第77話:本妻という言葉は、恋人の胸を重くする
商会の扉をくぐった瞬間、ミレイユはいつもの空気に包まれた。
紙とインクの匂い。
木箱の匂い。
乾いた布と香辛料が混ざった、商会特有の匂い。
廊下を行き交う使用人たちの足音。
奥の事務室から聞こえる帳簿をめくる音。
誰かが荷の数を確認する声。
いつもの場所だった。
自分が立つべき場所だった。
ここでは迷ってばかりいられない。
ここでは、会頭代理として判断し、指示し、商談を進めなければならない。
だからミレイユは、胸の中の重さをいったん奥へ押し込めた。
母の言葉も、オルドアイの顔をまだ見ぬまま想像してしまう痛みも、ソータへの怒りも、全部まとめて奥へ押し込める。
(今は仕事。)
(考えるのは後。)
(仕事ならできる。)
(仕事なら、迷っても手順にできる。)
ソータは隣を歩きながら、何度かミレイユの顔を見た。
言いたいことがあるのだろう。
聞きたいこともあるのだろう。
だが、ミレイユが仕事の顔をしているのを見て、声をかけるのを迷っているようだった。
そういうところも、少し困る。
気づかなくていい時に気づく。
気づいてほしい時に、余計な遠慮をする。
(本当に、厄介な人。)
(でも、そういうところも好きになってしまったのよね。)
ミレイユは自分の執務室の前で足を止めた。
「ソータ。」
「うん。」
「午後は、フルムーン関連の物資リストを確認するわ。」
「分かった。」
「その前に、アルベールへ実家で聞いた護衛候補の名を渡しておく必要があるの。」
「手伝うことある?」
「あるわ。」
ミレイユは少しだけソータを見た。
「あなたは、昨日の報告内容をもう一度簡単に書き出して。」
「俺が?」
「ええ。」
「ミレイユがまとめてくれたんじゃ。」
「私がまとめたものは商会用。あなたには、あなた自身の言葉で整理してほしいの。」
ソータは不思議そうに首を傾げた。
「どうして?」
ミレイユは一瞬だけ答えに詰まった。
仕事のためなら、理由はある。
当事者の記憶を記録すること。
後で王都ギルドや村へ説明する時に齟齬を防ぐこと。
フルムーンに向けて必要な点を洗い出すこと。
だが、本当はそれだけではなかった。
ソータ自身に考えてほしかった。
自分が何を見て、何を感じ、誰に何を言われたのか。
流されるのではなく、言葉にしてほしかった。
「あなたが、何をどう受け止めたのか知るためよ。」
ソータの顔が少し真面目になった。
「分かった。」
「飾らなくていいわ。」
「うん。」
「でも、誤魔化さないで。」
「……分かった。」
その返事を聞いて、ミレイユは頷いた。
そして執務室へ入った。
◆◇◆
午前中は、驚くほど忙しかった。
アルベールは、ミレイユが実家から持ち帰った候補者名を一つずつ確認した。
北方の古い商路を知る老人商人。
辺境出身で大型盾を扱える護衛。
魔道具素材に詳しい学者崩れの鑑定人。
元傭兵で、現在は隊商警護をしている寡黙な女戦士。
どの名前にも、利点と欠点がある。
信用できるか。
ソータの能力を見せてもよいか。
フルムーンまでに動けるか。
アマゾネス砦の秘密を守れるか。
アルベールは一つずつ、丁寧に情報を整理していった。
「この盾役候補ですが、腕は確かでございます。」
「性格は?」
「義理堅い反面、金に困っております。」
「金に困っている者は、買われる可能性があるわ。」
「はい。」
「保留。」
「承知いたしました。」
次の候補へ移る。
「こちらの女戦士は、元傭兵でございます。」
「信用は?」
「契約を破った記録はございません。ただし、雇い主に対してもかなり率直に物を申す性格のようでございます。」
「悪くないわ。」
「ソータ様との相性は未知数でございます。」
「ソータは、強い女性に囲まれる運命でもあるのかしら。」
口にしてから、ミレイユは自分でわずかに顔をしかめた。
アルベールは何も言わなかった。
けれど、その沈黙が少しだけ優しかった。
「失言よ。」
「私は何も聞いておりません。」
「聞いていたでしょう。」
「お嬢様が聞いていないことにしたいなら、聞いておりません。」
ミレイユは小さく息を吐いた。
「便利な耳ね。」
「執事でございますので。」
ソータは部屋の隅の机で、紙に向かっていた。
時折、筆を止めて考え込んでいる。
その横顔は真剣だった。
ミレイユは視線を戻そうとして、戻せなかった。
ソータの髪は、昨日より少し整っている。
湯上がりの石鹸の香りももう薄れている。
ただ、そこにいるだけで、目が追ってしまう。
(腹が立つのに。)
(傷ついたのに。)
(それでも、見てしまう。)
ソータがふと顔を上げた。
視線が合う。
彼は少し困ったように笑った。
ミレイユはすぐに視線を逸らした。
(ずるい。)
(そんな顔をしないで。)
(私が許したみたいになるじゃない。)
アルベールが穏やかに言った。
「お嬢様。」
「何かしら。」
「次の候補に進めてもよろしいでしょうか。」
「ええ。」
仕事へ戻る。
戻れる。
それでも、胸の奥はずっと揺れていた。
◆◇◆
昼食は簡単に済ませた。
商会の食堂で、野菜の煮込みとパンを少し食べる。
ソータはいつもより少し静かだった。
ミレイユも、普段ほど言葉が出なかった。
向かい合って座っているのに、少し距離があるように感じる。
手を伸ばせば届く。
だが、伸ばす理由が見つからない。
ソータはスープを一口飲んだあと、遠慮がちに口を開いた。
「ミレイユ。」
「何?」
「実家で、何か言われた?」
来ると思っていた。
それでも、胸が少し跳ねた。
「仕事の話をしたわ。」
「うん。」
「護衛候補のことも、北方の古い商路のことも聞けた。」
「それ以外は?」
ソータは思ったよりまっすぐ聞いてきた。
ミレイユは少しだけ眉を上げた。
「気になるの?」
「気になる。」
「怖くないの?」
「怖い。」
「なら、聞かなければいいのに。」
「でも、聞かない方がもっと怖い。」
ミレイユは、手元の匙を置いた。
その音が小さく響く。
(逃げないと言ったから。)
(この人なりに、逃げないつもりなのね。)
それは嬉しかった。
同時に、少し困った。
今すぐ全部話せるほど、ミレイユの中では整理がついていない。
「後で話すわ。」
「うん。」
「今ここでは、話したくない。」
「分かった。」
ソータは素直に頷いた。
その素直さに、また胸が痛くなる。
「でも、一つだけ。」
「うん。」
「お母様は、かなり厳しいことを言ったわ。」
「俺のこと?」
「ええ。」
「怒ってた?」
「いいえ。」
「じゃあ、何を。」
ミレイユは少し迷った。
母の言葉をそのまま言えば、ソータは困るだろう。
いや、困ってもらわなければならないのかもしれない。
「あなたのような男を、私一人で独り占めするのは難しいと言われたわ。」
ソータの顔が固まった。
「……それは。」
「ひどい言葉でしょう。」
「うん。」
「でも、現実的でもあるの。」
ソータは言葉を失った。
ミレイユは、その顔を見て少しだけ胸が痛んだ。
責めたいわけではない。
いや、責めたい気持ちはある。
しかし、それだけをぶつけると、自分が惨めになる気もした。
「勘違いしないで。」
「うん。」
「私は納得したわけじゃないわ。」
「分かってる。」
「他の女に寛容になったわけでもない。」
「うん。」
「オルドアイを許したわけでもない。」
「うん。」
「あなたを許しきったわけでもない。」
「うん。」
ソータは一つずつ受け止めるように頷いた。
その姿が、またミレイユの胸を揺らした。
「でも、考え始めてしまったの。」
「何を?」
「知らないままでいる方がいいのか。」
ソータは目を見開いた。
「それとも、相手に会って、自分で見てから決める方がいいのか。」
「ミレイユ。」
「今はまだ、答えは出ていないわ。」
「うん。」
「だから、急かさないで。」
「急かさない。」
「それと。」
ミレイユは少しだけ視線を強くした。
「あなたも考えて。」
「俺も?」
「当然でしょう。」
「……うん。」
「私が決めるから、あなたは流されればいい、なんて話ではないわ。」
「分かってる。」
「本当に?」
ソータは少し苦しそうに息を吐いた。
「分かってなかったかもしれない。」
ミレイユは黙った。
「俺、ミレイユに許してもらえるかどうかばかり考えてた。」
「……。」
「オルドアイの気持ちも、ミレイユの気持ちも、俺の責任も、全部ちゃんと考えないといけないのに。」
「そうよ。」
「ごめん。」
「謝るのは後でもできるわ。」
ミレイユは静かに言った。
「今は、考えて。」
「うん。」
昼食の残りは、ほとんど味がしなかった。
◆◇◆
午後は物資確認に移った。
商会の倉庫には、フルムーンに向けた候補品が並べられていた。
保存食。
干し肉。
塩。
香辛料。
薬草。
布。
金属製の小道具。
革紐。
針。
鍋。
水袋。
木札。
分類箱。
簡易棚。
アマゾネス砦の倉庫事情を聞いたミレイユは、まず整理用品を重視した。
戦士の集団に華やかな贈り物だけを持っていっても意味がない。
実際に役に立つものを渡す。
しかも、それがクラウゼン商会の有用性を示す。
仕事としては、判断は明確だった。
「木札は多めに用意して。」
「分類ごとに色分けできる布紐も必要ね。」
「湿気に弱い薬草用の箱は、蓋がしっかり閉まるものを。」
「金属の針と革紐は、修繕用にまとめるわ。」
指示は次々と出る。
使用人たちは慣れた様子で動いた。
ソータも横で、収納に入れる順番や出しやすさを確認している。
彼が働いている姿を見ると、ミレイユは少し落ち着く。
ソータは、こういう時は頼りになる。
荷物の量を見て、重さを考え、道中で使う順番を想像する。
物を見る目は、商人とは違う。
けれど、物流の現場を知る者の目だった。
「この箱は、野営で先に出すから入口側に置く。」
「薬は温度変化が少ない場所にまとめたい。」
「水袋は数を分けておいた方がいいな。」
「木札は砦に着いてからすぐ出せるようにしておく。」
ソータが自然に言う。
使用人たちも、いつの間にかその指示に従っている。
ミレイユはそれを見て、母の言葉をまた思い出した。
物資を運べる。
人を飢えさせない。
軍も、貴族も、商会も欲しがる。
砦の姫も欲しがる。
(分かっているわ。)
(こんな人、放っておかれるはずがない。)
(私だって、商会としてなら絶対に手放さないもの。)
(でも、恋人としても手放したくないの。)
その二つは同じようで、まったく違う。
商会としてなら、契約で縛る。
条件を整え、利益を示し、相手の不満を減らす。
だが、恋人としては。
(契約書で、好きでいろとは言えない。)
(契約書で、他の女を見るなとは書けない。)
(書きたいけれど。)
自分で思って、少し情けなくなった。
その時、使用人が一つの箱を開けた。
中には赤い上質な布が入っていた。
深い赤。
焚き火の光にも、月明かりにも映えそうな色。
強い女に似合う色。
ミレイユの手が止まった。
「それは?」
「アマゾネス砦への贈答候補として、アルベール様が用意された布です。」
使用人が答える。
ミレイユは布を見つめた。
綺麗な布だった。
森の姫が身にまとえば、きっと映える。
褐色の肌に、赤い布。
鍛えられた体。
濃い髪。
獣のように鋭い目。
まだ会ったこともないのに、想像できてしまった。
(嫌だわ。)
(似合うと思ってしまった。)
(悔しい。)
ソータが近づいてくる。
「ミレイユ?」
「何でもないわ。」
声が少し硬くなった。
ソータは布を見た。
そして、ミレイユの顔を見た。
「それ、オルドアイへの?」
「砦への贈答品候補よ。」
「そっか。」
「姫に渡す可能性もあるわ。」
「うん。」
ソータはそれ以上何も言わなかった。
その沈黙が、またミレイユを刺した。
「似合うと思った?」
言ってから、後悔した。
聞きたくない。
でも、聞いてしまった。
ソータは少し困った顔をした。
「たぶん、似合うと思う。」
正直だった。
痛いくらい。
ミレイユは布へ視線を戻した。
「でしょうね。」
「ミレイユ。」
「いいの。」
「でも。」
「仕事よ。」
ミレイユは布を手に取った。
手触りは滑らかで、上等だった。
「相手は砦の姫。初めて正式に訪問するなら、こちらの格と敬意を示す必要があるわ。」
「うん。」
「粗末な品を持っていけば侮辱になる。」
「うん。」
「似合うものを選ぶのも、商人の仕事よ。」
「ミレイユはすごいな。」
その言葉に、ミレイユの胸がまた痛んだ。
「すごくなんてないわ。」
「でも、嫌なのにちゃんと考えてる。」
「当たり前でしょう。」
「当たり前じゃないと思う。」
ソータの声は静かだった。
ミレイユは布を握ったまま、しばらく動けなかった。
(やめて。)
(そんなふうに言われたら、怒りにくくなる。)
(私はまだ怒っていたいのに。)
ミレイユは深く息を吸った。
「この布は候補に入れるわ。」
「うん。」
「ただし、ソータ。」
「はい。」
「あなたは、これを見て不用意に彼女を思い出さないこと。」
「無茶じゃない?」
「無茶でも努力しなさい。」
「はい。」
ソータが素直に返事をした。
ミレイユは少しだけ笑いそうになり、堪えた。
◆◇◆
夕方になる頃、物資確認は一通り終わった。
使用人たちが荷を倉庫へ戻し、明日以降の追加手配を書き留める。
アルベールは天文暦の確認結果を持ってきた。
「お嬢様。」
「分かったの?」
「はい。二つの月が同時に満ちる日は、およそ十七日後でございます。」
ソータが目を丸くした。
「思ったより近いな。」
「ええ。」
ミレイユは紙を受け取った。
「準備期間は短いわね。」
「護衛の選定、村への連絡、物資整理、北の森への移動を考えると、余裕はございません。」
「分かったわ。」
ミレイユはすぐに指示を出した。
「王都ギルドへの連絡を急いで。」
「かしこまりました。」
「村長への手紙も今日中に下書きするわ。」
「はい。」
「リーナさんへの手紙は私が別に書く。」
「承知いたしました。」
「それから、贈答品の候補は明日の朝に最終確認。」
「はい。」
仕事が積み上がる。
しかし、忙しさは今のミレイユにはありがたかった。
手を動かしていれば、考えすぎずに済む。
考えすぎずに済むはずだった。
だが、アルベールが静かに言った。
「お嬢様。」
「何?」
「お疲れのご様子です。」
「疲れていないわ。」
「そう言う時ほど、疲れておられます。」
ミレイユはため息を吐いた。
「あなたもお母様みたいなことを言うのね。」
「長年お仕えしておりますので。」
「私は仕事があるの。」
「仕事はございますが、お嬢様が倒れればすべて止まります。」
「倒れないわ。」
「恋の疲労は、帳簿の疲労より厄介でございます。」
ミレイユの動きが止まった。
ソータも気まずそうに視線を逸らす。
「アルベール。」
「はい。」
「余計なことよ。」
「承知しております。」
「承知しているなら言わないで。」
「申し訳ございません。」
まったく申し訳なさそうではなかった。
アルベールは穏やかに続けた。
「ただ、一つだけ。」
「まだ言うの?」
「はい。」
ミレイユは睨んだが、アルベールは涼しい顔だった。
「お嬢様は、すべてをご自身の中で処理しようとなさいます。」
「……。」
「それは商人としては美点でございます。」
「……。」
「しかし、伴侶となる相手がいるなら、相手にも背負わせるべきでございます。」
ソータが小さく息を呑んだ。
ミレイユは黙った。
「ソータ様。」
「はい。」
「お嬢様はお強い方ですが、万能ではございません。」
「はい。」
「お嬢様が考え、判断し、許すか許さぬかを決めるとしても、それを一人で背負わせてはなりません。」
「……はい。」
ソータの返事は重かった。
ミレイユは胸が揺れた。
母にも似たようなことを言われた。
そして昼にも、自分でソータに言った。
あなたも考えて、と。
だが、改めてアルベールに言われると、逃げ道がなくなる。
「アルベール。」
「はい。」
「今日は本当に余計なことが多いわ。」
「お嬢様に必要かと存じまして。」
「……。」
「お叱りは後ほどお受けいたします。」
アルベールは優雅に礼をした。
「では、私は手紙の手配に移ります。」
そう言って、部屋を出ていった。
残されたミレイユとソータの間に、少し気まずい沈黙が落ちた。
◆◇◆
夜。
仕事を終えたあと、ミレイユはソータを自分の部屋へ呼んだ。
窓の外には、グランデリアの灯りが点々と広がっている。
空には二つの月が浮かんでいた。
まだ満ちきってはいない。
だが、昨日よりも少し丸い。
フルムーンまで十七日。
その数字が、ミレイユの胸に重くのしかかっていた。
ソータは部屋の中央に立っていた。
どこか落ち着かない様子だった。
ミレイユは椅子に座り、彼にも向かいの椅子を示した。
「座って。」
「うん。」
ソータが座る。
二人の間に小さな机がある。
それが、少しだけ距離を作っている。
ミレイユはしばらく窓の外を見た。
それから、ゆっくり口を開いた。
「今日、お母様に言われたことを話すわ。」
「うん。」
「あなたのような男は、独り占めするのは難しいと言われた。」
「……うん。」
「早く本妻になりなさいとも。」
ソータが固まった。
「本妻。」
「ええ。」
「それは、その。」
「顔が赤いわ。」
「ミレイユも赤い。」
「うるさいわね。」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐにまた重くなる。
「子を作りなさいとも言われたわ。」
ソータは完全に固まった。
「こ、子。」
「繰り返さなくていいわ。」
「ごめん。」
ミレイユも顔が熱かった。
だが、ここで逃げると、何も話せなくなる。
「お母様は、子を道具にしろと言ったわけではないと思う。」
「うん。」
「でも、家を作り、未来を作り、私があなたの隣に立つ場所を固めなさいという意味だったのだと思う。」
「……。」
「恋人というだけでは、弱いのかもしれない。」
言葉にすると、胸が痛んだ。
ミレイユは続ける。
「私は、あなたの恋人であることに満足していたわ。」
「うん。」
「いいえ、満足していたというより、それで十分だと思いたかった。」
「……。」
「あなたが私を好きで、私もあなたを好きで、あなたが帰ってきてくれるなら、それでいいと。」
「それは、間違ってないと思う。」
「そうね。」
ミレイユは頷いた。
「間違ってはいない。」
「……。」
「でも、それだけでは足りない場面が来るのかもしれない。」
「オルドアイのこと?」
「それもあるわ。」
「……。」
「でも、きっと彼女だけではない。」
ミレイユはソータを見た。
「あなたの力に気づく人は、これから増える。」
「……うん。」
「あなたを欲しがる人も、増える。」
「それは、物資輸送とか、そういう意味で。」
「最初はそうでしょうね。」
「……。」
「でも、人は便利な力だけを求めるわけではないわ。」
ソータは黙った。
「あなたは、荷物を運ぶだけではない。」
「……。」
「人の不安を減らす。」
「……。」
「道を作る。」
「……。」
「誰かの生活を変える。」
「……。」
「だから、力だけではなく、あなた自身を欲しがる人が出てくる。」
ソータは俯いた。
ミレイユは、彼を責めているわけではなかった。
だが、言葉はどうしても責めるように響く。
「ミレイユ。」
「何?」
「俺は、そんな大した人間じゃない。」
その言葉に、ミレイユは少しだけ腹が立った。
「それをまた言うの?」
「ごめん。」
「あなたが自分を軽く見るたび、私たちは対策を誤るの。」
ソータは顔を上げた。
「あなたが自分をただの運送屋だと思うのは自由よ。」
「……。」
「でも、周りはもうそう見ていない。」
「……。」
「私も、ただの運送屋としては見ていない。」
ソータの目が揺れた。
「あなたは、私の恋人。」
「うん。」
「そして、クラウゼン商会にとって重要な協力者。」
「うん。」
「村にとって命綱。」
「……。」
「リーナさんにとっては、父を連れて帰ってきた人。」
「……。」
「アマゾネス砦にとっては、喉から手が出るほど欲しい男。」
最後の言葉に、ミレイユ自身が胸を痛めた。
ソータも苦しそうな顔をした。
「だから、あなたは考えなければならない。」
「うん。」
「誰に求められても、どこに立つのか。」
「うん。」
「誰を大切にするのか。」
「うん。」
「誰の手を取るのか。」
ソータはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり言った。
「ミレイユの手は、離したくない。」
胸が揺れた。
嬉しい。
けれど、嬉しいだけでは足りない。
「それだけ?」
「それだけじゃない。」
「なら、言って。」
ソータは机の上に置かれた自分の手を見た。
大きな手。
荷を運び、道具を出し、リーナの形見を届け、オルドアイに触れた手。
ミレイユはその手を見て、胸がまた少し痛んだ。
「俺は、ミレイユを大切にしたい。」
「うん。」
「ミレイユを傷つけたくない。」
「もう傷ついたわ。」
「うん。」
「でも、続けて。」
「それでも、俺はたぶん、誰かを助けたいと思うことをやめられない。」
「……。」
「オルドアイの砦にも、困ってる人たちがいた。」
「……。」
「村にも、リーナにも、バルクさんにも、それぞれ大事なものがある。」
「……。」
「それを見たら、何もしないでいられるほど、俺は器用じゃない。」
「そうでしょうね。」
ミレイユは少し苦笑した。
「そういう人だから、私は好きになったのだもの。」
ソータの顔が少しだけ歪んだ。
「でも、それでミレイユを傷つけるなら。」
「違うわ。」
ミレイユは首を振った。
「あなたが誰かを助けることが嫌なのではない。」
「うん。」
「あなたが私を置いていくことが嫌なの。」
ソータは息を止めた。
「私に何も言わず、自分だけで決めて、自分だけで背負って、結果だけを持ち帰る。」
「……。」
「それが嫌なの。」
「……うん。」
「そして、他の女に心が揺れた時、それを私に隠そうとすることが嫌なの。」
「ごめん。」
「謝罪は聞いたわ。」
「うん。」
「次に必要なのは、どうするかよ。」
ミレイユは机の上の自分の手を見た。
少し迷ってから、その手をソータの方へ伸ばした。
ソータはすぐに気づいた。
そっと手を重ねる。
温かかった。
悔しいほど。
「ミレイユ。」
「私は、まだ答えを出せない。」
「うん。」
「オルドアイに会ってみないと分からない。」
「うん。」
「会えば、もっと傷つくかもしれない。」
「……。」
「あなたが彼女を見る目を見て、私は耐えられなくなるかもしれない。」
「……。」
「それでも、知らないまま想像に苦しむよりは、自分で見たいと思い始めている。」
ソータの手に少し力が入った。
「怖い?」
ミレイユは少しだけ笑った。
「怖いわよ。」
「ごめん。」
「また謝る。」
「ごめん。」
「だから。」
ミレイユは、手を握り返した。
「私だけに怖がらせないで。」
ソータは目を見開いた。
「あなたも怖がって。」
「……うん。」
「悩んで。」
「うん。」
「考えて。」
「うん。」
「そして、逃げないで。」
「逃げない。」
その返事は、昼よりもはっきりしていた。
ミレイユは少しだけ息を吐いた。
◆◇◆
夜がさらに深くなっていった。
窓の外の灯りが少しずつ減っていく。
二つの月は雲の隙間に見え隠れしていた。
ミレイユとソータは、しばらく手を繋いだまま黙っていた。
沈黙は重かった。
だが、昼のような距離はなかった。
ミレイユは母の言葉を思い出した。
本妻になりなさい。
子を作りなさい。
他の女に対しても、寛容にならなければならない時が来る。
そのどれも、まだ受け入れたわけではない。
けれど、完全に拒絶できなくなっている自分がいる。
(嫌よ。)
(でも、考えている。)
(嫌なのに、考えてしまっている。)
(私は変わってしまうの?)
(それとも、変わらなければ守れないの?)
ソータが小さく言った。
「本妻って。」
「何?」
「ミレイユは、なりたい?」
ミレイユはすぐには答えなかった。
言葉にすると、何かが決まってしまいそうだった。
けれど、逃げないと決めた。
「なりたいわ。」
ソータの手が少し動いた。
「あなたの隣に、曖昧ではない形で立ちたい。」
「うん。」
「他の誰かが現れた時、私が一番だと、言葉だけではなく立場でも示したい。」
「うん。」
「子供のことは……。」
頬が熱くなる。
それでも続けた。
「今すぐ決める話ではないわ。」
「うん。」
「でも、あなたとの未来を考えること自体は、嫌ではない。」
ソータの目が大きく揺れた。
ミレイユも顔が熱かった。
「ただし。」
「はい。」
「オルドアイへの対抗心だけで子供を作るようなことは、絶対にしたくない。」
「うん。」
「子供は勝負の道具ではないわ。」
「うん。」
「でも、私があなたの子を欲しいと思う気持ちと、彼女に負けたくないと思う気持ちが、今は少し混ざってしまっている。」
言ってしまった。
醜い部分まで。
ソータは黙って聞いていた。
「軽蔑する?」
ミレイユが聞くと、ソータはすぐに首を振った。
「しない。」
「本当に?」
「本当に。」
「浅ましいでしょう。」
「そうは思わない。」
「どうして?」
ソータは少し考えた。
そして、不器用に言った。
「俺も、ミレイユに誰か男が近づいたら、たぶん嫌だ。」
「……。」
「仕事相手でも、護衛でも、貴族でも。」
「……。」
「ミレイユがその人を見て、少しでも心が揺れたら、きっと苦しい。」
ミレイユは目を伏せた。
「だから、ミレイユの気持ちを浅ましいとは思えない。」
「……。」
「俺がそうさせたんだと思う。」
「全部あなたのせいにしたいわけではないわ。」
「でも、俺にも責任がある。」
「それはあるわ。」
「うん。」
ソータは逃げなかった。
ミレイユは、その姿を見て少しだけ胸がほどけた。
「ソータ。」
「うん。」
「私は、たぶんオルドアイに会うわ。」
「うん。」
「会って、話す。」
「うん。」
「彼女がどんな女か見る。」
「うん。」
「その上で、私は決める。」
「分かった。」
「でも。」
ミレイユは手を強く握った。
「あなたも決めるのよ。」
「うん。」
「優しさで流されないで。」
「うん。」
「相手を傷つけたくないからといって、曖昧にしないで。」
「うん。」
「私を安心させるためだけに、できない約束をしないで。」
「……うん。」
「そして、誰を大切にするか、自分の言葉で言って。」
ソータはミレイユを見つめた。
少し時間がかかった。
けれど、やがてはっきり言った。
「ミレイユを大切にする。」
「うん。」
「帰る場所は、ミレイユのところだ。」
「うん。」
「でも、オルドアイのことも、もう何もなかった相手にはできない。」
胸が痛んだ。
やはり痛い。
だが、ミレイユは手を離さなかった。
「そう。」
「ごめん。」
「謝らないで。」
「でも。」
「今は、正直に言ったことを受け取るわ。」
ミレイユは深く息を吸った。
「痛いけれど。」
「うん。」
「でも、嘘よりいい。」
ソータは苦しそうに頷いた。
ミレイユは、彼の手を見つめた。
この手は、自分だけのものではないのかもしれない。
そう思うと、胸が焼ける。
だが、この手を完全に閉じ込めれば、きっとソータはソータでなくなる。
(難しいわ。)
(愛するって、こんなに難しいのね。)
(商談の方がずっと簡単だわ。)
ミレイユは立ち上がった。
ソータも立ち上がろうとする。
その前に、ミレイユは机を回り込んで、彼の前に立った。
「今日は、ここまで。」
「うん。」
「でも、逃げずに聞いたことは褒めてあげる。」
「ありがとう。」
「まだ許したわけではないわ。」
「分かってる。」
「でも。」
ミレイユは少しだけ迷った。
それから、ソータの胸に額を寄せた。
「少しだけ、抱きしめて。」
ソータはすぐに腕を回した。
優しく、慎重に。
壊れ物を扱うような抱き方だった。
それが少し悔しくて、少し嬉しかった。
「もっと普通に抱きしめなさい。」
「いいの?」
「いいから言っているの。」
ソータの腕に少し力が入った。
温かい。
この温もりを、誰かと分けるなど想像したくない。
でも、想像しなければならない未来が近づいている。
ミレイユは目を閉じた。
(今は、私のもの。)
(今だけは、私のところに帰ってきた人。)
声には出さない。
出せば、あまりにも幼い独占欲のように聞こえる気がしたから。
けれど、ソータは小さく言った。
「ミレイユ。」
「何?」
「今、ここにいる。」
胸が震えた。
「分かっているわ。」
「うん。」
「でも、もう一度言って。」
「ここにいる。」
ミレイユは目を閉じたまま頷いた。
答えはまだ出ていない。
本妻という言葉も、子供という未来も、オルドアイに会う覚悟も、すべて胸の中で重く絡まっている。
それでも、今夜はソータが逃げなかった。
ミレイユも逃げなかった。
それだけが、確かな一歩だった。




