第74話:湯気の中で、隠し事は溶けていった
湯気が、静かに浴室を満たしていた。
石造りの浴槽に張られた湯は、揺れるたびに淡い音を立てる。
香りのよい石鹸の匂い。
温かい湯の匂い。
そして、すぐ隣にいるミレイユの甘い香り。
ソータは、逃げ場のない湯の中で、ゆっくりと話し始めた。
「まず、リーナのお父さんのことだけど。」
「ええ。」
ミレイユは、ソータの腕に軽く指を絡めたまま頷いた。
その指先は優しい。
けれど、離す気はない。
ソータは湯気の向こうに視線を落とした。
「北の森の奥に、アマゾネスの砦があった。」
「アマゾネス……女戦士の集団ね。」
「うん。かなり大きな砦だった。木と石で作られていて、霧で守られていた。」
「霧で?」
「迷いの霧だ。俺たちは同じ場所を何度も歩かされた。目印をつけても戻されるし、縄を使っても距離がおかしくなった。」
ミレイユの表情が、恋人のものから商人のものへ少し変わった。
目が細くなり、情報を整理する顔になる。
「魔法的な防衛機構かしら。」
「たぶん。青い石が関係してるらしい。」
「リーナさんのお父様が持っていたという、あの石ね。」
「そう。」
ソータは頷いた。
「砦では“霧導きの石”って呼ばれていた。砦の柱や壁にも埋め込まれていた。」
「なるほど。」
ミレイユは小さく呟いた。
「それが商材になる可能性は……。」
そこまで言って、彼女は口を閉じた。
ソータを見た。
今は商談の前に聞くべきことがある。
そう思い直したのだろう。
「続けて。」
「数年前、ゴブリンに追われた男たちが、その砦の前で倒れていたそうだ。」
ミレイユの指が、わずかに強くなった。
「リーナさんのお父様たち?」
「たぶん。」
ソータは声を落とした。
「その中に、青い石を持つ男がいた。砦の人たちは、その人たちを中へ運んで、数日看病してくれたらしい。」
「そう……。」
「でも、全員亡くなった。」
湯の音が、やけに大きく聞こえた。
ミレイユは何も言わなかった。
ただ、ソータの腕を握る指に、少しだけ力を込めた。
「形見が残っていて、それをもらってきた。青い石の腕輪の一部があった。村でリーナに見せたら、父親のものだって分かった。」
「リーナさんは……。」
「泣いてた。」
ソータは短く答えた。
長く言うと、声が揺れそうだった。
「でも、砦の人たちが看病してくれたことを伝えた。森の中で一人きりじゃなかったって。」
「そう。」
ミレイユは目を伏せた。
「あなたは、ちゃんと届けたのね。」
「うん。」
「重い荷だったでしょう。」
「重かった。」
素直に答えた。
ミレイユはそれを聞いて、ほんの少し表情を柔らかくした。
「お疲れさま。」
その一言で、ソータの胸が少しほどけた。
責められる前に、まずそこを受け止めてくれた。
それがありがたかった。
◆◇◆
ミレイユは、湯の中で少し姿勢を変えた。
湯浴み着の布が水を含み、肌に沿う。
ソータは慌てて視線を逸らした。
ミレイユはそれに気づいて、少しだけ目を細めた。
「今は報告中よ。」
「はい。」
「でも、視線を逸らした理由はあとで聞くわ。」
「聞かないでください。」
「聞くわ。」
声は甘い。
だが、逃げられない。
ソータは喉を鳴らして、話を続けた。
「それで、アマゾネス砦の長がヤンガルドアイ。かなり迫力のある人だった。」
「長。」
「うん。その娘がオルドアイ。」
「さっき言っていた姫ね。」
「そう。」
ミレイユの目が、すっと鋭くなった。
「綺麗だった人。」
「……はい。」
「正直ね。」
「嘘をついたら、たぶんすぐ分かるだろ。」
「分かるわ。」
即答だった。
ソータは諦めた。
「オルドアイは、最初から俺に興味を持っていた。森で野営した時、俺が収納からテントや食料を出したのを見ていたらしい。」
「なるほど。」
「それで、俺たちを砦へ通した。」
「つまり、あなたの能力に興味を持ったのね。」
「うん。ヤンガルドアイも、俺の収納を見てかなり評価した。」
「でしょうね。」
ミレイユは商人の顔で頷いた。
「あなたの力は、軍にも商会にも喉から手が出るほど欲しいものよ。まして、森の奥で暮らす集団なら、移動と物資管理の価値は大きいわ。」
「砦の倉庫も整理した。」
「倉庫?」
ミレイユの目が少し興味に輝いた。
ソータは頷いた。
「かなり荒れてた。食料、薬草、武器、獣皮、青い石、壊れた道具がごちゃごちゃで。」
「それをあなたが整理したの?」
「うん。重いものは収納で移動して、分類して、通路を作って、よく使うものを出しやすくした。」
ミレイユは小さく息を吐いた。
「それは評価されるわ。」
「されすぎた。」
「でしょうね。」
ミレイユは淡々と言った。
「あなた、そういうところで自分の価値を甘く見るもの。」
「また言われた。」
「何度でも言うわ。」
ミレイユはソータの腕から指を離し、今度は肩へ軽く手を置いた。
「それで、婿になれと言われたのね。」
ソータは思わず咳き込んだ。
「もう分かるのか。」
「流れを聞けば分かるわ。」
ミレイユの笑みは冷たくはない。
しかし、温かくもない。
「砦の秘密を知った外の男。しかも物資を運び、倉庫を整え、森の中で寝床を作れる男。長が欲しがらないわけがないでしょう。」
「はい。」
「その姫も、あなたを欲しがったのね。」
「……はい。」
ソータは正直に答えた。
ミレイユの指が、肩の上で一度だけ止まる。
そして、ゆっくり撫でるように動いた。
「それで、あなたは?」
「断った。」
「即答?」
「即答した。」
「本当に?」
「本当に。」
ミレイユはじっとソータを見る。
ソータは目を逸らさなかった。
ここだけは、きちんと伝えなければならない。
「俺にはミレイユがいるって言った。帰る場所があるって。」
ミレイユの瞳が、わずかに揺れた。
「そう。」
「でも、砦側は秘密を知った外の者をただで帰せないと言った。身内になるか、殺されるかだって。」
「随分と極端ね。」
「砦の掟らしい。」
「それで、どうやって帰ってきたの?」
「バルクさんが残った。」
ミレイユの眉が動いた。
「バルクが?」
「うん。アマゾネスのガルナって人と互いに気に入って、一緒になるって。北の部族村へ行くことになった。」
「……。」
ミレイユはしばらく黙った。
そして、静かに言った。
「情報量が多いわね。」
「俺もそう思う。」
「バルクが、アマゾネスの女性と結ばれて、北の部族村へ。」
「はい。」
「本人の意思?」
「本人の意思。ガルドさんも確認した。」
「なら、護衛契約の処理が必要ね。」
ミレイユはすぐに仕事の顔になった。
「ギルドへの報告、報酬の扱い、今後の護衛体制。王都側とも連絡を取る必要があるわ。」
「やっぱりそうなるよな。」
「当然よ。」
ミレイユは少し考え込んだ。
「ただ、バルクが向こうに残ったことで、砦や北の部族村との接点ができたとも言える。」
「エルザさんも同じことを言ってた。」
「でしょうね。」
ミレイユは頷いた。
「その点では悪くない。ただし、あなたを婿にしようとした件は別問題よ。」
声が低くなった。
ソータは背筋を伸ばした。
「はい。」
◆◇◆
湯気は少し薄くなってきていた。
それでも浴室は温かく、二人の距離は近いままだった。
ミレイユは、今度はソータの正面へ少し移動した。
湯の中で向き合う形になる。
逃げ場が完全になくなった。
「フルムーンという話もあったのね。」
「うん。」
「二つの月が同時に満月になる夜。半年に一度、北の部族村の男たちがアマゾネス砦へ行く。」
「そう。その移動は危険らしくて、俺の収納や野営準備があれば安全になると考えているみたいだ。」
「理にかなっているわ。」
ミレイユは即座に言った。
「あなたがいれば、食料、水、寝具、治療道具を一括で運べる。道中の負担は劇的に減る。加えて、砦側に不足している物資管理も支援できる。」
「商人の顔になってる。」
「当然でしょう。」
ミレイユは少しだけ目を細めた。
「恋人としては色々と言いたいけれど、商会としては非常に重要な案件よ。」
「だよな。」
「霧導きの石、魔物素材、獣皮、薬草、狩猟肉。こちらからは布、金属道具、調味料、保存食、薬の容器。取引の可能性は大きいわ。」
「俺も、そんな感じになるかもと思った。」
「ええ。けれど。」
ミレイユはソータの目を見る。
「その取引先の姫が、あなたを欲しがっているのよね。」
「はい。」
「そして、あなたにフルムーンへ来いと言った。」
「はい。」
「その時に、自分だけを見てほしいと言った?」
ソータの心臓が跳ねた。
「え。」
ミレイユの目が細くなる。
「顔に出ているわ。」
「……。」
「言ったのね。」
ソータは湯の中で固まった。
もう逃げられない。
ミレイユは何かを聞き当てるというより、ソータの顔から読み取っている。
恐ろしい。
そして、悲しいくらい正確だ。
「言った。」
ソータは観念した。
「オルドアイは、俺が婿になるのは無理だと分かって、それならフルムーンの時に来いって。砦と北の部族村の移動を助ける形で繋がれないかって。」
「そこまでは分かるわ。」
「その上で、条件として……その夜は、自分だけを見てほしいと言った。」
ミレイユは黙った。
湯の音だけがした。
ソータは胸が苦しくなる。
「ミレイユ。」
「続けて。」
「俺は、その場では約束しなかった。フルムーンについては、戻って相談すると言った。」
「私に?」
「うん。ミレイユと、村と、商会と相談しないと決められないって。」
「そう。」
ミレイユは短く答えた。
その声は静かだった。
静かすぎて怖い。
◆◇◆
ソータはここで止めようと思った。
キスのことは言わない。
エルザにも、わざわざ言わない方がいいと言われた。
言えばミレイユを傷つける。
なら、ここまででいいのではないか。
そう思った。
しかし。
ミレイユはじっとソータを見ていた。
その目には、怒りだけではないものがあった。
不安。
怖さ。
ソータが自分から離れてしまうのではないかという、かすかな恐れ。
それを見た瞬間、ソータの胸が痛んだ。
(黙っているのは、ミレイユを守るためか?)
(違う。)
(俺が怒られたくないだけだ。)
その答えは、もう誤魔化せなかった。
ソータは深く息を吸った。
「ミレイユ。」
「何?」
「言わなくてもいいかと思ったことがある。」
ミレイユの表情が変わった。
ソータの腕から、指がゆっくり離れる。
「そう。」
「でも、黙ってるのは違うと思った。」
「聞くわ。」
声が少し冷えた。
ソータは覚悟を決めた。
「オルドアイに、キスされた。」
ミレイユの目が細くなった。
「された?」
「最初は、別れ際に軽く。砦の門の前で。」
「最初は。」
ソータは喉を鳴らした。
「それから、前の夜にも。」
ミレイユは何も言わない。
ただ見ている。
その沈黙が痛い。
「大浴場で寝てしまって、気づいたら休憩小屋でオルドアイに膝枕されてた。」
ミレイユの表情が、完全に消えた。
ソータは続けるしかない。
「俺は驚いて起きようとした。オルドアイは止めた。でも、無理やり何かされたわけじゃない。そこは本当だ。」
「それで?」
「口づけしてもよいか、と聞かれた。」
「あなたは?」
ソータは目を伏せた。
「一度だけなら、と言った。」
湯気が、やけに重く感じた。
ミレイユは動かない。
「そして?」
「キスした。」
「それは、彼女から?」
「最初は彼女から。でも……もう一度は、俺からもした。」
言った。
言ってしまった。
いや、言うべきだった。
ソータは湯の中で、拳を握った。
「ごめん。」
ミレイユは、しばらく何も言わなかった。
時間が止まったようだった。
ソータは顔を上げられない。
湯の温かさが、逆に苦しい。
やがて、ミレイユが静かに言った。
「綺麗だった?」
ソータは胸を刺されたような気がした。
この問いには嘘をつけない。
「綺麗だった。」
「そう。」
「でも、ミレイユを忘れたわけじゃない。」
「当たり前でしょう。」
ミレイユの声が、少し震えた。
「忘れたなんて言われたら、許さないわ。」
「忘れてない。本当に。」
「なら、どうして?」
その問いは、怒りよりも痛みに近かった。
ソータは言葉を探した。
言い訳ではなく。
自分の弱さを含めて、正直に。
「オルドアイは、強引だった。最初はからかって、誘惑して、俺を困らせてた。でも、最後の夜は少し違った。」
「違った?」
「砦を背負う姫としてじゃなく、一人の女として、俺を欲しいと言った。恥じらって、怖がって、それでも言ってきた。」
ミレイユは唇を引き結ぶ。
「それで、ほだされたの?」
「そうだと思う。」
ソータは正直に言った。
「俺は弱かった。オルドアイの本気に、ちゃんと線を引ききれなかった。」
「……。」
「でも、最後までは流されてない。」
言ってから、ソータは少しだけ顔を上げた。
「そこは、信じてほしい。」
ミレイユはソータを見ていた。
その目は冷たい。
けれど、完全に閉じてはいなかった。
「最後まで、とは?」
「抱いてない。」
ミレイユの瞳がわずかに揺れた。
「本当に?」
「本当に。」
「嘘なら分かるわよ。」
「嘘じゃない。」
沈黙。
ミレイユはじっとソータを見る。
ソータは目を逸らさなかった。
逃げないと決めたからだ。
◆◇◆
ミレイユは、ゆっくり息を吐いた。
そして、湯の中で少し距離を取った。
そのわずかな距離が、ソータにはひどく遠く感じられた。
「腹が立つわ。」
「うん。」
「ものすごく。」
「うん。」
「あなたが無事に帰ってきてくれて嬉しい。リーナさんのお父様の形見を届けたことも、本当に大事なことだったと思う。砦との道を作ったことも、商会としては評価すべきことよ。」
「うん。」
「でも。」
ミレイユの声が震えた。
「他の女に口づけたと聞いて、平気でいられるほど、私はできた女ではないわ。」
「ごめん。」
「謝って済むことではないわ。」
「分かってる。」
「本当に?」
「分かってる。」
ソータは湯の中で頭を下げた。
「ごめん。」
ミレイユはしばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「隠そうとした?」
ソータは息を詰めた。
ここも嘘をつけない。
「した。」
ミレイユの目が鋭くなる。
「そう。」
「エルザさんにも、わざわざ言わない方がいいって言われた。俺も、全部いちいち言うのは違うんじゃないかって思った。」
「それで?」
「でも、ミレイユの顔を見たら、黙ってるのは違うと思った。」
ミレイユは目を伏せる。
「……そこだけは、評価するわ。」
「うん。」
「隠されたら、もっと傷ついた。」
「ごめん。」
「でも、話されたから傷つかないわけではないのよ。」
「うん。」
ソータは、それ以上何も言えなかった。
ミレイユは湯の中で膝を抱えるように座った。
いつもの凛とした姿ではない。
会頭代理でもない。
一人の恋人として、傷ついている姿だった。
ソータは胸が締めつけられる。
自分が傷つけた。
その事実が、重かった。
「ミレイユ。」
「何?」
「俺は、帰ってきたかった。」
「……。」
「北の森でも、砦でも、何度もミレイユのことを思い出した。忘れたことは一度もない。」
「それを聞いて、嬉しいと思う自分と、ならどうしてと怒る自分がいるわ。」
「うん。」
「ずるいわね、あなた。」
「ごめん。」
「謝ってばかり。」
「他に言葉が見つからない。」
ミレイユは少しだけ顔を上げた。
目が潤んでいる。
「ソータ。」
「はい。」
「次にその姫に会う時、私も行くわ。」
ソータは一瞬固まった。
「やっぱり?」
「当然でしょう。」
「大変なことになる。」
「大変にするのよ。」
ミレイユは静かに言った。
その目に、少しずついつもの強さが戻っていく。
「商会としても、恋人としても、私はその砦へ行く必要があるわ。」
「恋人としても。」
「ええ。」
ミレイユはソータをまっすぐ見た。
「私の恋人に口づけた姫に、挨拶をしないわけにはいかないでしょう?」
「挨拶で済む?」
「相手次第ね。」
「怖い。」
「怖がりなさい。」
ミレイユはそう言って、少しだけソータに近づいた。
距離が戻る。
けれど、さっきとは違う。
甘さだけではなく、怒りと独占欲が混ざっている。
「あなたも悪いのよ。」
「はい。」
「だから、罰を受けてもらうわ。」
「罰?」
ソータは喉を鳴らした。
ミレイユの指が、ソータの頬に触れる。
湯に濡れた指先が、ゆっくり顎へ降りる。
「まず、今日は私から離れないこと。」
「はい。」
「報告は全部聞くわ。その後、もう一度謝ってもらう。」
「はい。」
「それから。」
ミレイユは、甘い声で続けた。
「私のことを、ちゃんと思い出していたのだと、態度で示してもらうわ。」
ソータの心臓が強く鳴った。
「ミレイユ。」
「何?」
「怒ってるよな?」
「怒っているわ。」
「その声、怒ってる感じじゃないんだけど。」
「怒っているから、こうしているの。」
ミレイユは近づき、ソータの額に自分の額を軽く触れさせた。
「あなたが他の女の匂いをつけて帰ってきたから、私の匂いに戻すの。」
その言葉に、ソータは何も言えなくなった。
ミレイユの目が、少しだけ潤んでいる。
怒っている。
傷ついている。
でも、ソータが帰ってきたことを心から喜んでもいる。
その全部が混ざった目だった。
ソータは、ゆっくり手を伸ばした。
ミレイユの手に触れる。
「ただいま。」
改めてそう言った。
ミレイユの唇が、少し震えた。
「おかえりなさい。」
その声は、先ほどより柔らかかった。
次の瞬間、ミレイユがソータへ身を寄せた。
湯が揺れる。
ソータは彼女を抱きしめた。
強く。
でも、傷つけないように。
ミレイユも、ソータの背に腕を回した。
「馬鹿。」
「うん。」
「本当に馬鹿。」
「うん。」
「でも、帰ってきた。」
「うん。」
「だから、今はそれだけは褒めてあげる。」
「ありがとう。」
ミレイユはソータの肩に顔を埋めた。
そのまま、小さく呟いた。
「でも、許したわけじゃないから。」
「はい。」
「ちゃんと、これから埋め合わせして。」
「します。」
「フルムーンも、私が行くわ。」
「分かった。」
「その姫に、あなたが誰の恋人か教えてあげる。」
「……穏便に。」
「努力はするわ。」
「努力だけ?」
「努力だけ。」
ソータは苦笑した。
けれど、胸の奥は少し軽くなっていた。
隠さなかった。
怒られた。
傷つけた。
それでも、完全に壊れなかった。
ミレイユはソータを抱きしめている。
その温もりが、ようやく帰ってきたことを実感させた。
◆◇◆
湯が少しぬるくなる頃、ミレイユはようやく体を離した。
目元は少し赤い。
しかし、表情はだいぶ落ち着いていた。
「報告の続きは、着替えてから聞くわ。」
「はい。」
「アルベールも同席させる。商会案件だから。」
「やっぱり。」
「もちろんよ。北の森、アマゾネス砦、霧導きの石、フルムーン、バルクの契約処理。全部重要だもの。」
「オルドアイの件は?」
言ってから、ソータはしまったと思った。
ミレイユはにっこり笑った。
「それは商会案件であり、恋人案件でもあるわ。」
「ですよね。」
「だから、二重に重要よ。」
「怖い。」
「怖がっていてちょうだい。」
ミレイユは立ち上がり、湯浴み着の裾を整えた。
湯気の中で振り返る。
「ソータ。」
「はい。」
「次に隠そうとしたら、今回より怒るわ。」
「はい。」
「でも、今回ちゃんと話したことは覚えておく。」
「うん。」
「だから、これからも隠さないで。」
「分かった。」
ミレイユは少しだけ微笑んだ。
「それなら、私はあなたの味方でいるわ。」
その言葉に、ソータは胸が熱くなった。
「ありがとう。」
「ただし、味方だから甘いとは限らないわ。」
「それも分かってる。」
「よろしい。」
ミレイユは浴室の扉へ向かった。
出ていく直前、ふと振り返る。
「しっかり洗ってから出てきなさい。」
「まだ?」
「まだ少し、森と女戦士の匂いがする気がするわ。」
「気がするだけでは。」
「洗い直し。」
「はい。」
ソータは逆らえなかった。
ミレイユが出ていった後、浴室には湯気と静けさが残った。
ソータは湯の中で深く息を吐いた。
報告はまだ終わっていない。
むしろ、これからが本番だ。
アルベールもいる。
商会としての話もある。
フルムーンの準備もある。
そして、ミレイユとオルドアイの対面という、想像するだけで胃が痛くなる未来も決まった。
それでも。
ソータは少しだけ笑った。
(隠さなくてよかった。)
そう思えた。
怒られた。
傷つけた。
でも、帰ってきた場所はまだここにあった。
ソータはもう一度石鹸を手に取り、ミレイユに言われた通り念入りに体を洗い直した。
今度こそ、森と女戦士の匂いを落として。
自分が帰るべき場所の匂いへ戻るために。




