第79話:リーナの手紙と、女たちの違う強さ
フルムーンまで、あと十六日。
その日の朝、クラウゼン商会には、村へ送るための荷が小さくまとめられていた。
急ぎの返書。
薬草軟膏の容器見本。
保存用の小瓶。
乾燥剤代わりに使える薬草紙。
それから、リーナへ宛てたミレイユの手紙。
大きな荷ではない。
だが、ソータはそれを見て、いつものように中身と順番を確認していた。
急ぎの便で送るものは、商会の馬車に預ける。
自分が直接運ぶわけではない。
それでも、彼は箱の蓋がきちんと閉まっているか、壊れやすい瓶が揺れないか、何度も見ていた。
ミレイユは少し離れたところから、その姿を眺めていた。
ソータが荷を見ている時の顔は、静かだった。
迷いがない。
恋の話ではすぐ困った顔をするのに、荷物のことになると目が落ち着く。
どこへ届けるのか。
誰が受け取るのか。
届いた先で困らないか。
それを自然に考えている。
(リーナさんの言う通りね。)
(この人は、荷物だけを運んでいるつもりでも、その先の気持ちまで見てしまう。)
(だから、誰かに必要とされる。)
(だから、誰かに求められる。)
胸がちくりと痛んだ。
その痛みにも、もう驚かなくなってきている自分がいた。
痛みは消えていない。
けれど、痛むたびに立ち止まっていたら何もできない。
ミレイユは、その痛みを抱えたまま仕事をする方法を少しずつ覚え始めていた。
それが成長なのか、諦めなのかは、まだ分からない。
(寛容になったわけではない。)
(許したわけでもない。)
(でも、考えることはやめない。)
(知らないまま傷つくより、自分で見て傷つく方を選ぶ。)
ソータが荷の確認を終え、こちらへ振り返った。
「これで大丈夫だと思う。」
「ありがとう。」
「リーナ、喜ぶかな。」
「きっと喜ぶわ。」
「ミレイユの手紙もあるし。」
「そうね。」
ミレイユは箱の上に置いた自分の手紙を見た。
リーナへ向けて書いたその手紙は、何度も書き直した。
父の形見のことに触れすぎれば傷を抉る。
触れなさすぎても、冷たくなる。
薬草軟膏の話だけにすれば、商売だけのように見える。
かといって、慰めの言葉を並べすぎれば、軽く響く。
結局、ミレイユは短く書いた。
形見を受け取ったあなたの強さを、私は尊敬します。
薬草軟膏の件は、あなたが前へ進む道になるよう、商会として丁寧に支えます。
いつかグランデリアで会える日を楽しみにしています。
そして最後に、少しだけ迷ってから、こう添えた。
ソータを送り出すことは簡単ではありません。
でも、戻ってくる場所を作ることもまた、誰かを支える力なのだと、あなたの手紙で教えられました。
書き終えた時、少しだけ泣きそうになった。
自分で書いた言葉なのに。
「ミレイユ?」
「何?」
「考え事?」
「少しね。」
「リーナのこと?」
「それもあるわ。」
「他にも?」
ソータは尋ねたあと、すぐに少し身構えた。
自分で聞いておきながら、怖くなったのだろう。
ミレイユはその反応を見て、少しだけ口元を緩めた。
「あなたのことよ。」
「やっぱり。」
「やっぱりとは何?」
「いや、最近ずっと俺が原因な気がして。」
「気がして、ではないわ。」
「はい。」
ソータは素直に頭を下げた。
その姿に、近くの使用人がまた笑いを堪えた。
ミレイユは見なかったことにした。
「でも、全部があなたのせいではないわ。」
そう言うと、ソータは意外そうに顔を上げた。
「そうなの?」
「そうよ。」
「俺、結構やらかしたと思うけど。」
「やらかしたわ。」
「ですよね。」
「でも、私がどう受け止めるかは、私の問題でもある。」
ミレイユは箱に触れたまま、静かに続けた。
「リーナさんの手紙を読んで、少し考えたの。」
「うん。」
「待つだけではなく、送り出すことも強さなのかもしれないと。」
「ミレイユ。」
「でも、勘違いしないで。」
ミレイユはすぐに釘を刺した。
「送り出すからといって、好きにしていいという意味ではないわ。」
「分かってる。」
「戻ってくる場所を作るからといって、途中で何をしてもいいわけではない。」
「うん。」
「帰る場所があるから遠くへ行ける、というのは綺麗な言葉だけれど、帰る場所で待つ側には待つ側の痛みがある。」
「……うん。」
「そこを忘れないで。」
ソータは真剣な顔で頷いた。
「忘れない。」
ミレイユはその返事を受け取り、少しだけ息を吐いた。
信じる努力をする。
昨日、自分でそう言った。
努力という言葉をつけなければ、まだ怖くて言えなかった。
だが、今日も少しだけ、その努力をする。
◆◇◆
昼前、アルベールが執務室へ一通の書状を持ってきた。
「お嬢様、王都ギルドへの早馬に対する返答の一部が届きました。」
「早いわね。」
「簡易返答でございます。正式な書類は後ほどとのことです。」
ミレイユは書状を受け取った。
封を開き、目を通す。
ガルドたちは王都へ戻り、すでに簡単な報告を済ませたらしい。
バルクが本人の意思で北方に残ったことについては、契約違反として即座に問題にはしない方針。
ただし、今後の正式処理には追加確認が必要。
フルムーンへの再同行については、ガルド、エルザ、レオンの三名は条件次第で応じる可能性あり。
盾役の追加については、王都ギルドでも候補を探す。
ミレイユは書状を机に置いた。
「ひとまず悪くないわ。」
「はい。」
「ガルドたちが再同行する可能性があるのはありがたい。」
「お嬢様としては、エルザ様とも再びお会いになることになりますね。」
アルベールが静かに言った。
ミレイユの手が止まった。
エルザ。
ソータに、キスのことは言わない方がいいと助言した女性。
ソータはそれも正直に話した。
だからミレイユは知っている。
エルザの判断が、完全に間違っていたとは言い切れない。
相手を傷つけないために、すべてを言わないという考え方もある。
母も、知らないままにする道があると言っていた。
だが、自分はそれを選べなかった。
「エルザさんとも、話す必要があるわね。」
ミレイユは言った。
「お責めになりますか。」
「いいえ。」
自分でも少し意外なほど、答えはすぐに出た。
「彼女は彼女なりに、私とソータのことを考えたのでしょう。」
「はい。」
「ただ、私は違う選択をした。」
「その旨をお伝えに?」
「ええ。」
「よろしいかと存じます。」
アルベールは頷いた。
ミレイユは書状をもう一度見た。
エルザは落ち着いた女性だ。
北の森でも冷静だったとソータは言っていた。
おそらく、ミレイユが問い詰めれば真正面から受けるだろう。
言い訳はしない気がする。
(女にも、色々な強さがある。)
(リーナさんは、悲しみを抱えて前を向く強さ。)
(エルザさんは、状況を見て冷静に判断する強さ。)
(オルドアイは、欲しいものを欲しいと言う強さ。)
(私は?)
ミレイユは自分の手を見た。
(私は、何の強さを持てるのかしら。)
商人としての強さはある。
交渉する強さ。
損益を見る強さ。
相手の言葉の裏を読む強さ。
だが、恋ではまだ弱い。
嫉妬に揺れ、想像に傷つき、ソータの一言で心が上下する。
でも、それを弱いまま終わらせたくはない。
「アルベール。」
「はい。」
「フルムーンの同行者が決まり次第、私は全員と個別に話すわ。」
「全員でございますか。」
「ええ。」
「ソータ様も含めて?」
「ソータは毎日話しているわ。」
「それでも足りないかと。」
ミレイユは少しだけ睨んだ。
「あなた、最近本当に遠慮がないわね。」
「必要があれば。」
「分かっているわ。」
ミレイユはため息を吐いた。
「ソータとも、改めて話す。」
「かしこまりました。」
「それと、盾役候補は女性でも構わないわ。」
「よろしいので?」
「強い女性が増えるくらいで動揺していたら、オルドアイには会えないでしょう。」
アルベールはほんの少しだけ微笑んだ。
「お嬢様らしいご判断でございます。」
「褒めている?」
「もちろんでございます。」
「怪しいわ。」
「心外でございます。」
ミレイユは小さく笑った。
ほんの少しだけ、胸が軽くなった。
◆◇◆
午後、ミレイユはソータと共に贈答品の最終確認を行った。
赤い布は、候補から正式な品へ格上げされた。
髪飾りも入れる。
香辛料は、強すぎる香りのものを避け、肉料理に合うものを中心にした。
アマゾネス砦の食事は肉が多かったとソータが言ったからだ。
分類箱と木札は、実用品として多めに積む。
薬草用の密閉箱も入れる。
ミレイユは品を見ながら、ふと聞いた。
「ソータ。」
「うん。」
「オルドアイは、肉料理が好きそうだった?」
「たぶん。」
「たぶん?」
「宴ではよく食べてた。」
「あなたの隣で?」
ソータの動きが止まった。
「……うん。」
「食べさせられた?」
「少し。」
ミレイユの眉が動いた。
「そう。」
「ミレイユ。」
「何?」
「言わない方がよかった?」
「聞いたのは私よ。」
「うん。」
「でも、腹は立つわ。」
「ごめん。」
「謝るところではないわ。」
「でも、腹が立つなら。」
「腹が立つからといって、あなたが答えない方がいいということにはならない。」
ミレイユは香辛料の瓶を手に取った。
「私は、知る方を選んだの。」
「うん。」
「だから、あなたは答えて。」
「分かった。」
「ただし、楽しそうに思い出したら怒るわ。」
「難しい。」
「難しくても努力しなさい。」
「はい。」
ソータは真面目に頷いた。
その顔が少しおかしくて、ミレイユは口元を押さえた。
「何?」
「何でもないわ。」
「笑った?」
「笑っていない。」
「少し笑った。」
「気のせいよ。」
ソータが少しだけ安心した顔をした。
それを見て、ミレイユは思った。
こんなふうに話せるなら、少しずつ進めるかもしれない。
怒りながら。
傷つきながら。
それでも、隠さずに聞き、答えてもらう。
それは簡単ではない。
だが、知らないまま黙っているより、自分には合っている。
香辛料の瓶を箱に入れると、ミレイユは次の品を見た。
小さな鏡だった。
「これは?」
「アルベールさんが候補に入れてた。」
「鏡……。」
磨かれた金属鏡。
割れにくく、旅にも耐える。
砦では貴重かもしれない。
ミレイユは鏡に映った自分の顔を見た。
少し疲れている。
けれど、目は死んでいない。
「これも入れましょう。」
「オルドアイに?」
「砦への品として。」
「うん。」
「彼女が自分を見るためにも、私が彼女を見るためにも、ちょうどいいわ。」
ソータは意味を測りかねたようだった。
ミレイユは説明しなかった。
(オルドアイ。)
(あなたは、自分をどう見ているのかしら。)
(砦の姫として?)
(戦士として?)
(一人の女として?)
(私は、あなたを見る。)
(そして、私自身も見る。)
鏡は、箱の中へ静かに収められた。
◆◇◆
夕暮れ頃、王都からの追加使者が到着した。
ガルドたちからの短い伝言も添えられていた。
再依頼には応じる意志がある。
ただし、今回の旅は前回以上に複雑になるため、条件を正式に詰めたい。
バルクの件については、本人が生きており、自分の意思で残ったことを証言する。
レオンからは、短い追伸があった。
「ソータさん、今回は人間関係の護衛も必要そうっすね。」
ミレイユはその一文を読んで、しばらく無言になった。
ソータは横から覗き込み、顔を引きつらせた。
「レオン……。」
「正しいわね。」
「正しいけど。」
「魔物より厄介かもしれないわ。」
「否定できない。」
ミレイユは手紙を畳んだ。
「ガルドさんたちとは、こちらへ来てもらって直接話しましょう。」
「うん。」
「エルザさんにも聞きたいことがある。」
「怒る?」
「怒るかどうかは、話してから決めるわ。」
「怖い。」
「あなたが怖がることではないでしょう。」
「いや、俺も同席するなら怖い。」
「同席しなさい。」
「やっぱり。」
ソータは肩を落とした。
ミレイユは少しだけ笑った。
それから、真面目な声で言った。
「でも、エルザさんを責めるためではないわ。」
「うん。」
「私がどういう選択をするかを、彼女にも知っていてもらうため。」
「うん。」
「フルムーンの旅では、隠し事が命取りになるかもしれない。」
「そうだね。」
「恋の話だけではなく、砦との交渉でも。」
「うん。」
「だから、私は同行者にも私の立場を示す。」
「ミレイユの立場。」
「ええ。」
ミレイユは書状を机に置いた。
「私は、ソータの恋人として同行する。」
「うん。」
「商会代表として交渉する。」
「うん。」
「そして、オルドアイ姫を自分の目で見る。」
「うん。」
「これを曖昧にしない。」
ソータは静かに頷いた。
「分かった。」
その返事を聞いて、ミレイユは少しだけ安心した。
彼が完全に分かっているかは、まだ分からない。
でも、少なくとも逃げてはいない。
◆◇◆
夜、ミレイユは再びソータを自室へ呼んだ。
昨夜と同じ部屋。
同じ窓。
同じ二つの月。
だが、空気は少し違っていた。
ミレイユは小さな机の上に、リーナの手紙を置いた。
そして、その隣に自分が書いた返書の控えを置く。
「今日は、これを読んで。」
「ミレイユの返事?」
「ええ。」
「読んでいいの?」
「あなたにも関わることを書いたわ。」
ソータは頷き、返書を読んだ。
途中で目を止める。
戻ってくる場所を作ることも、誰かを支える力なのだと教えられた。
その一文のところだった。
ソータはゆっくり顔を上げた。
「ミレイユ。」
「何?」
「俺、帰る場所に甘えてたかもしれない。」
ミレイユは黙った。
「ミレイユが待ってくれているから、戻ればいいと思ってた。」
「……。」
「でも、待つ方にも痛みがあるって、今日言われて、やっと少し分かった。」
「少し?」
「全部分かったとは言えない。」
「それでいいわ。」
ミレイユは静かに答えた。
「全部分かったふりをされる方が嫌。」
「うん。」
「少しずつ分かって。」
「うん。」
「私も、あなたのことを少しずつ分かる努力をする。」
「ありがとう。」
ミレイユは窓の外を見た。
二つの月が、昨日よりまた少し丸い。
「フルムーンに行ったら、私は傷つくかもしれない。」
「うん。」
「あなたも傷つくかもしれない。」
「うん。」
「オルドアイも、傷つくかもしれない。」
「うん。」
「でも、誰も見ないまま曖昧にするよりはいいと思う。」
「俺も、そう思う。」
ソータの返事は、昨日より少しだけ早かった。
ミレイユはそれを感じた。
「本当に?」
「うん。」
「逃げたいと思っていない?」
「思ってる。」
ミレイユは目を細めた。
「正直ね。」
「逃げたいとは思う。」
「……。」
「でも、逃げない。」
その続きがあったから、ミレイユは怒らなかった。
「怖い?」
「怖い。」
「何が?」
「ミレイユが傷つくこと。」
「……。」
「オルドアイを傷つけること。」
「……。」
「俺が、また中途半端になること。」
「……。」
「それが一番怖い。」
ミレイユはソータを見た。
彼は、自分の弱さをようやく言葉にし始めている。
それは大きな一歩だった。
「なら、中途半端にならないように見張るわ。」
「お願いします。」
「本当にお願いするの?」
「うん。」
「私、厳しいわよ。」
「知ってる。」
「怒るわよ。」
「知ってる。」
「泣くかもしれないわよ。」
ソータの表情が少し痛そうに歪んだ。
「それでも、そばにいる。」
ミレイユの胸が震えた。
「その言葉、覚えておくわ。」
「うん。」
「忘れたら許さない。」
「忘れない。」
ミレイユは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
外の月を見上げる。
「リーナさんは、悲しみを抱えて前を向いている。」
「うん。」
「エルザさんは、冷静に判断する。」
「うん。」
「オルドアイは、欲しいものを欲しいと言う。」
「……うん。」
「私は、全部を見てから選ぶ。」
ミレイユは振り返った。
「それが、私の強さになるかはまだ分からない。」
「なると思う。」
「簡単に言うのね。」
「簡単に聞こえたなら、ごめん。」
「でも。」
ミレイユは少しだけ微笑んだ。
「少し嬉しいわ。」
ソータはほっとしたように笑った。
その笑顔を見て、ミレイユは思う。
まだ独り占めしたい。
それは変わらない。
今でも、ソータに他の女を見てほしくない。
オルドアイに会うのは怖い。
ソータの目が揺れるのを見るのは、もっと怖い。
けれど、怖いからこそ行く。
怖いからこそ見る。
自分で選ぶ。
それが、ミレイユが今選べる、精一杯の強さだった。
ミレイユはソータの前へ戻り、そっと手を差し出した。
「明日から、フルムーンの準備はもっと忙しくなるわ。」
「うん。」
「同行者との話し合いもある。」
「うん。」
「村への連絡もある。」
「うん。」
「オルドアイへの贈り物も決まった。」
「うん。」
「だから、今日はもう少しだけ、何も考えずにいてもいい?」
ソータはミレイユの手を取った。
「いいよ。」
「私だけを見て。」
「うん。」
「今夜だけは、私だけ。」
「ミレイユだけを見る。」
その答えに、ミレイユは目を閉じた。
まだ、未来を許したわけではない。
けれど、今夜のこの瞬間だけは、自分で選んでいい。
ミレイユはソータの胸に寄り添った。
ソータの腕が、今度は昨日よりも迷わず回ってきた。
その温もりの中で、ミレイユは静かに息を吐いた。
(今は、私の場所。)
(明日はまた考える。)
(でも今夜は、私が帰る場所で、私が抱きしめられる。)
二つの月が、窓の外でゆっくり満ちていく。
フルムーンへ向かう時間は止まらない。
それでも今夜だけは、ミレイユはソータの腕の中で、自分の心を少しだけ休ませることにした。




