表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
85/147

第85話:最後の準備は、別れの予行練習に似ていた

出発まで、あと一日。


朝のクラウゼン商会は、妙に静かだった。


忙しくないわけではない。

むしろ、誰もが朝早くから動いている。

使用人たちは荷の最終確認を行い、帳簿係は封をした書類を何度も数え、馬丁は明日の馬の状態を確かめていた。


けれど、大きな声は少なかった。

笑い声も控えめだった。

出発を翌日に控えた商会全体が、息を潜めているようだった。


ミレイユは執務室の窓辺に立ち、その空気を感じていた。


グランデリアの街はいつも通り動いている。

荷馬車が通り、商人が声を張り、通りの店は朝の準備を始めている。

だが、ミレイユの中では、明らかに何かが区切りへ向かっていた。


(明日、出発する。)

(もう、準備をしている段階ではない。)

(行くのだわ。)

(村へ。)

(北の森へ。)

(霧の向こうへ。)

(オルドアイのいる砦へ。)


その名前を思うたび、胸はまだ痛む。

しかし、最初の頃のようにただ焼けるだけではなくなっていた。


痛みの周りに、いくつもの言葉が結ばれている。


見る。

逃げない。

荷札を間違えない。

隠させない。

軽く扱わせない。

自分で選ぶ。


それらの言葉が、胸の中で頼りない足場になっていた。


完全ではない。

揺れる。

それでも、足場が何もないよりはずっといい。


ミレイユは鏡の前へ向かった。

皿の上には紅い髪紐と白石の飾りが置かれている。


今日は、出発前最後の練習の日だった。

明日の朝、この髪紐をソータが結ぶ。

それをつけて、ミレイユは商会を出る。


そう思うだけで、少しだけ指先が震えた。


扉が叩かれる。


「ミレイユ、起きてる?」


いつもの声だった。


ミレイユは息を整えた。


「入って。」


扉が開き、ソータが入ってきた。

手には、髪を整えるための布と、小さな櫛がある。

昨日より道具が増えている。


ミレイユは鏡越しにそれを見て、少し目を細めた。


「ずいぶん本格的ね。」


「侍女さんに借りた。」


「練習熱心だこと。」


「明日失敗したら大変だから。」


「どう大変なの?」


「ミレイユが不機嫌になる。」


「それだけ?」


「俺が落ち込む。」


「それは大変ね。」


ミレイユは少し笑った。


ソータも少し笑う。

だが、その笑みの奥には緊張があった。

髪を結ぶことだけではない。

明日の出発そのものが、彼の肩にも重く乗っている。


ミレイユは椅子に座った。

髪を解く。

肩へ落ちた髪を、ソータが少し見つめる。


「何?」


「綺麗だなと思って。」


自然な言葉だった。


ミレイユの頬が少し熱くなる。


「朝から油断させないで。」


「油断?」


「そういうことを急に言わないで。」


「ごめん。」


「謝らなくていいわ。」


「どっち?」


「難しいところね。」


ソータは困ったように笑った。


そして、ミレイユの背後に立つ。


「触るよ。」


「ええ。」


その一言も、もう習慣になりつつあった。

ソータの指が髪に触れる。

ミレイユは目を閉じた。


最初の頃より、手つきはずっと落ち着いている。

髪を引かない。

絡んだところを無理に解かない。

櫛を通す時も慎重だ。


不器用な優しさが、少しずつ形になっている。


(この人は、こうやって覚えていくのね。)

(約束も。)

(距離も。)

(人の痛みも。)

(最初から上手いわけではない。)

(でも、覚えようとする。)


そのことが、ミレイユの胸を柔らかくした。

同時に、切なくもした。


ソータはオルドアイのことも、きっと覚えようとするだろう。

彼女の痛みや願いや、強さも。

それを想像すると、胸がまた痛む。


だが、今のミレイユはその痛みをすぐに押し潰さなかった。

ただ、そこにあるものとして受け止めた。


(痛い。)

(でも、今は私の髪を結んでいる。)

(この手は今、私に触れている。)

(それをちゃんと受け取ればいい。)


紅い髪紐が通される。

白石の飾りが揺れる。

ソータは結び目を整え、少し離れて鏡を見た。


「どうかな。」


ミレイユは鏡を見る。


今までで一番綺麗に結べていた。

結び目は落ち着き、紅い紐の位置もよい。

白い石は髪の流れの中で、小さな光を放っている。


ミレイユはしばらく黙っていた。


ソータが不安そうにする。


「駄目?」


「いいえ。」


ミレイユは指先で髪紐に触れた。


「とてもいいわ。」


ソータの顔が明るくなった。


「本当?」


「ええ。」


「よかった。」


「明日も、この通りに結んで。」


「分かった。」


「失敗したら?」


「やり直す。」


「よろしい。」


ミレイユは立ち上がった。

そして、ソータの方を向いた。


「ソータ。」


「うん。」


「明日、これを結んだ時から、あなたにも覚悟してもらうわ。」


「うん。」


「この髪紐は、ただの飾りではない。」


「分かってる。」


「私との約束。」


「うん。」


「私を置いていかないという印。」


「うん。」


「迷った時に見る目印。」


「うん。」


「そして、私があなたの隣に立つという印よ。」


ソータはまっすぐミレイユを見た。


「分かった。」


その返事は静かだった。

だが、軽くなかった。


ミレイユは少しだけ頷いた。


「なら、今日は合格。」


「髪紐が?」


「あなたが。」


ソータは少し驚き、それから照れたように笑った。


「ありがとう。」


その笑顔を見て、ミレイユは胸の奥で思った。


(どうしてこんなに好きなのかしら。)

(腹が立つほど。)

(不安になるほど。)

(他の女に見せたくないほど。)

(それでも、遠くへ送り出せるようになりたいほど。)


答えは出ない。

けれど、その問いを抱えたままでも、今日を始めることはできた。


◆◇◆


午前中は、商会に残る者たちへの引き継ぎが行われた。


ミレイユが不在の間、日常の商談は副支配人が担当する。

急ぎの決裁は、事前に決めた範囲内で処理。

大口契約は保留。

村との通常取引は継続。

リーナの薬草軟膏に関する容器の試作は、ミレイユの帰還まで進めすぎない。

王都ギルドから追加連絡があれば、写しを保管し、必要に応じて早馬で追送。


ミレイユは一つずつ説明した。


声は落ち着いている。

仕事の時の自分は、やはり扱いやすい。

心の奥で何が揺れていても、帳簿や契約の前では手順がある。


「不測の事態が起きた場合は、アルベールの控え帳に従って。」


副支配人が頷いた。


「承知しました。」


「私が戻るまで、商会の外へソータの能力に関する噂を広げないこと。」


「はい。」


「すでに知っている使用人にも、改めて口止めを。」


「徹底いたします。」


「それと、実家へは三日に一度報告を入れて。」


「奥様へですね。」


「ええ。」


母が読めば、きっと文面の裏まで見抜くだろう。

だが、それでいい。

今回の旅に関して、母の目は必要だ。


(お母様なら、私が帰ってきた時にまた胸を刺すようなことを言うでしょうね。)

(でも、今はそれが少しありがたい。)


そう思えるようになった自分に、ミレイユは少しだけ驚いた。


引き継ぎの途中、ソータは部屋の端で静かに聞いていた。

時折、商会の人々が彼を見る。

その目には、以前よりも明確な敬意と緊張が混じっていた。


彼がただの協力者ではなく、商会の命運にも関わる存在になっていることを、皆が感じ始めている。


ソータ自身は、まだ少し居心地が悪そうだった。


ミレイユはそれを見て、少しだけ声を強めた。


「最後に。」


全員の視線が集まる。


「私が留守の間、ソータに関する勝手な噂や憶測を商会内で広げることを禁じます。」


ソータが少し驚いた顔をした。


「彼は商会の重要な協力者であり、私個人にとっても大切な人です。」


部屋が静かになった。


ミレイユは続けた。


「好奇心で扱ってよい存在ではありません。」


「承知しました。」


副支配人が深く頭を下げた。

使用人たちも続く。


ミレイユは頷いた。


恥ずかしさはあった。

だが、言う必要があった。

ソータを守るというのは、こういうことでもある。

自分の気持ちを隠して曖昧にするのではなく、必要な場では立場を示す。


ソータは何か言いたそうにしていた。

しかし、今は何も言わなかった。


それでよかった。


◆◇◆


昼前、ミレイユは一人で商会の小さな祈りの間へ向かった。


商会の奥にある小部屋で、旅に出る者や大きな商談へ向かう者が静かに祈る場所だった。

壁には商いと道の守護神を象った古い木彫りが置かれている。

豪華ではない。

むしろ、長い年月で角が丸くなった質素な像だった。


ミレイユはその前に立ち、しばらく目を閉じた。


祈りというより、心の整理に近い。


(無事に帰れますように。)

(それは当然。)

(皆が怪我をしませんように。)

(バルクさんに会えますように。)

(リーナさんに、よい報告ができますように。)

(村と砦の道が、悪いものになりませんように。)


そこまで祈って、少しだけ言葉が止まった。


そして、心の中で続ける。


(オルドアイと、きちんと向き合えますように。)


その祈りは、少し苦かった。


(彼女をただ憎むだけで終わりませんように。)

(でも、自分を押し殺しませんように。)

(ソータが逃げませんように。)

(私も逃げませんように。)


ミレイユは目を開けた。

木彫りの神像は、当然何も答えない。

ただ、道の神らしく、静かに前を向いているだけだった。


その沈黙が、今は少しありがたかった。


祈りの間を出ると、廊下でアルベールが待っていた。


「待ち伏せ?」


「お見送りでございます。」


「まだ出発は明日よ。」


「祈りを終えられたお嬢様を、執務室までお送りするのも務めでございます。」


「本当に何でも務めにするのね。」


「便利でございますので。」


ミレイユは小さく笑った。


アルベールは静かに横へ並ぶ。


「少し、表情が落ち着かれましたね。」


「そう見える?」


「はい。」


「心はまだ落ち着いていないわ。」


「落ち着いていないことを、お認めになっている分だけ安定しておられます。」


「妙な言い方。」


「事実でございます。」


ミレイユは廊下を歩きながら、少し考えた。


「アルベール。」


「はい。」


「私は、変わったかしら。」


「どのように?」


「物分かりがよくなった?」


「いいえ。」


即答だった。


ミレイユは足を止めそうになった。


「少しは悩んで答えてもよくない?」


「お嬢様は、物分かりがよくなったのではございません。」


「では、何?」


「物事を見分けようとなさるようになりました。」


ミレイユは黙った。


「怒りを捨てたわけではない。」


「ええ。」


「嫉妬を消したわけでもない。」


「ええ。」


「ただ、それだけで判断することを避けようとなさっている。」


「……。」


「それは、物分かりのよさではなく、器量でございます。」


ミレイユは少しだけ目を伏せた。


「器量。」


「はい。」


「お母様が聞いたら、まだまだと言いそうね。」


「奥様なら、おそらくそうおっしゃるでしょう。」


「否定しないのね。」


「奥様でございますので。」


ミレイユは苦笑した。


「でも、少しだけ嬉しいわ。」


「それは何よりでございます。」


アルベールは恭しく頭を下げた。


その仕草が少し大げさで、ミレイユはまた笑った。


笑える。

出発前日でも。

心が整いきらなくても。

それは悪くない兆しだった。


◆◇◆


午後、ガルドたちとの最後の確認訓練が行われた。


内容は、移動中の隊列変更。

霧の中で視界が悪くなった時の声かけ。

ミレイユが交渉のため前へ出る時の護衛位置。

ソータが《神速積載庫》から荷を取り出す間の隙をどう埋めるか。


何度も繰り返したため、皆の動きはかなり整ってきている。


カレンはミレイユの横につく動きが自然になった。

ガルドはソータの前方。

エルザは斜め後方から視界を取る。

レオンは周囲を回り、アルベールは気づけば一番嫌な死角にいる。


ソータは何度か荷を出し、すぐ下がる練習をした。


「出したら下がる。」


ガルドが言う。


「はい。」


「荷を見続けるな。」


「はい。」


「相手の反応を見るなら、一瞬だけ。」


「はい。」


「ミレイユを見るのも忘れるな。」


「それは忘れません。」


ソータが即答した。


ミレイユは少しだけ頬が熱くなった。


レオンがにやりとした。


「今の即答、いいっすね。」


「茶化さない。」


エルザが言う。


「すみませんっす。」


カレンはソータを見て言った。


「即答できるなら、体にも覚えさせろ。」


「はい。」


訓練の最後に、オルドアイが急接近する想定が行われた。

相変わらず、レオンがやろうとして却下された。


「なんで毎回駄目なんすか。」


「似合わない。」


カレンが一言で切った。


「ひどいっす。」


「事実だ。」


結局、カレンが再び相手役になった。


カレンが素早く踏み込む。

ソータは一瞬だけ反応が遅れる。

だが、すぐにミレイユの紅い髪紐を見る。

そして、横へ下がる。


前回より速い。


カレンの手は空を切った。


「良い。」


ガルドが言った。


「今のは使える。」


カレンも頷く。


「前よりましだ。」


「まし。」


ソータは少し苦笑した。


「カレンさんの褒め方、渋いですね。」


「褒めている。」


「ありがとうございます。」


ミレイユは髪紐に触れた。


また見た。

また戻った。


その事実が、胸に静かな安心を与える。


もちろん、訓練と本番は違う。

オルドアイはカレンとは違う。

彼女はソータの心をすでに揺らした相手だ。

実際に会えば、こんなに簡単ではない。


それでも、何もないよりはいい。

約束が身体の動きに少しずつ移っている。


ミレイユはそれを確かめた。


「ソータ。」


「うん。」


「今のはよかったわ。」


「ありがとう。」


「でも、本番で失敗したら怒るわ。」


「はい。」


レオンが笑った。


「褒めてから落とすの、上手いっすね。」


「必要な緊張感よ。」


ミレイユは真面目に答えた。


レオンは肩をすくめた。


「ソータさん、頑張るっす。」


「頑張るよ。」


ソータは苦笑しながらも、目は真剣だった。


◆◇◆


夕方、出発前最後の荷の封が行われた。


倉庫の中央に、全員が集まっている。

ソータが収納する前に、ミレイユが最終確認の印をつける。


村用の箱。

野営用の箱。

緊急用の箱。

砦用の実用品。

贈答品。

赤い布。

髪飾り。

鏡。


ミレイユは一つ一つに目を通す。


赤い布の箱の前で、少しだけ手が止まった。


深い赤。

開かなくても、色を覚えている。

オルドアイに似合うだろうと思ってしまった布。

悔しくて、それでも商人として選んだ布。


ミレイユは封の紐を手に取った。

結びながら、胸の奥で呟く。


(私はこれを彼女に渡す。)

(逃げずに。)

(媚びずに。)

(見下さずに。)

(私の手で。)


次に、髪飾りの箱。

濃い髪に似合うよう選んだ品。

戦士の姫としての誇りを損なわず、こちらの格も示すための品。


そして、鏡。


これは少しだけ、ミレイユ自身の感情が強く入っている。

相手に自分を見せる品。

相手が自分を見る品。

ミレイユがオルドアイを見るための象徴。


ミレイユは鏡の箱にも封をした。


ソータが隣で静かに見ている。


「ミレイユ。」


「何?」


「その箱、重い?」


「物としては軽いわ。」


「うん。」


「でも、意味は重い。」


「だよね。」


「あなたが持つのよ。」


「うん。」


「でも、渡すのは私。」


「分かってる。」


「勝手に出さない。」


「出さない。」


「姫に急かされても。」


「出さない。」


「あなたが焦っても。」


「出さない。」


「よろしい。」


ソータは少しだけ笑った。


「念押しが多い。」


「多いくらいでちょうどいいの。」


「うん。」


ミレイユは最後の封を終えた。


「では、収納して。」


ソータは頷き、箱に手を置いた。


次々と荷が消えていく。

倉庫の中央に積まれていた木箱や布包みが、まるで風に溶けるようになくなっていく。


最後に、赤い印のついた贈答品の箱が消えた。


倉庫が広くなる。

空間が空く。

けれど、ミレイユには逆に重さが増したように感じられた。


荷はソータの中に入った。

責任も。

約束も。

不安も。


「全部入った。」


ソータが言った。


ミレイユは頷いた。


「では、明日出発ね。」


その言葉を口にした瞬間、倉庫にいた全員の空気が変わった。


ついに、明日。


誰も大きな声は出さなかった。

ただ、それぞれが小さく頷いた。


◆◇◆


夜、出発前最後の夕食は静かだった。


昨日のような食事会ではない。

それぞれが明日に備えて早めに休むため、軽めの食事を取るだけだった。


ソータはいつもより少し多めに食べていた。

カレンに言われたことを気にしているのかもしれない。


「動くには食う、だったかしら。」


ミレイユが言うと、ソータは少し笑った。


「うん。」


「よろしい。」


「ミレイユも食べてる?」


「食べているわ。」


「少し少ない気がする。」


「緊張しているの。」


ミレイユは正直に言った。


ソータは少し心配そうな顔をした。


「無理しないで。」


「無理はするわ。」


「え。」


「でも、倒れる無理はしない。」


「それなら。」


「あなたもね。」


「うん。」


食事の後、ミレイユはリーナの香り袋を持って自室へ戻った。

ソータも一緒だった。


部屋に入ると、二人はしばらく何も言わなかった。

明日出発する。

その事実が、言葉の前に立っていた。


ミレイユは窓辺に立つ。

二つの月は、かなり丸くなっている。

フルムーンまで、あと十一日。


「明日ね。」


ミレイユが言った。


「うん。」


「本当に行くのね。」


「うん。」


「怖いわ。」


「俺も。」


「あなたは何が一番怖い?」


ソータは少し考えた。


「ミレイユが、俺のせいで泣くこと。」


ミレイユは胸が少し痛んだ。


「泣くかもしれないわ。」


「うん。」


「泣いたらどうするの?」


「そばにいる。」


「それだけ?」


「逃げずに聞く。」


「それから?」


「謝るだけじゃなくて、どうするか考える。」


ミレイユは振り返った。


「成長したわね。」


「髪紐訓練のおかげかも。」


「それは関係あるのかしら。」


「あると思う。」


ソータは真面目に言った。


「ミレイユに触れる前に確認すること。」


「……。」


「強く引っ張りすぎないこと。」


「……。」


「急がずに、でも途中で放り出さないこと。」


「……。」


「失敗したらやり直すこと。」


「……。」


「髪を結ぶだけじゃなくて、たぶん約束もそうなんだと思った。」


ミレイユは言葉を失った。


ソータは少し照れたように笑う。


「変かな。」


「いいえ。」


ミレイユはゆっくり首を振った。


「とてもいいわ。」


胸が熱くなった。

泣きそうになる。

けれど、今の涙は悲しみだけではなかった。


「あなた、本当に少しずつ分かってきたのね。」


「少しだけ。」


「それでいいわ。」


ミレイユはソータへ近づいた。

そして、自分から彼の胸に額を寄せた。


「今夜は、ただ抱きしめて。」


「うん。」


「明日からは、また会頭代理になる。」


「うん。」


「商会代表になる。」


「うん。」


「あなたの恋人として、オルドアイの前にも立つ。」


「うん。」


「だから今夜だけは、少し弱くさせて。」


ソータの腕が、静かに回ってきた。


強すぎず、弱すぎず。

昨日までの訓練が、そのまま腕の中に移ったような抱き方だった。


「いいよ。」


ソータが言った。


「弱くても、俺はいる。」


ミレイユは目を閉じた。


(それが欲しかったの。)

(強くなれと言われ続けた。)

(強くなろうとも思った。)

(でも、弱くいてもいい場所も欲しかった。)


リーナの香り袋が、枕元で静かに香っている。

紅い髪紐は、今日もほどかずにいた。

白石の飾りが、ソータの腕の中で小さく揺れる。


「ソータ。」


「うん。」


「明日の朝、結んでね。」


「うん。」


「きちんと。」


「きちんと結ぶ。」


「約束よ。」


「約束する。」


ミレイユは小さく頷いた。


明日、出発する。

もう引き返せない。


けれど今夜だけは、ソータの腕の中でその重さを少し預けることができた。


外では二つの月が、静かに満ちていく。

旅立ちの前夜は、別れの予行練習のようであり、同時に新しい約束を結ぶ夜でもあった。


ミレイユはソータの胸の音を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。


(明日、私は行く。)

(紅い髪紐を結んで。)

(あなたの隣に立つために。)

(私自身の答えを見つけるために。)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ