第76話:会頭代理は、母の言葉に胸を刺される
翌朝、グランデリアの空は薄く曇っていた。
雨が降るほどではない。
けれど、太陽は雲の向こうに隠れ、街全体が少しだけ柔らかい灰色に包まれている。
クラウゼン商会の馬車は、石畳の道を静かに進んでいた。
車輪が小さく軋む音が、いつもより耳に残る。
ミレイユは馬車の中で、膝の上に置いた手を見つめていた。
指先はきちんと揃えられている。
会頭代理として人前に出る時と同じ姿勢だった。
けれど、その指はほんの少しだけ強張っていた。
(落ち着きなさい。)
(今日は実家へ仕事の相談に行くだけよ。)
(フルムーンに向けて、護衛候補と資金の調整、それから北方の古い交易路について聞く。)
(それだけ。)
自分にそう言い聞かせる。
しかし、胸の奥には別の重みがあった。
昨夜のソータの報告。
北の森。
迷いの霧。
アマゾネスの砦。
リーナの父の形見。
バルクが残ったこと。
フルムーン。
そして、オルドアイ。
ソータに口づけた女。
ソータが、一度は自分からも口づけた女。
ミレイユは無意識に唇を引き結んだ。
(思い出すなと言っても、無理よ。)
(だって、聞いてしまったもの。)
(ソータの口から。)
(綺麗だったと。)
(惹かれた部分はあると。)
胸の奥が、鋭く痛んだ。
怒りだけなら、まだ楽だったかもしれない。
腹を立てて、責めて、泣いて、許さないと言えばよかった。
けれど、それだけでは済まなかった。
ソータは隠さなかった。
一度は隠そうとしたと認めたうえで、最後には話した。
それは誠実だった。
だからこそ、ミレイユは余計に苦しかった。
彼が完全に悪い男なら、突き放せたかもしれない。
けれど、ソータは違う。
弱くて、流されるところがあって、自分の価値を分かっていなくて、それでも最後にはこちらを向こうとした。
その不器用さまで知ってしまっている。
(腹が立つわ。)
(でも、嫌いになれない。)
(嫌いになれるなら、どれだけ楽だったかしら。)
馬車の窓から、実家の屋敷が見えてきた。
クラウゼン本家の屋敷は、商会の建物ほど大きくはない。
だが、古くからこの街で商売をしてきた家らしい落ち着きがあった。
門の鉄細工は控えめながら美しく、庭には季節の花が整えられている。
ミレイユは息を整えた。
ここでは娘の顔も出る。
だが、同時に商会の会頭代理としての顔も出さなければならない。
そして、母の前では、きっとどちらの顔も見抜かれる。
(仕事の話だけで済ませたいわ。)
(でも、お母様は絶対に気づく。)
馬車が止まった。
扉が開かれる。
ミレイユは姿勢を正し、屋敷の玄関へ向かった。
◆◇◆
母は、応接室で待っていた。
淡い藤色のドレスを身にまとい、背筋を伸ばして椅子に座っている。
年齢を重ねてもなお、美しさの芯が揺らいでいない女性だった。
ミレイユが商人としての目を養ったのは父からだが、人を見る目と、場を支配する呼吸は母から学んだ部分も大きい。
母はミレイユを見ると、柔らかく微笑んだ。
「いらっしゃい、ミレイユ。」
「お久しぶりです、お母様。」
ミレイユは丁寧に礼をした。
母はその姿をしばらく眺め、すぐに目を細めた。
「仕事の顔ね。」
「今日は仕事の相談に参りましたから。」
「そう。」
母は頷いた。
しかし、その微笑みは消えなかった。
「でも、仕事だけの顔ではないわ。」
早い。
あまりにも早い。
ミレイユは表情を崩さないように努めた。
「何のことでしょうか。」
「あなたがそんなふうに指先を揃える時は、大抵、腹の中が乱れている時よ。」
ミレイユは膝の上の手を見た。
無意識に、指先へ力が入っている。
(本当に嫌になるわ。)
(どうしてすぐに分かるのかしら。)
母は侍女に茶を用意させ、二人きりになるよう目で合図した。
侍女が静かに退室する。
扉が閉まる音が、妙に大きく聞こえた。
母は改めてミレイユを見た。
「さて、仕事の話から聞きましょうか。」
「はい。」
ミレイユは鞄から書類を取り出した。
北の森で確認されたアマゾネス砦の存在。
迷いの霧。
霧導きの石。
フルムーン。
北の部族村への移動支援。
村を中継地とした交易の可能性。
護衛体制の見直し。
話すべきことは多かった。
母は、途中で口を挟まずに聞いていた。
ただし、重要な箇所では小さく頷き、時折だけ短く質問を入れた。
「その砦は、外との取引を望んでいるのかしら。」
「明確に望んでいるわけではありません。」
「でも、物資管理に課題があり、外の品への需要はありそうなのね。」
「はい。」
「ソータさんの能力を見たのね。」
「見ました。」
「では、欲しがられたでしょうね。」
ミレイユの喉が、わずかに詰まった。
「……はい。」
母は茶器を持ち上げたまま、ミレイユの顔を見た。
その目は優しい。
けれど、逃がさない。
「仕事の相談は、そこが本題ではなさそうね。」
「お母様。」
「違うの?」
ミレイユは答えなかった。
答えなかったことが、答えになっていた。
母は茶を一口飲み、静かに置いた。
「アマゾネスの姫がいたのね。」
ミレイユの胸が跳ねた。
「……どうして、そこまで。」
「話の流れよ。」
母は穏やかに言った。
「閉ざされた戦士の集団。外から来た希少な能力を持つ男。しかも、物資を運び、倉庫を整え、野営も支えられる男。長か姫が目をつけない方が不自然だわ。」
ミレイユは唇を噛みそうになり、かろうじて堪えた。
「その姫の名は、オルドアイと言います。」
「強い方?」
「ええ。」
「美しい方?」
ミレイユは一瞬だけ目を伏せた。
昨夜のソータの声が蘇る。
「綺麗な人でした。」
その言葉。
正直で、だからこそ痛かった言葉。
「ソータは、そう言いました。」
母は少しだけ目を細めた。
「そう。」
「彼女はソータを婿に欲しがりました。」
「でしょうね。」
「フルムーンにも来るようにと言いました。」
「ええ。」
「そして……。」
言葉が止まる。
母は待っている。
ミレイユが自分の口で言うまで、決して先に触れないつもりなのだろう。
ミレイユは膝の上の指を握った。
「ソータに、口づけました。」
部屋の空気が少しだけ重くなった。
「ソータも、一度は自分からしたそうです。」
最後まで言い切ると、胸の中に残っていた熱がこみ上げてきた。
怒りなのか、悔しさなのか、悲しさなのか分からない。
ただ、目の奥が熱い。
母はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「あなたは、それをソータさんの口から聞いたのね。」
「はい。」
「隠されなかった。」
「一度は隠そうとしたそうです。」
「でも、話した。」
「はい。」
「それで、あなたは怒った。」
「当然です。」
ミレイユの声は、自分でも思ったより強かった。
「私は彼の恋人です。」
「ええ。」
「待っていたのは私です。」
「そうね。」
「帰ってきてほしかったのも私です。」
「ええ。」
「なのに、帰ってきた彼から、他の女に惹かれたと聞かされました。」
声が震えた。
それでも止められなかった。
「お母様、私はそんなにできた女ではありません。」
「知っているわ。」
「平気な顔なんてできません。」
「ええ。」
「許したわけでもありません。」
「そうでしょうね。」
「でも……。」
そこから先の言葉が出なかった。
母はゆっくり身を乗り出した。
「でも、嫌いにはなれなかった。」
ミレイユは目を伏せた。
それが答えだった。
「……はい。」
母は小さく息を吐いた。
責めるための息ではなかった。
娘の痛みを、いったん自分の中へ受け止めるような息だった。
◆◇◆
しばらく、茶器の中で湯気だけが揺れていた。
ミレイユはそれを見つめていた。
目を逸らしているのだと、自分でも分かっていた。
母は静かに言った。
「ミレイユ。」
「はい。」
「厳しいことを言うわ。」
ミレイユの肩がわずかに強張った。
「ソータさんのような男を、あなた一人で独り占めすることは、おそらくできないわ。」
その言葉は、刃のように胸へ入ってきた。
ミレイユは顔を上げた。
「お母様。」
「怒ってもいいわ。」
「怒っています。」
「そうでしょうね。」
「どうして、そんなことを言うのですか。」
声が震える。
娘の声だった。
会頭代理の声ではなかった。
「私は彼を独り占めしたいです。」
「ええ。」
「当たり前でしょう。」
「当たり前よ。」
「なら、どうして。」
母はまっすぐミレイユを見た。
「当たり前の願いと、叶う現実は違うからよ。」
ミレイユは息を呑んだ。
「ソータさんは、ただ優しいだけの男ではないわ。」
「分かっています。」
「いいえ、まだ足りないわ。」
母の声は穏やかだった。
けれど、そこには商人の家を長く見てきた者の重みがあった。
「彼の力は、商会にとっても、村にとっても、王国にとっても、辺境の民にとっても価値がある。」
「……。」
「物資を運べる。」
「……はい。」
「倉庫を丸ごと整えられる。」
「はい。」
「人を飢えさせない。」
「はい。」
「負傷者を助けられる。」
「はい。」
「軍が欲しがる。」
ミレイユの指がぴくりと動いた。
「貴族が欲しがる。」
「……。」
「商会が欲しがる。」
「はい。」
「そして、閉ざされた砦の姫も欲しがる。」
ミレイユは目を閉じた。
聞きたくない。
でも、母の言葉はあまりにも現実だった。
「あなたがソータさんを愛していることは分かるわ。」
「はい。」
「ソータさんも、あなたを大切に思っているのでしょう。」
「そうだと、思います。」
「そこを疑いすぎてはいけないわ。」
ミレイユは唇を噛んだ。
「でも、それだけで周囲が諦めると思う?」
答えられない。
母は続けた。
「力のある男には、人も縁も集まるわ。」
「縁……。」
「そうよ。」
「ただの恋敵なら、追い払えばいいでしょう。」
「……。」
「でも、相手が村の未来を背負っていたら。」
「……。」
「相手が砦の姫で、民のために彼を求めていたら。」
「……。」
「相手が王国そのものになったら。」
ミレイユは胸を押さえたくなった。
ソータを、ただ一人の恋人として見ていたい。
自分の部屋で不器用に謝る男として、湯気の中で困った顔をする男として、抱きしめれば温かい男として見ていたい。
けれど、世界はもう彼をそう見てはくれない。
(嫌よ。)
(そんなの、嫌に決まっている。)
(ソータは、私が見つけたのに。)
(私が支えてきたのに。)
(私のところへ帰ってくると言ったのに。)
母は、ミレイユの沈黙を責めなかった。
ただ、静かに言った。
「だからこそ、あなたは早く立場を固めなければいけない。」
「立場……。」
「本妻になるの。」
ミレイユの頬がかっと熱くなった。
「お母様。」
「恥ずかしがる話ではないわ。」
「十分に恥ずかしいです。」
「そうね。」
母は少しだけ笑った。
その笑みは優しかったが、話を緩める気はなさそうだった。
「でも、大事な話よ。」
「……。」
「早く子を作りなさい。」
「お母様!」
ミレイユは思わず声を上げた。
母はまったく動じなかった。
「大声を出しても、現実は変わらないわ。」
「そんな、簡単に言わないでください。」
「簡単には言っていないわ。」
母の目が、少しだけ深くなった。
「女が子を持つということが、どれほど重いことか、私は知っているもの。」
ミレイユは言葉を失った。
「それでも言うの。」
「……。」
「あなたが本当にソータさんの隣に立ちたいなら、恋人という曖昧な位置に満足していては駄目。」
「曖昧……。」
「ええ。」
「私たちは、遊びではありません。」
「分かっているわ。」
「ソータも、私を大切にしてくれています。」
「それも分かっているわ。」
「なら。」
母は静かに首を振った。
「大切にされていることと、守られる立場が固まっていることは違うの。」
ミレイユの胸が、また痛んだ。
「あなたは会頭代理よ。」
「はい。」
「商談で口約束だけを信じる?」
「信じません。」
「相手が誠実そうだからといって、契約書なしで大きな取引を進める?」
「進めません。」
「では、どうして自分の恋だけは、気持ちだけで足りると思うの?」
言葉が出なかった。
母の言い方は冷たくはない。
だが、逃げ道がない。
(ずるいわ。)
(仕事の例えを出されたら、反論しにくいじゃない。)
ミレイユは小さく息を吸った。
「私は、ソータを縛りたいわけではありません。」
「ええ。」
「でも、奪われたくありません。」
「そうでしょうね。」
「他の女に寛容になれと言われても、簡単には無理です。」
「当たり前よ。」
母は即座に答えた。
「簡単にできるなら、それは愛ではなくて計算だけだわ。」
ミレイユは少しだけ目を見開いた。
「嫉妬していいのよ。」
「……。」
「腹を立てていい。」
「……。」
「泣いてもいい。」
「……。」
「ただ、嫉妬だけで動いてはいけない。」
母の声が少しだけ厳しくなった。
「嫉妬だけで動けば、あなたは相手を見ずに敵を増やす。」
「……。」
「怒りだけでソータさんを縛れば、彼は苦しくなる。」
「……。」
「我慢だけで笑えば、あなたが壊れる。」
ミレイユは膝の上で手を握りしめた。
「では、どうすればいいのですか。」
母はすぐには答えなかった。
窓の外で、庭の木の葉が風に揺れている。
曇り空の光が、応接室の床に淡く落ちていた。
「あなたが、選ぶ側になりなさい。」
「選ぶ側……。」
「知らないところで奪われる女になってはいけない。」
ミレイユの胸が冷たくなった。
「あなたが見て、判断して、許すか拒むか決めるの。」
「相手に会えと?」
「必要なら。」
「オルドアイに?」
「ええ。」
母は穏やかに頷いた。
「あちらの姫が、ただ欲に任せてソータさんを求めているのか。」
「……。」
「それとも、民の未来を背負って、本気で彼を必要としているのか。」
「……。」
「そして、一人の女として彼をどう見ているのか。」
「……。」
「見なければ分からないわ。」
ミレイユは、昨夜のソータの言葉を思い出した。
オルドアイは、最後には一人の女として恥じらったのだと。
怖がりながら、それでもソータを求めたのだと。
その話を聞いた時、ミレイユは腹が立った。
しかし同時に、少しだけ想像してしまった。
強い姫が、砦の長の娘が、誰かを欲しいと真剣に願う姿を。
想像してしまったこと自体が悔しかった。
(会えば、もっと傷つくかもしれない。)
(もし本当に強くて美しい人だったら。)
(もしソータが、彼女を見る目を私の前で少しでも変えたら。)
(私は耐えられるの?)
母はミレイユの沈黙を読んだように言った。
「知らないままにする道もあるわ。」
ミレイユは顔を上げた。
「知らないまま……。」
「ええ。」
「相手が誰であれ、あなたの前ではソータさんがあなたの夫でいる。」
「……。」
「外で何があったかは、聞かない。」
「……。」
「本妻として家を守り、子を守り、商会を守る。」
「……。」
「そういう女もいるわ。」
ミレイユの胸がざわめいた。
知らなければ傷つかない。
そうかもしれない。
知らない場所で、知らない女と何かがあっても、自分の前でソータが変わらないなら、それでいいと考える道。
商家や貴族家なら、珍しい話ではない。
だが。
(本当に?)
(私は、それでいいの?)
(知らない女の香りを、ある日ソータがまとって帰ってきたら?)
(私は笑って迎えられる?)
(何も聞かずに?)
昨夜のことを思い出す。
ソータが帰ってきた時、ミレイユは匂いで気づいた。
女の香油。
甘い酒。
湯上がりの肌。
あの瞬間、胸の奥が燃えるように熱くなった。
知らないままなど、きっと無理だ。
少なくとも今の自分には。
「私は……。」
ミレイユは小さく言った。
「知らないままでいる方が楽かもしれないと、一瞬思いました。」
「ええ。」
「でも、たぶん無理です。」
「どうして?」
「想像してしまうからです。」
声が震える。
それでも言った。
「知らない女を。」
「……。」
「ソータが誰かを見る顔を。」
「……。」
「私の知らない場所で、私の知らない言葉を交わすところを。」
「……。」
「きっと、勝手に想像して、勝手に苦しみます。」
母は静かに聞いていた。
「なら、会う方がいいのかもしれません。」
言った瞬間、胸が苦しくなった。
認めたくなかった。
会いたくなどない。
ソータを欲しがる女の顔など、見たくない。
まして、ソータが惹かれたと言った女など。
けれど、知らないまま怯えるよりは、見た方がいいのかもしれない。
傷つくとしても、自分の目で。
自分の判断で。
母はゆっくり頷いた。
「それが、あなたらしいわ。」
「褒めているのですか。」
「ええ。」
「全然、嬉しくありません。」
「そうでしょうね。」
母は少し笑った。
ミレイユは笑えなかった。
◆◇◆
話が一度途切れ、侍女が新しい茶を運んできた。
母は何事もなかったように礼を言い、侍女を下がらせた。
ミレイユは茶器を手にしたが、飲む気にはなれなかった。
温かさだけが指に伝わる。
母は少し声を柔らかくした。
「ミレイユ。」
「はい。」
「あなたは、ソータさんを愛しているのね。」
「……はい。」
その返事だけは、迷わなかった。
「腹が立っても?」
「はい。」
「傷ついても?」
「はい。」
「他の女に心が揺れたと聞いても?」
胸が痛む。
それでも、答えは変わらなかった。
「はい。」
母は優しく目を細めた。
「なら、強くなりなさい。」
「もう十分、強いつもりでした。」
「商人としてはね。」
「では、女としては弱いと?」
「弱くていいのよ。」
思いがけない言葉だった。
「弱いまま、折れない方法を覚えなさい。」
ミレイユは黙った。
「強い女というのは、何も感じない女のことではないわ。」
「……。」
「嫉妬して、傷ついて、泣きたいほど悔しくても、それでも自分の立つ場所を決められる女のことよ。」
ミレイユは茶器を握ったまま、視線を落とした。
(自分の立つ場所。)
(私は、どこに立ちたいの?)
(ソータの隣?)
(商会の前?)
(本妻として?)
(それとも、ただの恋人として抱きしめられていればいいの?)
答えは、すぐには出なかった。
ただ、一つだけ分かる。
ソータの隣を、誰かに譲りたくはない。
帰る場所だと言われるだけで満足できるほど、自分は達観していない。
けれど、彼を閉じ込めるだけの女にもなりたくない。
母は言った。
「早く子を作りなさいと言ったけれど、それは急かしたいだけではないの。」
「……。」
「子は、縛る道具ではないわ。」
「それは分かっています。」
「ええ。」
「でも、さっきのお母様の言い方は、そう聞こえました。」
「そうね。」
母は少しだけ反省したように息を吐いた。
「言い方が商家の女すぎたかもしれないわ。」
「かなり。」
「でも、子を持つということは、家を作るということでもあるの。」
ミレイユは母を見る。
「恋人同士は、二人の気持ちで繋がる。」
「はい。」
「夫婦は、暮らしで繋がる。」
「……。」
「子を持てば、未来で繋がる。」
「未来……。」
「ソータさんのように多くの縁を運んでしまう男には、帰る場所だけではなく、帰る未来が必要になるわ。」
ミレイユの胸が、少しだけ揺れた。
帰る場所。
帰る未来。
ソータが遠くへ行くたび、帰ってこられる場所を作りたいと思っていた。
でも、それだけでは足りないのかもしれない。
彼が戻るたびに、そこに積み重なっていくもの。
明日も、その先も続くもの。
そういうものを、自分が作れるのか。
(子供。)
(ソータとの子。)
想像した瞬間、顔が熱くなった。
昨夜、ソータを抱きしめた感触が蘇る。
湯気の中で謝る顔。
自分の腕の中に戻ってきた温もり。
そして、今夜もここにいると言った声。
(嫌ではない。)
(むしろ、欲しいと思ってしまう。)
(けれど、それはオルドアイに勝つためであってはいけない。)
(でも、勝ちたいと思ってしまう。)
(私は、なんて浅ましいのかしら。)
ミレイユは胸の中で、自分を責めた。
すると、母が静かに言った。
「悪い顔をしているわね。」
「え?」
「自分を責めている顔。」
ミレイユは言葉に詰まった。
母は微笑む。
「少しくらい浅ましくてもいいのよ。」
「お母様。」
「恋は綺麗な感情だけではできていないわ。」
「……。」
「独占したい。」
「……。」
「勝ちたい。」
「……。」
「選ばれたい。」
「……。」
「誰よりも近くにいたい。」
「……。」
「それらを全部なくしたら、恋ではなくなるわ。」
ミレイユの目の奥が熱くなった。
泣きたくなどない。
だが、母の言葉は、責めていた自分の一部をそっと許してしまった。
「醜くありませんか。」
「醜い日もあるわ。」
母は正直に言った。
「でも、それをどう扱うかで、その人の品が決まるの。」
「品……。」
「嫉妬を相手への侮辱に変えるのか。」
「……。」
「怒りをソータさんへの支配に変えるのか。」
「……。」
「それとも、自分の立つ場所を決める力に変えるのか。」
「……。」
「そこから先は、あなた次第よ。」
ミレイユはゆっくり息を吐いた。
胸の中の痛みは消えない。
むしろ、はっきり形を持って残っている。
けれど、ただ刺さっているだけではなくなった。
それは考えるべき問題として、重い荷として、ミレイユの中に置かれた。
◆◇◆
仕事の相談も、ようやく具体的な話へ戻った。
母は護衛候補について、いくつかの名を挙げた。
北方への古い商路を知る老人商人。
辺境出身の護衛。
魔道具に詳しい知人。
どれもすぐに使える情報ではないが、フルムーンに向けて調べる価値はある。
ミレイユはいつものように要点を記した。
手は動く。
頭も働く。
しかし、胸の奥では母の言葉が何度も響いていた。
独り占めは難しい。
本妻になりなさい。
子を作りなさい。
知らないところで奪われる女になってはいけない。
あなたが見て、選び、決めるの。
書類の文字が、一瞬だけ滲んだ。
ミレイユは瞬きをして、それを誤魔化した。
母は気づいていたかもしれない。
だが、何も言わなかった。
相談が終わる頃には、昼を過ぎていた。
曇り空は少しだけ明るくなっている。
庭の花に、淡い光が差していた。
ミレイユは立ち上がった。
「今日はありがとうございました、お母様。」
「ええ。」
「いただいた情報は、商会で精査します。」
「そうしなさい。」
母も立ち上がった。
そして、ミレイユの前まで歩いてきた。
「最後に一つだけ。」
「まだあるのですか。」
「あるわ。」
母はミレイユの頬にそっと手を添えた。
その手は温かかった。
会頭代理ではなく、娘に触れる手だった。
「無理に物分かりのいい女にならなくていいの。」
ミレイユの胸が詰まった。
「でも、何も見ない女にもなってはいけない。」
「……はい。」
「あなたは賢い子よ。」
「……。」
「でも、恋をすると賢さだけでは足りなくなる。」
「それは、最近よく分かります。」
母は小さく笑った。
「なら、学びなさい。」
「何をですか。」
「愛し方を。」
ミレイユは何も言えなかった。
「商売は得意でしょう。」
「はい。」
「交渉も得意でしょう。」
「それなりに。」
「なら、愛でも逃げずに交渉しなさい。」
「愛で交渉……。」
「相手と。」
「……。」
「ソータさんと。」
「……。」
「そして、自分自身と。」
その言葉は、深く胸に残った。
母は手を離した。
「行きなさい。」
「はい。」
「ソータさんをただ責めるのではなく、ちゃんと話しなさい。」
「……努力します。」
「努力ではなく、しなさい。」
ミレイユは少しだけ苦笑した。
「お母様には敵いませんね。」
「まだまだよ。」
母は微笑んだ。
その笑顔は優しく、そして恐ろしいほど強かった。
◆◇◆
帰りの馬車の中で、ミレイユは窓の外を見ていた。
グランデリアの街並みが流れていく。
商人たちが荷を運び、店先で声を張り、子どもたちが道端を走っている。
世界はいつも通り動いていた。
自分の胸の中だけが、大きく形を変えようとしている。
(独り占めは難しい。)
母の言葉が、また浮かぶ。
腹が立つ。
今でも腹が立つ。
それを受け入れたわけではない。
ソータを誰かと分け合うなど、考えるだけで胸が焼ける。
(嫌よ。)
(当然じゃない。)
(私は、ソータが好きなの。)
(私だけを見てほしい。)
(私だけに触れてほしい。)
(私だけの名前を呼んでほしい。)
その願いは、少しも薄れていない。
むしろ、強くなっている。
けれど、別の声もある。
(でも、本当に私だけで守れるの?)
(ソータの力を欲しがる者は、これからもっと増える。)
(オルドアイだけではない。)
(貴族も、軍も、王国も、きっといずれ気づく。)
(その時、私は恋人の顔だけで立っていられる?)
ミレイユは胸元の飾りに触れた。
商会の会頭代理として身につけている、小さな金細工。
これは責任の印でもある。
父から渡された時、彼女は誇らしかった。
今は、それが少し重い。
(本妻。)
(子供。)
(未来。)
頬が熱くなる。
同時に、胸が苦しくなる。
ソータとの子を想像すること自体は、嫌ではなかった。
小さな手。
ソータに似た優しい目。
自分に似た負けん気の強さ。
そんなものを想像して、胸が温かくなる自分がいる。
だが、それをオルドアイへの対抗心と結びつけてしまう自分もいる。
(最低ね。)
(でも、これも私なのね。)
ミレイユは目を閉じた。
知らないままにする道。
会って判断する道。
どちらも痛い。
どちらも怖い。
知らなければ、想像に苦しむ。
会えば、現実に傷つくかもしれない。
それでも、自分はたぶん会う方を選ぶ。
知らないまま奪われるくらいなら、自分の目で見たい。
オルドアイがどんな女なのか。
ソータをどう見ているのか。
ソータが彼女をどう見るのか。
(怖い。)
(でも、逃げたくない。)
(逃げたら、負けた気がする。)
(誰に?)
(オルドアイに?)
(お母様に?)
(違うわ。)
(自分に。)
馬車が商会へ近づいていく。
ミレイユは目を開けた。
まだ答えは出ていない。
許すつもりもない。
寛容になれたわけでもない。
ただ、考え始めてしまった。
それだけで、昨日までの自分とは違う。
◆◇◆
クラウゼン商会へ戻ると、玄関前でソータが待っていた。
彼は使用人と何かを話していたが、ミレイユの馬車に気づくと、すぐにこちらを向いた。
その顔には、分かりやすい安堵と、少しの不安が浮かんでいる。
ミレイユは馬車から降りた。
ソータが近づいてくる。
「おかえり、ミレイユ。」
「ただいま。」
「実家、どうだった?」
「仕事の話は進んだわ。」
「そっか。」
ソータは少しだけほっとした顔をした。
しかし、すぐにミレイユの顔を見て、表情を変える。
「疲れてる?」
「少しね。」
「大丈夫?」
その声は本当に心配している声だった。
ミレイユは胸が痛くなった。
この人は、こういうところがずるい。
誰かを不安にさせておきながら、同じ口で真っ直ぐ心配してくる。
(好きよ。)
(腹が立つくらい。)
ミレイユは一歩近づいた。
人目があるので、抱きしめはしない。
ただ、ソータの袖を軽く摘んだ。
「後で、少し話があるわ。」
ソータの肩がぴくりと動いた。
「えっと、怖い話?」
「怖いかどうかは、あなた次第ね。」
「それは怖いやつだ。」
ミレイユは少しだけ笑った。
その笑みは、まだ完全には柔らかくない。
けれど、昨日の痛みだけでもない。
「逃げないで。」
ソータは真面目な顔になった。
「逃げない。」
その返事を聞いて、ミレイユは小さく頷いた。
(そうよ。)
(逃げないで。)
(私も逃げないから。)
商会の中へ入る前に、ミレイユは曇り空を一度だけ見上げた。
雲の隙間から、細い光が差している。
まだ晴れではない。
けれど、完全な曇りでもない。
その空は、今のミレイユの胸に少し似ていた。
痛みも、怒りも、不安もある。
けれど、その隙間に、何かを選ぼうとする光が差し始めていた。
ミレイユはソータの隣を歩いた。
まだ答えは出ていない。
だが、少なくとも一つだけ決めた。
(知らないまま泣く女には、ならない。)
(私は見る。)
(考える。)
(選ぶ。)
(そして、ソータの隣に立つ。)
その決意は、甘くはなかった。
むしろ苦く、重かった。
それでも、ミレイユはその重さを胸に抱えたまま、商会の扉をくぐった。




