第75話:商会の報告会は、湯上がりの運送屋を逃がさなかった
風呂から上がったソータは、用意されていた清潔な服に袖を通した。
肌には、商会で使われている石鹸の香りが残っている。
森の湿った匂いも、砦の煙の匂いも、アマゾネスたちの香油の匂いも、少なくとも自分では分からないくらいには落ちていた。
(これで大丈夫……だよな。)
(いや、ミレイユの嗅覚が怖すぎて自信がない。)
ソータは襟元を軽く嗅いでみた。
石鹸の香り。
少しだけ湯気の匂い。
女戦士の匂いは、ないと思う。
たぶん。
扉の外で待っていた使用人が、丁寧に頭を下げた。
「ソータ様、ミレイユ様がお待ちです。」
「はい。」
ついに本番だ。
風呂場でかなり話した。
リーナの父のこと。
アマゾネス砦のこと。
オルドアイとのこと。
キスのことまで。
それでも、商会としての報告はまだ終わっていない。
むしろ、今からが正式な報告会だった。
(もう隠すことはない。)
(いや、細かいことまで言い出したらきりがないけど。)
(でも、聞かれたら答える。)
(逃げない。)
ソータはそう心に決め、廊下を歩いた。
商会の奥にある会議室へ向かう。
ここへ来るのも、何度目か分からない。
だが、今日の足取りはいつもより重い。
扉の前で一度深呼吸する。
使用人が扉を開けた。
「ソータ様がお見えです。」
中には、ミレイユが座っていた。
湯浴みの後だからか、髪は少しだけ緩くまとめられている。
だが、服はすでに会頭代理のものに着替えていた。
表情も、恋人のものから商人のものへ戻っている。
いや、完全に戻ってはいない。
目の奥に、まだ先ほどの怒りと痛みが残っている。
それでも彼女は、仕事の席に座る者として背筋を伸ばしていた。
その横にはアルベールが立っている。
いつも通り、穏やかな笑みを浮かべている。
だが、目が怖い。
すべてを知っているわけではないはずなのに、すでに大半を察しているような目だった。
(この執事、本当に怖い。)
「ソータ様。お戻りなさいませ。」
「ただいま戻りました、アルベールさん。」
「ご無事で何よりでございます。」
アルベールは優雅に頭を下げた。
その後、ちらりとミレイユを見る。
「お嬢様も、大変ご安心なさっておられました。」
「アルベール。」
ミレイユの声が少しだけ低くなる。
「はい。余計なことでした。」
全然反省していない顔だった。
ソータは椅子に座るよう促され、ミレイユの正面に座った。
机の上には、紙と筆記具が用意されている。
正式な報告を書き留めるためだろう。
紅茶も置かれている。
湯気が立っていた。
ミレイユが静かに口を開いた。
「では、改めて報告を聞くわ。」
「はい。」
「風呂場で聞いた内容も含めて、ここでは商会として整理する。いいわね。」
「分かった。」
「ただし。」
ミレイユの目が少しだけ鋭くなる。
「恋人として聞きたい部分を、商会の報告に混ぜることもあるわ。」
「はい。」
「覚悟しておいて。」
「はい……。」
アルベールが静かに紅茶を注いだ。
その手つきはいつも通り完璧だった。
だが、注がれる紅茶の音が、なぜか裁判の開始を告げる鐘のように聞こえた。
◆◇◆
ソータは、まず村へ戻るまでの出来事を順番に話した。
北の森へ入ったこと。
魔物が一匹も現れなかったこと。
折れた大杉、黒い岩、沢の先で霧に包まれたこと。
同じ場所へ戻されたこと。
野営を決めたこと。
収納からテントや防水布、食料や鳴子を出し、霧の中で拠点を作ったこと。
ミレイユは、そこまで聞くと少しだけ眉を上げた。
「霧の中で野営拠点を作ったのね。」
「動き回る方が危険だと思ったから。」
「正しい判断だと思うわ。」
ミレイユはすぐに頷いた。
「迷いの術や地形操作のようなものに巻き込まれた時、無理に突破しようとすると消耗する。そこで休める環境を作れるのは、あなたの強みね。」
「ガルドさんたちにも、そう言われた。」
「もっと自覚して。」
「はい。」
それから、オルドアイが霧の奥から見ていたこと。
翌朝、霧が開き、道ができていたこと。
その道を進んだ先に砦があったことを話す。
ミレイユは筆を取り、いくつかの要点を書き留めていった。
「オルドアイという姫は、霧を操れるの?」
「本人が直接操っているのか、霧導きの石を使っているのかは分からない。でも、少なくとも霧を開く権限は持っていた。」
「砦の長の娘なら、当然かもしれないわね。」
アルベールが静かに言った。
「霧導きの石……懐かしい名でございます。」
ソータとミレイユの視線が同時にアルベールへ向いた。
「アルベール。」
「はい、お嬢様。」
「あなた、やっぱり何か知っているわね。」
「古い噂を少々。」
「その“古い噂”を話して。」
アルベールは穏やかに微笑んだ。
「北の森の奥に、古くから外界と交わらぬ女戦士の集団がいるという話はございました。もっとも、私が若い頃にはすでに噂の域を出ず、実在を確かめた者はほとんどおりませんでしたが。」
「若い頃って……。」
ソータは思わず呟いた。
アルベールはにこやかに返す。
「ソータ様。紳士は人の年齢を尋ねぬものです。」
「尋ねてません。」
「ならばよろしい。」
ミレイユが軽く額に手を当てた。
「アルベール、続けて。」
「はい。霧導きの石は、古い森の民が扱う青い石とされております。迷いを払うとも、迷いを生むとも言われます。外ではほとんど流通しておりません。もし本物なら、非常に希少でございます。」
ミレイユの目が商人のものになる。
「価値は?」
「扱い方次第でございます。装飾品としても希少。魔道具素材としても価値がありましょう。ただし、出所を誤れば厄介ごとになります。」
「でしょうね。」
ミレイユはすぐに頷いた。
「隠された砦の石を勝手に商材化すれば、敵対行為と受け取られる可能性がある。」
「はい。」
ソータは、リーナの青い石の腕輪を思い出した。
あれはもう、ただの商材ではない。
リーナの父の形見だ。
ミレイユもそれを分かっているのだろう。
商人の顔になりながらも、軽々しく扱う様子はなかった。
◆◇◆
次に、ソータは砦内部の話をした。
アマゾネスたちの人数。
防壁。
見張り台。
訓練場。
子どもたちもいる生活拠点であること。
魔物がいなかった理由。
砦周辺の魔物やゴブリンを彼女たちが狩っていたこと。
ヤンガルドアイという長のこと。
そして、数年前にゴブリンに追われてきた男たちの話。
ミレイユは、リーナの父たちの話を聞く時だけ、筆を置いた。
すでに風呂場でも聞いている。
それでも、正式な報告としてもう一度聞くと、表情が沈んだ。
「形見は、リーナさんへ渡せたのね。」
「うん。」
「彼女は……。」
「泣いてた。でも、受け取ってくれた。お父さんが帰ってきたって言ってた。」
ミレイユは目を伏せた。
「そう。」
「それと、ミレイユに伝言がある。」
「私に?」
「薬草軟膏をちゃんと頑張りますって。それから、父親を連れて帰ってきてくれてありがとうって。商会が村との道を作ってくれたから、ここまで来られたって。」
ミレイユは少しだけ息を止めた。
その横顔に、いつもの余裕はなかった。
会頭代理ではなく、一人の女性として言葉を受け取っている顔だった。
「……そう。」
短い返事だった。
だが、声が少し柔らかくなっていた。
「リーナさんには、今度こちらからも手紙を書くわ。」
「うん。喜ぶと思う。」
「薬草軟膏の件も、早めに形にしましょう。彼女が前へ進む理由になるなら、こちらも丁寧に支えたいわ。」
ソータは頷いた。
リーナは、待つだけではなくなると言っていた。
薬を作ると。
父の知識を受け継ぐと。
その道を、商会が支えられるなら、それはきっと良いことだ。
アルベールも静かに言う。
「リーナ様の軟膏につきましては、すでに容器と包装の試案をいくつか用意しております。後ほどご確認ください。」
「さすが早いですね。」
「有望な商材でございますので。」
アルベールは穏やかに答えた。
しかし、その目にはほんの少しだけ優しさもあった。
◆◇◆
次は、倉庫整理の話になった。
ソータがアマゾネス砦の倉庫を見た時の惨状を説明すると、ミレイユは途中から頭を抱えた。
「食料の隣に油壺?」
「うん。」
「薬草の近くに湿った獣皮?」
「うん。」
「矢の束の下に布袋?」
「うん。」
「青い石の箱の隣に干し肉?」
「うん。」
ミレイユは深く息を吐いた。
「よくそれで砦が回っていたわね。」
「使う人たちが覚えていたから、なんとか回っていたみたい。」
「一番危ない状態ね。」
「俺もそう言った。」
ソータは苦笑した。
「入口を空けて、食料、薬草、武器、獣皮、生活道具、青い石、修理待ち、廃棄予定に大きく分けた。重いものは収納で動かした。」
「彼女たちは驚いたでしょう。」
「かなり。」
「でしょうね。」
ミレイユはソータを見た。
「大きな箱や棚も収納できると見せたの?」
「見せた。」
「それは、欲しがられるわ。」
「はい。」
「婿入りを迫られるくらいには。」
「はい……。」
ミレイユの目が少し冷えた。
ソータは背筋を伸ばす。
アルベールが紅茶を注ぎ足しながら言った。
「ソータ様の能力は、物流面では破格でございます。倉庫整理、長距離輸送、野営支援、傷病者搬送。森の集団にとっては、戦士一人より価値がある場合もございましょう。」
「そんなに?」
ソータが聞くと、ミレイユとアルベールが同時に見た。
「そんなに。」
「そんなにでございます。」
「はい。」
ソータは小さくなった。
ミレイユはため息を吐く。
「あなたは本当に、自分の価値を低く見すぎるわ。」
「最近ずっと言われてる。」
「それでも足りないくらいよ。」
ミレイユは筆で机を軽く叩いた。
「今後は、能力を見せる範囲をさらに慎重に決める必要があるわ。今回の砦は結果的に交渉対象になり得るけれど、相手によっては拘束されてもおかしくない。」
「身内になるか殺されるかって言われたしね。」
「笑いごとではないわ。」
「笑ってない。」
ミレイユはじっとソータを見た。
その目には、怒りより心配があった。
「あなたが戻ってこられて本当によかった。」
「うん。」
「でも、次に同じような場所へ行くなら、準備が必要よ。」
「フルムーンの件だね。」
「ええ。」
◆◇◆
フルムーンの話になると、ミレイユは完全に商人の顔になった。
紙に新しい欄を作り、要点を書き出していく。
半年に一度。
二つの月が同時に満月になる夜。
北の部族村から男たちがアマゾネス砦へ移動する。
道中は危険。
ソータの収納、物資管理、野営支援によって移動を安定化できる。
バルクは北の部族村へ行く予定。
つまり、現地側の接点になる。
「これは、単なる護衛依頼ではないわね。」
ミレイユは言った。
「移動支援、物資輸送、交易調査、外交交渉、全部が絡むわ。」
「そんな大きい話になる?」
「なるわ。」
即答だった。
「アマゾネス砦は閉ざされた集団。でも、物資管理に課題があり、外の品への需要もある可能性が高い。こちらとしては、村を中継地点にして慎重に関係を築ける。」
「村長も、慎重に協力する用意があるって言ってた。」
「良い判断ね。」
ミレイユは頷いた。
「ただし、絶対に焦らない。まずは相手の掟を理解すること。次に、こちらの安全を確保すること。そして、あなたを相手に奪われないこと。」
最後だけ、声が少し低くなった。
「はい。」
「返事が弱いわ。」
「はい。」
「よろしい。」
アルベールが穏やかに言う。
「フルムーンまでの日数は、正確に確認する必要がございます。天文暦を確認いたしましょう。」
「お願い。」
「すぐに手配いたします。」
ミレイユはさらに続ける。
「護衛体制も見直すわ。バルクが抜けたなら、盾役が必要ね。」
「ガルドさんたちもそう言ってた。」
「同じ依頼を継続するなら、王都側のギルドと相談。あるいは商会専属に近い形で、信頼できる人材を探す。」
「俺の能力を知ることになる可能性があるから、慎重に選ぶ必要がある。」
「そう。そこは特に重要よ。」
ミレイユは少し考え込んだ。
「候補はいくつか当たれるわ。ただ、フルムーンに間に合わせるなら急ぐ必要がある。」
「ごめん。話が増えて。」
「謝ることではないわ。あなたが持ち帰った情報は、商会にとって大きな価値がある。」
ミレイユは一度筆を置いた。
「ただし。」
ソータは嫌な予感がした。
「何?」
「商会としては価値がある。でも、恋人としてはまだ怒っているわ。」
「はい。」
「そこを勘違いしないで。」
「はい。」
アルベールが静かに紅茶を飲んでいる。
なぜか楽しそうに見えた。
◆◇◆
いよいよ、オルドアイの話になった。
避けられない。
すでに風呂場で話しているが、正式な報告としても必要だった。
ソータは、オルドアイが最初から距離感の近い人物だったことを説明した。
砦で婿入りを迫られたこと。
ヤンガルドアイが本気でソータを砦に欲しがっていたこと。
オルドアイも最初は面白がるように口説いてきたこと。
ただ、後には砦を背負う姫として、そして一人の女性としてソータへ好意を示したこと。
ミレイユは黙って聞いていた。
顔は穏やかだが、指先が机を軽く叩いている。
機嫌は良くない。
かなり良くない。
「オルドアイは、フルムーンに来いと言った。」
「ええ。」
「そして、その時に自分だけを見てほしいと言った。」
「ええ。聞いたわ。」
「俺は、その場で約束しなかった。」
「そこは評価するわ。」
「ありがとう。」
「でも、口づけはした。」
「はい。」
ソータは素直に頭を下げた。
「ごめん。」
ミレイユはしばらく黙った。
アルベールは、ここでは一切口を挟まなかった。
空気を読んでいるのか、楽しんでいるのか分からない。
ミレイユは静かに言った。
「その姫は、あなたを本気で欲しがっているのね。」
「たぶん。」
「たぶんではないわ。」
「はい。」
「あなたは?」
その問いは、鋭かった。
ソータは一瞬だけ言葉に詰まる。
ここで曖昧にしてはいけない。
「惹かれた部分はある。」
ミレイユの目が細くなる。
ソータは続けた。
「綺麗だったし、強かったし、砦を背負う姿も見た。最後の夜は、彼女の本気も感じた。」
「そう。」
「でも、俺が帰りたかった場所はここだ。」
ミレイユの指が止まった。
「ミレイユのところへ帰りたかった。」
ソータはまっすぐ言った。
「それだけは本当だ。」
ミレイユは、しばらくソータを見ていた。
怒りはある。
痛みもある。
けれど、その奥に少しだけ安堵が揺れた。
「……そう。」
短い返事。
だが、声は少し柔らかくなった。
「なら、次は私も行くわ。」
「やっぱり。」
「当然よ。」
ミレイユは再び筆を取った。
「フルムーンには、私も同行する。商会代表として。あなたの恋人として。」
「二つ目が怖い。」
「怖くて結構。」
「穏便にお願いしたい。」
「相手次第ね。」
「オルドアイ、絶対引かないと思う。」
「私も引かないわ。」
「ですよね。」
ソータは胃を押さえた。
ミレイユとオルドアイの対面。
想像だけで、頭が痛くなる。
会頭代理と森の姫。
商人と戦士。
そして、どちらもソータを逃がす気がない。
(俺、フルムーンまでに胃薬を用意した方がいいな。)
リーナに頼めるだろうか。
真剣にそう思った。
◆◇◆
報告会は、夕方近くまで続いた。
途中で軽食を挟みながら、細かな確認が行われた。
村への返書。
リーナへの手紙。
薬草軟膏の販売準備。
王都ギルドへの連絡。
バルクの契約処理。
新しい護衛候補の選定。
北の森への再訪準備。
フルムーンの日程確認。
アマゾネス砦への贈り物候補。
話すべきことは尽きなかった。
ミレイユは次々と紙に書き出し、優先順位をつけていく。
その姿は見事だった。
怒っているはずなのに、仕事の手はまったく鈍らない。
むしろ、情報が多いほど頭が冴えるように見える。
ソータは感心しながら、同時に少し怖くもなった。
(やっぱりミレイユはすごい。)
(そして敵に回したくない。)
アルベールは一通り聞いた後、穏やかに言った。
「お嬢様。まず本日中に手配できるものは、天文暦の確認、王都への早馬、薬草軟膏の容器試案の整理でございます。」
「お願い。」
「かしこまりました。」
「それから、ソータの予定はしばらく商会で押さえるわ。」
「え?」
ソータが反応すると、ミレイユがこちらを見る。
「当然でしょう。あなた、戻ってきたばかりで、しかも色々やらかしているのよ。」
「やらかし。」
「やらかしよ。」
「はい。」
「勝手にどこかへ行かないこと。村への返書も、フルムーンの準備も、護衛の打ち合わせも、全部あなたが必要なの。」
「分かった。」
ミレイユは少し間を置き、声を柔らかくした。
「それに、私もまだあなたを離したくないわ。」
ソータは返事に詰まった。
アルベールが静かに咳払いをする。
「お嬢様。私は席を外しましょうか。」
「今はいいわ。」
「かしこまりました。」
やはり楽しんでいる。
ソータはそう確信した。
◆◇◆
報告会が終わった頃、窓の外は夕暮れに染まっていた。
グランデリアの街並みが赤く照らされ、商会の建物にも柔らかな光が差し込んでいる。
ミレイユは書類をまとめ、アルベールへ渡した。
「これを整理して。明日の朝、優先順位を改めて確認するわ。」
「承知いたしました。」
アルベールは書類を受け取り、丁寧に一礼した。
そして部屋を出ていく直前、ソータへ視線を向ける。
「ソータ様。」
「はい。」
「お帰りなさいませ。」
その言葉は、先ほどより少しだけ深かった。
「ありがとうございます。」
「それと。」
「はい?」
「お嬢様をあまり泣かせぬように。」
ソータは言葉を失った。
ミレイユが顔を赤くする。
「アルベール。」
「失礼いたしました。」
アルベールは完璧な礼をして、今度こそ部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、ソータとミレイユだけが残った。
空気が少し変わる。
商会の会議室だった場所が、急に二人きりの空間になった。
ミレイユはしばらく書類を見つめていた。
そして、小さく息を吐く。
「疲れたわ。」
「俺も。」
「あなたは報告するだけでも疲れたでしょうね。」
「うん。」
「でも、まだ終わっていないわ。」
「何が?」
ミレイユはゆっくり顔を上げた。
「恋人としての話。」
ソータは背筋を伸ばした。
報告会は終わった。
だが、こちらはまだ残っている。
ミレイユは立ち上がり、ソータの隣へ来た。
そして、静かに言った。
「私の部屋へ来て。」
「はい。」
拒む選択肢はなかった。
◆◇◆
ミレイユの部屋は、いつもより少し静かに感じた。
仕事机。
整えられた棚。
窓辺の花。
以前にも来たことがある場所。
しかし今日は、空気が違う。
ミレイユは扉を閉めると、しばらくソータに背を向けたまま立っていた。
ソータは何も言わずに待った。
やがて、ミレイユが口を開く。
「正直に話したことは、ありがとう。」
「うん。」
「でも、怒っているわ。」
「うん。」
「傷ついた。」
「ごめん。」
「ごめんで消えるわけではない。」
「うん。」
ミレイユは振り返った。
目が少し潤んでいる。
でも、涙は落としていなかった。
「私は、あなたが無事に帰ってくることだけを願っていた。」
「うん。」
「でも、帰ってきたあなたから、他の女に惹かれた話を聞くのはつらい。」
「うん。」
「それでも、隠されるよりはよかった。」
ソータは静かに頷いた。
「隠そうとしてごめん。」
「そこも怒っているわ。」
「はい。」
「でも、最後に話したから、許す方向で考えてあげる。」
「方向で。」
「まだ完全には許していないもの。」
「分かってる。」
ミレイユは一歩近づいた。
「だから、しばらくは私の言うことを聞きなさい。」
「はい。」
「まず、今夜はここにいること。」
「ここ?」
「私の部屋。」
ソータの心臓が跳ねた。
ミレイユは少しだけ頬を赤くしたが、目は逸らさない。
「あなたが他の女のところから帰ってきたみたいで、嫌なの。」
「……。」
「だから、今日は私のところに帰ってきたのだと、ちゃんと感じさせて。」
その声は、怒りよりも不安が強かった。
ソータは胸が締めつけられた。
ゆっくり手を伸ばす。
ミレイユは逃げなかった。
ソータは彼女を抱きしめた。
「ただいま。」
もう一度言う。
ミレイユの肩が、小さく震えた。
「おかえりなさい。」
彼女も腕を回してくる。
強く。
逃がさないように。
「馬鹿。」
「うん。」
「でも、帰ってきた。」
「うん。」
「次は、私も行くから。」
「うん。」
「その姫に、ちゃんと言うわ。」
「何を?」
ミレイユはソータの胸に顔を埋めたまま言った。
「この人は私の恋人です、って。」
ソータは少しだけ笑った。
「うん。」
「それで、商談もするわ。」
「同時に?」
「当然でしょう。」
ミレイユは顔を上げた。
目元は赤いが、そこにはもう強さが戻っていた。
「恋も商売も、相手に主導権を渡したら負けよ。」
「ミレイユらしい。」
「あなたは少し反省しなさい。」
「はい。」
「かなり反省しなさい。」
「はい。」
「それから、私のことを忘れなかった証明をしなさい。」
ソータは喉を鳴らした。
ミレイユは、少し恥ずかしそうにしながらも、逃げない目でこちらを見る。
「今夜は、私だけを見て。」
その言葉は、オルドアイの言葉とよく似ていた。
けれど、重さが違った。
ソータにとって、帰る場所の言葉だった。
「うん。」
ソータは答えた。
「ミレイユだけを見る。」
ミレイユは少しだけ目を閉じた。
そして、静かに唇を重ねてきた。
怒りも、不安も、独占欲も、安堵も混ざった口づけだった。
ソータはそれを受け止めた。
今度は迷わなかった。
帰ってきた場所で。
帰るべき人を、しっかり抱きしめながら。
長い報告の一日は、まだ終わらなかった。
けれど、ソータはようやく思った。
自分は本当に、帰ってきたのだと。




