第65話:月下の湯気は、姫の本音を隠しきれなかった
宴が終わる頃には、大広間の熱も少しずつ落ち着いていた。
酒の匂い。
肉を焼いた香ばしい匂い。
香草と煙の名残。
女戦士たちの笑い声。
それらが広間の天井近くにまだ残っている。
ただ、先ほどまでの危うい空気は、だいぶ薄れていた。
ヤンガルドアイが香を止めさせたこともある。
ソータが水を配り、ガルドたちもそれぞれ体勢を立て直したこともある。
とはいえ、疲れは確かに溜まっていた。
朝から倉庫を整理し、夜は宴に出た。
酒も少し入った。
さらに、ソータにとってはオルドアイの距離が近すぎた。
体よりも精神が疲れている。
(早く寝たい。)
(いや、寝る前に何も起こらないとは限らないんだけど。)
(この砦、本当に油断できない。)
そんなことを考えていると、ヤンガルドアイが杯を置いた。
「男たち。」
低くよく通る声だった。
ソータたちが顔を上げる。
「寝る前に湯へ行くとよい。」
「湯?」
レオンが反応した。
ヤンガルドアイは頷く。
「砦の奥に大浴場がある。疲れも取れよう。」
バルクの顔が明るくなった。
「風呂か。ありがたい。」
ガルドも短く頷く。
「助かる。」
エルザが少しだけ眉を上げた。
「女性用ではないの?」
「女たちの大浴場の隅に、男用の湯もある。」
ヤンガルドアイは当然のように言った。
「仕切りはある。安心しろ。」
ソータは少しだけ疑った。
「仕切りは、ちゃんとありますか?」
大広間の女戦士たちが笑った。
ヤンガルドアイも口元を上げる。
「軽くな。」
「軽く。」
嫌な響きだった。
オルドアイが隣で笑う。
「覗かれるのが怖いか?」
「怖いです。」
「正直だな。」
「この砦では正直に言わないと危険なので。」
「学んだな。」
オルドアイは楽しそうに言った。
ソータは深く息を吐く。
それでも、湯は魅力的だった。
森を歩き、霧に迷い、野営し、砦へ来て、倉庫を整理した。
汗もかいた。
体は確かに重い。
温かい湯に浸かれるなら、それはありがたい。
問題は、この砦の
「安心。」
がどこまで信用できるかだった。
◆◇◆
大浴場は、砦の奥の岩場にあった。
木の柵と石の壁に囲まれた場所で、湯気が白く立ち上っている。
どうやら自然の湯を引いているらしい。
大きな内湯のような場所が女たち用で、その隅に、木と布で軽く仕切られた男用の露天風呂があった。
少し大きめの岩風呂。
屋根はほとんどなく、空が見える。
仕切りはある。
あるが、確かに軽い。
ソータはそれを見て、しばらく黙った。
「……これ、仕切りって言っていいんですかね。」
レオンが小声で言った。
「一応、見えにくくはなってるっす。」
「見えにくく、か。」
バルクは気にした様子もなく笑った。
「湯があるなら十分だろ。」
「バルクさんは強いですね。」
「疲れた時の風呂は正義だ。」
ガルドも周囲を確認し、短く言う。
「危険な気配はない。」
「女戦士たちの好奇心はありますけど。」
「それは危険に含めるか迷う。」
「含めてください。」
レオンが切実に言った。
遠くの女性用の大浴場からは、女たちの笑い声が聞こえる。
湯気越しに人影が動くのも分かる。
はっきり見えるわけではない。
だが、存在感は強い。
ソータは慎重に服を脱ぎ、下半身に布を巻いて湯へ入った。
湯は熱すぎず、ちょうどよかった。
体がじんわりとほどけていく。
「ああ……。」
思わず声が漏れた。
レオンも湯に浸かり、肩まで沈んだ。
「これは助かるっす。」
バルクは豪快に息を吐く。
「うまい飯、強い女、いい湯。悪くねえ砦だな。」
「婿入り圧がなければ、もう少し落ち着けるんですけどね。」
ソータが言うと、レオンが苦笑した。
「ソータさん限定の圧っすね。」
「他人事だと思って。」
「いや、俺も少し危なかったっすけど。」
ガルドは黙って湯に浸かっていた。
目を閉じているが、完全には気を抜いていない。
その横顔を見て、ソータは少し安心した。
ガルドがいる。
レオンもバルクもいる。
全員、無事だ。
とりあえず今は、それだけで十分だった。
空には月が浮かんでいた。
この世界には月が二つある。
今夜は、片方が大きく明るく、もう片方は少し欠けていた。
二つが同時に満月になる夜。
フルムーン。
半年に一度、北の部族村から男たちが砦へ来るという特別な夜。
ソータは湯気越しに月を眺めながら、オルドアイの言葉を思い出した。
婿になれ。
ここに残れ。
砦に必要だ。
私が欲しい。
(無理だ。)
(でも、ただ拒むだけじゃ形見は持って帰れない。)
(取引の形を作る。)
(婿じゃなくて、協力関係。)
(ミレイユなら、きっとそうする。)
湯の温かさが心地よい。
酒と疲労が混ざり、まぶたが重くなってきた。
ソータは自分で危ないと思った。
(寝るな。)
(風呂で寝たら危ない。)
(起きてろ。)
そう思ったはずだった。
◆◇◆
次に目を開けた時、ソータは湯の中にはいなかった。
木の天井が見えた。
外の夜風が頬を撫でている。
湯気の匂いと、乾いた木の香り。
どうやら、大浴場の外にある休憩用の小屋のような場所らしい。
コテージに似た造りで、床には厚めの布が敷かれている。
ソータはぼんやりと瞬きをした。
(……あれ。)
(俺、寝た?)
体が妙に温かい。
下半身には布がかけられている。
上半身はほとんど何もない。
そして、頭の下に柔らかい感触があった。
膝枕。
そう気づいた瞬間、ソータの意識が一気に戻った。
視線を動かす。
そこにいたのは、オルドアイだった。
彼女も湯上がりらしく、髪は少し濡れている。
肌は湯の熱でほんのり赤く、薄い布をまとっているだけだった。
ただし、体を隠すためというより、湯冷めを防ぐためにかけているような布だ。
彼女はソータの頭を膝に乗せ、片腕で軽く支えていた。
ソータは硬直した。
「……え?」
飛び起きようとした。
だが、オルドアイの手が肩に置かれた。
力強い。
けれど、乱暴ではない。
彼女はいたずらっ子のような目で、唇に人差し指を当てた。
「しー。」
「いや、しーじゃなくて。」
「声が大きい。」
「状況が大きい。」
オルドアイはくすりと笑った。
「湯で眠ったお前を、ここまで運ばせた。」
「運ばせた?」
「私が抱えてもよかったが、目立つのでな。」
「十分目立ってます。」
「安心しろ。お前には布をかけている。」
「そういう問題じゃない。」
ソータは起き上がろうとした。
オルドアイは今度は少しだけ力を込めて止めた。
「暴れるな。湯上がりで倒れるぞ。」
「でも、この体勢はまずい。」
「まずいか。」
「まずいです。」
「恋人に怒られるからか?」
「それもあります。」
「それだけではない顔だな。」
オルドアイの目が近い。
湯上がりの彼女は、宴の時のような強い誘惑ではなく、どこか静かだった。
それがかえって危うい。
ソータは視線を逸らそうとするが、近すぎる。
「オルドアイ。」
「何だ。」
「俺が寝ている間に、何かした?」
オルドアイは一瞬きょとんとした。
それから、小さく笑った。
「お前は本当に正直に聞くな。」
「大事なことなので。」
「湯で眠ったお前を休ませた。それだけだ。」
「本当に?」
「ああ。」
彼女は少しだけ真面目な声で言った。
「眠っている男を奪ってもつまらぬ。」
ソータは少しだけ息を吐いた。
その言葉に、妙な安心があった。
オルドアイは強引だ。
距離も近い。
誘惑もしてくる。
だが、今の言葉には彼女なりの線があった。
「なら、起きる。」
「もう少しこのままでいろ。」
「なぜ。」
「私がそうしたい。」
「正直すぎる。」
「お前の影響だ。」
オルドアイはそう言って、ソータの濡れた髪を指先で軽く払った。
その仕草が、思ったより優しい。
ソータは言葉に詰まる。
オルドアイは顔を近づけた。
「ソータ。」
「はい。」
「口づけしてもよいか。」
今度は、聞かれた。
ソータは息を止めた。
断るべきだ。
頭ではそう分かっている。
ミレイユがいる。
約束がある。
ここで応じるのは、きっと複雑なものを増やす。
でも、オルドアイの目は、これまでとは違っていた。
獲物を追う目ではない。
砦の姫として値踏みする目でもない。
少しだけ恥じらいを含んだ、一人の女の目だった。
「……一度だけなら。」
言ってしまってから、ソータは自分の弱さを知った。
オルドアイの瞳が揺れる。
彼女はゆっくり顔を近づけた。
唇が重なる。
最初は静かだった。
けれど、すぐに深くなる。
オルドアイの手が、ソータの肩を支える。
湯上がりの熱。
月明かり。
濡れた髪の香り。
強いはずの彼女が、今だけ少し震えているように感じた。
ソータは、その震えに気づいてしまった。
口づけが離れる。
オルドアイは、少しだけ息を乱していた。
いつものように笑おうとして、うまく笑えていない。
それが、ひどく人間らしかった。
◆◇◆
「どうしても婿が無理なら。」
オルドアイは静かに言った。
「フルムーンの時に来い。」
「フルムーン……。」
「二つの月が同時に満月になる夜だ。半年に一度、北の部族村の男たちが砦へ来る。父上たちもその時に来る。」
ソータは湯気の向こうに見える月を思い出した。
二つの月。
半年に一度の満月。
この砦にとって特別な夜。
「お前が婿として残れぬなら、その夜だけでも来い。」
「それで、ヤンガルドアイさんが納得しますか?」
「分からぬ。」
オルドアイは正直に答えた。
「だが、私から母上に言う。お前が砦と道を繋ぎ、フルムーンの移動を助けるなら、婿とは別の形で身内に近い扱いにできぬかと。」
ソータの胸が動いた。
それは、ソータが考えていた方向に近い。
婿ではなく、協力者。
砦と外を繋ぐ運送屋。
半年に一度の移動を支える補給線。
形見を返してもらうための交渉材料にもなるかもしれない。
「ただし。」
オルドアイの声が少し甘くなる。
「条件がある。」
「条件?」
「今夜も。」
彼女は少し顔を赤らめた。
これまでのオルドアイとは違う。
大胆で、強引で、余裕たっぷりだった彼女が、今は言葉を選んでいる。
「その時の夜も。」
彼女はソータを見つめた。
「私だけを見てほしい。」
ソータは黙った。
「他の女戦士ではなく、私を。」
オルドアイの指が、ソータの手に触れる。
「私は、お前を砦のためだけに欲しいわけではない。」
その声は、かすかに震えていた。
「私が欲しいのだ。」
いつもなら堂々と言うはずの言葉。
だが、今は少し違った。
欲しいと言いながら、拒まれることを恐れているようにも見える。
ソータは胸が締めつけられた。
オルドアイは強い。
でも、強いだけではない。
この砦の姫として生き、母に期待され、女戦士たちに見られ、欲しいものは奪えと教えられてきたのかもしれない。
その彼女が、今は少しだけ恥じらいながら、願いを口にしている。
ソータは、思わず言ってしまった。
「綺麗だ。」
オルドアイの目が大きく揺れた。
「……何?」
「今のオルドアイ、すごく綺麗だと思った。」
言ってから、ソータは自分の言葉の重さに気づいた。
だが、取り消せなかった。
本心だった。
オルドアイの顔が赤くなる。
湯上がりの赤さとは違う。
恥じらいの色だった。
「お前は……。」
彼女は少しだけ俯いた。
「そういう言葉を、そんな顔で言うのだな。」
「ごめん。」
「謝るな。」
オルドアイは小さく言った。
「嬉しい。」
その一言は、とても静かだった。
ソータの胸がまた揺れる。
ミレイユの顔が浮かぶ。
約束。
帰る場所。
大切な人。
それは消えていない。
消えるはずもない。
だが、目の前のオルドアイの想いも、もう軽く流せるものではなくなっていた。
◆◇◆
ソータはゆっくり体を起こした。
今度は、オルドアイも止めなかった。
互いに湯上がりの布をまとっただけの状態で、月明かりの入る休憩小屋に座る。
近い。
でも、さっきまでの強引な近さとは少し違った。
ソータは真剣に言った。
「オルドアイ。」
「ああ。」
「俺は、ここに残れない。」
「分かっている。」
「ミレイユがいる。リーナに形見を届けなきゃいけない。村にも、街にも、戻らなきゃいけない。」
「分かっている。」
「だから、今夜ここで何かを約束しすぎるのは怖い。」
オルドアイは黙って聞いていた。
怒らない。
からかわない。
ただ、こちらを見ている。
「でも、フルムーンの話は考える。砦と外を繋ぐ形。男たちの移動を助ける形。それなら、俺にできるかもしれない。」
「私に会うためではなく?」
少しだけ寂しそうな声だった。
ソータは言葉に詰まる。
正直に言うしかない。
「会いたくないわけじゃない。」
オルドアイの目が揺れた。
「でも、俺はミレイユを裏切りたくない。」
「その女に、私のことを話すのか。」
「話す。」
「今夜のことも?」
ソータは苦しそうに目を伏せた。
「……話す。」
オルドアイはしばらく黙った。
そして、小さく笑った。
「お前は本当に、逃げ方が下手だな。」
「そうかもしれない。」
「だが、嫌いではない。」
彼女は手を伸ばし、ソータの頬に触れた。
「なら今夜は、約束を奪う夜にはしない。」
「オルドアイ。」
「ただ、覚えていけ。」
彼女は顔を近づける。
「私が、お前を欲しいと思ったことを。」
ソータは答えられなかった。
代わりに、オルドアイの手に自分の手を重ねた。
それだけで、彼女の瞳が少し潤む。
「もう一度だけ。」
オルドアイが囁いた。
「口づけを。」
今度は、ソータから少しだけ近づいた。
唇が触れる。
先ほどより静かな口づけだった。
熱はある。
けれど、奪うものではない。
確かめるような、残すような口づけだった。
月明かりが二人を照らす。
湯気が薄く流れる。
遠くでは、まだ女戦士たちの笑い声が微かに聞こえていた。
甘美な時間だった。
ただし、それは戻れない一線を越えるものではなかった。
ソータは、そうしないと決めていた。
オルドアイも、それ以上は求めなかった。
ただ、しばらく隣に座り、肩を寄せ、手を重ねていた。
彼女は強い姫ではなく、一人の女としてそこにいた。
◆◇◆
どれくらい経ったのか。
夜風が少し冷たくなった頃、オルドアイが立ち上がった。
「戻るぞ。」
「うん。」
「そのままでは風邪を引く。」
「そうだな。」
ソータは布をしっかり巻き直し、立ち上がった。
少しふらついたが、オルドアイが自然に支えてくれた。
「大丈夫か?」
「大丈夫。」
「湯で寝るな。危ない。」
「はい。」
「次に寝たら、また私が運ぶ。」
「それは困る。」
「なら寝るな。」
「分かりました。」
オルドアイは少し笑った。
休憩小屋を出ると、夜の空気が肌に触れた。
二つの月が空に浮かんでいる。
片方は明るく、片方は少し欠けている。
半年に一度、あの二つが満ちる夜。
フルムーン。
その時にまた来るのか。
来られるのか。
ミレイユは何と言うのか。
リーナに形見を届けた後、自分はどう動くのか。
考えることは増えた。
でも、完全に行き止まりだった道に、細い別の道が見えた気もする。
オルドアイは、砦へ戻る途中でふと立ち止まった。
「ソータ。」
「何?」
「今夜のこと、忘れるな。」
その言葉に、ソータはミレイユを思い出した。
私のことを少しでも忘れたら許さないわ。
忘れてはいけないものが増えていく。
積み荷が増える。
約束が増える。
それでも、落とすわけにはいかない。
「忘れない。」
ソータは答えた。
オルドアイは少しだけ微笑んだ。
それは、これまで見たどの笑みよりも静かで、綺麗だった。
その夜、ソータは自分の部屋へ戻ってからも、なかなか眠れなかった。
ミレイユへの罪悪感。
オルドアイへの戸惑い。
リーナへ届ける形見。
砦との交渉。
フルムーンの約束。
全部が胸の中で揺れていた。
(俺、ちゃんと運べるのかな。)
天井を見つめながら、そう思う。
けれど、答えは一つしかなかった。
運ぶしかない。
どれだけ重くても。
どれだけ複雑でも。
落とさずに、帰る。
それが、ソータの仕事だった。




