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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第82話:出発の日、紅い髪紐は風に揺れる

出発まで、あと四日。


その朝、ソータはミレイユの部屋の前で、妙な緊張を抱えて立っていた。


手には、昨日の紅い髪紐がある。

いや、正確にはミレイユから預かったわけではない。

今朝、髪を結ぶ練習をするから来なさいと命じられ、部屋に入った瞬間に渡された。


ミレイユは鏡台の前に座っている。

髪はすでに解かれており、肩から背中へ柔らかく落ちていた。

朝の光を受けて、淡い金色にも蜂蜜色にも見える。


ソータはその後ろに立ったまま、しばらく髪紐を握っていた。


「何を固まっているの。」


「いや。」


「昨日も結んだでしょう。」


「昨日より緊張してる。」


「どうして?」


「昨日、これが訓練だって言われたから。」


鏡越しに、ミレイユの眉がわずかに上がった。


「私を大切に扱う訓練ね。」


「うん。」


「では、真面目にしなさい。」


「しています。」


「手が止まっているわ。」


「緊張で。」


「動かしなさい。」


「はい。」


ソータはそっとミレイユの髪に触れた。

指先に、さらりとした感触が流れる。

柔らかい。

昨日も触れたはずなのに、今朝の光の中ではまた違って感じる。


彼は慎重に髪をまとめ始めた。


ミレイユは鏡の中で、ソータの顔を見ている。

ソータはその視線に気づいて、少しだけ目を逸らした。


「顔を逸らさない。」


「見られてるとやりにくい。」


「見られて困ることをしているの?」


「してない。」


「なら、堂々として。」


「髪を結ぶだけで、こんなに追い詰められるとは思わなかった。」


「今後のあなたの人生には、もっと難しいことがたくさん待っているわ。」


「それは、なんとなく分かる。」


ソータは少し苦笑しながら、髪紐を通した。

昨日よりは、手順を覚えている。

けれど、まだ慣れない。

結び目の位置を決めるだけでも、妙に悩む。


高すぎると、いつものミレイユより少し幼く見える。

低すぎると、落ち着きすぎてしまう。

髪紐の紅が綺麗に見える位置がいい。

けれど、目立ちすぎてもいけない気がする。


(何をこんなに考えているんだ、俺は。)

(荷物の積み順より悩んでるぞ。)


ソータは自分で少し呆れた。


しかし、ミレイユの髪を結ぶという行為は、思った以上に重かった。

ただ身支度を手伝っているだけではない。

彼女が自分に許した距離に、手を入れている。

その髪紐を、彼女はオルドアイの前につけていくと言った。


つまり、これは小さな印になる。

ソータが選び、ソータが結び、ミレイユが自分で意味を与えた印。


軽く扱っていいものではなかった。


「ソータ。」


「うん。」


「眉間に皺が寄っているわ。」


「真剣なんだ。」


「髪紐に?」


「ミレイユに。」


言ってから、ソータは一瞬固まった。


鏡の中のミレイユも、ほんの少し目を見開いた。

頬が淡く赤くなる。


「……そう。」


「今のは。」


「言い直さなくていいわ。」


「はい。」


部屋が少しだけ静かになった。

朝の光が、ミレイユの髪の上で揺れている。


ソータは慎重に結び目を整えた。

昨日よりは、少しましになった気がする。


「できた。」


ミレイユは鏡を見る。

結び目は、昨日よりも少し整っていた。

完璧ではない。

だが、紅い髪紐は髪の色によく映えている。


ミレイユは指先で結び目に触れた。


「昨日より上手いわ。」


「本当?」


「ええ。」


「よかった。」


「でも、まだ練習は必要ね。」


「出発まで毎日?」


「当然。」


ソータは肩を落とした。

だが、顔は少し嬉しそうだった。


ミレイユはその顔を鏡越しに見て、胸の奥が柔らかくなるのを感じた。


(こういう時間は、好き。)

(何も難しいことを考えずに、ただ隣にいられる時間。)

(でも、この髪紐はもう難しい意味を持ってしまった。)

(私が、そうした。)


ミレイユは鏡の中の自分を見る。

紅い髪紐。

少し強く見える顔。

けれど、その目の奥にはまだ不安がある。


不安は消えない。

それでも、昨日より少しだけ自分の顔に慣れていた。


◆◇◆


午前中、クラウゼン商会には追加の書状がいくつも届いた。


王都ギルドからは、ガルドたちの再依頼に関する正式な契約案。

村からは、こちらが出発する予定を受け取ったという返答。

リーナからは、薬草軟膏の容器見本を受け取るのを楽しみにしているという短い追伸。

そして、ミレイユの実家からは、母の手紙が届いた。


ミレイユはその封を見た瞬間、少しだけ嫌な予感がした。


母の筆跡は美しい。

美しいが、どこか逃げ道を塞ぐような力がある。


ソータは執務室の隅で荷の表を見直していた。

アルベールは隣で手紙の仕分けをしている。


ミレイユは母からの封を手に取り、しばらく見つめた。


「お嬢様。」


「何?」


「奥様からでございますね。」


「見れば分かるわ。」


「お読みになられますか。」


「読むしかないでしょう。」


「お心を強く。」


「何が書いてあると思っているの。」


「奥様でございますので。」


その一言で十分だった。


ミレイユは封を開けた。

中には、短い手紙と、小さな包みが入っていた。


手紙には、こう書かれていた。


あなたが自分で見ると決めたこと、よく分かりました。

物分かりのいい女になる必要はありません。

けれど、見たものから逃げない女でいなさい。

それから、紅い髪紐をつけるなら、少しだけ飾りを添えなさい。

戦う女に会うのなら、あなたも自分の誇りを身につけて行きなさい。


ミレイユは包みを開いた。


中には、小さな金具が入っていた。

紅い髪紐に通せる飾りだった。

葉を模した細工で、中央に小さな白い石が嵌め込まれている。

派手ではない。

だが、品がある。

クラウゼン家の女性が祝いの時に髪へつける意匠に近かった。


ミレイユは息を呑んだ。


(お母様。)


胸の奥が、少し熱くなる。


母は厳しい。

容赦がない。

時に、娘の胸を平然と刺すようなことも言う。

けれど、見ている。

ミレイユが何を選び、何に傷つき、何を支えに立とうとしているのか。


紅い髪紐のことを手紙に書いた覚えはない。

だが、おそらくアルベールが何か察して伝えたのだろう。

あるいは、母なら手紙の文面だけで読み取ったのかもしれない。


どちらにせよ、逃げ道のない母である。


ソータがそっと近づいた。


「それ、綺麗だね。」


「お母様からよ。」


「髪紐につけるの?」


「そうみたい。」


「似合うと思う。」


ソータは自然に言った。

ミレイユはその顔を見た。


「今のは、誰を思い出して言ったの?」


「ミレイユ。」


即答だった。


ミレイユは一瞬、言葉に詰まった。


「……そう。」


「うん。」


「なら、いいわ。」


ソータは少しほっとした顔をした。


アルベールが横から穏やかに言った。


「ソータ様、今の返答は非常によろしかったかと。」


「ありがとうございます。」


「成長なさいましたね。」


「そういう成長でいいんですか。」


「生存に関わりますので。」


「それは本当にそうかもしれない。」


ミレイユは二人を見て、少しだけ笑った。


母からの飾りを手に取る。

紅い髪紐に通せば、ただの髪紐ではなくなる。

ソータが選んだものに、クラウゼン家の誇りが加わる。


それは、ミレイユにとってちょうどよかった。


恋人としての印。

商家の娘としての印。

そして、自分で選ぶ女としての印。


(これをつけて、オルドアイの前に立つ。)

(私はただ嫉妬する女として行くわけではない。)

(クラウゼン家の女として。)

(ソータの隣に立つ女として。)


ミレイユは飾りをそっと箱へ戻した。


◆◇◆


昼食後、出発前の最終交渉確認が行われた。


会議室には、主要な同行者が揃っていた。

ガルド、エルザ、レオン、カレン。

アルベール。

ソータ。

そしてミレイユ。


机の中央には、アマゾネス砦で想定される交渉項目が並べられていた。


砦の秘密保持。

北の部族村への移動支援。

フルムーン時のソータの役割。

バルクの身分と今後の扱い。

村との交易窓口。

薬草と物資の交換。

砦内倉庫の整理支援。

今後の訪問頻度。

そして、ソータをめぐる個人的な問題。


最後の項目だけ、紙の上では曖昧に書かれていた。

だが、全員が意味を理解していた。


ミレイユは言った。


「交渉は、まず商会と砦の関係を軸に進めます。」


全員が頷く。


「いきなり個人的な話に入るつもりはありません。」


「相手が入ってきたら?」


カレンが問う。


「止めます。」


ミレイユは答えた。


「ただし、無理に遮って場を荒らすのではなく、正式な場を設けるよう求めます。」


「姫が聞くか?」


「聞かせます。」


カレンは少しだけ口元を動かした。


「強気だな。」


「弱気で行けば、最初から飲まれます。」


「それはそうだ。」


ガルドが短く言った。


「ヤンガルドアイは強い。」


「ええ。」


ミレイユは頷いた。


「ソータから聞いています。」


「あの女長は、こちらの迷いを見る。」


「でしょうね。」


「だから、曖昧にするな。」


「はい。」


ミレイユはソータを見た。


「ソータ。」


「うん。」


「砦に着いたら、あなたは私の隣に立つ。」


「うん。」


「オルドアイ姫が来ても、まず私を紹介する。」


「分かった。」


「言葉は?」


「えっと。」


ソータは少し考えた。


「こちらが、クラウゼン商会会頭代理のミレイユです。」


「それだけ?」


「俺の恋人です。」


ソータは顔を赤くしながら言った。


ミレイユの胸が少しだけ跳ねた。


「続けて。」


「今回の交渉の代表でもあります。」


「よろしい。」


レオンが小声で言う。


「公開紹介っすね。」


エルザが静かに頷いた。


「大事ね。」


カレンは淡々と付け加えた。


「最初に立場を言うのは有効だ。」


アルベールは満足げに微笑んでいた。


「ソータ様、よくできました。」


「俺、子供扱いされてません?」


「生徒扱いでございます。」


「それも微妙です。」


ミレイユは軽く咳払いした。


「次。」


ソータは背筋を伸ばした。


「オルドアイ姫が、俺だけに話したいと言った場合。」


ミレイユが言う。


「断る。」


ソータが答える。


「どう断るの?」


「まず、ミレイユも同席してほしいと言う。」


「それでも二人きりを求められたら?」


「今はできないと言う。」


「理由は?」


「隠し事をしないと決めたから。」


部屋が少し静かになった。


ミレイユはソータを見つめた。

その言葉は、練習のためだけのものではないように聞こえた。


「……よろしい。」


声が少し柔らかくなった。


ソータはほっとした。


レオンがまた小声で言う。


「今のは高得点っす。」


「評価されてるの、なんか落ち着かない。」


ソータが呟いた。


ガルドは淡々と言った。


「必要な訓練だ。」


「恋愛面の護衛訓練って、普通あるんですか。」


「ない。」


「ですよね。」


「だが今回は必要だ。」


「ですよね。」


ミレイユは、思わず少し笑った。

重い話をしているはずなのに、こういうやり取りがあると呼吸がしやすい。


だが、すぐに真剣な表情へ戻る。


「最後に。」


ミレイユは全員を見た。


「私が感情的になりすぎた場合、エルザさん、あなたが一度止めてください。」


エルザが静かに頷く。


「承知しました。」


「ただし、私の判断を奪うのではなく、戻すために。」


「はい。」


「ガルドさんは、安全上の判断を優先してください。」


「分かった。」


「レオンさんは、周囲の空気と逃げ道を。」


「了解っす。」


「カレンさんは、私とソータの間に物理的な割り込みが必要な時、ためらわず入ってください。」


「雇われた範囲でやる。」


「十分です。」


ミレイユは息を吐いた。


整ってきた。

危険は消えない。

心の不安も消えない。

だが、少なくとも皆が同じ方向を向き始めている。


◆◇◆


会議の後、ソータは一人で倉庫へ向かった。


ミレイユは少し時間を置いてから、彼を追った。

倉庫には夕方の光が斜めに差し込んでいる。

木箱の影が長く伸びていた。


ソータは、赤い印のついた贈答品の箱の前に立っていた。


「何をしているの。」


ミレイユが声をかけると、ソータは少し驚いて振り返った。


「ミレイユ。」


「一人で考え事?」


「うん。」


「オルドアイのこと?」


ソータは少し黙った。

だが、逃げなかった。


「それもある。」


ミレイユの胸が痛む。

しかし、彼が隠さなかったことを受け取る。


「そう。」


「あと、バルクさんのことも。」


「……。」


「リーナのことも、村のことも。」


「ええ。」


「今回、俺が運ぶもの、多いなと思って。」


ソータは箱を見た。


「荷物は収納すればいい。」


「……。」


「でも、それ以外が多い。」


ミレイユはゆっくり近づいた。


「気持ち?」


「うん。」


「責任?」


「それも。」


「約束?」


「うん。」


「女心?」


ソータは少し困った顔をした。


「それが一番難しい。」


「でしょうね。」


ミレイユは隣に立った。

二人で同じ箱を見る。


「俺、ずっと運送屋だったからさ。」


「ええ。」


「荷物には伝票がある。」


「伝票?」


「どこへ届けるか、誰に渡すか、いつまでに届けるか。」


「分かりやすいわね。」


「うん。」


「でも、今の荷には伝票がない。」


ソータは少し苦笑した。


「誰にどう渡せばいいのか、自分で考えないといけない。」


「それは、あなたがこれから学ぶことね。」


「うん。」


「一人で学ぼうとしないで。」


ミレイユは静かに言った。


「私もいるわ。」


ソータはミレイユを見る。


「うん。」


「ただし、私も完璧ではない。」


「うん。」


「嫉妬もする。」


「うん。」


「怒る。」


「うん。」


「たぶん、オルドアイを前にしたら、想像以上に嫌な顔をするかもしれない。」


「……うん。」


「でも、私は逃げない。」


「うん。」


「だから、あなたも逃げないで。」


「逃げない。」


ソータはそう言って、少しだけ躊躇した後、ミレイユの手を取った。


倉庫の中。

木箱に囲まれた場所。

商会の気配が濃い場所。


そこで手を繋ぐことは、どこか二人らしかった。


「ミレイユ。」


「何?」


「今日の練習で言ったこと、本気だから。」


「どれ?」


「オルドアイに二人きりで話したいと言われても、今はできないって言う。」


「……。」


「隠し事をしないと決めたから。」


ミレイユはソータの手を握り返した。


「覚えておくわ。」


「うん。」


「忘れたら許さない。」


「忘れない。」


ミレイユは少しだけ目を伏せた。


忘れない。

その言葉を何度聞いても、不安は残る。

けれど、今はその言葉を積み重ねるしかない。

一つずつ。

荷物のように。

約束のように。


◆◇◆


夜、ミレイユはまた鏡の前に座った。


ソータが結んだ紅い髪紐に、母から届いた金具を通してみる。

白い石が小さく光る。

紅と白。

強さと清さ。

恋人からの印と、家からの印。


思った以上に、よく合っていた。


ミレイユは指で飾りに触れた。


(お母様。)

(私は、物分かりのいい女にはなれません。)

(でも、見たものから逃げない女にはなろうと思います。)


鏡の中の自分は、昨日より少しだけ強く見えた。

気のせいかもしれない。

髪飾りのせいかもしれない。

でも、それでもいい。


人は時に、小さな印に支えられて立つ。

商会の印章も、契約書の署名も、婚約の品も、旗も、髪紐も。

形あるものが、形のない覚悟を支えることがある。


ミレイユにとって、この紅い髪紐はそういうものになりつつあった。


扉を叩く音がした。


「ミレイユ。」


ソータの声。


「入りなさい。」


扉が開く。

ソータが部屋へ入ってきた。

彼はミレイユの髪を見て、少し目を丸くした。


「飾り、つけたんだ。」


「ええ。」


「すごく似合う。」


今度は、ミレイユは疑わなかった。

その言葉は、まっすぐ自分に向けられていると分かった。


「ありがとう。」


ソータは少し嬉しそうに笑った。


ミレイユは鏡越しに彼を見る。


「明日も練習よ。」


「分かってる。」


「出発の日には、もっと上手く結んで。」


「頑張る。」


「フルムーンの日も。」


「うん。」


ミレイユは立ち上がり、ソータの前に立った。


「それから。」


「うん。」


「オルドアイの前でも、私の髪紐を見なさい。」


ソータは少し驚いた。


「髪紐を?」


「ええ。」


「どうして?」


「あなたが、どこに立つのか思い出すため。」


ソータの表情が真剣になる。


「分かった。」


「私が怖くなった時も、これに触れるわ。」


「うん。」


「あなたも迷ったら、これを見て。」


「うん。」


「私がいることを忘れないで。」


ソータは静かに頷いた。


「忘れない。」


ミレイユはその返事を聞いて、少しだけ微笑んだ。


そして、ソータの胸にそっと額を寄せた。

ソータの腕が、迷わず回ってくる。


昨日よりも自然だった。

それが少し嬉しかった。


(まだ怖い。)

(でも、私は一人では行かない。)

(この髪紐と。)

(母の飾りと。)

(ソータの約束と。)

(私自身の意地を持って行く。)


二つの月は、窓の外でまた少し満ちていた。

フルムーンまで、あと十四日。

出発まで、あと四日。


紅い髪紐は、夜の静かな風に揺れながら、ミレイユの決意を小さく結び留めていた。


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