第84話:出発前の夜、約束は荷札のように結ばれる
出発まで、あと二日。
ミレイユが目を覚ました時、部屋にはまだ薬草の香りが残っていた。
リーナの香り袋は、枕元に置かれたままだった。
乾いた草と、土の奥にある静かな湿り気のような匂い。
甘くはない。
華やかでもない。
けれど、胸の奥に溜まった熱を少しずつ外へ逃がしてくれるような香りだった。
昨夜は、久しぶりに深く眠れた。
眠る直前まで、ソータが隣にいた。
ただ隣にいて、何かを無理に言うこともなく、ミレイユの肩に触れる程度の距離でいてくれた。
その温もりを思い出すと、胸が少しだけ柔らかくなる。
けれど、すぐに別の感情も起き上がった。
(あと二日。)
(もう、準備の言い訳はできない。)
(出発すれば、村へ向かう。)
(村を越えれば、北の森。)
(霧を抜ければ、あの砦。)
(オルドアイ。)
まだ会ったことのない女の名前が、心の中で静かに響いた。
腹は立つ。
怖くもある。
それなのに、もうその名前から目を逸らすことはできなくなっていた。
ミレイユは寝台から降り、鏡台の前に座った。
紅い髪紐と、母から届いた白石の飾りが、小さな皿の上に置かれている。
昨日までは、それを見るたびに胸が熱くなった。
今日は少し違う。
熱だけでなく、重さもある。
これは恋人からの贈り物であり、母からの激励であり、自分で選んだ旗でもある。
そして、ソータに見せるための目印でもある。
(荷札みたいね。)
(どこへ届けるか、誰のものか、間違えないように結ぶ札。)
(私の心にも、これを結んでおくのかもしれない。)
(私はどこに立つのか。)
(誰の隣に立つのか。)
(何を守りたいのか。)
ミレイユは髪紐に指先で触れた。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「ミレイユ、起きてる?」
ソータの声だった。
ミレイユは少しだけ背筋を伸ばした。
「起きているわ。」
「入っていい?」
「入りなさい。」
扉が開く。
ソータが顔を出した。
まだ朝の早い時間なので、彼の髪も少しだけ整いきっていない。
それでも、手にはきちんと小さな布を持っていた。
髪紐を結ぶ時に、髪を整えるための布だ。
昨日、侍女に教わったらしい。
そういうところが、妙に律儀だった。
「練習に来た。」
「言われなくても来るようになったのね。」
「大事な訓練だから。」
ミレイユは鏡越しにソータを見た。
「何の訓練だったか覚えている?」
「ミレイユを大切に扱う訓練。」
即答だった。
ミレイユは少しだけ頬が熱くなった。
「よろしい。」
ソータはほっとしたように笑った。
そして、ミレイユの後ろに立つ。
髪に触れる前に、一度手を止めた。
「触るよ。」
「ええ。」
それだけの言葉なのに、ミレイユの胸が小さく揺れた。
最初に髪を結んだ時、ソータはただ緊張していた。
今は、少しずつ手順を覚えている。
それでも、触れる前に確認する。
強く引かないように気をつける。
髪紐の位置を鏡で確認する。
不器用だが、丁寧だった。
(こういう人だから、私は許したくなってしまう。)
(許したわけではないのに。)
(でも、許したくなる瞬間がある。)
(それが悔しい。)
(それでも、嬉しい。)
ソータの指が髪をまとめる。
紅い髪紐が通される。
白石の飾りが揺れる。
昨日より、結び目はさらに整っていた。
「できた。」
ミレイユは鏡を見る。
紅い髪紐は、髪の中で静かに映えている。
白い石は控えめに光り、派手ではないが、目を引く。
商会の娘としても、恋人としても、旅に出る女としても、ちょうどよい強さがあった。
「上手くなったわね。」
「本当?」
「ええ。」
「よかった。」
「明日で仕上げね。」
「出発の日だしな。」
「ええ。」
出発。
その言葉が部屋に落ちると、二人の間に少しだけ沈黙が生まれた。
ソータは鏡越しにミレイユを見る。
「怖い?」
ミレイユは、すぐに答えなかった。
以前なら、大丈夫よと言ったかもしれない。
会頭代理の顔をして、そんなことは問題ではないと言ったかもしれない。
けれど今は、少し違う。
「怖いわ。」
素直に言った。
「でも、行く。」
「うん。」
「あなたは?」
「怖い。」
「何が?」
「また間違えること。」
ソータの声は低かった。
「ミレイユを傷つけること。」
「……。」
「オルドアイにも、ちゃんと向き合えないこと。」
「……。」
「バルクさんにも、ガルナにも、村にも、砦にも、全部中途半端になること。」
「欲張りね。」
「そうかも。」
「でも、あなたらしいわ。」
ミレイユは立ち上がった。
鏡の中からではなく、直接ソータを見る。
「全部を一度に正しく運ぼうとしなくていいわ。」
「うん。」
「でも、荷札を間違えないこと。」
「荷札?」
「これは誰への約束なのか。」
「……。」
「これは誰を守るための言葉なのか。」
「……。」
「これは誰に隠してはいけない気持ちなのか。」
「……。」
「一つ一つ、間違えないようにしなさい。」
ソータは少し考え、それから頷いた。
「分かった。」
「本当に?」
「うん。」
「あなた、荷物なら間違えないでしょう。」
「絶対とは言わないけど、かなり気をつける。」
「なら、気持ちにも荷札をつけるの。」
ミレイユは髪紐に触れた。
「これは、私との約束の荷札。」
ソータの目が、紅い髪紐へ向いた。
「うん。」
「迷ったら見る。」
「見る。」
「隠したくなったら見る。」
「見る。」
「彼女に揺れたら。」
胸が痛む。
それでも言った。
「その時も見る。」
ソータは静かに頷いた。
「見る。」
ミレイユはその返事を聞き、ゆっくり息を吐いた。
痛い。
でも、痛みに名前がついていく。
形ができていく。
ただ胸の中を燃やすだけだったものが、扱うべき荷になっていく。
それなら、運べるかもしれない。
◆◇◆
午前の会議では、出発前の最終行程が確認された。
商会から村までは、通常より速いが無理のない速度で進む。
荷はすべてソータが収めるため、馬車の負担は軽い。
ただし、ミレイユが同行するため、休憩は多めに取る。
村で一泊。
リーナと村長へ報告。
翌朝、北の森へ入る。
霧の領域手前で隊列を確認。
前回の目印を辿り、砦側の出迎えを待つ。
アルベールが地図の上へ小さな駒を置いた。
「この地点で一度休憩を入れます。」
「そこは前回、野営前に通った沢の近くです。」
ソータが補足する。
「水場か。」
カレンが確認する。
「ええ。ただし、霧の影響が出始める可能性があります。」
ガルドが地図を見たまま言った。
「全員、離れるな。」
「了解っす。」
レオンが答える。
エルザはミレイユへ視線を向けた。
「森に入ってからは、ミレイユ様も単独行動は避けてください。」
「分かっているわ。」
「薬草や景色が気になってもです。」
「私はリーナさんではないわ。」
「念のためです。」
「……気をつけます。」
ミレイユは少しだけ不満そうに答えた。
ソータが横で小さく笑う。
「何か?」
「いや、ミレイユも注意されるんだなって。」
「あなたほどではないわ。」
「それはそう。」
レオンが小声で言った。
「今回は注意される人が増えて、護衛側も大変っすね。」
カレンが淡々と答えた。
「守る対象が増えれば当然だ。」
「カレンさん、言い方がいちいち現実的っす。」
「現実だからな。」
会議室に少し笑いが広がる。
ミレイユはその様子を見ながら、少しだけ安心した。
旅の緊張はある。
だが、全員が固くなりすぎているわけではない。
良い隊列には、緊張だけでなく呼吸も必要だ。
それは商会の仕事でも同じだった。
ミレイユは資料をめくった。
「次に、砦到着後の挨拶です。」
空気が少し引き締まる。
「まずヤンガルドアイ様へ正式に挨拶します。」
「長からだな。」
ガルドが頷く。
「ええ。」
「オルドアイ姫が先に出てきた場合は?」
エルザが尋ねる。
ミレイユは一瞬だけ息を吸った。
「姫へも敬意を示します。」
「はい。」
「ただし、交渉の代表者として、まず長へ挨拶したいと伝えます。」
「妥当です。」
アルベールが静かに言った。
ソータは真剣な顔で聞いている。
ミレイユは彼を見た。
「ソータ。」
「うん。」
「オルドアイ姫があなたに駆け寄ってきた場合。」
「下がる。」
「どこへ?」
「ミレイユの隣。」
「よろしい。」
レオンが手を挙げた。
「質問っす。」
「どうぞ。」
「姫が速すぎて下がる前に抱きつかれた場合は?」
ソータが顔を引きつらせた。
ミレイユは静かに答える。
「まずソータが離れる。」
「はいっす。」
「離れられなければ、カレンさんが割って入る。」
「了解。」
カレンが短く言う。
「それでも姫が離れなかったら?」
レオンがさらに聞く。
ミレイユは少し目を細めた。
「その時は、私が笑顔でお願いするわ。」
部屋が一瞬静かになった。
レオンがごく小さく呟く。
「それ、一番怖いやつっすね。」
「聞こえています。」
「すみませんっす。」
ソータも少し青ざめていた。
「ソータ。」
「はい。」
「あなたは抱きつかれる前に下がりなさい。」
「全力で。」
「よろしい。」
ガルドが短く言った。
「訓練の成果を出せ。」
「はい。」
会議はその後も続いた。
しかし、ミレイユの心は少しずつ整っていた。
心そのものはまだ揺れている。
だが、揺れた時の動き方が決まり始めている。
誰が何をするか。
自分は何を言うか。
ソータはどこを見るか。
それは不安を消すものではない。
だが、不安に飲まれないための手すりにはなる。
◆◇◆
昼過ぎ、ミレイユは商会の庭で母からの飾りをもう一度確認していた。
白い石は、小さいながら澄んだ光を持っている。
高価な宝石ではない。
けれど、手に取ると不思議と落ち着いた。
庭のベンチに座っていると、アルベールが静かに近づいてきた。
「お嬢様。」
「あなた、また気配を消して来たわね。」
「消してはおりません。」
「十分消えていたわ。」
「精進いたします。」
「褒めていないわ。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「奥様からの飾りでございますね。」
「ええ。」
「よくお似合いです。」
「ありがとう。」
ミレイユは飾りを見つめたまま言った。
「お母様らしいわ。」
「はい。」
「厳しいことを言って、胸を刺して、その後でこういうものを送ってくる。」
「奥様は、お嬢様をよくご覧になっております。」
「分かっているわ。」
ミレイユは小さく息を吐いた。
「だから、余計に逃げられないの。」
「逃げたいのでございますか。」
「少しは。」
「当然でございます。」
あまりに自然に肯定されたので、ミレイユは少し驚いた。
「あなたも、そう言うのね。」
「怖い場へ向かうのですから、逃げたいと思うのは正常でございます。」
「でも、逃げない。」
「はい。」
「逃げたら、私はきっと自分を嫌いになるわ。」
「それも、お嬢様らしいかと。」
アルベールは少し間を置き、静かに続けた。
「お嬢様。」
「何?」
「オルドアイ姫を、最初から敵とお決めになりませんよう。」
ミレイユの指が止まった。
アルベールは表情を変えない。
「どういう意味?」
「敵として見れば、相手の価値も、弱みも、願いも見誤ります。」
「……。」
「もちろん、警戒は必要でございます。」
「当然よ。」
「ですが、姫は単なる恋敵ではなく、砦の未来を背負う者でもあります。」
「分かっているわ。」
「そして、おそらくソータ様に対しては、本気でございます。」
胸が痛んだ。
ミレイユは目を伏せた。
「それを言う必要がある?」
「ございます。」
「意地悪ね。」
「執事でございますので。」
「それ、何でも許される言葉ではないわ。」
「承知しております。」
ミレイユは深く息を吸った。
オルドアイが本気。
それは、すでに想像していた。
ソータの話からも、そうだろうと思っていた。
ただ欲に任せているだけなら、もっと簡単に憎めた。
けれど、本気なら。
民の未来を背負い、女としても本気なら。
それは、ミレイユが最も恐れている相手だった。
(軽い女でいてくれた方が楽だった。)
(ただソータの力だけを欲しがる相手なら、商談で退けられた。)
(でも、そうではないなら。)
(私は、彼女自身を見なければならない。)
ミレイユは静かに言った。
「私は、彼女を好きになるつもりはないわ。」
「はい。」
「認めるつもりも、まだない。」
「はい。」
「でも、見誤るつもりもない。」
「それで十分かと。」
アルベールは頷いた。
「ソータ様にも、同じことをお伝えください。」
「何を?」
「姫を軽く扱わぬこと。」
「……。」
「お嬢様に遠慮して、姫の想いをなかったことにすれば、それもまた不誠実でございます。」
ミレイユの胸が締めつけられた。
嫌だ。
ソータには、自分だけを見てほしい。
オルドアイの想いなど軽く流してほしい。
そう願う自分がいる。
けれど、それをすれば、ソータは嘘をつくことになる。
オルドアイも傷つく。
そしてたぶん、ミレイユ自身も後で傷つく。
「本当に、嫌なことばかり言うわね。」
「申し訳ございません。」
「謝っていないでしょう。」
「はい。」
ミレイユは小さく笑ってしまった。
笑えたことに、自分で少し驚く。
「分かったわ。」
「はい。」
「ソータには話す。」
「よろしいかと。」
「でも、私が泣いたらあなたのせいよ。」
「ハンカチをご用意いたします。」
「そういうところよ。」
ミレイユは呆れながらも、少しだけ心が軽くなった。
◆◇◆
夕方、ソータは一人で倉庫の整理をしていた。
実際には、もう整理は終わっている。
それでも彼は、出発前に何度も荷を確認していた。
不安だからだろう。
荷を確認している間は、自分の心から少し目を逸らせるからかもしれない。
ミレイユはその背中を見つけ、静かに近づいた。
「まだ確認しているの?」
ソータが振り返る。
「うん。念のため。」
「三回目よ。」
「四回目かも。」
「多いわね。」
「落ち着くんだ。」
「荷を見ていると?」
「うん。」
ミレイユは隣に立った。
木箱には整った木札がついている。
村用。
野営用。
砦用。
緊急用。
贈答品。
ミレイユ指示まで開封不可。
最後の札を見て、少しだけ口元が緩んだ。
「分かりやすい札ね。」
「勝手に出したら怒られるから。」
「怒るわ。」
「だから書いた。」
「賢明ね。」
ミレイユは少し間を置いた。
「ソータ。」
「うん。」
「アルベールに言われたことがあるの。」
「何?」
「オルドアイ姫を、軽く扱わないように。」
ソータの表情が少し変わった。
ミレイユは胸が痛むのを感じながら、続けた。
「私に遠慮して、彼女の想いをなかったことにしないように。」
「……。」
「私は、それを聞いて嫌だったわ。」
「うん。」
「今でも嫌。」
「うん。」
「あなたには、私だけを見てほしい。」
「……うん。」
「彼女の気持ちなんて気にしないで、と言いたい。」
「……。」
「でも、それは違うのだと思う。」
ミレイユは、木箱の札を見た。
「荷札を間違えないと言ったでしょう。」
「うん。」
「オルドアイ姫の気持ちには、オルドアイ姫の荷札がある。」
「……。」
「私の痛みには、私の荷札がある。」
「……。」
「あなたの迷いには、あなたの荷札がある。」
「……。」
「全部を混ぜて、見なかったことにしてはいけない。」
ソータはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷いた。
「分かった。」
「本当に?」
「うん。」
「私は、あなたが彼女を軽く扱ったら、それはそれで怒ると思う。」
「……難しいな。」
「難しいわよ。」
ミレイユは少しだけ苦笑した。
「私を大切にして。」
「うん。」
「でも、彼女を侮辱しないで。」
「うん。」
「私に隠さないで。」
「うん。」
「でも、私を傷つける時は、傷つける覚悟を持って言いなさい。」
ソータの顔が苦しくなる。
「傷つけたくない。」
「知っているわ。」
「でも。」
「でも、何も言わずに傷つける方が嫌。」
「……うん。」
「言葉にして傷つけるなら、私も受け止める準備ができる。」
「うん。」
「だから、逃げないで。」
「逃げない。」
ソータはミレイユの髪紐を見た。
「これを見る。」
「ええ。」
「でも、髪紐だけじゃなくて、ミレイユを見る。」
ミレイユの胸が震えた。
「そうしなさい。」
「うん。」
ソータは少しだけ手を伸ばした。
ミレイユの髪紐に触れそうになって、止めた。
「触っていい?」
「ええ。」
ソータの指が、紅い紐の端にそっと触れた。
白い石が小さく揺れる。
「これ、出発の日も俺が結ぶ。」
「その約束をしたでしょう。」
「うん。」
「上手くなったかしら。」
「明日、仕上げる。」
「期待しているわ。」
ミレイユはそう言って、少しだけ笑った。
それから、胸の奥で呟いた。
(こうして約束を一つずつ結んでいく。)
(荷札のように。)
(ほどけないように。)
(間違えないように。)
◆◇◆
夜、出発前の小さな食事会が商会の食堂で開かれた。
大げさな宴ではない。
明日も準備があるため、酒も控えめ。
けれど、旅の前に一行が顔を合わせ、同じ食卓を囲むことには意味がある。
ガルドは黙々と食べる。
エルザは静かに料理を味わい、時折レオンの冗談に小さく笑う。
レオンは場を軽くしようとして、何度かカレンに話しかけては短い返事をもらっていた。
カレンはよく食べた。
表情は変わらないが、肉料理には明らかに箸が進んでいる。
ソータはそれを見て言った。
「カレンさん、肉好きなんですね。」
「動くには食う。」
「なるほど。」
「お前も食え。」
「はい。」
カレンは大皿の肉をソータの皿へ一切れ置いた。
ミレイユの眉がほんの少し動いた。
カレンはそれを見た。
そして、淡々と言った。
「訓練で動きが鈍ると困る。」
「……そうですね。」
ミレイユは頷いた。
レオンが小声でソータに言う。
「ミレイユ様、今ちょっと反応したっすね。」
「言わないでくれ。」
カレンが聞こえたらしく、短く言った。
「恋人がいる男に肉を渡しただけで警戒されるとは思わなかった。」
ソータがむせた。
エルザが口元を押さえる。
ガルドは平然と食べている。
ミレイユは咳払いした。
「警戒ではありません。」
「そうか。」
「ただ、最近少し過敏になっているだけです。」
「それを警戒と言う。」
カレンは容赦がなかった。
レオンが肩を震わせている。
ミレイユはカレンを見た。
「あなた、かなり遠慮がないわね。」
「契約に遠慮は含まれていない。」
「必要な礼儀は含まれているわ。」
「今のは礼を欠いたか。」
ミレイユは少し考えた。
そして、小さく息を吐いた。
「いいえ。」
「なら続ける。」
「ほどほどに。」
「分かった。」
カレンはまた肉を食べた。
場に少し笑いが広がる。
ミレイユも、完全ではないが笑えた。
こういう率直さは嫌いではない。
痛いところを突かれるが、裏がない。
裏がない相手は、今のミレイユにはむしろありがたかった。
食事の終盤、アルベールが静かに言った。
「皆様、明後日の出発に向け、明日は早めに休息をお取りください。」
「明日は最終準備だな。」
ガルドが言う。
「はい。」
「荷は?」
ガルドがソータを見る。
「整ってます。」
「心は?」
その問いに、ソータは一瞬黙った。
食卓の空気が少しだけ静かになる。
ソータは少し考え、正直に言った。
「整いきってはいません。」
ガルドは頷いた。
「それでいい。」
「いいんですか。」
「整ったと思い込む方が危ない。」
エルザも頷いた。
「不安を自覚している方が、慎重になれるわ。」
カレンが短く言う。
「震えても動けるなら問題ない。」
レオンが笑った。
「みんな厳しいっすね。」
ミレイユはソータを見た。
彼は苦笑している。
けれど、逃げてはいない。
ミレイユは静かに言った。
「心は整いきらなくても、約束は整えておきましょう。」
ソータがこちらを見る。
「うん。」
「荷札を間違えないこと。」
「うん。」
「隠さないこと。」
「うん。」
「迷ったら見ること。」
「うん。」
「私を置いて決めないこと。」
「うん。」
食卓の全員が聞いていた。
恥ずかしさはあった。
だが、ミレイユはあえて言った。
これは二人だけの約束であり、同行者たちにも知っておいてもらうべき約束だった。
ソータはまっすぐ頷いた。
「約束する。」
その言葉は、静かに食堂へ落ちた。
アルベールが満足げに目を細めた。
エルザは少しだけ微笑み、ガルドは短く頷いた。
レオンは珍しく冗談を言わなかった。
カレンは肉を飲み込んでから言った。
「なら、守れ。」
「はい。」
ソータは真面目に答えた。
◆◇◆
夜更け。
ミレイユは自室の窓辺に立っていた。
紅い髪紐はほどかず、白石の飾りもそのままだ。
出発まで、あと二日。
フルムーンまで、あと十二日。
二つの月は、空の高いところで丸みを増している。
まだ満ちきってはいない。
けれど、その光は日ごとに強くなっていた。
ミレイユはリーナの香り袋を手にしていた。
薬草の香りが、夜の冷たい空気と混ざる。
(心は整いきらない。)
(でも、約束は結べる。)
(荷札のように。)
(紅い髪紐のように。)
扉の向こうには、ソータがいる。
今夜は部屋の中ではなく、隣室に控えている。
明日も準備がある。
甘える時間ばかり作るわけにはいかない。
それでも、近くにいると分かるだけで少し安心した。
(オルドアイ。)
(あなたに会う日が近づいている。)
(私はまだ、あなたを許していない。)
(あなたを認めたわけでもない。)
(でも、あなたを見誤らないようにする。)
(私のために。)
(ソータのために。)
(あなた自身のためにも。)
そう思えることに、ミレイユは少し驚いた。
以前なら、オルドアイのためなど考えたくもなかった。
今でも、心から気遣えるわけではない。
けれど、彼女をただの敵にしてしまえば、自分が見たいものも見えなくなる。
だから見る。
痛くても。
悔しくても。
ミレイユは髪紐に触れた。
「私は、知らないまま泣かない。」
小さく声に出した。
「見て、考えて、選ぶ。」
言葉にすると、胸の中の約束が少しだけ固く結ばれた気がした。
夜風が窓を揺らす。
紅い髪紐の端が、ほんの少し揺れた。
それはまるで、明後日の出発を待つ小さな旗のようだった。




