第80話:フルムーンの準備は、恋と商売を同じ荷台に載せる
フルムーンまで、あと十五日。
朝のクラウゼン商会は、いつもより早く動き始めていた。
倉庫の扉は大きく開かれ、使用人たちが木箱を運び、帳簿係が数を読み上げ、アルベールが静かな声で全体の流れを整えている。
保存食。
水袋。
薬。
野営道具。
分類箱。
木札。
赤い布。
髪飾り。
鏡。
香辛料。
塩。
革紐。
金属の針。
並べられた品々は、一つ一つを見ればただの荷だった。
だが、それらがまとめて積まれると、まるで一つの交渉そのものに見えた。
クラウゼン商会がアマゾネス砦へ何を示すのか。
何を渡し、何を求めるのか。
どこまで踏み込み、どこで線を引くのか。
そのすべてが、この荷の中に少しずつ込められている。
ミレイユは倉庫の中央に立ち、手元の表と実際の品を照らし合わせていた。
髪はきちんと結われ、服装も会頭代理として隙がない。
けれど、胸元には昨日と同じ深紅の飾りをつけている。
強い色。
逃げない色。
自分で選んだ色。
(今日から本格的に動く。)
(もう、考えているだけでは駄目。)
(私は行く。)
(ソータと一緒に。)
(オルドアイに会うために。)
心の奥が震える。
怖さは消えていない。
むしろ、日が近づくほど現実味を帯びてくる。
だが、昨日までのようにただ揺れているだけではなかった。
荷を並べ、予定を組み、同行者を選び、贈り物を決める。
そうしているうちに、恐怖にも形ができてきた。
形があるものなら、扱える。
少なくとも、扱う努力はできる。
ソータは少し離れたところで、収納に入れる順番を何度も確認していた。
荷を消し、出し、また消す。
そのたびに使用人たちが感心したような顔をする。
ミレイユはそれを見て、少しだけ誇らしくなった。
同時に、胸がちくりと痛む。
(これを見れば、誰だって欲しがるわ。)
(私が商人なら、絶対に手放さない。)
(オルドアイも、そう思ったのでしょうね。)
痛みが来る。
だが、ミレイユは目を逸らさなかった。
「ソータ。」
「うん。」
「贈答品は、到着後すぐに出せるようにしておいて。」
「分かった。」
「ただし、赤い布と髪飾りは、私が合図するまで出さないで。」
「ミレイユが渡すんだよね。」
「ええ。」
「分かった。」
ソータは真面目に頷いた。
その顔に、余計な記憶の色は見えない。
少なくとも、ミレイユの前で浮かべないように努力している。
それだけでも、昨日よりは少し前進だった。
「それと。」
「うん。」
「鏡も私が渡すわ。」
「鏡も?」
「ええ。」
「何か意味がある?」
「あるわ。」
「聞いていい?」
ミレイユは少し考えた。
そして、首を横に振った。
「今はまだ言わない。」
「分かった。」
「聞きたい顔をしない。」
「してた?」
「していたわ。」
「気をつけます。」
ソータは少しだけ肩をすくめた。
その表情に、ミレイユはほんのわずかに口元を緩めた。
こんなやり取りができるなら、まだ大丈夫。
そう思いたかった。
◆◇◆
午前の半ば、王都からガルドたちが到着した。
商会の入口に現れたのは、ガルド、エルザ、レオンの三人だった。
バルクはいない。
その空白は、見慣れたはずなのに、まだ少し目に残る。
レオンは商会の玄関を見上げながら、軽く手を振った。
「ソータさん、ミレイユ様、お久しぶりっす。」
「数日ぶりでしょう。」
エルザが落ち着いた声で言う。
「でも、色々ありすぎて久しぶりな気がするっす。」
「それは否定しない。」
ソータが苦笑した。
ガルドは短く頭を下げた。
「依頼の話を聞きに来た。」
「ありがとうございます。」
ミレイユは会頭代理として丁寧に迎えた。
視線は一度エルザへ向かう。
エルザもそれに気づいた。
彼女の表情は大きく変わらない。
だが、ほんの少しだけ目が細くなった。
おそらく、分かっている。
キスのことを言わない方がいいと助言した件を、ミレイユが知っているかもしれないと。
ミレイユはすぐには触れなかった。
「まずは会議室へ。」
「はい。」
エルザは静かに答えた。
レオンは小声でソータに囁いた。
「ソータさん、空気がすでに重いっす。」
「言わないでくれ。」
「今回、やっぱり人間関係の護衛が必要っすね。」
「その言葉、手紙にも書いてただろ。」
「本心っす。」
ミレイユは聞こえていた。
聞こえていたが、今は聞かなかったことにした。
◆◇◆
会議室には、ミレイユ、ソータ、アルベール、ガルド、エルザ、レオンが座った。
机の上には、フルムーン関連の資料が広げられている。
北の森の地図。
村までの行程。
霧の領域に入る手前の目印。
前回の野営地点。
持参する物資一覧。
交渉事項。
護衛体制案。
ミレイユは全員を見回した。
「まず確認します。」
声は落ち着いていた。
会頭代理としての声だった。
「今回のフルムーンへの同行は、前回の北の森探索よりも複雑です。」
ガルドが頷いた。
「分かっている。」
「目的は複数あります。」
ミレイユは紙を一枚取り上げた。
「一つ目、アマゾネス砦および北の部族村との接触確認。」
「はいっす。」
「二つ目、フルムーン時の移動支援の可否調査。」
「ええ。」
「三つ目、バルクさんの所在と意思の再確認。」
ガルドの目が少し動いた。
彼にとっても重要な点なのだろう。
「四つ目、村およびクラウゼン商会を含めた今後の交易可能性の調査。」
アルベールが静かに頷く。
「五つ目。」
ミレイユは一度だけ息を吸った。
「私が、オルドアイ姫と直接会うこと。」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
レオンが視線を泳がせた。
エルザはまっすぐミレイユを見た。
ガルドは表情を変えない。
ソータは隣で少し緊張している。
ミレイユは続けた。
「これは商会代表としての面会であり、同時に私個人としても必要な面会です。」
「個人として。」
エルザが静かに繰り返した。
「ええ。」
ミレイユはエルザを見る。
「ソータの恋人として。」
レオンが小さく息を呑んだ。
ソータの肩が少し固くなる。
エルザは逃げなかった。
「承知しました。」
短い返事だった。
ミレイユはその態度を見て、少しだけ評価した。
「今回、同行者全員に知っておいてほしいことがあります。」
ミレイユは視線を全員へ戻した。
「私は、ソータとオルドアイ姫の間に起きたことを聞いています。」
レオンが完全に固まった。
ソータは軽く目を閉じた。
エルザは表情を保った。
ガルドは少しだけソータを見た。
「聞いたうえで、同行します。」
ミレイユの声は震えなかった。
「だから、妙な気遣いで隠し事をしないでください。」
エルザの目がわずかに揺れた。
「必要なことは、私に伝えてください。」
「……はい。」
エルザが答える。
ミレイユは彼女へ視線を向けたまま言った。
「エルザさん。」
「はい。」
「少し後で、個別に話をさせてください。」
「承知しました。」
レオンが小さくソータの方へ身を寄せた。
「ソータさん、俺も個別面談あるっすかね。」
「分からない。」
「怖いっす。」
「俺も怖い。」
ミレイユは二人を見た。
「聞こえています。」
「すみませんっす。」
「すみません。」
二人が同時に謝った。
ガルドが短く言った。
「話を進めろ。」
その一言で、空気が少し戻った。
◆◇◆
護衛体制の話に移ると、ガルドはすぐに実務の顔になった。
「バルクがいない穴は大きい。」
「ええ。」
ミレイユは頷いた。
「盾役の補充が必要です。」
「候補は?」
「王都ギルドとこちらの伝手で探しています。」
アルベールが資料を差し出した。
「現時点で、三名ほど候補がございます。」
ガルドが資料を見る。
エルザも横から覗いた。
レオンは椅子の背に軽く寄りかかっていたが、真面目な顔で聞いている。
「この元傭兵の女戦士。」
ガルドが一枚を指した。
「腕は?」
アルベールが答える。
「大型盾と片手槍の扱いに長けているとのことです。」
「評判は?」
「契約は守る。口は悪い。雇い主にも遠慮はしない。」
レオンが苦笑した。
「また強い女性っすね。」
ミレイユは静かに言った。
「強い女性が増えるくらいで動揺している余裕はありません。」
ソータが何か言いかけて、飲み込んだ。
ミレイユは横目で見た。
「何か?」
「いや、頼もしいなと思って。」
「本当に?」
「本当に。」
ミレイユはしばらく見た。
嘘ではなさそうだった。
「よろしい。」
レオンがまた小声で言う。
「ソータさん、尋問への対応が上手くなってるっす。」
「経験値が増えた。」
「増やしたくない経験値っすね。」
「本当に。」
ミレイユは聞こえていたが、今度も流した。
エルザが資料を見ながら言う。
「女性の盾役なら、ミレイユ様の護衛としても配置しやすいですね。」
「ええ。」
ミレイユは頷いた。
「今回は私も同行します。ソータだけでなく、私自身の護衛も必要になります。」
「危険は魔物だけではありません。」
エルザの声は冷静だった。
「砦側との交渉がこじれる可能性もあります。」
「その通りです。」
「オルドアイ姫がソータに直接接触しようとする可能性も高い。」
部屋がまた少し緊張した。
エルザは続けた。
「その時、誰が止めるのか。止めるべきなのか。事前に決めておく必要があります。」
ミレイユはエルザを見た。
「正しい指摘です。」
腹は立つ。
だが、エルザの判断は冷静だ。
そこは認めなければならない。
「ソータ。」
「はい。」
「まず、あなた自身が線を引くこと。」
「うん。」
「誰かに止められる前に、あなたが自分で判断する。」
「分かった。」
「それでも難しい場合は、私が止めます。」
「はい。」
「護衛の皆さんには、安全上の問題がある場合を除き、私の判断を優先してもらいます。」
ガルドが頷いた。
「分かった。」
エルザも頷く。
「承知しました。」
レオンは少しだけ手を上げた。
「質問していいっすか。」
「どうぞ。」
「オルドアイさんがソータさんに抱きつこうとした場合は?」
ソータがむせた。
ミレイユはレオンを見た。
「止めます。」
「即答っすね。」
「当然です。」
「じゃあ、手を握るくらいは?」
ソータがさらに固まる。
ミレイユは少し考えた。
止めたい。
全部止めたい。
触れるなと言いたい。
だが、交渉の場であまりに過敏に反応すれば、こちらの余裕のなさを見られる。
オルドアイがあえて試してくる可能性もある。
(嫌よ。)
(手だって嫌に決まっている。)
(でも、全部に噛みついたら私が負ける。)
ミレイユはゆっくり答えた。
「状況によります。」
「おお。」
レオンが小さく驚いた。
「ただし。」
ミレイユはソータを見た。
「あなたが嬉しそうにしたら、止めます。」
「はい。」
ソータは即答した。
ガルドが低く言った。
「分かりやすい。」
「分かりやすくしておいた方が安全です。」
ミレイユは答えた。
エルザはほんの少しだけ口元を緩めた。
◆◇◆
会議が一段落した後、ミレイユはエルザを中庭へ誘った。
ソータは少し不安そうにしていたが、ミレイユは目で制した。
これは女同士で話すべきことだった。
中庭には、昼の光が落ちていた。
噴水の水音が静かに響く。
昨日、ミレイユが一人で考えていた場所だ。
エルザはミレイユの少し後ろを歩いていたが、噴水の前で足を止めた。
「お話とは、例の件ですね。」
「ええ。」
ミレイユは振り返った。
「ソータに、口づけの件は言わない方がいいと助言したそうですね。」
「はい。」
エルザは否定しなかった。
言い訳もしなかった。
「理由を聞いても?」
「ミレイユ様を傷つける可能性が高いと思ったからです。」
「隠された方が、もっと傷つくとは思いませんでしたか。」
「思いました。」
ミレイユは少し目を細めた。
「それでも?」
「はい。」
エルザは静かに続けた。
「ソータは、ミレイユ様を裏切るつもりで行動したわけではありません。」
「ええ。」
「しかし、事実だけを並べれば、ミレイユ様を大きく傷つける内容でした。」
「そうですね。」
「なら、本人からすべてを語らせることが必ず最善とは限らないと考えました。」
ミレイユは黙って聞いた。
「私は、ミレイユ様の性格を深く知っているわけではありません。」
「ええ。」
「ただ、ソータがあまりにも正直に全部言えば、関係が壊れる可能性もあると思いました。」
「そう思ったのですね。」
「はい。」
エルザはまっすぐミレイユを見た。
「結果的に、私の助言はミレイユ様の望む形とは違いました。」
「ええ。」
「申し訳ありません。」
エルザは頭を下げた。
ミレイユは、しばらくその姿を見ていた。
怒ろうと思えば怒れた。
あなたは余計なことをしたと言えた。
私の恋人に隠す選択を勧めたと責められた。
だが、エルザの言葉に軽さはなかった。
彼女は彼女なりに考えた。
ソータのためだけではなく、ミレイユを傷つけないためにも。
(私はその選択をしない。)
(でも、彼女の判断そのものを侮辱することはできない。)
ミレイユは静かに言った。
「頭を上げてください。」
エルザが顔を上げる。
「私は、知らないままでいる道を選びません。」
「はい。」
「傷ついても、知る方を選びます。」
「承知しました。」
「だから今後は、私に関わることで、私が知るべきことを伏せないでください。」
「はい。」
「ただし。」
ミレイユは少しだけ息を吐いた。
「あなたが私を傷つけないように考えてくれたことは、理解しました。」
エルザの目がわずかに和らいだ。
「ありがとうございます。」
「でも、次は私に判断させて。」
「はい。」
「私は、守られるだけの女ではいたくありません。」
「そのように見えます。」
ミレイユは少しだけ眉を上げた。
「どういう意味かしら。」
「ミレイユ様は、守られるより先に指揮を取る方に見えます。」
「褒めている?」
「はい。」
エルザは真面目に答えた。
ミレイユは少しだけ笑った。
「あなたも、なかなか言うわね。」
「すみません。」
「いいえ。」
ミレイユは中庭の水面を見た。
「フルムーンの旅では、あなたの冷静さが必要になると思います。」
「務めます。」
「私が感情的になりすぎたら、止めて。」
エルザは少し驚いた顔をした。
「よろしいのですか。」
「いいわ。」
ミレイユは振り返った。
「ただし、止め方を間違えたら怒るわ。」
エルザはわずかに笑った。
「承知しました。」
その笑みを見て、ミレイユは少しだけ肩の力を抜いた。
女には、違う強さがある。
エルザの強さは、自分とは違う。
だが、敵ではない。
それが分かっただけでも、この会話には意味があった。
◆◇◆
夕方、盾役候補の一人が商会へ到着した。
名前はカレン。
元傭兵。
年齢はソータより少し上に見える。
背は高く、肩幅があり、左腕には使い込まれた大型盾を背負っている。
短く切った黒髪に、灰色の目。
美人というより、鋭い。
立っているだけで、周囲の空気が少し引き締まる女性だった。
レオンが小声で言った。
「また強そうな人っすね。」
ガルドが短く答える。
「実際、強い。」
「知ってるんすか?」
「噂は。」
カレンはミレイユの前に立つと、軽く頭を下げた。
「カレンだ。」
声は低く、飾り気がない。
「クラウゼン商会会頭代理、ミレイユ・クラウゼンです。」
「話は聞いた。」
「どこまで?」
「北の森へ行く。面倒な女戦士の集団と接触する。荷運びの男が重要。盾役が足りない。」
ソータが少し肩を縮めた。
「荷運びの男。」
レオンが小さく笑った。
ミレイユは冷静に尋ねた。
「秘密保持はできますか。」
「契約に入れるなら守る。」
「金で買われる可能性は?」
「今より高ければ考える。」
部屋の空気が一瞬止まった。
カレンは淡々と続けた。
「だから、買われない条件にしろ。」
ミレイユは目を細めた。
「正直ですね。」
「嘘を言っても仕方ない。」
「では、こちらも正直に言います。」
ミレイユは一歩前へ出た。
「今回の依頼で知る情報を漏らせば、クラウゼン商会を敵に回します。」
「だろうな。」
「同時に、契約を守る限り、報酬と今後の仕事は保証します。」
「悪くない。」
「ただし、ソータの能力について興味本位で詮索しないこと。」
カレンの目がソータへ向いた。
「そいつが例の男か。」
「えっと、ソータです。」
ソータが頭を下げる。
カレンはじっとソータを見た。
「強そうには見えないな。」
「よく言われます。」
「でも、背はある。体も鍛えている。」
「最近、鍛えさせられてます。」
「戦えるのか?」
「戦えません。」
「正直だな。」
「はい。」
カレンは少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
「まあいい。戦えないなら、盾の後ろにいろ。」
「助かります。」
ミレイユはそのやり取りを見ていた。
カレンは強い女性だ。
だが、オルドアイとは違う。
欲望を前に出す強さではなく、職務に徹する強さ。
こういう女性なら、まだ落ち着いて見ていられる。
(強い女が増えるたびに怯えていては、本当に先へ進めないわ。)
ミレイユはカレンへ契約書案を示した。
「詳細条件を確認しましょう。」
「分かった。」
カレンは椅子に座った。
その動きは無駄がなく、盾役としての重みがあった。
ガルドは彼女を見て、短く言った。
「悪くない。」
「ガルドさんが言うなら大丈夫そうっすね。」
レオンが呟く。
エルザも頷いた。
「前衛の厚みは戻りそうね。」
ソータはほっとした顔をした。
ミレイユも内心で頷いた。
旅の形が、少しずつ整っていく。
◆◇◆
夜、正式な編成が一応決まった。
ソータ。
ミレイユ。
ガルド。
エルザ。
レオン。
新たな盾役カレン。
そして、アルベール。
アルベールが同行すると聞いた時、ソータは少し驚いた顔をした。
「アルベールさんも来るんですか?」
「もちろんでございます。」
「危険ですよ。」
「お嬢様が危険な場所へ行かれるのに、私が残る理由がございません。」
「でも。」
「ご心配には及びません。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「多少の荒事なら心得ております。」
レオンが小声で言った。
「絶対、多少じゃないっすよね。」
ガルドが短く答えた。
「だろうな。」
ソータも同感だった。
ミレイユは編成表を見た。
これで、フルムーンへ向かう一行の形ができた。
もちろん、まだ準備は山ほどある。
だが、人は揃いつつある。
それはつまり、本当に行くということだった。
アマゾネス砦へ。
オルドアイのもとへ。
ミレイユは胸の奥が冷えるのを感じた。
だが、表情には出さなかった。
「出発は五日後を目標にします。」
全員が頷いた。
「村で一泊し、北の森へ入る。」
「はい。」
「フルムーンの前に砦へ着く必要があります。」
「了解。」
「道中は安全優先。今回は私もいるので、無理な強行軍はしません。」
ソータが頷いた。
「分かった。」
「あなたも無理しない。」
「はい。」
「特に、私に隠して体調不良を我慢しない。」
「はい。」
レオンが小声で言った。
「ソータさん、完全に管理されてるっすね。」
カレンが淡々と言う。
「管理されるべき男に見える。」
「会ったばかりで分かるんすか?」
「分かる。」
ソータは微妙な顔をした。
ミレイユは少しだけ笑った。
「カレンさんとは、うまくやれそうね。」
「仕事ならな。」
カレンはそう答えた。
その距離感は悪くなかった。
◆◇◆
全員が解散した後、ミレイユは倉庫に残った。
ソータも残っている。
並べられた荷の中で、赤い布の入った箱だけがまだ開いていた。
ミレイユはその前に立った。
ソータは少し離れたところで待っている。
「ミレイユ。」
「何?」
「大丈夫?」
「大丈夫ではないわ。」
即答した。
ソータは少しだけ顔を歪めた。
「でも、行くの。」
「うん。」
「怖い。」
「うん。」
「腹も立つ。」
「うん。」
「会いたくない気持ちもある。」
「うん。」
「でも、知らないままでいる方がもっと嫌。」
「うん。」
ミレイユは赤い布に触れた。
「私は、この布を彼女に渡す。」
「うん。」
「髪飾りも渡す。」
「うん。」
「鏡も渡す。」
「うん。」
「そして、彼女を見る。」
「うん。」
「彼女にも、私を見せる。」
ソータは静かに聞いていた。
「私は、あなたの恋人として行くわ。」
「うん。」
「商会代表として交渉するわ。」
「うん。」
「そして。」
ミレイユは少しだけ顔を赤くした。
それでも逃げずに言った。
「いずれ、あなたの本妻になるかもしれない女として、彼女の前に立つ。」
ソータの顔も赤くなった。
しかし、今度は茶化さなかった。
「うん。」
その返事は、静かだった。
けれど、軽くはなかった。
ミレイユはソータを振り返る。
「その時、あなたはどこに立つの?」
ソータはすぐには答えなかった。
少し考えた。
ミレイユは待った。
急かしたい気持ちはあった。
だが、ここで即答だけを求めても意味がない。
考えた言葉が欲しかった。
やがて、ソータは言った。
「ミレイユの隣に立つ。」
胸が熱くなる。
だが、ミレイユは続けた。
「オルドアイの前でも?」
「うん。」
「彼女があなたを求めても?」
「うん。」
「あなたの心が揺れても?」
ソータは息を止めた。
そして、少し苦しそうに言った。
「揺れないとは言えない。」
痛い。
やはり痛い。
でも、ミレイユは目を逸らさなかった。
「でも、揺れたら隠さない。」
「うん。」
「その場で、逃げない。」
「うん。」
「ミレイユを置いて決めない。」
ミレイユの手が、布の上で止まった。
「もう一度言って。」
「ミレイユを置いて決めない。」
ミレイユは静かに頷いた。
「それなら、今は信じるわ。」
「ありがとう。」
「今は、よ。」
「うん。」
ミレイユは箱の蓋を閉めた。
赤い布が隠れる。
けれど、その色は胸の中に残ったままだった。
◆◇◆
その夜、ミレイユは自室で一人、母へ宛てた短い手紙を書いた。
フルムーンへ同行すること。
アマゾネス砦へ行くこと。
ソータとオルドアイ姫の件について、自分の目で見ると決めたこと。
まだ許したわけではないこと。
けれど、知らないままではいないと決めたこと。
そして最後に、こう書いた。
私は、物分かりのいい女にはまだなれません。
けれど、知らないまま泣く女にもなりません。
私は見て、考えて、選びます。
そこまで書いて、ミレイユは筆を止めた。
母なら、この手紙を読んでどう思うだろう。
甘いと言うだろうか。
よく言ったと笑うだろうか。
それとも、まだまだねと肩をすくめるだろうか。
どれもあり得る。
けれど、今はそれでよかった。
ミレイユは手紙を畳み、封をした。
窓の外を見る。
二つの月が浮かんでいる。
少しずつ満ちていく月。
逃げても、待っても、止まらない月。
フルムーンは近づいている。
(私は行く。)
(怖くても。)
(腹が立っても。)
(傷つくとしても。)
(私は、私の目で見る。)
扉を叩く音がした。
「ミレイユ、起きてる?」
ソータの声だった。
ミレイユは少しだけ息を整えた。
「起きているわ。」
「少しだけ、いい?」
「入りなさい。」
扉が開き、ソータが顔を出した。
手には小さな包みを持っている。
「何?」
「これ。」
ソータは少し照れたように包みを差し出した。
中には、小さな髪紐が入っていた。
商会の高級品ではない。
倉庫の端にあった実用品の紐を、ソータが選んだのだろう。
色は深い紅。
ミレイユの胸元の飾りと似た色だった。
「これを、俺から渡しておきたくて。」
ミレイユは髪紐を見つめた。
「どうして?」
「フルムーンに行く時、ミレイユがつけてくれたらいいなと思って。」
「……。」
「オルドアイへの贈り物をミレイユが選んでいるのを見て、俺も何かミレイユに渡したかった。」
ミレイユの胸が、ゆっくりと熱くなった。
「安物だけど。」
「そうね。」
ソータが少ししょんぼりした。
ミレイユは髪紐を手に取った。
「でも、悪くないわ。」
ソータの顔が少し明るくなる。
「本当?」
「ええ。」
「よかった。」
ミレイユは髪紐を指に巻いた。
深い紅が、白い指に映える。
「これをつけて行くわ。」
「うん。」
「ただし。」
「はい。」
「オルドアイへの髪飾りを見て、あなたが見惚れたら、この髪紐であなたを縛るわ。」
ソータは真顔で固まった。
「比喩?」
「さあ。」
「怖い。」
「怖がっていなさい。」
ミレイユは少し笑った。
ソータも、安心したように笑った。
その笑顔を見て、ミレイユは思った。
この人は、やっぱり自分の帰る場所だ。
いや、違う。
自分がこの人の帰る場所になりたいと思っていたけれど、自分にとっても、ソータはもう帰る場所の一部になっている。
だからこそ苦しい。
だからこそ離したくない。
だからこそ、逃げずに向き合う。
ミレイユは髪紐を胸に当てた。
「ありがとう、ソータ。」
「うん。」
「大事にするわ。」
「よかった。」
ソータはほっとしたように笑った。
ミレイユはその笑顔を見つめながら、心の中で呟いた。
(オルドアイ。)
(私は、あなたに会いに行く。)
(ソータを欲しがった女としてではなく。)
(砦の姫として。)
(一人の女として。)
(そして、私自身も一人の女として、あなたの前に立つ。)
二つの月が窓の外で静かに輝いていた。
フルムーンの準備は、恋と商売を同じ荷台に載せて、もう引き返せないところまで進み始めていた。




