第86話:旅立ちの朝、紅い髪紐は約束を結ぶ
出発の朝が来た。
グランデリアの空は、澄んでいた。
昨夜まで薄くかかっていた雲は流れ、朝日が街の屋根を柔らかく照らしている。
石畳にはまだ夜の冷たさが残っていたが、空気の中には確かに一日の始まりの匂いがあった。
クラウゼン商会の中は、夜明け前から動いていた。
馬丁が馬の蹄を確かめ、使用人たちが水筒や携行食の最後の数を数え、帳簿係が封をした書類の控えを副支配人へ渡している。
大きな荷車はない。
大半の荷は、すでにソータの《神速積載庫》の中に収まっている。
それでも、旅立ちには不思議と物音が多かった。
革のベルトを締める音。
外套を払う音。
馬が鼻を鳴らす音。
誰かが短く挨拶を交わす声。
そして、静かな緊張。
ミレイユは、自室の鏡の前に座っていた。
旅装はすでに整えてある。
裾の短い動きやすい衣服。
丈夫な革靴。
腰の小さな短剣。
肩にかける外套。
商会代表として恥ずかしくない上質さを残しつつ、森を歩ける実用性も備えている。
だが、最後の一つだけ、まだ整っていない。
紅い髪紐。
母から届いた白石の飾り。
それは鏡台の小皿の上に置かれ、朝の光を受けて静かに色を浮かべていた。
ミレイユは、それを見つめた。
(今日、これを結ぶ。)
(この髪紐をつけて、私は商会を出る。)
(村へ行く。)
(北の森へ入る。)
(霧を抜ける。)
(オルドアイに会う。)
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられる。
怖さは消えていない。
昨日、ソータの腕の中で少しだけ弱くいられたからといって、今日の不安が消えるわけではなかった。
むしろ、朝になり、旅立ちが現実になったことで、不安ははっきりとした形を持っていた。
だが、ミレイユは逃げなかった。
鏡の中の自分を見つめ、背筋を伸ばした。
(大丈夫ではない。)
(でも、行ける。)
(怖いままでも。)
(痛いままでも。)
(私は、行ける。)
扉が静かに叩かれた。
「ミレイユ。」
ソータの声だった。
ミレイユは一度だけ息を吸った。
「入って。」
扉が開く。
ソータが部屋へ入ってきた。
彼も旅装だった。
動きやすい服。
腰には最低限の道具。
戦うための装備ではないが、森を歩くには十分な支度。
それでも、彼の一番の荷は外には見えない。
目に見えない膨大な荷を抱えているように、ミレイユには見えた。
ソータは手に、小さな櫛と布を持っていた。
昨日と同じ。
けれど、顔は昨日より真剣だった。
「結びに来た。」
「ええ。」
「失敗したら、やり直す。」
「その通り。」
「でも、できれば一度で決めたい。」
「期待しているわ。」
ミレイユは鏡台の前に座り直した。
髪を解く。
肩から背中へ、髪が落ちる。
ソータはその後ろに立った。
いつものように、すぐには触れない。
一度、鏡越しにミレイユを見る。
「触るよ。」
「ええ。」
その一言が、今朝はいつもより深く響いた。
髪に触れる前に確認すること。
相手の許しを得ること。
強く引かないこと。
急がないこと。
途中で投げ出さないこと。
失敗したらやり直すこと。
昨夜ソータが言った言葉が、ミレイユの胸に蘇る。
(髪を結ぶだけではない。)
(約束も、きっと同じ。)
ソータの指が髪に触れた。
朝の光の中で、ミレイユの髪を丁寧に梳く。
最初の日より、手つきはずっと落ち着いていた。
不器用さは残っている。
けれど、不安定ではない。
ミレイユは鏡の中で、その手元を見ていた。
この手が、荷を運ぶ。
形見を運ぶ。
野営の安心を運ぶ。
村と砦をつなぐ。
そして、時に女の心まで揺らす。
その手が、今は自分の髪を結んでいる。
(今は、私のための手。)
(そう思ってもいいわよね。)
紅い髪紐が通される。
白石の飾りが、髪の流れに沿って小さく揺れる。
ソータは結び目を整え、少し離れて鏡を見る。
長い沈黙ではなかった。
だが、ミレイユにはその数秒がとても長く感じられた。
「できた。」
ソータが言った。
ミレイユは鏡の中の自分を見た。
紅い髪紐は、今までで一番綺麗に結ばれていた。
結び目は崩れていない。
白石の飾りは派手すぎず、それでも確かに目を引く位置にある。
旅装の凛々しさと、商家の娘としての品と、恋人としての印。
その全部が、不思議と一つにまとまっていた。
ミレイユは指先で髪紐に触れた。
「合格。」
ソータの肩から、目に見えるほど力が抜けた。
「よかった。」
「今日が一番上手いわ。」
「本当?」
「ええ。」
「よかった。」
二度目の同じ言葉。
けれど、その声には安堵が滲んでいた。
ミレイユは立ち上がり、ソータの方を向いた。
「ソータ。」
「うん。」
「今日から、この髪紐は本番よ。」
「うん。」
「迷ったら見る。」
「見る。」
「隠したくなったら見る。」
「見る。」
「私を置いて決めそうになったら見る。」
「見る。」
「オルドアイ姫を前にして、心が揺れたら。」
胸が痛む。
それでも、ミレイユは言った。
「それでも、見る。」
ソータは、紅い髪紐を見た。
それから、ミレイユの目を見た。
「見る。」
「髪紐だけではなく?」
「ミレイユを見る。」
その答えに、ミレイユの胸が静かに熱くなった。
「よろしい。」
声が少しだけ柔らかくなった。
ソータは小さく笑った。
ミレイユも、ほんの少しだけ笑った。
この笑顔を持って行こう。
そう思った。
砦で傷ついたとしても。
オルドアイに腹が立ったとしても。
ソータの目が揺れて胸が痛んだとしても。
この朝、自分の髪を結んだソータの手と、その時の真剣な顔を、忘れないようにしよう。
◆◇◆
商会の玄関前には、旅の一行が揃っていた。
ガルドはいつものように寡黙で、剣を背に立っている。
エルザは弓と矢筒を確認し、周囲を静かに見ていた。
レオンは軽装のまま、道具袋の紐を何度も引っ張っている。
カレンは大型盾を背負い、片手槍の留め具を確かめていた。
アルベールは旅装でありながら、なぜか普段の執事服と同じくらい隙がない。
ソータはミレイユの隣に立った。
大きな荷物は持っていない。
しかし、彼がこの一行で最も多くのものを抱えていることを、全員が知っている。
副支配人と使用人たちが見送りに出ていた。
皆、緊張した顔をしている。
ミレイユが商会を離れることは珍しくない。
だが今回は違う。
行き先は北の森。
その先にある、まだ商会のほとんどの者が知らない場所。
ミレイユは使用人たちの前に立った。
「留守の間、商会をお願いします。」
副支配人が深く礼をした。
「お任せください。」
「通常取引は予定通りに。」
「はい。」
「村への便は遅らせないように。」
「承知しております。」
「王都ギルドからの連絡は、写しを必ず残して。」
「はい。」
「それから。」
ミレイユは少しだけ視線を和らげた。
「私たちは戻ります。」
使用人たちの表情が少し変わった。
「だから、帰ってきた時にいつも通り仕事ができるよう、整えておいてください。」
「はい。」
返事は揃っていた。
その声に、ミレイユは頷いた。
商会は帰る場所でもある。
ミレイユにとっても。
ソータにとっても。
ここに戻ると決めて行くことは、大事だった。
副支配人がソータへ視線を向けた。
「ソータ様も、どうかご無事で。」
ソータは少し驚いたように瞬きした。
それから、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。戻ってきます。」
その言葉を聞いて、ミレイユは少しだけ胸が温かくなった。
戻ってきます。
そう言った。
私たちではなく、自分の言葉で。
ミレイユは紅い髪紐に触れた。
(その言葉、覚えておくわ。)
アルベールが一歩前へ出た。
「馬の準備は整っております。」
「では、出発しましょう。」
ミレイユは言った。
その声は、少しも震えていなかった。
◆◇◆
グランデリアの街を出る道は、朝の光に満ちていた。
荷馬車は少ない。
その分、一行の移動は軽い。
ソータが荷を抱えているため、馬には人と最低限の物しか載せていない。
外から見れば、ただの小規模な護衛付きの旅人に見えるだろう。
だが、実際に運ばれているものは小規模どころではない。
物資。
贈答品。
薬。
交渉の材料。
約束。
葛藤。
秘密。
そして、いくつもの女の想い。
ミレイユは馬上で、街の門を振り返った。
クラウゼン商会の屋根はもう見えない。
グランデリアの壁が背後にある。
その向こうに、自分が築いてきた日常がある。
(行くのね。)
(本当に。)
胸の奥が少しだけ揺れた。
ソータが隣から声をかけた。
「大丈夫?」
ミレイユは前を向いた。
「大丈夫ではないわ。」
「うん。」
「でも、進む。」
「うん。」
「あなたは?」
「怖いけど、進む。」
「よろしい。」
ソータは少し笑った。
レオンが後ろから軽く言った。
「この二人、だいぶ旅立ち前の問答が板についてきたっすね。」
エルザが静かに言う。
「茶化すと怒られるわよ。」
「もう少し小声にすべきだったっす。」
「聞こえています。」
ミレイユが言うと、レオンは肩をすくめた。
「すみませんっす。」
カレンが淡々と言った。
「緊張しすぎるよりはいい。」
「そうですね。」
ソータが答える。
ガルドは先頭で道を見ていた。
彼の背中は相変わらず頼もしい。
「昼までに予定の休憩地へ着く。」
「分かりました。」
ミレイユは頷いた。
旅は始まった。
まずは村へ向かう道。
以前ソータたちが通った道。
リーナの父の形見を持ち帰った道。
バルクがまだいた時に歩いた道。
今は、ミレイユもそこにいる。
彼女は外套を直し、紅い髪紐に指先で触れた。
風に揺れる髪紐が、耳元で小さく音を立てる。
それは、旅立ちの合図のようだった。
◆◇◆
道中は、思ったより静かに進んだ。
大きな荷がないため、移動は軽い。
しかし、ミレイユに合わせて速度は抑えられている。
ガルドは何度も道の先を確認し、レオンは時折前後を走り、エルザは遠くの木立や丘の影を見ていた。
カレンはミレイユのやや近くを進み、盾を背負ったまま周囲に目を配っている。
アルベールは何食わぬ顔で馬に乗っているが、その姿勢はまったく乱れない。
ミレイユは、自分が守られていることを強く感じた。
普段、商会では自分が指示を出す側だ。
守る側だ。
人と金と品を采配し、問題が起きれば前に出る。
だが、今は物理的には守られる側でもある。
それは少し落ち着かなかった。
(ソータの気持ちが少し分かるわね。)
(守られることに慣れない。)
(でも、慣れなければならない。)
(守られる立場だからこそ、できる判断もある。)
そう考えていると、ソータが隣で少し苦笑した。
「何か考えてる?」
「ええ。」
「仕事?」
「少し。」
「俺のこと?」
「かなり。」
「正直だ。」
「あなたも正直でいるように言っているでしょう。」
「それはそう。」
ソータは少し照れたように笑った。
ミレイユは彼を見る。
旅装のソータは、商会にいる時より少し引き締まって見えた。
戦士ではない。
だが、前回の旅を経て、少しだけ変わったのかもしれない。
「ソータ。」
「うん。」
「村へ着いたら、リーナさんに顔を見せるわ。」
「うん。」
「香り袋のお礼を直接言いたい。」
「喜ぶと思う。」
「それから、リーナさんには無理をさせないように。」
「北の森へ一緒に行きたいって言うかな。」
「言うかもしれないわね。」
「止める?」
「止めるわ。」
ミレイユは即答した。
「今回は彼女を連れていけない。」
「うん。」
「父親の墓へ行きたい気持ちは分かる。」
「うん。」
「でも、フルムーンの交渉とオルドアイ姫の問題がある状況で、彼女を連れていくのは危険すぎる。」
「分かった。」
「あなたも情に流されない。」
「うん。」
「リーナさんが泣いても。」
ソータは少し顔を歪めた。
「そこは難しい。」
「難しくても。」
「分かってる。」
ミレイユは少しだけ息を吐いた。
「荷札を間違えないこと。」
「うん。」
「リーナさんへの優しさと、今回の安全判断は別。」
「うん。」
「お父様の墓参りは、別の機会を作る。」
「うん。」
ソータは頷いた。
その顔は、少し苦しそうだったが、逃げてはいなかった。
ミレイユは思う。
この旅は、ソータにとっても選別の旅になるのだろう。
助けたい気持ち。
会いたいと言われた時の弱さ。
誰かを傷つけたくない優しさ。
それらを、全部その場で受け入れるだけでは進めない。
荷札をつける。
優先順位をつける。
それは冷たさではなく、守るための整理だ。
(私自身にも言えることね。)
(嫉妬と判断。)
(恋と交渉。)
(怒りと敬意。)
(全部に、荷札をつける。)
風が吹いた。
紅い髪紐が揺れる。
ソータの視線が、その髪紐へ一瞬向いた。
すぐに前へ戻る。
ミレイユは気づいた。
そして、少しだけ胸が温かくなった。
◆◇◆
昼の休憩地は、小さな林の脇だった。
前回ソータたちが通った時にも休んだ場所らしい。
近くに浅い流れがあり、馬に水を飲ませることができる。
木陰もあり、見通しも悪くない。
ガルドの指示で、全員が手早く休憩に入った。
ソータは《神速積載庫》から敷布、水袋、簡単な食事の包みを取り出す。
動きは慣れている。
だが、出した後にすぐ下がることも忘れなかった。
ガルドが短く頷く。
「良い。」
ソータは少しだけほっとした。
ミレイユはその様子を見ていた。
訓練の成果が出ている。
小さなことだが、確かに積み重なっている。
カレンは盾を木に立てかけ、周囲を確認してから腰を下ろした。
「荷を出した後に下がる癖はつけた方がいい。」
「はい。」
「相手が驚いている時が、一番隙がある。」
「相手が?」
「こちらもだ。」
カレンは淡々と干し肉をかじった。
レオンが笑う。
「カレンさん、食べながらでも戦術っすね。」
「食うことも戦術だ。」
「名言っす。」
「茶化すな。」
「はいっす。」
エルザは木の上へ視線を向けながら、パンを小さくちぎって食べていた。
アルベールはいつの間にか茶を用意している。
どこから取り出したのか、旅先とは思えないほど香りがよい。
ミレイユは茶を受け取った。
「ありがとう、アルベール。」
「恐れ入ります。」
「あなた、本当に旅先でも変わらないわね。」
「お嬢様の旅先での平穏を保つのも務めでございます。」
「その平穏のために、どれだけの道具を持ってきたの?」
「必要な分だけでございます。」
「あなたの必要な分は信用できないわ。」
アルベールは微笑むだけだった。
ソータが苦笑する。
「アルベールさんの荷物も、俺の中に入ってるんですよね。」
「はい。」
「必要な分だけにしては、結構多かったような。」
「備えでございます。」
「備え。」
レオンが小声で言った。
「たぶん、屋敷一軒分くらい出てくるっすよ。」
「それはないだろ。」
ソータが言う。
アルベールは何も言わなかった。
全員が少し沈黙した。
「否定しないんすか。」
レオンが引きつった声で言った。
「必要があれば。」
「怖いっす。」
ミレイユは小さく笑った。
旅の途中で笑えることが、少しありがたかった。
その時、ソータがミレイユへ水袋を差し出した。
「飲んでおいて。」
「ありがとう。」
「疲れてない?」
「少し。」
「無理しないで。」
「分かっているわ。」
ミレイユは水を飲んだ。
冷たさが喉を通る。
旅はまだ始まったばかりだ。
それでも、商会の中とは違う疲れがあった。
緊張。
移動。
周囲への注意。
そして、これから向かう先への心の重さ。
しかし、不思議と後悔はなかった。
(来てよかった。)
(まだ砦にも着いていないのに。)
(でも、私は今、ソータが見てきた道を一緒に進んでいる。)
(それだけでも、知らないままよりずっといい。)
ミレイユは周囲の風景を見た。
林。
道。
浅い流れ。
旅人の休憩地。
この道を、ソータは前回バルクたちと進んだ。
リーナの不安を背負い、北の森へ向かった。
そして、オルドアイと出会った。
胸が痛む。
だが、その痛みの中に理解が混じり始めている。
ソータがどんな道を進み、どんな景色を見て、どんな状況で心を揺らしたのか。
自分の目で道を見ることで、想像だけの苦しみが少しだけ形を変えていた。
◆◇◆
午後の道は、少し風が強くなった。
紅い髪紐が何度も揺れる。
ミレイユは最初、そのたびに気にしていたが、やがてその揺れにも慣れてきた。
風に揺れてもほどけない。
ソータが今朝、きちんと結んだからだ。
そのことが、なぜか少し嬉しかった。
ソータは時折、髪紐を見ている。
あまり見すぎないようにしているのも分かる。
それが少しおかしい。
「見てもいいわよ。」
ミレイユが小さく言うと、ソータは少し慌てた。
「見てた?」
「ええ。」
「ごめん。」
「謝ることではないわ。」
「うん。」
「でも、見たなら思い出しなさい。」
「約束を?」
「ええ。」
「思い出してる。」
「ならいいわ。」
ソータは少しだけ真面目な顔になった。
「ミレイユも、これを見ると落ち着く?」
「少しね。」
「よかった。」
「あなたが結んだものだから。」
言ってから、ミレイユは少しだけ頬が熱くなった。
ソータも赤くなった。
レオンが後ろで何か言いかけた。
エルザが無言で肘を入れた。
「痛いっす。」
「今は黙って。」
「はいっす。」
ミレイユは聞こえないふりをした。
道は少しずつ村へ近づいている。
夕方には着くだろう。
村では、リーナが待っている。
村長やマルタ、トムも。
そこには別の感情が待っている。
リーナの父の形見を届けた後の村。
北の森へ再び向かう一行を、彼らはどんな顔で迎えるのか。
そして、バルクがいないことを、改めてどう受け止めるのか。
ミレイユはソータへ言った。
「村では、余計な期待を持たせないようにしましょう。」
「うん。」
「リーナさんのお父様の墓参りについては、今回は約束しない。」
「うん。」
「でも、将来的に道を作る意志はあると伝える。」
「うん。」
「バルクさんについても、必ず確認すると伝える。」
「うん。」
「あなたが全部背負う必要はないわ。」
「分かってる。」
「本当に?」
「分かってるつもり。」
「つもりなら、私が見張るわ。」
「お願いします。」
ソータは素直に言った。
その素直さが、少しだけ頼もしくなってきた。
◆◇◆
夕暮れ前、村が見えてきた。
木々の向こうに、見慣れた屋根が並んでいる。
煙突から細い煙が上がり、畑の向こうでは人影が動いていた。
グランデリアほどの賑わいはない。
けれど、生活の匂いが濃い。
土と草と薪の匂い。
遠くで犬が吠える声。
子どもたちの笑い声。
ソータの表情が少し柔らかくなった。
「戻ってきたな。」
「ええ。」
ミレイユも村を見た。
初めて来た時とは違う。
今は、この村が物語の中でどれほど大事な場所か分かっている。
リーナの父が帰れなかった場所。
ソータが形見を持ち帰った場所。
商会がこれから道を作ろうとしている場所。
村の入口には、すでに数人が立っていた。
村長。
トム。
そしてリーナ。
リーナは薬草師の服を着て、両手を胸の前で握っていた。
マルタも少し後ろにいる。
腕を組み、いつものように厳しい顔をしているが、目は一行をしっかり見ていた。
ソータが馬を止める。
ミレイユも隣で止まった。
リーナが一歩前へ出た。
「ソータさん。」
「リーナ。」
「ミレイユさん。」
「リーナさん。」
ミレイユは馬から降りた。
ソータも降りる。
リーナはミレイユの髪紐に気づいた。
少しだけ目を丸くする。
「綺麗です。」
「ありがとう。」
ミレイユは微笑んだ。
「ソータが結んでくれたの。」
リーナの顔がぱっと明るくなった。
「そうなんですね。」
ソータは少し照れたように頭をかいた。
マルタがそれを見て、にやりと笑った。
「へえ。やるじゃないか、ソータ。」
「いや、その。」
「女の髪を結ぶ男は、逃げられないよ。」
ソータが固まった。
ミレイユも一瞬固まる。
マルタは腕を組んだまま続けた。
「髪ってのはね、ただの飾りじゃない。触らせるってことは、それなりの覚悟を求めてるってことさ。」
ミレイユは少しだけ目を見開いた。
マルタは、やはり鋭い。
詳しい事情を知らないはずなのに、核心に近いところを平然と突いてくる。
「マルタさん。」
ソータが困った顔で言う。
「何だい。」
「出発早々、重いです。」
「重い荷は得意だろう?」
レオンが後ろで吹き出した。
エルザも口元を押さえている。
カレンは無表情だが、少しだけ目が面白がっているように見えた。
ガルドは黙っていた。
アルベールは満足げに微笑んでいる。
ミレイユは少しだけ笑った。
「その通りですね。」
ソータがミレイユを見た。
「ミレイユまで。」
「重い荷は得意でしょう?」
「荷物なら。」
「約束も運んで。」
ミレイユが言うと、ソータは一瞬黙った。
それから、静かに頷いた。
「運ぶよ。」
リーナがそのやり取りを見て、少しだけ目を細めた。
詳しい事情は分からなくても、何かを感じたのかもしれない。
村長が一歩前に出た。
「皆さん、よく来てくださいました。」
「一晩お世話になります。」
ミレイユが丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ、また北へ向かっていただくこと、村として感謝しております。」
村長の声には、感謝と不安が混じっていた。
ソータが言う。
「今回は、フルムーンに合わせた確認と交渉です。無理はしません。」
ガルドが短く付け加えた。
「無理はさせない。」
その一言で、村長は少し安心したようだった。
リーナはミレイユの方へ歩み寄った。
「あの、香り袋は。」
「使わせてもらったわ。」
ミレイユは穏やかに答えた。
「とても助かった。」
リーナの顔が少し赤くなる。
「よかったです。」
「不安が消えるわけではないけれど、息がしやすくなる。」
「はい。」
「あなたの手紙に書いてあった通りだったわ。」
リーナは少しだけ目を潤ませた。
「私も、そうやって少しずつ眠れるようになったので。」
「ありがとう。」
ミレイユは心から言った。
「あなたの薬は、人の身体だけでなく、心にも届くのね。」
リーナは言葉に詰まった。
そして、小さく頷いた。
「もっと、そういう薬を作れるようになりたいです。」
「作れるわ。」
ミレイユは言った。
「商会としても、私個人としても、応援する。」
リーナの目に、強い光が宿った。
「ありがとうございます。」
その姿を見て、ミレイユは思う。
リーナもまた、自分の痛みを抱えて前へ進もうとしている。
自分も同じように、痛みを抱えて進めるだろうか。
紅い髪紐が、夕方の風に揺れた。
◆◇◆
その夜、村長の家で簡単な報告会が開かれた。
大きな話は明日の出発前に改めて行うとして、今夜は到着の挨拶と行程の確認が中心だった。
村長、トム、マルタ、リーナ。
一行からはミレイユ、ソータ、ガルド、エルザ、レオン、カレン、アルベールが同席した。
部屋の中には、村らしい温かな匂いがあった。
煮込み料理。
焼いたパン。
薬草茶。
木の床に染み込んだ長年の生活の匂い。
ミレイユはその空気を感じながら、静かに席についた。
村長が言った。
「フルムーンまで、あと十一日でしたな。」
「はい。」
ミレイユが答える。
「明朝、北の森へ入ります。」
リーナの手が、膝の上で強く握られた。
ソータがそれに気づく。
ミレイユも気づいた。
リーナは小さく言った。
「私は、行けませんよね。」
部屋が静かになった。
ソータの表情が揺れる。
ミレイユは、先に口を開いた。
「今回は、連れていけません。」
リーナは唇を引き結んだ。
「……はい。」
声は震えていた。
けれど、駄々をこねる声ではなかった。
ミレイユは続けた。
「あなたがお父様の眠る場所へ行きたい気持ちは、分かります。」
「……はい。」
「でも、今回はフルムーンに合わせた交渉です。アマゾネス砦、北の部族村、バルクさんの確認、商会としての面会、すべてが重なっています。」
「……。」
「あなたを安全に連れて行き、安全に墓参りの時間を作れる状況ではありません。」
リーナは俯いた。
ソータが苦しそうな顔をする。
だが、何も言わない。
ミレイユの判断を遮らない。
それを見て、ミレイユは少しだけ心の中で頷いた。
「ただし。」
リーナが顔を上げた。
「将来的に、必ず別の機会を作るよう交渉します。」
「本当ですか。」
「約束します。」
ミレイユははっきり言った。
「今回は駄目。でも、あなたがずっと行けないということにはしません。」
リーナの目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます。」
ソータも静かに言った。
「リーナ。俺も、そのために話してくる。」
「はい。」
「でも、今回は待っていてほしい。」
「……はい。」
リーナは涙をこらえながら頷いた。
マルタが娘の肩に手を置いた。
「待つのも仕事だよ。」
「うん。」
「泣くのも仕事だ。」
「うん。」
「でも、薬を作るのも仕事だ。」
リーナは涙を拭いた。
「うん。」
ミレイユはその親子を見て、胸が静かに痛んだ。
待つ側の痛み。
それは自分にも分かる。
そして、待たせる側の苦しさも、今少し見えた。
ソータはいつも、こういう痛みの間に立っていたのだろう。
それでも、荷札を間違えてはいけない。
リーナへの優しさ。
今回の安全判断。
未来の約束。
それぞれを混ぜてはいけない。
ミレイユは、紅い髪紐にそっと触れた。
◆◇◆
報告会の後、ソータは村の外れへ一人で出た。
ミレイユは少し遅れて後を追った。
月明かりの下、ソータは村の柵の近くに立っていた。
遠くには北の森の影が見える。
夜の森は黒い。
その向こうに、霧がある。
砦がある。
オルドアイがいる。
「ここにいたのね。」
ミレイユが声をかけると、ソータは振り返った。
「うん。」
「リーナさんのこと?」
「うん。」
「連れて行けないのは正しい判断よ。」
「分かってる。」
「でも、苦しい?」
「うん。」
ソータは正直に頷いた。
「リーナが泣くのを見ると、何とかしたくなる。」
「そうでしょうね。」
「でも、今回は違うんだよな。」
「ええ。」
「墓参りのための旅じゃない。」
「そう。」
「連れて行けば、リーナを危険に巻き込む。」
「ええ。」
「だから、待ってもらう。」
「そうよ。」
ソータは深く息を吐いた。
「荷札を間違えないって、こういうことか。」
ミレイユは静かに頷いた。
「ええ。」
「きついな。」
「ええ。」
「でも、必要なんだな。」
「ええ。」
二人はしばらく北の森を見ていた。
夜風が吹く。
紅い髪紐が揺れる。
ソータの視線が、その髪紐へ向いた。
そして、ミレイユの顔へ戻る。
「ミレイユ。」
「何?」
「今日、リーナに言ってくれてありがとう。」
「あなたが言えば、揺れたでしょう。」
「たぶん。」
「だから私が言ったの。」
「うん。」
「でも、あなたも逃げなかった。」
「うん。」
「それはよかったわ。」
ソータは少しだけ笑った。
「褒められた。」
「子どもみたいに喜ばない。」
「でも嬉しい。」
「そう。」
ミレイユは少しだけ笑った。
それから、真面目な顔で北の森を見る。
「明日、入るのね。」
「うん。」
「前回、あなたが通った道。」
「うん。」
「私も行く。」
「うん。」
「あなたが見た霧を見る。」
「うん。」
「あなたが出会った砦へ行く。」
「うん。」
「そして、彼女に会う。」
ソータは黙った。
ミレイユの胸が痛む。
しかし、今夜はその痛みが少し落ち着いていた。
「怖いわ。」
「うん。」
「でも、今は逃げたい気持ちより、見たい気持ちが少しだけ勝っている。」
「見たい?」
「ええ。」
「オルドアイを?」
「彼女も。」
「……。」
「あなたが見たものも。」
「……。」
「あなたが揺れた理由も。」
ソータは苦しそうな顔をした。
「ごめん。」
「謝らなくていいわ。」
「でも。」
「今は、知りたいの。」
ミレイユは北の森から目を逸らさずに言った。
「知らないまま苦しむより、自分の目で見たい。」
「うん。」
「だから、明日からも隠さないで。」
「隠さない。」
「私が傷ついても。」
「うん。」
「あなたが困っても。」
「うん。」
「髪紐を見て。」
「見る。」
「私を見る。」
「見る。」
ミレイユは頷いた。
夜空には、二つの月が浮かんでいる。
満ちつつある月。
フルムーンへ向かう月。
その光は、北の森の影を淡く縁取っていた。
(明日、私はあの森へ入る。)
(ソータと一緒に。)
(怖さも。)
(嫉妬も。)
(約束も。)
(全部持って。)
ミレイユはそっとソータの手を取った。
村の外れで、二人はしばらく黙って立っていた。
その沈黙は、重かった。
けれど、孤独ではなかった。
紅い髪紐は夜風に揺れ、月明かりの中で小さく光っていた。




