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勇者じゃなくて運送屋ですが、王国の命綱です  作者: naomikoryo


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第78話:恋人は、独占と采配の間で揺れる

翌朝、ミレイユはいつもより早く目を覚ました。


窓の外はまだ薄暗い。

夜と朝の境目のような色が、カーテンの隙間から部屋へ入り込んでいる。

商会の中も静かだった。

使用人たちが動き始めるには、まだ少し早い時間だった。


ミレイユは寝台の上で身を起こし、しばらく何もせずに座っていた。


昨夜のソータの声が、胸の奥に残っている。


「ミレイユを大切にする。」


「帰る場所は、ミレイユのところだ。」


「でも、オルドアイのことも、もう何もなかった相手にはできない。」


その言葉は、正直だった。

だから、受け取った。

けれど、受け取ったからといって痛みが消えるわけではない。


むしろ、正直だったからこそ、言葉の形がはっきり残ってしまった。


(何もなかった相手にはできない。)


ミレイユは胸元を押さえた。


(分かっているわ。)

(あの人が嘘をつくよりはいい。)

(私の機嫌を取るためだけに、オルドアイのことを何でもないと言われたら、きっと私はもっと怒った。)

(でも、正直に言われても痛いものは痛いのよ。)


息を吐く。

吐いた息が、朝の冷たい空気に少しだけ震えた。


昨日、ソータに抱きしめられた温もりはまだ体に残っている。

あの腕は優しかった。

自分を怖がらせないように、傷つけないように、慎重だった。

その慎重さが、逆に少し寂しかった。


(私を壊れ物みたいに扱わないでほしい。)

(でも、乱暴に踏み込まれたら、きっと怒る。)

(面倒な女ね、私は。)


自嘲する。

けれど、すぐに首を振った。


母は言っていた。

弱くていい。

嫉妬していい。

ただ、それをどう扱うかで品が決まるのだと。


(品。)

(今の私に、そんなものがあるのかしら。)


ミレイユは寝台から降りた。

足先が床の冷たさに触れる。

その冷たさで、少しだけ頭が冴えた。


今日は、フルムーン用の贈答品の最終確認をする。

オルドアイへ渡す可能性のある品も決めなければならない。

会ったこともない女に。

ソータに口づけた女に。

ソータが惹かれた女に。


商人としては、最良の品を選ぶべきだ。

恋人としては、選びたくない。


(逃げない。)

(自分で見ると決めたなら、その前段階から逃げてはいけない。)

(仕事よ。)

(いいえ、仕事だけではない。)

(これは、私がどこに立つかの話。)


ミレイユは鏡の前に立った。

髪を整え、服を選ぶ。

いつもの会頭代理としての装い。

けれど今日は、襟元の飾りを少しだけ強い色のものにした。

深い紅色の小さな石。


それは、昨日見た赤い布を思い出させる色だった。


(あの女に赤が似合うなら、私にも似合うわ。)


そう思ってから、自分で少し笑った。


(張り合っている。)

(会ってもいない相手に。)

(でも、いいわ。)

(張り合うくらいの気持ちがないと、きっと私は立っていられない。)


ミレイユは鏡の中の自分を見た。

目元に迷いはある。

だが、背筋は伸びている。


「大丈夫。」


声に出す。


「私は、逃げない。」


◆◇◆


商会の倉庫には、朝から品が並べられていた。


整然と並べられた木箱。

布で包まれた贈答品。

革細工。

分類用の木札。

薬草用の密閉箱。

香辛料の小瓶。

上質な塩。

乾燥果実。

金属製の針と留め具。


それらは、ただの品ではない。

これから作る関係の最初の言葉だった。

アマゾネス砦へ、クラウゼン商会が何を持ち込み、何を示すのか。

侮られず、押しつけず、役に立つ存在だと伝えるための品。


ミレイユは一つずつ確認していった。


「保存食は質を落とさないで。」


「はい。」


「初回の品で安物を入れると、こちらの底を見られるわ。」


「承知いたしました。」


「ただし、豪華すぎても駄目。」


「はい。」


「継続できない品を最初に見せれば、次から期待だけが膨らむ。」


使用人が頷き、帳面に書き込む。


ソータは少し離れたところで、収納に入れる順番を考えていた。

彼の前には、別の紙が広げられている。

そこには、野営時に最初に出すもの、砦到着後に出すもの、贈答品、緊急用、道中補給用といった分類が書かれていた。


ミレイユはその紙を横目で見た。

昨日、彼に自分の言葉で書き出すように言った。

その紙には、彼なりの整理があった。


字は少し不揃いだ。

だが、考えていることは分かる。

どこで誰が使うか。

何を先に出すべきか。

雨ならどうするか。

怪我人が出たらどの箱を使うか。

食料を分ける時の順番。

水の管理。


彼は本当に、荷を運ぶことを考えている。

ただ運ぶのではなく、届いた先で人が困らないように考えている。


(だから、欲しがられる。)

(私だって、欲しくなった。)

(商会としても。)

(女としても。)


ミレイユは胸の奥に刺さる痛みを無視し、別の箱へ向かった。


赤い布が入った箱だった。


蓋を開けると、深い赤が朝の光を吸って、静かに艶めいた。

昨日よりも、さらに美しく見える。

色が強い。

ただ派手なのではなく、燃えるような芯がある。


ミレイユは布に指先で触れた。

滑らかで、しなやかだった。

戦士の衣装にも、儀礼の飾りにも使える。

森の中で火のように映えるだろう。


(似合うでしょうね。)

(悔しいけれど。)


横に、金属細工の小箱が置かれていた。

髪飾りだった。

ミレイユが昨日の夜、追加で候補に入れるよう指示したものだ。


濃い髪を束ねるための金具。

細い鎖がつき、動くたびに小さな音を立てる。

戦闘の邪魔にならない形。

それでいて、姫にふさわしい華やかさもある。


選んだ時、ミレイユは自分の中にある複雑な感情を自覚していた。

相手に似合うと思った。

同時に、相手を試す品でもあった。

こちらが見ている。

あなたをただの森の女として扱わない。

姫として遇する。

だが、こちらも引くつもりはない。


そんな意味を込めてしまった。


(贈り物に感情を載せすぎかしら。)

(でも、贈り物とはそういうものでもあるわ。)

(商談でも、恋でも。)


ソータが近づいてきた。


「これ、最終候補?」


「ええ。」


ミレイユは髪飾りを手に取った。


「オルドアイ姫へ渡すなら、このあたりかしら。」


ソータは髪飾りを見た。

その目に、ほんの少し記憶の色がよぎった。


ミレイユはそれを見逃さなかった。

胸がちくりと痛む。


「似合いそう?」


聞きたくないのに、また聞いてしまう。

ソータは一瞬迷い、正直に頷いた。


「似合うと思う。」


「そう。」


「でも。」


「でも?」


「ミレイユが選んだって分かる品だと思う。」


ミレイユは意外な答えに、少しだけ目を見開いた。


「どういう意味?」


「綺麗だけど、ただ甘いだけじゃない。」


「……。」


「ちゃんと相手のことを考えてる。でも、ミレイユの強さも入ってる感じがする。」


ミレイユは髪飾りを見た。

自分では意地が入った品だと思っていた。

だが、ソータにはそう見えたらしい。


「あなた、時々変なところを見ているわね。」


「変かな。」


「ええ。」


「悪い意味?」


「いいえ。」


ミレイユは髪飾りを箱に戻した。


「少しだけ、悪くない意味よ。」


ソータはほっとしたような顔をした。

その顔を見て、ミレイユはまた胸が痛んだ。


(そういう顔をしないで。)

(私が優しくしたくなるから。)


だが、完全に拒むこともできない。

ミレイユは箱の蓋を閉めた。


「これは入れるわ。」


「うん。」


「ただし、渡す時は私が渡す。」


「分かった。」


「あなたは余計なことを言わないこと。」


「余計なことって?」


「似合う、とか。」


「言わない。」


「本当に?」


「言わない。」


「顔にも出さない。」


「それは難しい。」


「努力しなさい。」


「はい。」


ソータの返事に、近くで帳面を書いていた使用人がわずかに笑いを堪えた。

ミレイユは見なかったことにした。


◆◇◆


昼過ぎ、ミレイユは執務室でリーナからの手紙を受け取った。


村へ送った返書と入れ違いに届いたものらしい。

リーナの字は丁寧だった。

少し丸く、読みやすい。

便箋からは、かすかに薬草の匂いがした。


ミレイユは封を開いた。

ソータもそばにいたが、読む前にミレイユは手で制した。


「まず私が読むわ。」


「うん。」


ソータは素直に頷いた。

ミレイユは手紙に目を落とした。


そこには、父の形見を受け取った礼が書かれていた。

ソータが持ち帰ってくれたことへの感謝。

クラウゼン商会が村との道を作ってくれたことへの感謝。

青い石の腕輪を、昼は薬草小屋に置き、夜は家に持ち帰っていること。

父が教えてくれた薬草の知識を、これからもっと深く学びたいという決意。


ミレイユは読み進めながら、胸が静かに熱くなった。


リーナはまだ悲しみの中にいる。

それでも、前へ進もうとしている。

その健気さが、紙越しに伝わってきた。


そして、手紙の後半に、ソータのことが書かれていた。


ミレイユは息を止めた。


リーナは書いていた。


ソータは、荷物だけではなく、人の気持ちまで運んでしまう人なのだと思う、と。

だから、いろいろな人に必要とされてしまうのだと思う、と。

ミレイユは大変かもしれない。

でも、ソータが帰る場所でいてくれる人がいるから、ソータは遠くまで行けるのだと思う、と。


そこまで読んで、ミレイユは手紙を膝の上に置いた。


視界が少し揺れる。


「ミレイユ?」


ソータの声が聞こえた。


ミレイユはすぐに返事をしなかった。

胸の奥に、リーナの言葉が静かに落ちてきている。


帰る場所。


それは誇らしい言葉だった。

同時に、重い言葉でもあった。


(帰る場所。)

(私は、そうありたいと思っていた。)

(ソータがどこへ行っても、戻ってこられる場所に。)

(でも、それは待つことなの?)

(許すことなの?)

(我慢することなの?)

(それとも、迎えに行くことなの?)


ミレイユは手紙を握りしめないように気をつけた。

大切な手紙だ。

感情で皺をつけたくなかった。


「リーナさんは、強いわね。」


ミレイユが呟くと、ソータが静かに頷いた。


「うん。」


「父親の形見を受け取ったばかりなのに。」


「うん。」


「もう、前を向こうとしている。」


「無理してるところもあると思う。」


「そうね。」


ミレイユは手紙をもう一度見た。


「でも、無理をしながらでも前を向こうとしている。」


「うん。」


「私より強いかもしれないわ。」


「それは違うと思う。」


ソータの声が、珍しくすぐに返ってきた。


ミレイユは顔を上げた。


「どうして?」


「強さの種類が違う。」


「……。」


「リーナは、お父さんの形見を受け取って、それを抱えて前を向こうとしてる。」


「ええ。」


「ミレイユは、俺のこととか、商会とか、村とか、砦とか、いろんなものを同時に抱えて考えてる。」


「……。」


「それも強さだと思う。」


ミレイユは言葉を失った。

慰めではない。

ソータなりに本当にそう思っている声だった。


「あなたにそう言われると、少し腹が立つわ。」


「なんで?」


「あなたが原因の悩みも混じっているからよ。」


「それは、ごめん。」


「謝ってばかり。」


「でも、謝るところだから。」


ソータは苦笑した。

ミレイユは小さく息を吐いた。


手紙をソータへ差し出す。


「読みなさい。」


「いいの?」


「リーナさんは、あなたにも読んでほしいと思って書いているわ。」


ソータは慎重に手紙を受け取った。

彼はゆっくり読み進めた。

途中で何度か目を止めた。


特に、自分が人の気持ちまで運んでしまう人だと書かれたところで、顔が少し歪んだ。


「そんな大げさな。」


「大げさではないわ。」


「ミレイユまで。」


「私もそう思うもの。」


ソータは手紙から顔を上げた。


「俺は、運んでるだけだよ。」


「その“だけ”が、人の人生を変えることもあるの。」


「……。」


「リーナさんのお父様は、帰ってこられなかった。」


「うん。」


「でも、形見は帰ってきた。」


「うん。」


「それを運んだのはあなたよ。」


ソータは何も言えなかった。


ミレイユはソータを見た。

この人は、きっとまだ自分の価値をすべて理解していない。

理解しきれないまま、多くの人に必要とされていく。

そのたびに、誰かが彼を求める。


胸が痛む。

けれど、リーナの手紙は、その痛みに別の角度を与えた。


ソータは誰かを助ける。

だから、誰かに必要とされる。

それを嫌だと言い切れるのか。

嫌だと言えば、ソータの何かを否定してしまうのではないか。


(私は、ソータの優しさを好きになった。)

(でも、その優しさが他の女へ向くのは嫌。)

(勝手ね。)

(でも、これも本心。)


ミレイユはリーナの手紙をそっと畳んだ。


「返事を書くわ。」


「うん。」


「薬草軟膏の件も、もっと具体的に進めましょう。」


「喜ぶと思う。」


「ええ。」


ミレイユは手紙を胸元に置いた。


「それから、リーナさんにはいつかグランデリアへ来てもらう。」


「うん。」


「彼女の薬を、彼女自身の言葉で売り込んでもらうわ。」


「リーナ、緊張しそうだな。」


「緊張してもいいの。」


ミレイユは少しだけ微笑んだ。


「震えながらでも、自分の作ったものを語れる人は強いわ。」


◆◇◆


夕方、ミレイユは一人で商会の中庭へ出た。


仕事はまだ残っている。

だが、少しだけ一人になりたかった。


中庭には小さな噴水がある。

水音が静かに響き、石畳に夕暮れの光が落ちていた。

庭の隅には、香草が植えられている。

リーナの手紙の匂いを思い出し、ミレイユはそこへ歩いた。


葉に触れると、青く澄んだ香りが指先についた。

薬草小屋の匂いとは違うが、少し近い。


(リーナさんは、父親の形見を薬草小屋に置いていると言っていた。)

(父に見守られながら、薬を作るために。)

(私は、何に見守られているのかしら。)


家。

商会。

母の言葉。

アルベールの忠告。

リーナの手紙。

ソータの温もり。

オルドアイという、まだ見ぬ女の影。


すべてが絡み合っている。


ミレイユは噴水の縁に座った。

会頭代理としては、あまり褒められた姿ではない。

だが、中庭には誰もいない。

少しくらい許されるだろう。


(知らないままにする道。)

(会って判断する道。)


何度も考える。

知らないままなら、表面上は穏やかでいられるかもしれない。

ソータが帰ってくれば、それでいいと自分に言い聞かせる。

自分が本妻で、家があり、子がいれば、揺るがないと思えるかもしれない。


だが、ミレイユは自分をよく知っている。

きっと無理だ。

何も聞かずに笑うなど、今の自分にはできない。


ソータの服に知らない香りを感じた時、また胸が燃えるだろう。

彼が何かを言い淀めれば、すぐに気づくだろう。

そして想像する。

相手の顔を。

声を。

手を。

ソータを見る目を。


それならば、会う方がいい。

会って傷つくとしても、現実を見る方がいい。

少なくとも、自分の想像に負けるよりは。


(私は、オルドアイに会う。)

(会って、見る。)

(彼女がソータをどう見ているのか。)

(ソータが彼女をどう見るのか。)

(そして、私がどこまで許せるのか。)


許す。

その言葉を考えた瞬間、胸が締めつけられた。


(まだ許せない。)

(でも、許す可能性を考え始めている。)

(それが嫌。)

(でも、考えている。)


ミレイユは目を閉じた。


「本当に、面倒なことになったわね。」


声に出して呟いた。


その時、背後から静かな声がした。


「お嬢様。」


アルベールだった。

相変わらず、気配が薄い。


「また勝手に人の独り言を聞いたの?」


「聞こえてしまいました。」


「便利な言葉ね。」


「執事でございますので。」


ミレイユはため息を吐いた。


「何か用?」


「リーナ様への返書の便を確認しておりました。」


「そう。」


「それと、お嬢様が中庭で黄昏れておられると使用人が心配しておりましたので。」


「黄昏れていないわ。」


「では、戦略的休憩でございますね。」


「そういうことにしておいて。」


アルベールは少し離れた位置に立った。

ミレイユの隣へ座ることはしない。

距離を守っている。

それがありがたかった。


「お嬢様。」


「何?」


「奥様から、何か言われましたか。」


ミレイユは噴水の水面を見た。


「あなたも聞くのね。」


「私はお嬢様の執事でございますので。」


「お母様と同じようなことを言うつもり?」


「内容によります。」


「ソータのような男は独り占めできない、と言われたわ。」


「なるほど。」


アルベールは驚かなかった。

それが少し癪だった。


「あなたもそう思うの?」


「可能性としては。」


「遠慮がないわね。」


「嘘を申し上げるよりは。」


ミレイユは水面を睨んだ。


「皆、私に器の大きい女になれと言うのね。」


「いいえ。」


アルベールは静かに否定した。


「器の大きい女ではなく、負けない女になれという話でございます。」


ミレイユは顔を上げた。


「負けない女。」


「はい。」


「何に?」


「相手に。」


「……。」


「ソータ様に。」


「……。」


「そして、ご自身の不安に。」


ミレイユは黙った。


アルベールの言葉は、母の言葉とは少し違った。

母は選ぶ側になれと言った。

アルベールは負けるなと言う。

どちらも、ミレイユを甘やかす言葉ではない。


「勝つとは、相手を叩き潰すことではございません。」


「……。」


「お嬢様が、ソータ様の隣に立つにふさわしい形を、ご自身で作ることにございます。」


「簡単に言うわね。」


「簡単ではございません。」


「でしょうね。」


「ですが、お嬢様なら可能でございます。」


「買いかぶりよ。」


「いいえ。」


アルベールの声は穏やかだが、はっきりしていた。


「お嬢様は、怒りながらも贈答品を選ばれました。」


「仕事だからよ。」


「仕事だけなら、もっと無難な品を選ばれたでしょう。」


「……。」


「姫にふさわしく、かつこちらの意志を示す品を選ばれた。」


「見ていたの?」


「執事でございますので。」


「本当に便利な言葉。」


ミレイユは苦笑した。

少しだけ肩の力が抜ける。


「アルベール。」


「はい。」


「私は、オルドアイに会うべきだと思う?」


「はい。」


即答だった。


「迷わないのね。」


「お嬢様は、知らない相手への想像で傷つき続けるより、現実を見て傷つく方を選ぶ方です。」


「どちらにしても傷つくのね。」


「恋でございますので。」


「嫌な言い方。」


「ですが、事実かと。」


ミレイユは噴水の水を見た。

夕暮れの光が、水面で揺れている。


「会って、もし彼女を認めてしまったら?」


「その時は、お嬢様が一つ強くなられるだけでございます。」


「認めたくないと言ったら?」


「それもまた、お嬢様の答えでございます。」


「ソータが傷つくわ。」


「お嬢様も傷ついておられます。」


「……。」


「誰も傷つかぬ答えなど、今回はないのではございませんか。」


ミレイユは目を閉じた。

そう。

それは、薄々分かっていた。


自分が完全に拒めば、オルドアイは傷つくかもしれない。

ソータも苦しむかもしれない。

自分が許せば、自分が傷つく。

知らないふりをすれば、別の形で傷つく。


誰も傷つかない道は、たぶんない。


ならば、せめて自分で選ぶしかない。


「分かったわ。」


ミレイユは立ち上がった。


「お嬢様?」


「ソータと話すわ。」


「今からでございますか。」


「ええ。」


「よろしいかと。」


アルベールは静かに頭を下げた。


「ただし。」


「何?」


「お嬢様。」


「ええ。」


「責めるだけでなく、ご自身の怖さもお伝えください。」


ミレイユは少しだけ目を細めた。


「あなた、最近踏み込みすぎではない?」


「必要があれば、踏み込むのも執事の務めでございます。」


「便利すぎるわ、その職務。」


「恐れ入ります。」


ミレイユは小さく笑った。

そして、中庭を後にした。


◆◇◆


ソータは倉庫の隅で、収納に入れる荷の順番を確認していた。

木箱に手を置き、消し、また出す。

何度も試している。


ミレイユは入口で足を止め、少しだけその姿を見た。


真剣な顔。

不器用なほど丁寧な確認。

誰かが困らないように、何度も手順を考える癖。


彼を欲しがる理由が、また見えてしまう。

それが少し悔しい。


「ソータ。」


ミレイユが声をかけると、ソータは振り返った。


「ミレイユ。」


「少し話しましょう。」


「うん。」


ソータはすぐに木箱から手を離した。

ミレイユは倉庫の奥にある小さな作業机へ向かった。

周囲に人はいない。

使用人たちはすでに別の作業場へ移っていた。


二人は向かい合って立った。

座らなかった。

座ると、また机が距離になる気がしたからだ。


「リーナさんの手紙を読んで、少し考えたわ。」


「うん。」


「お母様の言葉も、アルベールの言葉も。」


「うん。」


「私は、知らないままではいられない。」


ソータの表情が引き締まった。


「だから、オルドアイに会う。」


「うん。」


「彼女がどんな人なのか、自分で見る。」


「うん。」


「あなたが彼女をどう見るのかも見る。」


ソータは苦しそうに頷いた。


「分かった。」


「怖いわ。」


ミレイユは言った。

言ってから、胸が少し震えた。

弱さを口にするのは、まだ慣れない。


「とても怖い。」


「……うん。」


「彼女が本当に美しくて、強くて、あなたを真っ直ぐ求める人だったら。」


「……。」


「私は、きっと傷つく。」


「……うん。」


「あなたが少しでも彼女に揺れる顔をしたら、私は腹が立つし、泣きたくなると思う。」


「うん。」


「それでも、見る。」


「……。」


「知らないまま想像に負けたくないから。」


ソータはしばらく何も言わなかった。

そして、深く頭を下げた。


「ごめん。」


「謝罪は聞いたわ。」


「うん。」


「今、私が欲しいのは謝罪だけではない。」


ミレイユは一歩近づいた。


「あなたの覚悟よ。」


ソータは顔を上げた。


「覚悟。」


「ええ。」


「私は会う。」


「うん。」


「私が見る。」


「うん。」


「でも、あなたも見るの。」


「……うん。」


「オルドアイの気持ちも。」


「うん。」


「私の痛みも。」


「うん。」


「自分の弱さも。」


「うん。」


「その上で、言葉にしなさい。」


ソータは、まっすぐミレイユを見た。


「分かった。」


その返事は、まだ完璧ではない。

きっと、ソータはこれからも迷う。

困った顔をする。

自分の価値を軽く言う。

優しさで流されそうになる。


でも、今は逃げていない。


ミレイユはそれを見て、少しだけ頷いた。


「フルムーンには、私も行くわ。」


「うん。」


「商会代表として。」


「うん。」


「あなたの恋人として。」


「うん。」


「そして、いずれ本妻になるかもしれない女として。」


言った瞬間、ミレイユの頬が熱くなった。

ソータも真っ赤になった。


「い、いずれ。」


「そこを繰り返さないで。」


「ごめん。」


「まだ決まったわけではないわ。」


「うん。」


「でも、私は曖昧な場所に立ち続けるつもりはない。」


「うん。」


「あなたも、そこから逃げないで。」


「逃げない。」


ミレイユは、そっと手を差し出した。

ソータはその手を取った。


昨日より、少し強く握られた。

それが嬉しかった。


同時に、怖かった。

この手が、いずれ別の女の手も取るかもしれない。

その未来を、今のミレイユはまだ受け入れきれない。


けれど、手を離す気もなかった。


「ソータ。」


「うん。」


「私の手を離さないで。」


「離さない。」


「簡単に言ったわね。」


「簡単な気持ちでは言ってない。」


ミレイユは少しだけ息を止めた。

ソータの目は真剣だった。


「なら、信じる努力をするわ。」


「ありがとう。」


「努力よ。」


「うん。」


「まだ完全には信じきっていない。」


「うん。」


「でも、努力する。」


「俺もする。」


ミレイユは頷いた。


倉庫の中には、これから運ぶ荷が並んでいる。

食料。

道具。

贈答品。

薬。

木札。

赤い布。

髪飾り。


そして、まだ形のない重い荷。

嫉妬。

覚悟。

不安。

愛。

未来。


それらもまた、フルムーンへ向かう荷になる。


(私は見る。)

(逃げない。)

(傷ついても、自分で選ぶ。)


ミレイユはソータの手を握ったまま、静かに息を吐いた。


外では夕暮れが深まり、二つの月が少しずつ空へ上がろうとしていた。

フルムーンまで、あと十七日。

その夜へ向けて、恋と商売と覚悟は、同じ荷台に積まれ始めていた。


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