第70話:喪失の夜と、待つ者の強さ
夜が来た。
村には、いつもより早く静けさが降りていた。
畑から戻る者たちの声も、井戸端の話し声も、今日はどこか抑えられている。
家々の窓に灯りはともっているが、その灯りも賑やかさではなく、誰かを悼むためのもののように見えた。
リーナの家にも、柔らかな灯りがともっていた。
食卓の上には、白い布が敷かれている。
その上に、小さな木箱が置かれていた。
中には、青い石の腕輪の欠片。
リーナの父が身につけていたもの。
長い間、北の森の奥で眠っていた形見。
それが今、ようやく家へ戻ってきた。
リーナは、その箱の前に座っていた。
泣き疲れた目は赤い。
頬には涙の跡が残っている。
それでも、彼女は箱から目を離さなかった。
まるで、目を離せばまた父がどこかへ行ってしまうとでも思っているようだった。
マルタは台所に立っていた。
だが、手はあまり動いていない。
何か温かいものを作ろうとして、何度も手を止めている。
ソータは壁際の椅子に座っていた。
リーナの家に残ることになったのは、マルタに頼まれたからだった。
「あんたも、少しいてやってくれないかい。」
そう言われた時、ソータはすぐに頷いた。
何ができるわけでもない。
言葉も見つからない。
それでも、逃げないと決めた。
形見を届けた者として。
リーナの悲しみの始まりに立ち会った者として。
ここから目を逸らしてはいけない気がした。
(でも、本当に何もできないな。)
(ただ座ってるだけだ。)
(それでも、いないよりはいいんだろうか。)
そんなことを考えていると、リーナが小さく口を開いた。
「ソータさん。」
「うん。」
「お父さんは……苦しかったでしょうか。」
その問いに、ソータは息を詰めた。
答えられない。
分からない。
軽く大丈夫だったとは言えない。
苦しくなかったとも言えない。
ガルドの言葉を思い出す。
分からないことは、分からないと言え。
ソータは、慎重に言葉を選んだ。
「分からない。」
リーナの目が少しだけ揺れる。
ソータは続けた。
「でも、砦の人たちは助けようとしてくれた。傷を手当てして、薬も使って、数日そばにいてくれた。」
「はい。」
「だから、最後まで誰にも見つからずに、一人で苦しんでいたわけではないと思う。」
リーナは腕輪の箱へ視線を戻した。
「一人じゃなかった。」
「うん。」
「それだけでも……よかったって、思っていいんでしょうか。」
ソータは少し黙った。
そして答えた。
「思っていいと思う。」
「……はい。」
リーナは小さく頷いた。
その頷きは、父の死を受け入れたというより、今夜だけ何とか息をするためのものに見えた。
◆◇◆
しばらくして、トムが訪ねてきた。
杖をつき、入口で立ち止まる。
中に入っていいのか迷っているようだった。
マルタが振り返る。
「そんなところで立ってないで、入りな。」
「……いいのか。」
「今さら遠慮するんじゃないよ。」
トムは深く頭を下げ、ゆっくり中へ入った。
彼の顔は昼間よりさらにやつれて見えた。
北の森から戻って以来、体調も完全には戻っていない。
それでも、どうしても来なければならないと思ったのだろう。
トムはリーナの前で膝をついた。
そして、青い石の腕輪の欠片を見る。
しばらく何も言わなかった。
やがて、震える声で言う。
「見覚えがある。」
リーナは顔を上げた。
「父のものですよね。」
「ああ。」
トムは目を閉じた。
「いつも身につけていた。森に入る時も、街へ行く時も。大事なものだと言っていた。」
「お守りだって言ってました。」
「そうだ。あいつは、そう言っていた。」
トムの喉が鳴った。
「俺は……あの時のことを、全部は覚えていない。逃げて、転んで、叫び声がして……気づいたら、森の外に近い場所で倒れていた。」
ソータは黙って聞いていた。
リーナも、マルタも、何も挟まなかった。
「俺だけが帰ってきた。」
トムの声が小さくなる。
「ずっと、それが怖かった。思い出すのも怖かった。自分が逃げたことを認めるのが怖かった。」
「トムさん。」
リーナが静かに呼んだ。
トムは顔を上げられない。
リーナは腕輪の箱に手を添えたまま、言った。
「私は、トムさんを責めません。」
トムの肩が震えた。
「お父さんは、きっとトムさんが生きて帰ったことを喜んだと思います。」
「そんな……。」
「だって、お父さんはそういう人でした。」
リーナの声は震えていた。
でも、確かに前を向いていた。
「誰かが生きて帰れたなら、それでいいって言う人でした。」
トムは顔を覆った。
声を殺して泣いた。
大人の男が、子どものように肩を震わせて泣いていた。
リーナは立ち上がり、ゆっくりトムのそばへ行った。
そして、彼の前に膝をつく。
「トムさん。」
「……すまない。」
「謝るなら、これからも生きてください。」
トムが顔を上げる。
リーナの目には涙があった。
けれど、言葉はまっすぐだった。
「お父さんたちのことを覚えていてください。」
トムは、何度も頷いた。
「ああ。」
「忘れないでください。」
「忘れない。」
「それで、いいです。」
その言葉に、マルタが目元を拭った。
ソータも胸が熱くなる。
リーナは父を失った。
だが、その悲しみの中で、誰かを責めるのではなく、生きている者へ役目を渡した。
それは、弱さではなかった。
待ち続けた者の強さだった。
◆◇◆
夜が少し深くなった頃、村長も訪ねてきた。
昼間より落ち着いた様子だったが、表情は重い。
村長は木箱の前に立ち、深く頭を下げた。
「ようやく、お戻りになられましたな。」
その言葉に、リーナは静かに頷いた。
「はい。」
「明日、村としても、亡くなった方々を弔う場を作りましょう。」
マルタが頷く。
「そうしてもらえると助かるよ。」
「腕輪はリーナさんが持っていてよいでしょう。他の品は、分かるものがあれば縁の方へ。分からぬものは、村の祈りの場に納めましょう。」
「お願いします。」
リーナは丁寧に頭を下げた。
村長はソータへ視線を移す。
「ソータ殿。明日、北の森で見たものを詳しく聞かせていただきたい。」
「はい。」
「ただし、今日はもう十分でしょう。」
「そうですね。」
村長は頷いた。
「形見を運んでくださり、ありがとうございました。」
ソータは少しだけ息を吸った。
また、運んだだけです、と言いそうになる。
でも、今は受け取る。
「はい。」
ソータは頭を下げた。
「届けられてよかったです。」
村長は静かに頷いた。
「重い荷でしたな。」
「はい。」
その一言だけで、十分だった。
◆◇◆
村長とトムが帰った後、家の中は再び静かになった。
マルタはようやく温かい汁物を作り、リーナの前に置いた。
「少しでいいから飲みな。」
「……はい。」
リーナは両手で器を持った。
湯気が顔にかかる。
一口飲む。
その瞬間、また涙が落ちた。
「味、しますか。」
ソータが思わず聞くと、リーナは少しだけ笑った。
「少しだけ。」
「よかった。」
「泣いてばかりだと、マルタさんに怒られますから。」
「泣いていいんだよ。」
マルタがすぐに言った。
「怒るわけないだろ。」
「でも、明日から薬草の整理もあります。」
「そんなもの、明日やらなくてもいい。」
「でも。」
リーナは器を置き、青い石の腕輪を見た。
「お父さんが帰ってきたから。」
その声は、少しだけ不思議な響きだった。
悲しみの中に、静かな決意が混じっている。
「私は、待つだけじゃなくなったんです。」
ソータはリーナを見る。
彼女は涙の跡が残る顔で、ゆっくり言った。
「お父さんが帰ってくるのを待っていました。ずっと。」
「うん。」
「でも、今日、帰ってきました。」
彼女は腕輪を見つめる。
「だから、もう待つだけじゃないんです。」
マルタは何も言わなかった。
ただ、リーナを見ていた。
「薬を作ります。」
リーナは続けた。
「お父さんが教えてくれた薬草のことを、もっとちゃんと覚えます。村の人にも、街の人にも役に立つ薬を作ります。」
「リーナ。」
「お父さんが守りたかったものを、私も守りたいです。」
声は震えていた。
だが、その中に芯があった。
ソータは胸の奥が熱くなった。
リーナはまだ悲しい。
今夜だけで立ち直るはずがない。
何度も泣くだろう。
何度も父を思い出すだろう。
でも、彼女は少しだけ前を向こうとしている。
父の帰りを待つ娘から。
父の形見を受け取った薬師へ。
その一歩を踏み出そうとしていた。
「リーナの薬は、もう役に立ってる。」
ソータは言った。
「俺たちが北の森に持っていった薬包も、すごく心強かった。」
リーナは目を伏せた。
「使いましたか?」
「使わずに済んだ。」
「それが一番です。」
「でも、持っているだけで安心した。」
リーナは小さく頷いた。
「なら、よかったです。」
「クラウゼン商会でも、軟膏はちゃんと売れる形にするって話が進んでる。ミレイユもそう言ってた。」
リーナは少しだけ顔を上げた。
「ミレイユさんが。」
「うん。リーナは待つだけじゃないって言ってた。薬を作って、俺たちを帰す準備をしてるんだって。」
リーナの目がまた潤んだ。
けれど、今度は泣き崩れなかった。
「そう、ですか。」
「うん。」
「ミレイユさんにも、お礼を言いたいです。」
「伝えるよ。」
「いえ、いつか直接言います。」
その言葉に、ソータは少し微笑んだ。
「きっと喜ぶ。」
「そうでしょうか。」
「喜ぶと思う。ただ、照れるかもしれない。」
「ミレイユさんが?」
「うん。たぶん。」
リーナはほんの少しだけ笑った。
本当に小さな笑みだった。
それでも、ソータにはそれがとても大きなものに思えた。
◆◇◆
夜更け近くになり、ソータはリーナの家を出た。
マルタに休むよう言われたのだ。
「あんたも疲れてるだろ。今日はもう寝な。」
「でも。」
「でもじゃないよ。明日は村長への報告もあるんだろう。」
「はい。」
「なら寝る。倒れられたら困るからね。」
「分かりました。」
マルタには逆らえない。
ソータはリーナへ声をかけた。
「また明日来る。」
「はい。」
リーナは青い石の腕輪を布に包み、棚の上に置いていた。
棚には小さな花も添えられている。
簡素だが、そこはすでに父を迎える場所になっていた。
リーナはその棚を見て、静かに言った。
「ソータさん。」
「うん。」
「お父さんを連れて帰ってきてくれて、本当にありがとうございました。」
ソータは胸が詰まった。
言葉を探し、結局短く答える。
「うん。」
それ以上言うと、声が崩れそうだった。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
空には二つの月が浮かんでいる。
片方は明るく、もう片方は少し欠けている。
ソータはそれを見上げた。
フルムーンは近い。
その言葉が、自然と頭に浮かぶ。
オルドアイ。
バルク。
アマゾネス砦。
北の部族村。
ミレイユへの報告。
まだ、山ほど運ばなければならないものがある。
だが、今夜はその前に、一つの荷を下ろした夜だった。
重く、悲しく、それでも確かに届けなければならなかった荷。
ソータは静かに息を吐いた。
「届けたよ。」
誰にともなく呟く。
リーナの父へか。
北の森に眠る男たちへか。
それとも、自分自身へか。
分からなかった。
ただ、その言葉を口にすると、胸の奥の重みが少しだけ変わった。
消えたわけではない。
けれど、前へ進むための重さになった。
◆◇◆
リーナの家から少し離れた場所に、ガルド、エルザ、レオンがいた。
どうやら待っていてくれたらしい。
レオンが軽く手を上げる。
「お疲れっす。」
「待っててくれたのか。」
「なんとなくっす。」
エルザが言う。
「一人にしない方がいいと思って。」
「ありがとうございます。」
ガルドは短く聞いた。
「渡せたか。」
「はい。」
「そうか。」
それだけだった。
だが、十分だった。
レオンが少しだけ声を落とす。
「リーナさん、大丈夫そうっすか?」
「大丈夫ではないと思う。」
「……っすよね。」
「でも、前を向こうとしてた。」
エルザは静かに頷いた。
「強い子ね。」
「はい。」
ソータは夜空を見上げる。
「明日は、村長へ北の森のことを報告します。」
「ええ。」
「その後、グランデリアへ戻る準備ですね。」
レオンが少しだけ苦笑する。
「次はミレイユ様への報告っすね。」
ソータは頭を抱えた。
「言わないでくれ。」
「でも現実っす。」
「分かってる。」
エルザが淡々と言う。
「正直に話せばいいわ。」
「怒られますよね。」
「怒るでしょうね。」
「やっぱり。」
「でも、隠すよりずっといい。」
ガルドも言った。
「逃げるな。」
「はい。」
今日、リーナへ逃げずに伝えた。
次はミレイユだ。
内容は違う。
重さも違う。
だが、逃げてはいけないことは同じだった。
ソータは深く息を吸った。
「分かりました。」
レオンが小さく笑う。
「まあ、俺たちも一緒に報告会には出るっすから。」
「心強いような、余計なことを言われそうで怖いような。」
「ちゃんと援護するっす。」
「本当に?」
「たぶん。」
「そこは断言してくれ。」
エルザが少し笑った。
ガルドも、ほんのわずかに口元を緩めた気がした。
バルクはいない。
それでも、仲間はいる。
ソータはそのことを改めて感じた。
村の夜は静かだった。
悲しみはまだ濃い。
けれど、その中で小さな灯りがともっている。
リーナの家の灯り。
父の形見を迎えた灯り。
そして、次へ進もうとする者たちの灯り。
ソータはその灯りを見つめながら、明日の報告に備えて宿へ向かった。




