第85話:最後の準備は、別れの予行練習に似ていた
出発まで、あと一日。
朝のクラウゼン商会は、妙に静かだった。
忙しくないわけではない。
むしろ、誰もが朝早くから動いている。
使用人たちは荷の最終確認を行い、帳簿係は封をした書類を何度も数え、馬丁は明日の馬の状態を確かめていた。
けれど、大きな声は少なかった。
笑い声も控えめだった。
出発を翌日に控えた商会全体が、息を潜めているようだった。
ミレイユは執務室の窓辺に立ち、その空気を感じていた。
グランデリアの街はいつも通り動いている。
荷馬車が通り、商人が声を張り、通りの店は朝の準備を始めている。
だが、ミレイユの中では、明らかに何かが区切りへ向かっていた。
(明日、出発する。)
(もう、準備をしている段階ではない。)
(行くのだわ。)
(村へ。)
(北の森へ。)
(霧の向こうへ。)
(オルドアイのいる砦へ。)
その名前を思うたび、胸はまだ痛む。
しかし、最初の頃のようにただ焼けるだけではなくなっていた。
痛みの周りに、いくつもの言葉が結ばれている。
見る。
逃げない。
荷札を間違えない。
隠させない。
軽く扱わせない。
自分で選ぶ。
それらの言葉が、胸の中で頼りない足場になっていた。
完全ではない。
揺れる。
それでも、足場が何もないよりはずっといい。
ミレイユは鏡の前へ向かった。
皿の上には紅い髪紐と白石の飾りが置かれている。
今日は、出発前最後の練習の日だった。
明日の朝、この髪紐をソータが結ぶ。
それをつけて、ミレイユは商会を出る。
そう思うだけで、少しだけ指先が震えた。
扉が叩かれる。
「ミレイユ、起きてる?」
いつもの声だった。
ミレイユは息を整えた。
「入って。」
扉が開き、ソータが入ってきた。
手には、髪を整えるための布と、小さな櫛がある。
昨日より道具が増えている。
ミレイユは鏡越しにそれを見て、少し目を細めた。
「ずいぶん本格的ね。」
「侍女さんに借りた。」
「練習熱心だこと。」
「明日失敗したら大変だから。」
「どう大変なの?」
「ミレイユが不機嫌になる。」
「それだけ?」
「俺が落ち込む。」
「それは大変ね。」
ミレイユは少し笑った。
ソータも少し笑う。
だが、その笑みの奥には緊張があった。
髪を結ぶことだけではない。
明日の出発そのものが、彼の肩にも重く乗っている。
ミレイユは椅子に座った。
髪を解く。
肩へ落ちた髪を、ソータが少し見つめる。
「何?」
「綺麗だなと思って。」
自然な言葉だった。
ミレイユの頬が少し熱くなる。
「朝から油断させないで。」
「油断?」
「そういうことを急に言わないで。」
「ごめん。」
「謝らなくていいわ。」
「どっち?」
「難しいところね。」
ソータは困ったように笑った。
そして、ミレイユの背後に立つ。
「触るよ。」
「ええ。」
その一言も、もう習慣になりつつあった。
ソータの指が髪に触れる。
ミレイユは目を閉じた。
最初の頃より、手つきはずっと落ち着いている。
髪を引かない。
絡んだところを無理に解かない。
櫛を通す時も慎重だ。
不器用な優しさが、少しずつ形になっている。
(この人は、こうやって覚えていくのね。)
(約束も。)
(距離も。)
(人の痛みも。)
(最初から上手いわけではない。)
(でも、覚えようとする。)
そのことが、ミレイユの胸を柔らかくした。
同時に、切なくもした。
ソータはオルドアイのことも、きっと覚えようとするだろう。
彼女の痛みや願いや、強さも。
それを想像すると、胸がまた痛む。
だが、今のミレイユはその痛みをすぐに押し潰さなかった。
ただ、そこにあるものとして受け止めた。
(痛い。)
(でも、今は私の髪を結んでいる。)
(この手は今、私に触れている。)
(それをちゃんと受け取ればいい。)
紅い髪紐が通される。
白石の飾りが揺れる。
ソータは結び目を整え、少し離れて鏡を見た。
「どうかな。」
ミレイユは鏡を見る。
今までで一番綺麗に結べていた。
結び目は落ち着き、紅い紐の位置もよい。
白い石は髪の流れの中で、小さな光を放っている。
ミレイユはしばらく黙っていた。
ソータが不安そうにする。
「駄目?」
「いいえ。」
ミレイユは指先で髪紐に触れた。
「とてもいいわ。」
ソータの顔が明るくなった。
「本当?」
「ええ。」
「よかった。」
「明日も、この通りに結んで。」
「分かった。」
「失敗したら?」
「やり直す。」
「よろしい。」
ミレイユは立ち上がった。
そして、ソータの方を向いた。
「ソータ。」
「うん。」
「明日、これを結んだ時から、あなたにも覚悟してもらうわ。」
「うん。」
「この髪紐は、ただの飾りではない。」
「分かってる。」
「私との約束。」
「うん。」
「私を置いていかないという印。」
「うん。」
「迷った時に見る目印。」
「うん。」
「そして、私があなたの隣に立つという印よ。」
ソータはまっすぐミレイユを見た。
「分かった。」
その返事は静かだった。
だが、軽くなかった。
ミレイユは少しだけ頷いた。
「なら、今日は合格。」
「髪紐が?」
「あなたが。」
ソータは少し驚き、それから照れたように笑った。
「ありがとう。」
その笑顔を見て、ミレイユは胸の奥で思った。
(どうしてこんなに好きなのかしら。)
(腹が立つほど。)
(不安になるほど。)
(他の女に見せたくないほど。)
(それでも、遠くへ送り出せるようになりたいほど。)
答えは出ない。
けれど、その問いを抱えたままでも、今日を始めることはできた。
◆◇◆
午前中は、商会に残る者たちへの引き継ぎが行われた。
ミレイユが不在の間、日常の商談は副支配人が担当する。
急ぎの決裁は、事前に決めた範囲内で処理。
大口契約は保留。
村との通常取引は継続。
リーナの薬草軟膏に関する容器の試作は、ミレイユの帰還まで進めすぎない。
王都ギルドから追加連絡があれば、写しを保管し、必要に応じて早馬で追送。
ミレイユは一つずつ説明した。
声は落ち着いている。
仕事の時の自分は、やはり扱いやすい。
心の奥で何が揺れていても、帳簿や契約の前では手順がある。
「不測の事態が起きた場合は、アルベールの控え帳に従って。」
副支配人が頷いた。
「承知しました。」
「私が戻るまで、商会の外へソータの能力に関する噂を広げないこと。」
「はい。」
「すでに知っている使用人にも、改めて口止めを。」
「徹底いたします。」
「それと、実家へは三日に一度報告を入れて。」
「奥様へですね。」
「ええ。」
母が読めば、きっと文面の裏まで見抜くだろう。
だが、それでいい。
今回の旅に関して、母の目は必要だ。
(お母様なら、私が帰ってきた時にまた胸を刺すようなことを言うでしょうね。)
(でも、今はそれが少しありがたい。)
そう思えるようになった自分に、ミレイユは少しだけ驚いた。
引き継ぎの途中、ソータは部屋の端で静かに聞いていた。
時折、商会の人々が彼を見る。
その目には、以前よりも明確な敬意と緊張が混じっていた。
彼がただの協力者ではなく、商会の命運にも関わる存在になっていることを、皆が感じ始めている。
ソータ自身は、まだ少し居心地が悪そうだった。
ミレイユはそれを見て、少しだけ声を強めた。
「最後に。」
全員の視線が集まる。
「私が留守の間、ソータに関する勝手な噂や憶測を商会内で広げることを禁じます。」
ソータが少し驚いた顔をした。
「彼は商会の重要な協力者であり、私個人にとっても大切な人です。」
部屋が静かになった。
ミレイユは続けた。
「好奇心で扱ってよい存在ではありません。」
「承知しました。」
副支配人が深く頭を下げた。
使用人たちも続く。
ミレイユは頷いた。
恥ずかしさはあった。
だが、言う必要があった。
ソータを守るというのは、こういうことでもある。
自分の気持ちを隠して曖昧にするのではなく、必要な場では立場を示す。
ソータは何か言いたそうにしていた。
しかし、今は何も言わなかった。
それでよかった。
◆◇◆
昼前、ミレイユは一人で商会の小さな祈りの間へ向かった。
商会の奥にある小部屋で、旅に出る者や大きな商談へ向かう者が静かに祈る場所だった。
壁には商いと道の守護神を象った古い木彫りが置かれている。
豪華ではない。
むしろ、長い年月で角が丸くなった質素な像だった。
ミレイユはその前に立ち、しばらく目を閉じた。
祈りというより、心の整理に近い。
(無事に帰れますように。)
(それは当然。)
(皆が怪我をしませんように。)
(バルクさんに会えますように。)
(リーナさんに、よい報告ができますように。)
(村と砦の道が、悪いものになりませんように。)
そこまで祈って、少しだけ言葉が止まった。
そして、心の中で続ける。
(オルドアイと、きちんと向き合えますように。)
その祈りは、少し苦かった。
(彼女をただ憎むだけで終わりませんように。)
(でも、自分を押し殺しませんように。)
(ソータが逃げませんように。)
(私も逃げませんように。)
ミレイユは目を開けた。
木彫りの神像は、当然何も答えない。
ただ、道の神らしく、静かに前を向いているだけだった。
その沈黙が、今は少しありがたかった。
祈りの間を出ると、廊下でアルベールが待っていた。
「待ち伏せ?」
「お見送りでございます。」
「まだ出発は明日よ。」
「祈りを終えられたお嬢様を、執務室までお送りするのも務めでございます。」
「本当に何でも務めにするのね。」
「便利でございますので。」
ミレイユは小さく笑った。
アルベールは静かに横へ並ぶ。
「少し、表情が落ち着かれましたね。」
「そう見える?」
「はい。」
「心はまだ落ち着いていないわ。」
「落ち着いていないことを、お認めになっている分だけ安定しておられます。」
「妙な言い方。」
「事実でございます。」
ミレイユは廊下を歩きながら、少し考えた。
「アルベール。」
「はい。」
「私は、変わったかしら。」
「どのように?」
「物分かりがよくなった?」
「いいえ。」
即答だった。
ミレイユは足を止めそうになった。
「少しは悩んで答えてもよくない?」
「お嬢様は、物分かりがよくなったのではございません。」
「では、何?」
「物事を見分けようとなさるようになりました。」
ミレイユは黙った。
「怒りを捨てたわけではない。」
「ええ。」
「嫉妬を消したわけでもない。」
「ええ。」
「ただ、それだけで判断することを避けようとなさっている。」
「……。」
「それは、物分かりのよさではなく、器量でございます。」
ミレイユは少しだけ目を伏せた。
「器量。」
「はい。」
「お母様が聞いたら、まだまだと言いそうね。」
「奥様なら、おそらくそうおっしゃるでしょう。」
「否定しないのね。」
「奥様でございますので。」
ミレイユは苦笑した。
「でも、少しだけ嬉しいわ。」
「それは何よりでございます。」
アルベールは恭しく頭を下げた。
その仕草が少し大げさで、ミレイユはまた笑った。
笑える。
出発前日でも。
心が整いきらなくても。
それは悪くない兆しだった。
◆◇◆
午後、ガルドたちとの最後の確認訓練が行われた。
内容は、移動中の隊列変更。
霧の中で視界が悪くなった時の声かけ。
ミレイユが交渉のため前へ出る時の護衛位置。
ソータが《神速積載庫》から荷を取り出す間の隙をどう埋めるか。
何度も繰り返したため、皆の動きはかなり整ってきている。
カレンはミレイユの横につく動きが自然になった。
ガルドはソータの前方。
エルザは斜め後方から視界を取る。
レオンは周囲を回り、アルベールは気づけば一番嫌な死角にいる。
ソータは何度か荷を出し、すぐ下がる練習をした。
「出したら下がる。」
ガルドが言う。
「はい。」
「荷を見続けるな。」
「はい。」
「相手の反応を見るなら、一瞬だけ。」
「はい。」
「ミレイユを見るのも忘れるな。」
「それは忘れません。」
ソータが即答した。
ミレイユは少しだけ頬が熱くなった。
レオンがにやりとした。
「今の即答、いいっすね。」
「茶化さない。」
エルザが言う。
「すみませんっす。」
カレンはソータを見て言った。
「即答できるなら、体にも覚えさせろ。」
「はい。」
訓練の最後に、オルドアイが急接近する想定が行われた。
相変わらず、レオンがやろうとして却下された。
「なんで毎回駄目なんすか。」
「似合わない。」
カレンが一言で切った。
「ひどいっす。」
「事実だ。」
結局、カレンが再び相手役になった。
カレンが素早く踏み込む。
ソータは一瞬だけ反応が遅れる。
だが、すぐにミレイユの紅い髪紐を見る。
そして、横へ下がる。
前回より速い。
カレンの手は空を切った。
「良い。」
ガルドが言った。
「今のは使える。」
カレンも頷く。
「前よりましだ。」
「まし。」
ソータは少し苦笑した。
「カレンさんの褒め方、渋いですね。」
「褒めている。」
「ありがとうございます。」
ミレイユは髪紐に触れた。
また見た。
また戻った。
その事実が、胸に静かな安心を与える。
もちろん、訓練と本番は違う。
オルドアイはカレンとは違う。
彼女はソータの心をすでに揺らした相手だ。
実際に会えば、こんなに簡単ではない。
それでも、何もないよりはいい。
約束が身体の動きに少しずつ移っている。
ミレイユはそれを確かめた。
「ソータ。」
「うん。」
「今のはよかったわ。」
「ありがとう。」
「でも、本番で失敗したら怒るわ。」
「はい。」
レオンが笑った。
「褒めてから落とすの、上手いっすね。」
「必要な緊張感よ。」
ミレイユは真面目に答えた。
レオンは肩をすくめた。
「ソータさん、頑張るっす。」
「頑張るよ。」
ソータは苦笑しながらも、目は真剣だった。
◆◇◆
夕方、出発前最後の荷の封が行われた。
倉庫の中央に、全員が集まっている。
ソータが収納する前に、ミレイユが最終確認の印をつける。
村用の箱。
野営用の箱。
緊急用の箱。
砦用の実用品。
贈答品。
赤い布。
髪飾り。
鏡。
ミレイユは一つ一つに目を通す。
赤い布の箱の前で、少しだけ手が止まった。
深い赤。
開かなくても、色を覚えている。
オルドアイに似合うだろうと思ってしまった布。
悔しくて、それでも商人として選んだ布。
ミレイユは封の紐を手に取った。
結びながら、胸の奥で呟く。
(私はこれを彼女に渡す。)
(逃げずに。)
(媚びずに。)
(見下さずに。)
(私の手で。)
次に、髪飾りの箱。
濃い髪に似合うよう選んだ品。
戦士の姫としての誇りを損なわず、こちらの格も示すための品。
そして、鏡。
これは少しだけ、ミレイユ自身の感情が強く入っている。
相手に自分を見せる品。
相手が自分を見る品。
ミレイユがオルドアイを見るための象徴。
ミレイユは鏡の箱にも封をした。
ソータが隣で静かに見ている。
「ミレイユ。」
「何?」
「その箱、重い?」
「物としては軽いわ。」
「うん。」
「でも、意味は重い。」
「だよね。」
「あなたが持つのよ。」
「うん。」
「でも、渡すのは私。」
「分かってる。」
「勝手に出さない。」
「出さない。」
「姫に急かされても。」
「出さない。」
「あなたが焦っても。」
「出さない。」
「よろしい。」
ソータは少しだけ笑った。
「念押しが多い。」
「多いくらいでちょうどいいの。」
「うん。」
ミレイユは最後の封を終えた。
「では、収納して。」
ソータは頷き、箱に手を置いた。
次々と荷が消えていく。
倉庫の中央に積まれていた木箱や布包みが、まるで風に溶けるようになくなっていく。
最後に、赤い印のついた贈答品の箱が消えた。
倉庫が広くなる。
空間が空く。
けれど、ミレイユには逆に重さが増したように感じられた。
荷はソータの中に入った。
責任も。
約束も。
不安も。
「全部入った。」
ソータが言った。
ミレイユは頷いた。
「では、明日出発ね。」
その言葉を口にした瞬間、倉庫にいた全員の空気が変わった。
ついに、明日。
誰も大きな声は出さなかった。
ただ、それぞれが小さく頷いた。
◆◇◆
夜、出発前最後の夕食は静かだった。
昨日のような食事会ではない。
それぞれが明日に備えて早めに休むため、軽めの食事を取るだけだった。
ソータはいつもより少し多めに食べていた。
カレンに言われたことを気にしているのかもしれない。
「動くには食う、だったかしら。」
ミレイユが言うと、ソータは少し笑った。
「うん。」
「よろしい。」
「ミレイユも食べてる?」
「食べているわ。」
「少し少ない気がする。」
「緊張しているの。」
ミレイユは正直に言った。
ソータは少し心配そうな顔をした。
「無理しないで。」
「無理はするわ。」
「え。」
「でも、倒れる無理はしない。」
「それなら。」
「あなたもね。」
「うん。」
食事の後、ミレイユはリーナの香り袋を持って自室へ戻った。
ソータも一緒だった。
部屋に入ると、二人はしばらく何も言わなかった。
明日出発する。
その事実が、言葉の前に立っていた。
ミレイユは窓辺に立つ。
二つの月は、かなり丸くなっている。
フルムーンまで、あと十一日。
「明日ね。」
ミレイユが言った。
「うん。」
「本当に行くのね。」
「うん。」
「怖いわ。」
「俺も。」
「あなたは何が一番怖い?」
ソータは少し考えた。
「ミレイユが、俺のせいで泣くこと。」
ミレイユは胸が少し痛んだ。
「泣くかもしれないわ。」
「うん。」
「泣いたらどうするの?」
「そばにいる。」
「それだけ?」
「逃げずに聞く。」
「それから?」
「謝るだけじゃなくて、どうするか考える。」
ミレイユは振り返った。
「成長したわね。」
「髪紐訓練のおかげかも。」
「それは関係あるのかしら。」
「あると思う。」
ソータは真面目に言った。
「ミレイユに触れる前に確認すること。」
「……。」
「強く引っ張りすぎないこと。」
「……。」
「急がずに、でも途中で放り出さないこと。」
「……。」
「失敗したらやり直すこと。」
「……。」
「髪を結ぶだけじゃなくて、たぶん約束もそうなんだと思った。」
ミレイユは言葉を失った。
ソータは少し照れたように笑う。
「変かな。」
「いいえ。」
ミレイユはゆっくり首を振った。
「とてもいいわ。」
胸が熱くなった。
泣きそうになる。
けれど、今の涙は悲しみだけではなかった。
「あなた、本当に少しずつ分かってきたのね。」
「少しだけ。」
「それでいいわ。」
ミレイユはソータへ近づいた。
そして、自分から彼の胸に額を寄せた。
「今夜は、ただ抱きしめて。」
「うん。」
「明日からは、また会頭代理になる。」
「うん。」
「商会代表になる。」
「うん。」
「あなたの恋人として、オルドアイの前にも立つ。」
「うん。」
「だから今夜だけは、少し弱くさせて。」
ソータの腕が、静かに回ってきた。
強すぎず、弱すぎず。
昨日までの訓練が、そのまま腕の中に移ったような抱き方だった。
「いいよ。」
ソータが言った。
「弱くても、俺はいる。」
ミレイユは目を閉じた。
(それが欲しかったの。)
(強くなれと言われ続けた。)
(強くなろうとも思った。)
(でも、弱くいてもいい場所も欲しかった。)
リーナの香り袋が、枕元で静かに香っている。
紅い髪紐は、今日もほどかずにいた。
白石の飾りが、ソータの腕の中で小さく揺れる。
「ソータ。」
「うん。」
「明日の朝、結んでね。」
「うん。」
「きちんと。」
「きちんと結ぶ。」
「約束よ。」
「約束する。」
ミレイユは小さく頷いた。
明日、出発する。
もう引き返せない。
けれど今夜だけは、ソータの腕の中でその重さを少し預けることができた。
外では二つの月が、静かに満ちていく。
旅立ちの前夜は、別れの予行練習のようであり、同時に新しい約束を結ぶ夜でもあった。
ミレイユはソータの胸の音を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。
(明日、私は行く。)
(紅い髪紐を結んで。)
(あなたの隣に立つために。)
(私自身の答えを見つけるために。)




