第66話:残る男と、持ち帰る形見
翌朝。
ソータは、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
寝台の上で何度も寝返りを打った。
目を閉じれば、月明かりの下にいたオルドアイの顔が浮かぶ。
湯上がりの髪。
恥じらうように揺れた瞳。
私だけを見てほしい、と言った声。
そして、口づけ。
すぐにミレイユの顔も浮かんだ。
商会の前で見送った時の目。
私のことを少しでも忘れたら許さないわ、と言った声。
どちらも消えない。
消せない。
ソータは朝の薄い光の中で、額に手を置いた。
(どう報告するんだ、これ。)
(いや、報告するしかない。)
(でも、どこまでどう説明すればいい。)
(キスされた。)
(いや、俺もした。)
(これは誤魔化せない。)
考えれば考えるほど、頭が痛くなる。
それでも、後悔だけではなかった。
オルドアイの提案。
フルムーンの時に来るという別の道。
婿入りではなく、砦と北の部族村の移動を助ける協力者として関わる可能性。
それは、ヤンガルドアイを説得する材料になり得る。
形見を持ち帰るための道にもなる。
(仕事として考えろ。)
(まずは形見。)
(リーナへ届ける。)
(みんなを連れて帰る。)
(それからミレイユに会う。)
ソータはそう自分に言い聞かせて起き上がった。
壁の穴には布がかかったままだ。
隣から、今朝は声がしない。
オルドアイも、昨夜のことを考えているのだろうか。
それとも、もう姫の顔に戻っているのか。
どちらにしても、今日は大広間で話し合いになる。
そこで、帰れるかどうかが決まる。
◆◇◆
大広間には、朝から重い空気が漂っていた。
宴の余韻はない。
昨夜あれほど賑やかだった場所は、今は女戦士たちが整然と並ぶ、砦の中心に戻っている。
奥にはヤンガルドアイ。
その横にオルドアイ。
ただし、オルドアイは昨日までのようにソータの横へすぐ来ることはなかった。
母の隣に立ち、姫としてまっすぐ前を見ている。
その姿を見た時、ソータは胸の奥が少し鳴った。
昨夜の彼女とは違う。
けれど、同じ人だ。
強引で、艶やかで、からかうようで。
それでも、砦を背負う姫。
ソータたちは広間の中央に立った。
ガルド、エルザ、レオン、バルク。
全員揃っている。
ただ、バルクの様子が少しだけ違った。
いつものように豪快ではある。
だが、どこか腹を決めた顔をしている。
(バルクさん?)
ソータは少し気になったが、今は先に話を聞くしかなかった。
オルドアイが一歩前へ出る。
「母上。」
声は落ち着いていた。
「ソータたちを帰してやってほしい。」
広間が静まる。
ヤンガルドアイは、娘をじっと見た。
「なぜだ。」
「ソータは、この砦を害する男ではない。倉庫を整え、宴では香を止めさせた。己の欲に流されず、仲間も守った。」
オルドアイは言葉を続ける。
「婿として残せぬなら、別の形で繋げばいい。フルムーンの時、男たちの移動を助けさせる。荷と寝床と道を整えさせる。ソータはその力を持つ。」
ヤンガルドアイの目が細くなる。
「お前がそこまで言うか。」
「言う。」
「惚れたか。」
広間に小さなざわめきが走る。
オルドアイは、ほんの少しだけ頬を赤くした。
それでも逃げなかった。
「そうだ。」
ソータの胸が強く跳ねた。
レオンが隣で小さく息を呑む。
エルザもわずかに目を見開いた。
バルクだけは、何かを納得したように頷いていた。
オルドアイはまっすぐ母を見る。
「だが、奪えば逃げる男だ。約束を破らせれば、きっと目が濁る。私は、そんな男を欲しいわけではない。」
ヤンガルドアイは黙った。
ソータも言葉を失っていた。
昨日までのオルドアイなら、欲しいものは奪うと言いそうだった。
だが今、彼女は違うことを言っている。
ソータをただ砦へ縛るのではなく、ソータの約束ごと見ている。
「母上。帰してやってくれ。」
オルドアイは静かに言った。
「形見も渡してやってほしい。」
長い沈黙が落ちた。
ヤンガルドアイは肘掛けに指を置き、ゆっくり叩いた。
一度。
二度。
三度。
「ならぬ。」
その一言で、空気が固まった。
オルドアイの顔が強張る。
ソータの背中にも冷たいものが走る。
ヤンガルドアイは続けた。
「ソータの価値は認めた。砦に害がないことも、おおよそ分かった。だが、この砦を知った外の者全員を、ただで帰すわけにはいかぬ。」
厳しい声だった。
「掟は掟だ。」
「母上。」
「お前の情だけでは、砦は守れぬ。」
オルドアイは唇を噛んだ。
ソータは何か言おうとした。
だが、その前に。
バルクが、一歩前へ出た。
◆◇◆
「なら、俺が残る。」
広間に、低く太い声が響いた。
ソータは振り返った。
「バルクさん?」
レオンも目を丸くしている。
「え、何言ってるんすか?」
エルザも驚きを隠せない。
「バルク?」
ガルドだけは、わずかに目を細めた。
何か気づいていたのかもしれない。
バルクは真っ直ぐヤンガルドアイを見ていた。
「俺が残ればいいんだろう。」
ヤンガルドアイは眉を上げる。
「どういう意味だ。」
「砦を知った男が、身内になる必要があるなら、俺がなる。」
ソータは息を呑んだ。
「待ってください。そんな簡単に。」
「簡単じゃねえよ。」
バルクは振り返らずに言った。
「だが、決めた。」
その時、広間の横から一人の女戦士が歩み出た。
背の高い女だった。
肩幅があり、腕もたくましい。
だが、表情にはどこか柔らかさがある。
昨夜、バルクの隣で肉を山ほど勧めていた女だ。
名前は確か、ガルナ。
バルクと食事の話で盛り上がっていた女戦士。
彼女はバルクの隣へ来ると、そっと寄り添うように立った。
その頬が赤い。
広間がざわつく。
バルクは少しだけ照れくさそうに頭をかいた。
「俺は、北の部族村へ行く。」
「北の部族村へ?」
ソータが聞き返す。
「ああ。ここにずっといるわけじゃねえ。男たちが住んでる村があるんだろ。そこへ行く。」
バルクは隣の女を見た。
「それで、フルムーンの時に、この女と会う。いや、それまでに向こうの村で暮らし方を覚える。」
ガルナが小さく頷いた。
頬を赤らめたまま、でもしっかりとバルクの腕に手を添えている。
「私が選んだ。」
彼女は静かに言った。
「この男は、よく食べ、よく笑い、力もある。酒にも流されすぎぬ。気に入った。」
「判断基準がバルクさん向けすぎる。」
レオンが呟いた。
ソータは混乱していた。
「いつの間に?」
バルクは少し笑った。
「飯を食って、話して、また食っていたら、気が合った。」
「それで?」
「それでだ。」
「早くないですか?」
「遅く考えても同じなら、早く決めてもいいだろ。」
バルクらしいと言えば、あまりにもバルクらしい。
レオンは口を開けている。
エルザは額に手を当てた。
ガルドは短く言った。
「本気か。」
「ああ。」
「後悔は。」
「しないとは言わねえ。でも、自分で決めた。」
ガルドはしばらくバルクを見ていた。
そして、短く頷いた。
「ならいい。」
「軽くないですか、ガルドさん。」
ソータが思わず言うと、ガルドは静かに返す。
「軽くはない。バルクが決めたなら、重い決断だ。」
バルクは笑った。
「そういうことだ。」
ソータは何も言えなくなった。
◆◇◆
ヤンガルドアイは、バルクとガルナをじっと見ていた。
その目は厳しい。
だが、どこか楽しげでもあった。
「ガルナ。」
「はい、長。」
「その男でよいのか。」
「はい。」
「食うぞ。」
「私も食います。」
「力はありそうだが、砦の掟を分かっておらぬぞ。」
「教えます。」
「北の部族村で暮らすのは楽ではない。」
「それでも。」
ガルナはバルクの腕を握った。
「この男がいいです。」
バルクは少し照れたように咳払いした。
広間の女戦士たちがどっと沸いた。
「ガルナが選んだぞ!」
「盾の男か!」
「よく食う男は良い!」
「力もありそうだ!」
「フルムーンが楽しみだな!」
大騒ぎである。
ソータは完全に置いていかれていた。
ヤンガルドアイは大きく笑った。
「ははははは!」
広間の空気が揺れる。
「そういうことなら、よい。」
「よいんですか?」
ソータが思わず聞くと、ヤンガルドアイは堂々と答えた。
「砦を知った男の一人が身内になる。しかも、我が女が選んだ男だ。ならば掟の顔も立つ。」
「顔も立つ。」
「それに、バルクは北の部族村へ送る。そこで男たちにも話を通せる。」
ヤンガルドアイの視線がソータへ向く。
「ソータ。お前はフルムーンに来るのだろう。」
「それは、まだミレイユたちと相談してから。」
「来るのだろう。」
「……前向きに検討します。」
「商人のような言い方をするな。」
「身近に商人がいるので。」
オルドアイが少し笑った。
ヤンガルドアイは再びバルクを見る。
「バルク。お前が残るなら、他の者は帰してやる。」
ソータの胸が強く鳴った。
「本当ですか?」
「ああ。ただし、砦のことを外で言いふらせば、お前たちも、お前たちの村も、ただでは済まぬ。」
「言いふらしません。」
ソータは即答した。
ガルドも頷く。
「秘する。」
エルザも言う。
「必要な者にだけ、必要な形で伝えるわ。」
レオンは真剣な顔で頷いた。
「俺も言わないっす。」
ヤンガルドアイは満足そうに頷いた。
「よい。」
そして、オルドアイへ視線を送った。
「形見を。」
オルドアイはすぐに頷き、広間の奥へ向かった。
しばらくして、彼女は小さな木箱を持って戻ってきた。
昨日、ソータが見た箱。
死んだ男たちの形見が入った箱だ。
オルドアイはそれを両手で持ち、ソータの前に立った。
◆◇◆
木箱は、小さい。
だが、ソータにはひどく重く見えた。
オルドアイは静かに言った。
「持っていけ。」
「……ありがとう。」
ソータは両手で箱を受け取った。
中には、リーナの父のものかもしれない品がある。
青い石の腕輪の一部。
小さな木札。
その他の形見。
これを持って帰れば、リーナは父の死を知ることになるかもしれない。
待っていた希望が、別の形に変わる。
それを思うと、胸が痛んだ。
だが、持って帰らなければならない。
知らないまま待ち続けることが、必ずしも救いとは限らない。
「必ず届ける。」
ソータは小さく言った。
オルドアイは頷く。
「それがお前の荷か。」
「ああ。」
「落とすなよ。」
「落とさない。」
ソータは木箱を《神速積載庫》へ入れた。
他の荷とは完全に別に。
壊れない場所。
すぐ取り出せる場所。
リーナの薬包と同じくらい大事な場所。
オルドアイがその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「大事に入れたな。」
「大事な荷物だから。」
「そういうところだ。」
「え?」
「私が欲しくなるところだ。」
ソータは返事に困った。
ここで何か言うと、また話が複雑になる。
黙っていると、オルドアイは少しだけ笑った。
今朝の彼女は、不思議と昨日ほど強引ではない。
ただ、眼差しは深くなっていた。
◆◇◆
午後には出立することになった。
バルクは残る。
その事実を、ソータはまだ完全には飲み込めていなかった。
バルク本人は意外なほど落ち着いていた。
荷物といっても、彼自身の武器と防具くらいだ。
必要なものは、北の部族村で揃えるらしい。
「本当にいいんですか?」
ソータが聞くと、バルクは笑った。
「何度も聞くな。」
「でも。」
「俺が決めた。」
「ミレイユに何て言えば。」
「そのまま言え。バルクは女に惚れて残った、ってな。」
「雑すぎませんか。」
「事実だ。」
ガルナが隣で頬を赤くする。
だが、嫌そうではない。
むしろ誇らしそうだった。
レオンがぼそっと言う。
「本当に急展開っすね。」
エルザが肩をすくめる。
「でも、バルクらしいわ。」
ガルドはバルクの前に立った。
「生きろ。」
「おう。」
「困ったら伝言を寄こせ。」
「どうやって?」
ガルドはソータを見た。
ソータも見返す。
「フルムーンに来るんだろ?」
バルクが笑った。
「その時に伝えるさ。」
ソータは少しだけ言葉に詰まった。
フルムーン。
その約束が、どんどん現実味を帯びていく。
◆◇◆
砦の門の前には、多くのアマゾネスたちが集まっていた。
朝の大広間以上に賑やかだった。
バルクが残ることになったせいで、女戦士たちは妙に盛り上がっている。
「盾の男、達者でな!」
「ガルナを泣かせるなよ!」
「食料庫を空にするな!」
「フルムーンが楽しみだ!」
バルクは笑って手を振っていた。
すでに馴染み始めている。
ソータはそれを見て、半分呆れ、半分寂しくなった。
来た時は五人だった。
帰りは四人。
正確には、ソータ、ガルド、エルザ、レオン。
バルクはここに残る。
形見は手に入った。
砦との関係も、完全な敵対ではなくなった。
だが、代わりに大きな変化が起きた。
オルドアイは門の近くでソータを待っていた。
今日は戦士の装いだ。
だが、髪飾りには小さな赤い布が結ばれている。
昨夜の赤を思い出して、ソータは少し目を逸らした。
オルドアイはそれに気づいて笑った。
「思い出したか?」
「何をとは言わない。」
「顔に出ている。」
「俺の顔、本当に駄目だな。」
「私は好きだぞ。」
「そういうのを急に言わないでください。」
オルドアイは一歩近づいた。
周囲のアマゾネスたちが期待するように見ている。
嫌な予感がした。
ソータは半歩下がろうとしたが、オルドアイはそれより早かった。
彼女はソータの胸元を軽く掴み、ぐっと引き寄せる。
「フルムーンはもうすぐだ。」
「相談してからで。」
「約束は忘れるな。」
「忘れないけど。」
「ならよい。」
そう言って、オルドアイは軽く口づけた。
本当に一瞬。
けれど、周囲には十分すぎた。
砦の女たちが一斉に歓声を上げる。
「姫がやった!」
「見たか!」
「フルムーンまで逃がすな!」
「ソータ、戻ってこいよ!」
レオンが目を丸くしている。
エルザは額に手を当てた。
ガルドは無言で空を見た。
ソータは顔を真っ赤にして、慌てて後ろへ下がった。
「い、今のは無理やりだ!」
レオンが小声で言う。
「えっと……報告案件かな?」
「無理やりキスされたんだよ!」
「でも、昨日も何かあった顔してるっす。」
「何もない!」
エルザが冷静に言った。
「帰ったら、ミレイユ様へ正直に報告しましょうね。」
「無理やりです!」
「それも含めて。」
「はい……。」
ガルドが短く言った。
「隠すな。」
「はい。」
逃げ場はなかった。
ソータは心の中で頭を抱える。
(ミレイユ。)
(ごめん。)
(帰ったら全部話します。)
(でも、今のは本当に向こうからです。)
(本当に。)
オルドアイは満足そうに笑った。
そして、少しだけ真面目な目でソータを見る。
「帰れ、ソータ。」
「うん。」
「その娘に、形見を届けろ。」
「必ず。」
「そして、フルムーンに来い。」
「……相談してから。」
「来い。」
「前向きに検討します。」
「商人の言い方をするな。」
「身近にいるので。」
オルドアイは笑った。
その笑顔は、少し寂しそうでもあった。
◆◇◆
ヤンガルドアイが門の上に立っていた。
彼女はソータたちを見下ろし、声を張る。
「霧は開いてやる。外までは迷わず行ける。」
「ありがとうございます。」
ソータが頭を下げると、ヤンガルドアイはにやりと笑った。
「礼はフルムーンに持ってこい。」
「……はい。」
「そして、商人の女にも伝えろ。話があるなら来るがよいとな。」
ソータの背筋が凍った。
「それ、伝えたら本当に来ると思います。」
「来ればよい。」
「大変なことになると思います。」
「面白そうだ。」
この親子は、本当に面白さで動くところがある。
ソータは乾いた笑いしか出なかった。
オルドアイが言う。
「その女に、私の名も伝えろ。」
「伝えるのか……。」
「隠すつもりか?」
「隠しません。」
「ならよい。」
オルドアイは少しだけ目を細めた。
「私は、隠される女ではない。」
その言葉は、強かった。
ソータは頷くしかなかった。
「分かった。伝える。」
「よろしい。」
砦の門が開く。
その向こうには、霧の道が伸びていた。
来た時とは違う。
今回は、はっきりと森の外へ続く道が見える。
ソータたちは歩き出した。
ガルド、エルザ、レオン。
そしてソータ。
バルクは門の内側で、ガルナと並んで見送っている。
「バルクさん!」
ソータが振り返る。
「元気で!」
「おう! お前も帰って怒られてこい!」
「そこは励ましてください!」
「正直に話せ!」
アマゾネスたちが笑う。
レオンも肩を震わせていた。
エルザも少し笑っている。
ガルドは無言だが、口元がほんのわずかに動いた気がした。
ソータは深く息を吐き、前を向いた。
形見は収納の中にある。
バルクは砦に残った。
オルドアイとの約束もある。
フルムーンの話もある。
ミレイユへの報告という、もっとも恐ろしい荷もある。
(積み荷、また増えたな。)
ソータは胸の奥で呟いた。
それでも、帰る。
まずは村へ。
リーナのもとへ。
そして、グランデリアへ。
ミレイユのもとへ。
霧の道を進みながら、ソータは大事な木箱の位置をもう一度確認した。
落とさない。
必ず届ける。
その決意だけは、どれだけ荷が増えても揺らがなかった。




