回ソータ殿たちが戻られ、私たちは多くを知りました。」


リーナが俯く。

トムも目を閉じた。


「知ることは、痛みも伴いました。」


「……。」


「それでも、知らぬまま恐れ続けるより、知ったうえで向き合う方がよい。」


ミレイユは、その言葉に胸を突かれた。


知らぬまま恐れ続けるより、知ったうえで向き合う方がよい。


それは、この村だけの話ではない。

自分の話でもある。

オルドアイを知らないまま想像に苦しむより、自分の目で見る。

傷つくとしても、向き合う。


村長は続けた。


「どうか、ご無事で。」


「はい。」


ソータが答えた。


「必ず戻ります。」


その声は、昨日より少し強かった。


ミレイユも続けた。


「村への報告を持ち帰ります。」


「お願いいたします。」


村長が深く頭を下げる。


マルタが腕を組んだまま言った。


「ソータ。」


「はい。」


「あんた、女絡みでまた妙な顔して帰ってくるんじゃないよ。」


ソータが固まった。


レオンが吹き出しそうになり、エルザが横目で止める。

カレンは無表情のまま、少しだけソータを見た。


ミレイユは、思わず口元を押さえた。


「マルタさん。」


「何だい、ミレイユ。」


「その場合は、私が先に気づきます。」


マルタはにやりと笑った。


「だろうね。」


ソータは肩を落とした。


「信用がない。」


「あるから言ってるんだよ。」


マルタは鋭い目でソータを見る。


「あんたは悪い男じゃない。」


「はい。」


「でも、優しい男は時々、悪い男より厄介だ。」


ソータは言葉に詰まった。


ミレイユも、その言葉を胸の中で受け止めた。


母も似たようなことを言った。

アルベールも。

ガルドも。

皆、言葉は違えど同じものを見ている。


ソータの優しさは、人を救う。

だが同時に、人を傷つける可能性もある。


「覚えておきます。」


ソータは静かに答えた。


マルタは頷いた。


「なら行ってきな。」


リーナが小さく手を振る。


「気をつけて。」


「行ってくる。」


ソータが答えた。


ミレイユもリーナへ頷いた。


「行ってきます。」


「はい。」


リーナの目には涙があったが、笑っていた。


◆◇◆


村を出ると、道は少しずつ細くなっていった。


畑の匂いが遠ざかり、草の背が高くなる。

人の手が入った土地から、森の気配へ。

境界は急ではない。

けれど、確かに空気が変わっていく。


鳥の声が増えた。

風が枝の間を抜ける音が聞こえる。

土の柔らかさが、馬の足音を吸う。


ミレイユは前方を見た。

北の森が近づいている。

大きな樹々が重なり、朝の光を遮っている。

遠くから見ると、森はただ黒く濃い塊のようだった。

近づくほど、その中に無数の葉と枝と影があることが分かる。


想像の中の恐怖が、現実の森へ変わっていく。


ガルドが先頭で止まった。


「ここから森だ。」


一行が足を止める。


ミレイユは馬から降りた。

森の入り口に立つ。


空気が冷たい。

村の朝とは違う冷たさだ。

湿った苔と古い木の匂い。

どこか奥に、霧の気配があるような気がした。


ソータが隣に立った。


「ここから、前に入った。」


「ええ。」


「最初は普通の森に見えたんだ。」


「今も、普通の森にも見えるわ。」


「うん。」


「でも、違うのね。」


「たぶん。」


ソータは森を見つめた。

その顔には、前回の記憶が浮かんでいる。


折れた大杉。

沢。

黒い岩。

迷いの霧。

そして、オルドアイ。


ミレイユはそれを想像し、胸が少し痛んだ。

だが、今日はその痛みを逃がさなかった。

森を見た。

ソータを見た。

紅い髪紐に触れた。


「ソータ。」


「うん。」


「ここから先、私はあなたが見たものを少しずつ見るわ。」


「うん。」


「あなたが思い出したことは、言って。」


「分かった。」


「私が嫌な顔をしても。」


「うん。」


「言って。」


「うん。」


ソータはミレイユの髪紐を見た。

それから、彼女の目を見た。


「言う。」


ミレイユは頷いた。


ガルドが全員を見た。


「隊列確認。」


すぐに皆が動いた。

ガルドが前。

カレンがミレイユの斜め前。

ソータは中央。

ミレイユはその隣。

エルザが後方の視界を取り、レオンが周囲を確認する。

アルベールは自然にミレイユとソータの背後へついた。


ミレイユは一度、村の方を振り返った。

村は木々の向こうにもう半分隠れている。


待つ人たちがいる。

リーナがいる。

マルタがいる。

村長がいる。

トムがいる。


そして、戻るべき場所がある。

グランデリア。

商会。

母。

自分の部屋。


その全部を背にして、ミレイユは北の森へ向き直った。


(霧。)

(私は来たわ。)

(ソータを迷わせた森。)

(リーナさんのお父様を隠した森。)

(オルドアイへ続く道。)

(今度は、私も通る。)


風が吹き、紅い髪紐が揺れた。


ソータの視線が、それを追う。

そして、彼は小さく頷いた。


ミレイユも頷き返す。


「行きましょう。」


彼女が言うと、ガルドが短く応じた。


「進む。」


一行は、北の森へ足を踏み入れた。


◆◇◆


森の中は、外から見たよりもずっと静かだった。


鳥の声はある。

葉の擦れる音もある。

小さな虫の羽音も聞こえる。

けれど、人の気配が遠のくと、音の一つ一つが逆に深い静けさを作っていた。


足元には湿った土。

ところどころに苔むした石。

根が地面を這い、うっかりすれば足を取られる。

木漏れ日は少なく、空の青さは枝葉の隙間から細く見えるだけだった。


ミレイユは慎重に歩いた。

旅装にしてきたのは正解だった。

普段のドレスでは、数歩で裾を引っかけていたかもしれない。


カレンが斜め前で時折足元を示す。


「そこ、根が出ている。」


「ありがとう。」


「右の石は滑る。」


「分かったわ。」


無駄のない注意だった。

ミレイユは素直に従った。


ソータは隣で、少し心配そうにしている。


「大丈夫?」


「今のところは。」


「無理しないで。」


「何度も言われているわ。」


「でも言う。」


「そう。」


少しだけ嬉しい。

だが、それをそのまま見せるのは癪だった。


「あなたも、足元を見なさい。」


「うん。」


エルザが後方から静かに言った。


「森では、話しすぎると注意が散ります。」


「そうね。」


ミレイユは頷いた。


レオンが前方の木から木へ視線を走らせる。


「今のところ、魔物の気配は薄いっす。」


「前回と同じだな。」


ガルドが言う。


「アマゾネスたちが抑えている可能性が高い。」


エルザが続ける。


ミレイユは周囲を見た。

確かに、森は静かすぎる。

普通なら、もっと小動物の気配や獣の痕跡があってもよさそうだ。

だが、この森には妙な緊張がある。


誰かが見張っているような。

あるいは、森そのものが息を潜めているような。


(オルドアイたちは、この森を守っている。)

(外の者を迷わせる霧。)

(砦を隠す道。)

(彼女たちにとっては、壁であり、武器でもある。)


ミレイユは商人として考える。

この霧の仕組みは、単なる自然現象ではない。

霧導きの石。

砦側の管理。

フルムーンとの関係。

交易路として使うなら、安定した通行条件の確認が必要になる。


けれど、女としての自分は別のことを考える。


この森の奥で、ソータはオルドアイに見つけられた。

見定められた。

そして、欲しいと思われた。


胸が痛む。


ミレイユは紅い髪紐に指を触れた。

その瞬間、ソータがこちらを見る。


気づいたのだ。


「大丈夫?」


小声だった。


「少し痛んだだけよ。」


ミレイユも小声で答えた。


「何が?」


「想像。」


ソータは一瞬苦しそうな顔をした。


「言ってくれてありがとう。」


「あなたも、何か思い出したら言いなさい。」


「うん。」


ソータは少し前方を見た。


「この森に入った時、前はバルクさんが前の方で、すごく頼もしかった。」


「ええ。」


「レオンが軽口を言って、エルザさんがそれを流して、ガルドさんが止める感じで。」


「今も似ているわね。」


「バルクさんがいないのが、やっぱり変だ。」


「そう。」


「でも、生きてる。」


「ええ。」


「それを確認しに行く。」


「そうね。」


ミレイユは頷いた。


バルク。

彼もまた、女絡みで残った男だ。

だが、その選択は軽くない。

ガルナという女性と出会い、北の部族村へ行くことを選んだ。


ソータの周りでは、女との縁がただの恋ではなく、土地や民や交易に結びついていく。

それが余計に厄介だ。


(本当に、独り占めだけでは済まない男なのね。)

(でも、だからといって手放すつもりはない。)


森の空気が、少し湿ってきた。


ガルドが足を止める。


「近い。」


「霧ですか。」


ミレイユが聞くと、ガルドは頷いた。


「ああ。」


前方の木々の間に、薄い白が漂っていた。

まだ濃くはない。

朝靄にも見える。

だが、空気が変わる。

足元から冷たさが上がってくるようだった。


ソータの表情が硬くなった。


「ここから、前は迷い始めた。」


ミレイユは前方の霧を見た。


白い。

静か。

何も言わない。

けれど、その向こうに何かを隠している。


ミレイユはゆっくり息を吸った。


(これが、ソータを迷わせた霧。)

(これが、彼女たちの守り。)

(そして、この先にオルドアイがいる。)


紅い髪紐が、湿った風にわずかに揺れた。


ミレイユはソータの手を一瞬だけ握った。

すぐに離す。

隊列を乱さないためだ。


「行きましょう。」


声は静かだった。


ソータは頷く。


「うん。」


ガルドが剣の柄に手を添えた。

エルザが弓を構える準備をする。

レオンが周囲を見る。

カレンが盾を少し前へ出す。

アルベールが、いつの間にかミレイユの背後にいた。


一行は、薄い霧の中へ踏み込んだ。


白い気配が、足元からゆっくり絡みつく。

視界が少しずつ狭くなる。

森の音が遠くなる。


ミレイユは紅い髪紐に触れた。


(霧。)

(私はここにいる。)

(知らないままではない。)

(私は、自分の足で入った。)


その時、どこか遠くで、枝がかすかに揺れた。


エルザの目が鋭くなる。

ガルドが足を止める。

カレンが盾を構える。

レオンが低く言った。


「誰かいるっす。」


ソータの息がわずかに止まった。


ミレイユは前を見た。


白い霧の向こう。

木々の間。


そこに、誰かの影があった。


高い位置。

枝の上。

こちらを見下ろすように立つ、しなやかな人影。


長い髪が揺れる。

背には弓。

そして、褐色の肌に朝の光がかすかに当たっている。


ソータが小さく呟いた。


「オルドアイ……。」


ミレイユの胸が、強く鳴った。


まだ顔ははっきり見えない。

けれど、分かる。

あれが、彼女だ。


ソータを欲しがった女。

ソータが綺麗だと言った女。

ミレイユが会うと決めた女。


オルドアイの影が、枝の上で楽しげに身を乗り出した。


「来たな、ソータ。」


霧の中に、明るく強い声が響いた。


そして、ほんの一拍遅れて、その声はミレイユへ向いた。


「それから。」


枝の上の女が笑った気配がした。


「お前が、ミレイユか。」


ミレイユは紅い髪紐に触れた。

ソータが隣で息を呑む。


だが、彼はミレイユの隣から動かなかった。


ミレイユは一歩も引かず、霧の向こうの影を見上げた。


「初めまして、オルドアイ姫。」


声は、驚くほど落ち着いていた。


「クラウゼン商会会頭代理、ミレイユ・クラウゼンです。」


紅い髪紐が、霧の湿った風の中で静かに揺れた。


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